>>954
> いやむしろ
> 数学は主観で行っているのになぜか精密

数学者たちが主観で行ってきたのは何を公理と認める、つまり公理系の選択だ
実際には無数に互いに相矛盾するが無矛盾だと信じられる度合いは同等なレベルの公理系が無数に存在し得るが
実際に数学者が日々研究して数学の論文や教科書が書かれている現実の数学が展開されて基づいている公理系は1つだけと言っても過言じゃない
1つだけが暴論というならば両手で数えられる個数しかないと言えば間違いないだろう

> 客観という概念がおかしいのではないかと思うくらい

数学に客観性を与えているのは数学を展開する論証手続きを演繹的な論理、それも実際上は古典1階述語論理だけ、に限定していること
この古典論理で演繹的な論証だけしか認めないというストイックさによって、誰が論証したかに依らず論証における正しさの保存が保証される

この演繹だけに限定することで、数学は「公理群を正しいと認める限り、そこから得られた諸命題(定理や補題など)も全て正しい」と主観の介入なく全ての数学者が合意できる
これが数学の客観性の根源

数学は公理系の選定では極めて主観的だが、いったん、公理系の選定について合意した後は、論証という数学を展開して行く手続きとしては
主観の介入を許さず客観性を保証できる演繹というスタイルだけに厳しく限定しているという(ということを全数学者たちの間でコンセンサスが出来ているという)ことだ

数学者が色々とアイデアを考え試す際には演繹(deduction)以外の帰納(induction)…例えば具体例について計算してみることなど…や仮説設定(abduction)といった
思考プロセスも自在に活用するのは当たり前だ

だが数学者が仕事の成果つまり数学の論文を発表する場合には、論文の前書きや後書きは別にして、新たに発見した定理の証明や未解決問題の解決(これも証明)は
すべて演繹という客観性が担保された手段だけで行うということだよ
そういう客観性が担保された手段だけで作り上げられた論文の堆積が現実の数学だから、数学は客観的なのだ、少なくとも公理の選び方を別にすればね