数学を初めとした理系の学問と哲学について 9
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4π^2=(4*log(-i))(4*log(i))=2*3*5*7*11*... すべての素数の積が4π^2となる、すなわち、2*3*5*7*11*...=(-2iπ)(2iπ)
となると計算されることは、日常言語によって記述した場合、どのような
作用を表現していると言えるのだろうか? ((-2iπ)(2iπ))^(1/(log(-2iπ)+log(2iπ)))=e 哲学は、数学によって形式的操作が可能になる関係性として表現される「作用」
をよりよく理解することに関心があるのであって、作用を数学的に形式化する
ことや、現象を数学として捉えることに関心があるわけではない。数学から
手がかりを得ようとする哲学を見て、数学者は、哲学が数学を疑似的に模倣
しようとしている、または記述を数学に還元しようとしていると誤解し、その
手続きが「数学として」不正であることを批判しようとするが、多くの場合、
そのような批判は、哲学の試みが何を意図しているのかを完全に見誤っている
のである。 以前、私は、乗法を「質化(qualification)」と見なすことができると述べた。
すると、すべての素数の積は、それぞれの素数による互いの質化であること
になり、それが4π^2=... (-2iπ)(2iπ)=2*3*5*7*11*... と計算され得る
ことが知られている。(-2iπ)(2iπ)という計算は、(4*log(-i))(4*log(i))と
書き直してみればさらにはっきりとするように、eの指数として見た場合に、
単位円周上を時計回りに1回転する作用を表す-2iπと反時計回りに1回転する
作用を表す(2iπ)を掛け合わせる形となっている。
ところで、乗法を「質化(qualification)」と見なすなら、累乗は、n^1/1に
向かう場合、数nの「自己性質化(self-qualification)」と呼ぶことができ、
逆にlim(x→∞) n^1/x=1に向かう場合、数nの「脱自己性質化(self-
dequalification)」と呼ぶことができることも指摘した。すると、すべての
素数を互いに掛け合わせる質化の結果として得られる4π^2を1/2だけ
脱自己性質化すること、すなわち、(4π^2)^(1/2)=2πという計算に
よって得られる2πは、すべての素数の性質を掛け合わせた性質を平均した、
正負の方向性も有さない数としての「無地」と見なすことができるのでは
ないだろうか。 私が素数神秘主義に警戒する最も大きな理由は、素数の追求が結局のところ、
背景としての無地の追求にしかならないだろうと感じられるからである。
無論、無地を知ることは、そこに反映される現象を理解するために重要
である。しかし、無地の追求を経験の追求と取り違え、そのことに無自覚
なままであるなら、その追求はまったくの無意味な徒労に終わるだろうと
私には思われる。 さらに、現実の現象において、「無地」は、そのものとしては決して現れることが
ない。そのことは、数という現象においても、1が数えられることなしに2πが現れる
ことはないのと同じことである。数えられる単位は、経験により認知されるのであり、
その背景として無地が現れる。そのことを自覚せずに、無地がどのような状態である
かをあらかじめ知っていると思い込むなら、それまでの経験によって暗黙に前提と
している認識の単位に固執することになり、経験から何も学べないことになる。 現象学でよく知られたフッサールについてのエピソードで
「子供の頃かれはポケットーナイフをもらった。けれどもかれにとって切れ味が
十分でなかったので、かれはそれをくり返し研いだ。少年はナイフを鋭くすること
だけを考えて、刃がだんだんと小たとさくなり、なくなってしまったことに気づか
なかった。この話をフッサールが悲しげに語った」というのがあるが、
この寓話は、現象学よりも、むしろ、統計学などの数学を応用した研究になどに
よく当てはまるのではないかと思える。 (-1)^(2x/(2iπ))=と表現された関数においては数が現れるのに対して、
通常の数学では、1^(x/(2iπ))=と表現すると、xに何を代入しても
すべて1^(x/(2iπ))=1となり、1以外の数が現れなくなるのは、
1が、(-1)^2=1という計算により負の方向性が打ち消された「結果」
と解釈され、1^(x/(2iπ))=における1が、方向性を有して1として
「数が現れる作用」と解釈されないためである。したがって、
1を方向性を有して数が現れる作用として規定するなら、1^(x/(2iπ))=
という関数表現を用いても数が現れることになる。 >>14-18
ここで私は、自分の身に付いた、というよりむしろ、既に長年、身に沁み込んだ
偏見に気づかされることになる。それは、円周長は、円周率πによって計算される
という認識である。半径1の円の円周長は、2π*1=2πであり、別に私はその計算
が間違っていると言いたいわけではない。しかし、学校の数学で円の性質について
習うその見方は、それが後に反省によってより一般的に捉えなおされないなら、
哲学的に重大な混乱につながる。それは、絶対値としての円周長、つまり、
((-2iπ)(2iπ))^1/2=2πとして計算される長さの方が、距離、すなわち、どれだけ
進んだかを測った結果を表す-2iπまたは2iπよりも概念としてより一般的である
と暗黙に思い込むことである。その思い込みによって時空間の時間と距離が
切り離され、ばらばらに理解された時間と距離を概念的に再びつなげる作業が
必要とされることになるのだ。ところが、円周長の2πは、当然のことながら、
距離から方向性を消去することによってもたらされた絶対値であり、概念と
しては、測定される距離という一般的な概念との対比において、哲学的に
見れば、より限定的な概念なのである。 カントの定言命法というのは、一体、どこから出てきたのだろうか。
まさか、カント自身の直観や確信からのみ導出されたりはしていないだろうね。 プロイセンという王国、
ケーニヒスベルクという港町の風土性に影響を受けているだろうね。 直感は第六感で、直感はひらめきのようだと思っていたけれども、
もっと違う説明があるのかもしれない。 ヒュームによる純粋理性に対する批判も大きいだろうね。 あけましておめでとうございます🎍
和尚が二人でおしょうがつ!⤴ では、2018年がどんな1年になるか、「一年の計は元旦にあり」、ということで構想
してみる。レイ・カーツワイルの作った「ポスト・ヒューマン」という概念は、
人間とAIが融合した超人的な存在者だけど、それとはあえて違った意味で
2018年は「ポスト・ヒューマン」の序章となる一年になることだろう。
その意味は、人間が従来いた場所から消失していくような現象のこと。
かつて人間がいた場所が、AIやロボット、システム的な自動化、無人化に
置き換わる。 人間の不在。人間は表舞台からは徐々にその姿を消していき、
AIやロボットが市民権を得て、住民票登録されるケースが益々増えていくだろう。
行政は、これをイベント的なアミューズメントとして実行しているつもりだけど、
やがて、人間よりも、AI化したロボットの方が良き住民に相応しい、という
認知も得られるかもしれない。ロボットの警察官もすでに世界には存在する。
たとえば、ビルゲイツは、人間の労働がロボットに代替化されるのは確実なので、
ロボットにも人間のように課税することを勧めている。つまり、ロボットやAIも
収入を得て、住民票を持ち、課税対象者となり、人権のようなAI権がやがて
求められるかもしれない。人間とAI、ロボットを区分する分水嶺が徐々に
曖昧になってきて、人間の領域をAIがだんだん浸潤してきて、やがて気づいた時は、
AIとロボットによって植民地化された社会システムになっていた、ということに
人類は事後的に気づくようになるかもね。 >>30
力学とかそういう難しい話がしたいわけではないんですよ。
単純に左手側からバネのようにワイヤが等間隔に左巻きにされている
として、その間隔の周期がワイヤを巻く方向に対して垂直の断面の
円の直径と合致しているとした場合、そのバネを横から見た場合と
上から見た場合の形状は、正弦波、余弦波と合致するのでしょうか、
それとも違うのでしょうか。 >>34
さあね。ばねの形態にも色々あるし、ばねって3次元のオブジェクトなので、
その構造を2次元の正弦波に単純に置き換えていいのかも判らないし。
そういうあらゆる誤差を考慮しないなら、合致しないんじゃないの。
あと、ばねには太さがあるので、ばねの線径による距離や誤差も出て来るし。
普通、ばねと言えば、単振動とかの物理学の話になる。ばねには伸び縮み
する復元力があるので、そのばねの振り子の動き(単振動)は、等速円運動の
正射影として表現できるので、そこでやっとその時間変化での動きが正弦曲線で
表せるようなものになっていることが「ばねの振り子」の原理です。
つまり、ばねの振り子の単振動による時間変位は、正弦曲線で表せる。
単振動の変位xと加速度aは、sin関数、速度vはcos関数で表せる。
ωは角振動数のことなので、ばねを巡るこれらには全部、三角関数が絡んでくる。
だから、パスカルなこう言うだろう。「三角関数も出来ないで、哲学だって?
哲学なめんなよ、ポエムでも書いてなさい」と、こんな感じかな。 アンカー間違えた。
元旦から知的好奇心旺盛な>>33の方に >あと、ばねには太さがあるので、ばねの線径による距離や誤差も出て来るし。
それを言い出したら、ペンで紙に線を書いても、CGで画面に線で表示させ
ても、ペンの太さとか、ピクセルの大きさで誤差が出てくるわけで、可視化する
ためには事実上、オブジェクト化しなければならないわけで、それをどう
表現するのが理解を容易にするのに最も便利なのかという考慮があるわけですよ? 定規とか分度器もあってはならないものになってしまう。 さらに、この場合、バネをもちだしたのは、力学と関係なく、形を問題に
していると断りを入れている。それをバネの性質に結び付けなければ、解釈
できないというのは、現実に目の前にある物体の形状から、数学的な関係
を読み取ろうとする数学的な考え方にもそぐわないのではないかな。 だから、ばねの形態は3次元なので、そのままでは正弦波の形ではないよ。
少なくとも数学的な操作で、ばねという3次元のオブジェクトを2次元化する
正規化という補正をそこに加えないとダメだろう。つまり、ばねと言うのなら、
線径やピッチ角などを考慮に入れて、それらを補正しないと、単に見た目の印象が
正弦波と似ているから同じでしょうか、では数学的ではなく、ポエムやメタファー
の世界や発想でしょうね。 だったら、サイコロも立方体だから、3次元なのでサイコロの面を正方形と
呼ぶこともできないのでは? とりあえず、波を形として見ないで、動き、規則的、周期的な運動の軌跡だと考えてみて。そっちの方が数学に近づくと思う。ばねの形態が正弦波になっているとか、
聞いたことないから。ばねの単振動の動きや軌跡が、正弦波になっている、
なら物理の基礎的な話になるけど。 >ばねという3次元のオブジェクトを2次元化する正規化という補正をそこに加えないとダメだろう
別に逆方向でもいいでしょう。上方、側方から見てそれぞれ2次元として表現された
線を、それと整合性がとれるようにワイヤで再現することもできるのでは? そのように再現されたワイヤは、その素材に弾力性があるならバネとして機能しませんか? だからそんなに興味があるなら、ばねを設計、製造している工場に取材して、実際に
聞いてくればいいんじゃない。ばねの製造工程とか。そこで、君の言うようにデータと
して正弦波を使っているかもしれないし。
ただ、ばねの形態自体は正弦波ではない、と言われると思うけどね。正弦波のデータを加工すれば
そこから、ばねの設計くらいは一部できそうだけど。いずれにしても、ばねの製造工程でも問題に
なるのは素材や強度、張力などの力学的な要素。熱処理や焼きなましして、強度を調整する。
形態であれば負荷にどれくらい耐えられるかとか、耐性の問題で、正弦波の形と合致させる
とかは、あまり関係ないだろうね ばねと言えば、フックの法則が思い浮かぶ。
ばね特性、荷重試験、ばね定数k、弾性、復元力といった感じで、ばねから連想
されることは、力学的な過程だったり、運動の軌跡、変形、振動、固有振動数などで物理学的な要素、それを表現する数学であって、ばねの形態が端的に第一に注目される、ということは少なくとも一般的な視点ではないと思うね。
まあ、哲学する分には、一般性にだけ注目することもないかもしれないけど、
ばね、と言うならば、やはり物理だよ。 最初から断っているようにバネの形を分りやすい具体的な例として出している
だけで、実際にバネの製造を問題にしているわけではありませんよ?
少しでも哲学的な思考力があれば分るはずですが、問題にしているのは、
正弦波と余弦波を三次元的に統合した表現です。 だから正弦波や余弦波は、普通、固定した形態の表現として扱うのでなく、
周期性のある物理現象を解析することに用いるものだからね。
音波、電波、電磁波、地震波、周波数のあるもの、フーリエ変換。
波形グラフでも静止した波の形態に注目しているのでなく、時間関数での
波の変化する動きや変位の軌跡に注目している。 >時間関数での波の変化する動きや変位の軌跡に注目している。
そうなんだけど、逆に数学において関数が中途半端に物象化されていて、
理解を困難にしている。数学の関数そのものには時空間という観念がない
からね。それなら、むしろ、徹底的に物象化して、その物象化から
逆に動きを考える方が、直観的に分りやすくなる。 もう一つ言えることは、日常生活において物体として捉えられているものも、
物理において微小なレベルで見れば、物体ではなくなるわけで、物体としての
捉え方と、そうではない捉え方の関係について、より明確に言語化する必要が
あるのだと思う。 物象化というのは、例えば、軌跡を軌道と見なすこと。「道」が物理的に存在する
わけではないが、あたかも道があるかのように見なすことで、変位が移動として
イメージしやすくなる。 自らが意図せずにもたらされた効果により作用を知り、
自らが意図する行為によって効果をもたらすことにより、
作用と効果の関係を理解する、それが経験と呼ばれるものだと思う。 随分昔に図書館で見ただけで記憶が曖昧だけど、畑村 洋太郎の「直観でわかる数学」
に複素数についての似たような図と説明があったような気がする。
左側から左巻きに伸ばしたバネのように螺旋が続いているとして、その螺旋を
円筒として見て輪切りにしたときの半径が1であるとし、螺旋の周期を2πで
あるとすると、水平の円筒状に続く螺旋の向こう側の最も遠い点を開始点の
1とし、手前側の最も近い点を-1とすると、途中で通る円筒の最高点は虚数の
iとして表され、-1を過ぎて、円筒を右方向に2πだけ進んだ向こう側の最も
遠い点を再び1とすると、戻る途中の最下点は-iとして表される。この動き
を筒状の螺旋運動の前側から見て、「遠近法を無視して」動きを重ね合わせ
ると、ちょうど、e^iθ=cos(θ)+isin(θ)の関数の振舞いと合致して、辻褄
が合うのではないかな。 数学を理解するのにそのような隠喩を用いる必要はない、むしろ、混乱を生じて
有害だと思う人も多いだろうけど、数学を、数学だけに関心のある人々以外に
理解できるようにし、有用なものとするためには、適切な隠喩を見出すことが
できるように常に心がける必要があるのではないかな。もちろん、隠喩が不適切
となることはしばしばあるわけで、不適切なものは訂正されるべきだが、その
場合に「数学として」の厳密さだけを基準とすることは、本末転倒となる。 さらに、数学をこのような隠喩を用いて理解することは、形而上学的な隠喩を
説明し、理解するのにも役立つのではないかと思う。数学は形而上学とは
関係ないと考える数学者や、形而上学は数学ではないので形而上学を理解する
のに数学の助けを借りる必要はないと考える哲学者は多いだろうけれど、
数学者であっても自らが暗黙に前提としている形而上学を免れるわけではなく、
形而上学を論じる者でも、その論理に含意される数学的関係を捨象すること
はできないのだから、むしろ、自覚的に積極的に共通した理解を探る
試行錯誤が行われるべきではないかと思う。 例えば、「神は我々に無限に近く、無限に遠い」と表現されるとき、遠近という
のは、隠喩としてであれ、やはり日常言語において時空間的な関係として理解
される。ところが、数学的に考えるなら、無限に近く、かつ無限に遠いという
のは矛盾であり、単純に考えるなら、意味をなさない。そこで、単に、数学
と、神学や形而上学を、さらに数学と、神学や形而上学を論じるような哲学を
切り離すことで問題を解消してしまおうとする動機が、いずれの側からも生じる。
しかし、「神は我々に無限に近く、無限に遠い」という表現がナンセンスとして
ではなく、一部の数学者にすら実感として受けとめられるとするなら、その
ような切り離しは、問題を解決することにはならず、単に説明の面倒な問題の
所在から目をそむけることにしかならない。 と、このように思ったのは、別に私が神学や形而上学の特定の議論に積極的に
関心があるからではなく、>>54のようなe^iθ=cos(θ)+isin(θ)という関数
の螺旋としての隠喩が、数学と同時に神学や形而上学の理解にも役に立つ
ように感じられたためである。通常、数学では、e^iθは、θが2πの整数倍で
ある限り、4πであっても、1024πであっても、e^2iπ=1となるものとされ、
螺旋の表象において生じるような遠近の問題は、そもそも生じない。
しかし、逆に、このような隠喩を用いて、遠近の問題が生じることにより、
むしろ、数学と形而上学的な隠喩を結び付けることが可能になるのではないか
と思う。e^xという数学の表現を慣習の隠喩と考え、2iπを1日であれ、1年
であれ、日常生活の周期の隠喩と考えた場合、e^iθとして表象され得る
任意の時空間には、e^2iπ=e^4iπ=1、e^2iπ≠e^iπのような同一であるか、
または異なるか、という見方だけではなく、時空間的に遠いけれども、近い、
時空間的に近いけれども遠いという見方が生じ得る。例えば、ふと、昔の
ことがまるで今起きていることであるかのように思い出されることがあり、
すると、実際に時空間的に近くで起きていることが疎遠に感じられる。
そのような場合、e^αとe^βを時空間的に単に異なるものとして捉える
のではなく、e^2iπ=e^4iπ=1のように同一のものとして捉えるのでも
なく、遠近を伴って表象された螺旋における近さ、遠さのような感覚で
時空間が認識されているのではないか。むろん、これは、試行錯誤における
隠喩の1つの試みに過ぎず、そのように考えることが最も適切であると主張
するつもりはない。不適切であれば、より適切な隠喩が模索されるべき
であるというだけのことだ。 数学者以外に役立たない数学は、学問としての価値がない。 遠近法において捉えられる対象物を時空間との関係で論じた哲学の論考には
どのようなものがあるのだろうか。日常生活で対象物は、「時空間の中にある」
ものとして無時間的に捉えられているが、遠近法において認識されている
ことが自覚されることで、対象物自体が時間的に捉えられる。歩いてきた
道の振り返って、遠くに見える建物が「さっき通った所」として、つまり、
過去として認識されるように。 「時空間の中に無時間的に存在しているかのように」捉えられることが、
「物体として」認識されることであると言えるのではないか。 「静物画」という喩えをどのような意味で用いているのか不明で、
静物画は、事物が「時空間の中に無時間的に存在しているかのように」
描くものでもないので、いい喩えとは思えない。
より単純に数学に関連して述べるなら、作用を物体として捉えることは、
数えられる数があらかじめ存在すると考えることに似ている。数える
ことなしに1はなく、1を数えることがなければ、他の数も存在しないが、
あたかも他の数の中の1つとして1が存在しているかのように、つまり、
あらかじめ数えられる「もの」が存在するかのように数を捉えること
が、物体を認識することと似ている。 そうかな。静物画を例にとるなら、事物を描くのに同質のものを同質に
表現するなら、事物の同一性を表現することにはならずに、逆に時空間的
な性質を表現することになってしまうことを考えてみるといい。
そこにチーズの塊があるとして、そのチーズの塊に全体的に均質性が
認められるとする。しかし、それを均質の色と質感で描いたのでは、
描写はべた塗りのようになってしまい、チーズの塊の均質性ではなく、
空間的な平面性や、時間的に止まったような感覚が表現されることになる。
均質性の物体がグラデーションで描かれることは、均質のものが
見る者に対して均質に現れていないことを示すが、むしろ、その
ことによってチーズの塊の均質性がうまく表現される。 誤:事物の同一性を表現する
正:事物の同質性を表現する >>「静物画」という喩えをどのような意味で用いているのか不明で、
おまえが言うな 物体であると認識されることと数えられることは当然、結びついている。 アウフヘーベン
《名・ス他》あるものを、そのものとしては否定しながら、更に高い段階で生かすこと。矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること。止揚。揚棄。
▷ ドイツ Aufheben >>54
今日、図書館で畑村洋太郎の「直観でわかる数学」のページをめくって見たけど、
やっぱり同様の図による説明があったな。螺旋におけるiとか-1の位置とか細かい
ことは抜きにして時間軸とその圧縮として説明されているが、同じことを説明
している。数学の教育で三角関数とか虚数軸とかは、特に躓きが生じやすい
ことなのだから、透明の筒を利用してそこに紐を巻くとか、線を書き入れるとか
して、e^iθ=cosθ+isinθをもっと直観的に分りやすく説明すればいいのにと
思う。妙に虚数を神秘化された中に浮いた概念として教えるから、数学の解法に
関心のない生徒はみんな無関心になる。 >>妙に虚数を神秘化された中に浮いた概念として教えるから、数学の解法に
関心のない生徒はみんな無関心になる。
虚数の神秘化しされた菜かに浮いた概念として教える?
仮におまえの教師がそういう教え方をしたとしてなぜ他の学校の教師がそうだとなぜ言えるんだ? https://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20161004-00000000-ted&utm_source=taboola&utm_medium=exchange
神谷明日香:私が小学生なのに特許をとったワケ
理系脳の切れ味の良さ。さすが頭良さそうな顔している。
哲学板は文系脳が多いのが弱点かな。
テクノロジー、IT音痴も多そうだな。 偉い子がいるもんやな。
身近なモノに着目してその関係性に基づいて工夫したら特許とれたてか。 数学の説明はやっぱりさっぱり分らんな。
関数の説明をしていたかと思うと、突然、弦をはじく話になったり、
その振動の時間的変化の話になったりして、数学と物理や物質の性質
が何の根拠も示されずに唐突につなげられる。数学的な線ははじく
ことができないし、長さや形を変えれば同じ線ではないし、物理的に
線状のものでも、楽器の弦ではなくて、蕎麦なら力を加えたら折れる
だけだし、なにをどう数学として説明したいのか意図が分らなくなって
しまうんだよね。 背景含めたストーリーを把握してないからじゃないの? 自分が頭がわるくて理解出来ないのを他人のせいにしてるだけの話 数学の説明は手続きを記述するだけになっていて、その手続きをなんのために
行うのかという意図の説明ができていない場合がとても多い。意図が不明な
まま、最終的にご褒美がもらえるから手続きに従いますというのでは、芸を
仕込まれる犬と変わらない。数式の操作に説明されるべき意図などないと
考えている数学者も少なからずいる。それは、自らが言葉で表現する能力が
ないことを、操作に意図がないことと混同しているだけだ。足し算や引き算で
数式の項を消すような単純な操作であっても、消さずに残した項の関係性を
独立に表現するという意図がある。当たり前すぎて言葉で表現するまでもない
と考えられている操作でも、言葉で表現してみるなら、今まで気づかなかった
操作の意味に気づくこともある。 数学者が気づかなかった「操作」を自分は気づいたと思えるその思い上がりはどこから来るのかね >>83
>数式の操作に説明されるべき意図などないと考えている数学者も少なからずいる。
例えば誰のことだ?具体的に名前を出してくれ 現代人に必須の能力・ビジネススキル
数学、IT,AI,プログラミング、データサイエンス、統計、視覚情報を駆使したプレゼン能力、etc 逆に、不要な能力はなんだろうか。
営業的な接待、冗長な文語表現、情動的な自己啓発、根性、スポ根、精神論。 まあ、でも安倍総理とか見ているとトランプ大統領とのゴルフ接待とか
している訳で、人間の心情や信頼感というのは、単なる合理性で
割り切れないものなのだろうね。ただ、韓国の女優さんとか、
枕営業みたいなのを強いられて自殺してしまったり、なんか前時代的な要素を
感じるよね、性接待って。
日本人のおもてなし精神とITの合理的アルゴリズムは、そのままでは相性が悪いので、アルゴリズムの実装の中に、そういうおもてなしの精神を導入するのかな。
ただ、日本品質は不正のオンパレードが暴露されているのが現状なので、
まずは、まともな良き信頼できる製品を作ることから始めないといけないね。
SNSが出てきて内部告発がしやすい環境があるから露見しているだけで、
昔から、結構、そんな感じであったところもあるのかもね。
いや、目先の利益に囚われない職人的なところが、古き良き日本にはもっと
あったはず。 はっきり言って、ユーザーの立場だと、どの国の製品でも別にいいんだよね。
日本製品などに、全然、こだわりはない。中国製品は未だ雑で不良品が多い
イメージが完全には拭えないけど、もう、日本とさほど変わらなくなっている
のかな。中国はAI投資も莫大な額を投じているので、日本はIoTでも中国の後塵を
拝する形になるのかな。ただ、中国の食品は怖いな。アメリカの遺伝子組み換え
食品なみに。
数学やアルゴリズムには国境と国籍がないので、良きアルゴリズムを実装すれば、
それは日本だけでなく、世界中の役に立つ。 でも、IT化でかえって野蛮なものへと回帰する現象が、今後見られるだろうね。
たとえば、日本での投票をスマホから出来るように法改正がなされるとする。
多くの人々は、B層で思考能力が低いので、電通的なポピュリズム勢力が台頭すれば、それに安易に投票してしまって、テクノロジーによって投票率が上がることで、
かえって怪物的な衆愚政治が台頭する、ということは十分にあり得るだろう。
だから、AI化されても、未来はバラ色という訳でなく、プラスマイナスで考えると、
トータルでは現在と、さして変わらないかもしれない。新しいテクノロジーに対する
素朴な楽観論というのは危険だし、かといって、保守的な懐古主義では単なる
無能だろうし。 マクロな思考で考えれば消費するにもお金が必要
海外製品勝って日本製品が売れなければ経済は落ち込み買うお金が無くなる
サラリーマンや学生は自分自身も作手・売る側の立場もあるという認識が少ないんだろうけど
視野が狭く偏った立場で考えるからこういった考えが物事の全てだと思い込んでしまう
経営者と従業員の立場の不平等はまた別の問題としてあるけど
経済をマクロで考えれば概ね買い手側は作り手側でもあるって事 >>93
其処から先は自分で考えたらぁ?
お馬鹿さんw >>94
理系の学問と哲学の話に続くんでしょ?
さあさあ https://youtu.be/VeGaT7rWv_g
https://youtu.be/-z09mlA2mLU
トヨタ自動車は1月8日、米ラスベガスで開催されたコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)で新たなコンセプトカー「e-Palette」を発表した。そこからは、
“プラットフォーム企業”に生まれ変わろうとするトヨタの決意が透けて見える。
単なる移動手段ではなく、AI(人工知能)などテクノロジーの急速な進展によって
その姿を急速に変えている自動車。ライドシェアや自動運転、都市の渋滞解消など、
既存メーカーの垣根を越えて熾烈な競争が繰り広げられている。その中で、
トヨタ自動車は「未来の自動車とは何か」という問いに一つの回答を提示した。
1月8日、米ラスベガスで開催されたコンシューマー・エレクトロニクス・ショー
(CES)のキーノートに臨んだ豊田章男社長は商用の新たなコンセプトカー、
”e-Palette”を発表した。 分業が進んだ世の中で理系の知識や技能を習得しようとするのは、
コスパが悪いことが多い。特に理系の専門職に就くのでなければ、
口先がうまく、上司に気に入られる振舞いを身に付けることが、
世の中で成功する最も大きな条件となっている。 理系の場合は成績順に就職先が決まって、生活もそれに応じて安定するのでは? これから、自動運転車、走るソフトウェアのコネクテッドカーになってくると、
車とそれに乗車している人間自体がハッカーのハッキング対象になる。たとえば、
「Automotive Grade Linux (AGL)」は、Linuxベースのコネクテッドカー向けの
完全にオープンなソフトウェアになっているので、オープンソースだから
アジャイル式の短期開発や拡張性には優れているけど、オープン性ゆえに、
誰もがソースコードを自由に利用・改変できるので、そこに脆弱性が発生して、
車ごとハッキングされたり、テロリストや誘拐犯、愉快犯のもとに遠隔で
誘導されたりするかもね。これからの計画的知的殺人犯は、ソースコードを使う。 >>100
現在のような求人倍率が高いときはそうだが、失業率が高いときに文系は厳しい
民主党政権の暗黒時代はそうだった >>101
「ハイテクベンチャーを創業しよう」というような大志はないのか? リバネスなんかはテクノロジーベンチャーだと思うけど。
ハードものではないか。 英語でのニュースだと、「Crypto Currency」の
急落なり、banとして報じられているのだけど、日本人は英語が苦手な人が多いので、
Crypto Currencyをすぐに正しく訳せないだろうし、正しい翻訳で記事が報道されていない
ので、物事の本質が伝わらない。
ハイデガーとか、ラテン語かギリシャ語まで
遡って、その単語が表す語義を示そうとする
のだけど、日本人は表層のイメージと戯れる、
踊らされるのみで、言葉を正確に使うという
意識が低い。だから、ネットスラングが
やたら好まれる、阿呆な国民性が随所に見られる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています