時間とは何か 23
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
乱雑さの増大を、人は時間という概念で量化している。
時間という概念を用いて、この宇宙の現象を表現しえていることが、乱雑さが増大していることを示している。
一つの架設としては、光の速さという固有数をもって、ビックバンから宇宙が広がり続けているために、
この宇宙の乱雑さ増大の原因ではないか。
すなわち時間が流れる原因。 物質、すなわちエネルギーの量が変わらずに、宇宙の大きさが広がれば、当然乱雑さは増す。
そしてやがて、エントロピーは無限大になり、この宇宙内の秩序、星やその運行は解体し、全くの均一な状態になる。
いや今度はエントロピーは減少に転じて、今と逆に時間は流れる? 時間を流れると表現する時点で感覚の次元でしかないけどね この世界ではすべてのものは崩壊しつつている。
人で言えば老化。
すべての物質は老化し続けている。
机の上の本も、鉛筆も刻々と老化している。
それを人は時間として表現する?
しかし物理学には不可逆性はない。 崩壊と形成のサイクルだよね
老化だって人間の都合で表現される状態でしかないし 秩序には意図がかかわっているということでしょう
意図に沿わないものは秩序が乱れている
補正のしようもなく秩序が乱れているものは、崩壊している 無秩序から秩序が生まれることはあります。
自己組織化とうとう >>
系の外部からコントロールされることなく、自然のプロセスだけで自発的に秩序が形成、つまり創発されることを自己組織化といいます。
名称の由来は、外界から注入された特定の箇所(ベナールセルでは鍋の底または地表)に遍在していたエネルギーが系全体を流れて外部に散逸(散らされ逸)していくことによって、秩序構造が自己組織化(創発)されることによります。
このように、注入されたエネルギーが外部に散逸している系で動的な秩序構造が創発されることを理論的に解明し、これを散逸構造と命名したのはベルギーのイリヤ・プリゴジンです。
ベナール対流はエネルギーの流れによって作られますが、高いエネルギーを持った物質が流れ込むことによって生じる散逸構造もあります。
例えば、渦潮(うずしお)は、潮の高低差によって入り江に入り込んだ海水の流れが作り出す散逸構造です。
また台風は、湿った空気が常に低気圧の領域に流れ込むことによって作られる一種の散逸構造です。
ベナール対流や渦潮などの動的な秩序構造(散逸構造)が存在している系に注がれているエネルギーおよび物質の供給を止めれば、それまでに存在していた秩序構造が次第に消えていきます。
このように、エネルギーおよび物質の出入りがない系――これを孤立系と呼びます――では秩序が壊されていきます。
これが、熱力学で定められている「エントロピー増大の法則」(別名:熱力学第二法則)です。
エントロピーとは、無秩序の度合いを表す物理量です。
外部とエネルギーや物質をやり取りしない孤立系ではエントロピー(無秩序の度合い)が増大する、すなわち秩序が消滅することが熱力学の基本法則なのです。 プリゴジン以前には、自然界では「エントロピー(無秩序の度合い)増大の法則」が成り立つので、自然に起きる作用では秩序構造は破壊されるだけで、
秩序が生み出されることはない、とされていました。
しかし、エントロピー増大の法則は孤立系でのみ成り立つ法則です。
外界に対して開放され、しかもエネルギー(および物質)が外部に流れ出ている、つまり平衡状態にない非平衡・開放系では、
自然に起きるプロセスで動的な秩序、すなわち散逸構造が作られるのです。
この場合、エネルギー(および物質)を外部に散逸させてエントロピーを外部に捨てることによって
開放系の内部のエントロピーを減少させて秩序(散逸構造)を作り出しています。
<< エネルギーも崩壊熱のような自然系と、意図的に発動するものがあるけど
意図的にはつどうするものも自然系に含まれるのか? >エネルギーも崩壊熱のような自然系と
太陽のエネルギーを受け取って
>意図的に発動するもの
地球上の生物が活動するようなものでつか? 哲学は智を愛する。
そして哲学は「わたし」=Iから始まる。
哲学は智をIするものである。
すべては愛=Iによって成り立っている。
自己同一性とは自己愛なわけだ。
自己愛によって「わたし」=Iは「存在」する。
どこに「存在」するのかといえば、「わたし」の中である。
「わたし」の中の「わたし」が、(最初の)「わたし」の中で「わたし」の中の「わたし」から「わたし」であり「わたし」でないものを「愛」によって作り出す。
まあ、簡単にいえば自然数論だ。
未定義用語である「愛」からすべてを作り出せる。 >>531
人の意図で動くエネルギーと、人以外の動物、風力やらの違いというか
人意的な操作で、後者のエネルギーを引っ掻き回すことも含めて
自然といえるのかなとふと思ったもので >>532
自己愛だけで存在できるのは人というかただの動物な気もする
人は他人あっての存在だから >>519
とりあえず読んで見てはいかがでしょう
物理としては何も無くならない、生まれない 人間は自然の一部で、環境を変えられるけどその可能性の範囲内だしなあ
技術にしても自然の法則の意図的な適用だし
あくまでも自然を超えることは無いでしょう >>534
発生的に遺伝的宇宙を考えたときの話であって、最初には自分しかいないので「愛」は自分にしか向くことができない。
遺伝的宇宙を考えるなら、根源的なものが同じであるとするなら他人であっても自己愛w
そもそも「わたし」というのは人間のことではなく、「存在」するものそれぞれであり、主体。
無定義用語である「愛」には二面性がある。二面性とは「波」でもある。
この二面性を根源とする宇宙を発展させていって、われわれの宇宙のようなものになれるかどうかをシミュレーションしようという、いわば、計算哲学。思考実験ではなく計算実験/シミュレーション哲学なわけ。
「無」とは、たくさんの「わたし」が無秩序に「ある」のだが、「存在」ではない。
「わたし」が「存在」してしまうと、空集合であるがゆえに外延性の公理から「ただひとつ」になってしまう。量子力学における「観測者」の問題と同じ。 量子力学の世界を考えれば考えるほどこの世は夢物語でしかない 『哲学とは、何か』
と、聞かれて、鷲田さんだったと思うが、
『私にもわからない』、と言っていた
私見ですが
『哲学とは何か』、と聞く者に
『明日は、何をしますか』
と、尋ねる
答えがあれば、『では、その次の日は?』
と、尋ねる
いずれ、予定の無い日になる
その日に、何をするか、(何をしたいか、何をするのが良いか)
を、考える行為が、『哲学』
と、言うのが、哲学とは何か、
に対する、答えである
この問いは、つまり、立ち返って、予定のある明日にも、果たして、その予定で良いのかと、問いただす行為となる
これが、哲学とは、何かに対する、答えである
また、つまり、毎日、毎日、やりたい事が尽きず、それに突き動かされて行く者には、哲学は無い
野生のオオカミには、哲学は無い この、哲学とは何か、という問い
《問いかける行為》、は、では、そもそも
あしたとは、なんだ
と問う行為となる、(思考する行為)
明日、とは何か
時間とは、何か
世界とは、何か
存在とは、何か
である 今さらながら気が付いたけど、こうやって表現してみると、
cos(x)とi*sin(x)って、式に現れる正負の符号が1つ違うだけなんだな。
(1/2)*(1/(-1)^(x/π)+(-1)^(x/π))=cos(x)
(1/2)*(-1/(-1)^(x/π)+(-1)^(x/π))=i*sin(x) 浮気発覚後の言い訳テンプレ
「ごめん」→謝るなら最初からしなければいいのに。
「寂しかったから」→寂しいと他の男に股を開くんですね。
「好きなのは貴方だけ」→好きでもない男に股を(ry
「もう二度としないから」→今後するしないでなく今したことが問題なんですが。
「別れるのだけはいや」→このまま続けるのだけはいやです。
「ひとりにしないで」→ばかだなー、お前には間男がいるじゃないかー(笑顔で
「じゃあ死ぬ」→そこまで想ってる人がいるのに浮気できるんだーすごいねー。
「寂しくて死んじゃう」→そこまで想っている人がいるのに浮気できるんだーすごいねー。
「どうしたら元通りの関係になるの?」→二度と会わないことを誓えば、出会う前の関係に戻るよ
「間男は冷たかった」→お前を甘くしてるのはお前だけだよ
「間男は裏切ったから」→お前は俺を裏切ったのにねー
「世界に一つの家族じゃないの」→それこそ今猛烈に後悔している
「もうこれっきりだから許して」→今度しないでなく(ry
「平日にいつも一緒にいてくれなきゃいや」→じゃあ一緒の会社で働こうか
「貴方にも責任がある」→好きでもない女にチンポ突っ込んでません
「残業ばかりで1人で寂しかった」→寂しいと他の男に(ry
「どうにかしてた」→こんな女に惚れた俺がどうにかしてた^^ 過去も未来も決まっているなら時間は自己同一性を持つ。
ゆえに時間は「存在」してしまう。
その上を別の時間を持つものが蠢くのであれば、そちらの時間は「存在」ではない。
時間が「存在」してしまうということは、「消滅」と同義なのかもしれない。
別の(存在ではない)「時間」を持つものが、時間が「存在」してしまった廃墟の中で蠢く。
廃墟としての世界というシナリオも考える必要があるのかもしれない。 さて、それで、単純に、単刀直入には
『明日は、何をしたら良いのか』
と言う、問いとなる
しかし、『そんな問は〜〜』
と敬遠する者が、多いだろう(この国では特に)
しかし、人は意識下でも、考えている(判断している)
ので、誰しも、日々の生活に(なにがしかの)
疑問を持っている 廃墟としての世界は、別の(存在しない)「時間」を持つものによって再生される。
われわれは再生された世界をみているのかもしれない。
心身二元論であればそれも成り立たなくはない。 時間とは何か
は、超難しい問いで
この問いを、問い立てている者も
いるかどうか、知りませんが
つまり、その答えは、時間を説明する論説で、
他者をあるほど納得させうる論説、です
時間とは、何なのですか
に対して
時間とは、〜〜〜〜
〜
〜
である、と言う論説
うん、難しいですね、ただ、時間とは何か
は、時間の意味は何か、
と問うている訳です
ハイデガーの、存在の意味は何か、と同じですね
さらに、ここで、時間とは何か
は、時間の意味は何か
と、全く同じなのか
もちろん、少し、違います
しかし、その少しの違いは、いったい何なのか なるほど
ハイデガーの、存在と時間、が
いまいち、理解してもらえないのは
存在とは何か、の問いと(問う行為)
存在の意味とは何か、の問い(問う行為)との違いが
良く説明されて無いからですね タダで書けるし、間違えても、責任無いし
書かせてもらいますが
ハイデガーの、存在と時間は、理解しようとして読んでもわかりません
あれは、あの本で哲学する本なのです
理解する本では無いのです
もっとも、この言い方は、漱石の坊ちゃんでも
同じ言い方ができます。坊ちゃんは、読む本では無く、あの本で坊ちゃんする本なのです
坊ちゃんを読む人は、読むたびに、坊ちゃんするので、その時、その時で、坊ちゃんの仕方が変わる
つまり、本から受ける印象が変わるのです 時計と時間は関係ないよ。
時計はどちらかというと数字と関係が深い。
でもって数字はどこにも存在しない概念。
動いていることを観測するなら、ろうそくが短くなるのを眺めるだけ十分。 宇宙は歪んでてワープ出来るから時間も多々あって変幻自在 >ろうそくが短くなるのを眺めるだけ十分
ろうそくを時計として使っているだけですよ?
ろうそくが短くなるのは蝋の燃焼が進んでいるから。
その進み具合が時間の経過を表している。 経験知で天動説は成立した
天動説だと理解しがたい天体の運動という経験知で
科学の経験知とは人間の認識の在り方での自然認識ということが意識されるようになる
座標原点を適当に設置する、ということを科学者は意識しているのはこのことからだと思われる
経験知によって経験知が相対化されたということだろう
保存則は何も生まれない、無くならないということ
しかし自然の目の前の対象は誕生し、無くなる
科学法則を前提にするのなら、やはりこの経験知が相対化されなければならない
科学者たちもわたしたちもまだ天動説を産んだ認識の在り方から抜け出てない 地動説は経験知の在り方の自己言及
進化論もまた
光速度一定の原理は科学法則による経験知の相対化であり
経験知の自己言及
自然科学理論は経験知という人間の認識の在り方であり
自然=理論ではないこととなる
方程式の出発点は仮構であり、天動説なのです
ここからは対象の運動はこう観測できるということ
天動説はこう観測できる=地球が中心で動かないとしたことが誤りで
この仮構であることを意識したのが地動説ということ 現代科学の知というかわたしたちは未だに天動説的認識論から脱していない 自然は無矛盾でなければ理解は出来ない
この大前提を忘れてはならない >>564
具体的に指摘すればどうでしょうか?
できなければ野次でしかありません 存在と時間は、失敗している書である、と言う意見もあるようですが
そう言う評価は、適切ではないと思っています
あの書は、存在の意味は何か、に答えようとしています
そして、答えています
存在の意味は時間である、、、@
です。そして、この言明を説明する為にかなり、詳細に、言ってみれば、丁寧に解説しているのですが。その解説が易しくない。
書を評価するのであれば、@を評価しなければなりませんが、その様な意見を見た事が有りません 時間とは何か、の問い、問いというよりたぶん疑問
には、直ちには、答えられません
時間の意味は何か、の解説が出来てからになるでしょう。そして、その前にまず、意味とは何かを説明しなければなら無いでしょう。
じつは、ハイデガーは書の中で、意味とは何かに答えています
それに、注目する者がいません 保存則は何も生まれない、無くならないということ
ではない。解釈によっては間違いではないが誤解を与えかねない。
保存則は、むしろ、「変化則」であると考えるべきかもしれなせん。
そこにすでに「時間」が「ある」。
つまり「時間」と呼ばれるものの根源は「原理」である。
しかし、保存則は法則であって原理ではない。
根源となる「原理」はわからないとして、
保存則という法則が「時間」を生み出している。
すなわち「時間」とは「物理量」である。
すくなくとも、物理量として「存在」する、といえる。 何も生まれない、無くならないというのは自然が理解できるということでもある
ただそこに在る
それは運動変化の過程として在るだけ
時間は運動変化を直接捉えることが出来ない人間の認識の在り方が要請する
観念としての存在
自然は無矛盾でなければならないというのは大原則 自然という対象に無で成立する次元が実在するはずも無い
自然は単純そのものだ
運動するエネルギーの濃淡の海でありその過程に実在する
次元も力もそれを理解する観念的存在でしかない
有を無、運動を静止という否定関係で理解「しなければ」ならない (現存在として)時間がなんであるかが、解る、と言う事態は
どんな事態であるのか
車がなんであるか、が解っている事態は、(いずれにしても)車を利用出来るという事態である
では、時間が何であるかが解ると、時間を利用出来るのか
時間が利用出来る毎日とは、一体、どんな事態、(現存在としての在り方)を言っているのだろうか けっきょく光速度一定の原理で幻惑され、量子力学の観測問題、不確定性原理とかが
無矛盾な自然観の確立という科学の大前提を放棄させたんでしょう
貫く棒の如きものというか糸が忘れられているのが現代の科学知 不完全性定理の解釈もまた何もわからないのだという理解をする人が増えた一因かな
自然が無矛盾であるから矛盾で理解されなければならないし
そしてその関係は決定不能であるということ
理解が可能だからこその不完全性定理 保存則は、何も生まれない、無くならない、ということを要請していない。
要請されているのは物理量の保存である。
なんのことはない、「無」に物理量を与えれよいのだ。
それでいて「無」という概念と整合性がとれていればよい。
KOBAYASHI-maru problemである。 >>568
メリットがあるのに抜け出せないと想定しているように見えたための振りです。 >>572
自然過程説(о´∀`о)
うわーぷぴぴ!
頭良い。 自然はエネルギー的に安定な方向へ向かうことを好む。その過程は示すために時間が必要とされるのであれば、可逆的ともいえるだろう。
しかしながら、一旦安定なところへ落ち着いたとするならば、それがまた不安定なところへ行くには膨大なエネルギーを必要とする。
従って、その行為が確率的に不可能なほどに外部からのエネルギーを必要とするならば、それは不可逆といえる。
老いて死ぬとはそういうことじゃないかな。
結局、生物は自然へ還っていくことが安定。 >>580
底辺、自然過程説が好きだもん(о´∀`о)!!! >>583
底辺?(о´∀`о)
哲学板のコテほとんどから好かれていると勘違いしてるお!!! 濃淡は安定か不安定か
無矛盾はどうか
大原則とやらを根拠を問えないところへ押しやっていないか >>583
底辺が好かれているのは、底辺にとっての唯一無二の存在。哲学板に来てよかった。 過程といってもネガでなくポジだったねホワイトヘッドは 人間はなんで自然へ還っていく(死)ことから逃げようとするのだろう
自然が安定な方へ向かおうとすることに従わずあえて困難な生へと
前に進もうとするけど、そんなに抗う必要性ないよね、癌になってまで
必死に生きようとしたり、認知症になってまで生きようとする
不自然極まりない チューリングマシンにおいてテープとヘッドの区別をつけないとすれば、
セルオートマトンがヘッドを持たないのでそちらのほうがよい。
あるのはセルとルールだけである。
セルとは「空間」であり、ルールの適用は「時間」である。
セルはルールの適用により生成されるもので事前に存在するものではないと考える。
そうするとルールおよびルールの適用が残る。
ルールとルールの適用は同一視してしまおう。
残るのは「ルール」だけである。
「ルール」に保存則をあてはめてしまう。
保存則は変化則でもあり、保存則というルールによって変化する。
無定義で使用していた「愛」とは保存則のことである。 時間の源流を探してw、たどりついたのは保存則であった。
保存則はルールであって原理ではない。
保存則とは「変化」の「前後」で「物理量」が保存するということである。
ここにすべての源流があるのは間違いない。
「変化」は「有」である限り「ある」。「有」とは「変化」である。
「前後」とはいままで「遺伝的」と語ってきたものだ。
「物理量」とは「関係」である。「関係」は「遺伝的」でもある。
つまり、保存されているものは「関係」であり、それは「変化」するが「保存」されている。
そう考えると、「変化」も「遺伝的」である。
「関係」が「対象(主体)」をつくるのか「対象」が「関係」をつくるのか。
ここでしばし一服して考えよう。主体からも少し離れよう。
関係がなければ対象もなく、対象がなければ関係もない。
そしてその間に隠されたものがひとつある。 この宇宙の核になった構造のなごりがスピンなのではないかと睨んでいる。
まあ、この予想があっていて理論がつくれればノーベル賞ものだがね。
対象と関係ともうひとつの何かがつくる遺伝的ネットワークがわれわれの宇宙であると考える。
手掛かりとしての痕跡はいくらでもある。ありすぎていて人間にはみえていない。
われわれが考えられるもっとも単純な宇宙は空集合であり、そこにすべてのヒントがある。 保存則は宇宙の性質として、とても重要だ。
保存則が成立するという事は、その空間は閉じていると言えるかもしれない。
何故エネルギーが保存されるのか?最もシンプルな解は、他に逃げ場が無いから、つまり閉鎖系だから。
今のところ保存則の破れは発見されてないようだから、やっぱ宇宙は閉じてるのかな? 物理そのものとしては生も死も実在しない
同様に老化も実在しない
自然においては物理状態の変化という普遍の視点からは特別な何ものも実在しない
赤ん坊も老人も、ただ物理状態として在るだけで等価としてある
生と死が実在しないように アインシュタインは光速度一定の原理の理解を放棄し、それを前提として特殊相対性理論を構築した
ボーアもまた波と粒子と確率としての存在、そしてハイゼンベルクの不確定性原理もまた光速度一定の原理に対するアインシュタイン同様に
合理的理解を放棄し、自然はとにかくそうなのだとした
ハイゼンベルクは現代科学が方程式に逃げ込んでいると批判した
しかし彼もまたアインシュタインどうように自然の合理的理解を放棄していると言わざるを得ない
ハイゼンベルクは自然はかく不合理なのだということを現代科学は認めていないということなのだろう
現代科学は観測問題などの合理的理解を趣味的世界とみなしている観がある
哲学はそれで良いのだろうか?とわたしは問わざるを得ない
それらは自らの世界観から合理的に理解しなければならないとわたしは主張する
その世界観からすべては導かれなければならない
わたしは自然は理解可能である、つまり無矛盾であるという自然観からすべてを導きたい
時間もまたその自然観から切り離されて論ぜられるべきではない 卵が先か、ニワトリが先か、という問題の場合進化論から解くことが出来る
つまり卵一般の歴史の中においてニワトリが誕生しているからこの問題は明らかに卵が先ということになる
このように導きの糸が基本として必要になる
わたしは自然観がすべての導きの糸であると主張する
それはある意味経験知と言い換えることも可能だろう >時間もまたその自然観から切り離されて論ぜられるべきではない
自然に実在すると主張しているのだから当然でしょう 自然そのものと理解された自然は違う
生死は理解された自然としては存在する
しかし物理としての生死は実在しない
理解されるとは科学においては運動を静止で理解するということで
自然そのものではありえない
静止もそれによって為される理論は自然そのものではない
わたしは同一では実在し得ないが同一として理解される
数式が近似値であるように、そのように理解してもかまわないのだが
だからと言ってイコールではない
座標原点で理解された対象と科学革命によって否定される座標原点との関係は考察されるべきだろう
そして自然に次元は実在しないということを示す科学革命は深く考察されるべきだろう
科学者の多くは理解された自然と自然そのものを区別していない
アインシュタインもボーアもこの意味では同じなのです ライプニッツはニュートンの重力方程式には敬意を表したが
その理解は魔術的であると拒否した
わたしたちは科学者の示した方程式と事実には敬意を表すべきだが
ライプニッツ同様にその自然観を受け容れる必然性は無い 自然には運動するエネルギーしか実在しない
それが濃淡となり、渦となりそれが粒子として現象し移動するのに必要なエネルギーが重力と理解され
諸力はその物理状態が生成するのに必要なエネルギー量である
その理解に必要なのが次元でしかない
大きさは濃淡の濃を近似値として理解しているのであり、真空はディラックの海でわかるようにエネルギーの一形態でしかない
すべてはその運動変化の生成過程として実在しているだけだ
目の前の自然が濃であるところが、個別して現象しているのであり
ミクロでは一帯ということ
ゼロ次元が科学によって否定されているのは次元自体が理解に必要なだけで実在しないことを示している
運動を静止で理解するからこその不確定性原理でもある エネルギーが運動するのだとするとエネルギーのエネルギーを考えてるわけですね
そしてエネルギーのエネルギーのエネルギー・・・と
w >>603 のレスはミュンヒハウゼン・トリレンマが何を意味しているのか
そして不完全性定理が何を意味しているのかわからないことの見本だけど
現代科学者もそうだし、これが自然と論理の関係理解の糸口になることが判っていないんだよな
上で簡単に触れているけど、理解する気以前に読むきもないんだろうよ
今日は朝飯がうまかったが体調も良かったのかな w >>602
自然、自然って連呼しているけど、過程さんのいう「自然」って次のうちどれなの?
1.人為が加わっていない、ありのままの状態、現象。対義語=人工。
2.1の意味より、山、海など。人工物の少ない環境。自然環境。
3.1の意味より、人間を除く自然物および生物全般。
4.1の意味より、ヒトも含めた[1]天地・宇宙の万物。
5.人災に対置した天災、あるいは人工造成物に対置した天然造成物を考えた場合の、それらを引き起こす主体。
6.意識(意図)しない行動。
7.不思議さ、不可解さを含むと思われる可能性がない事。 自然は無矛盾でなければならないというのは大原則
自然が無矛盾であるから矛盾で理解されなければならないし
そしてその関係は決定不能であるということ
自然は単純そのものだ
運動するエネルギーの濃淡の海でありその過程に実在する
次元も力もそれを理解する観念的存在でしかない
→これがなぜ、
けっきょく光速度一定の原理で幻惑され、量子力学の観測問題、不確定性原理とかが
無矛盾な自然観の確立という科学の大前提を放棄させた
→なの?
わたしは自然は理解可能である、つまり無矛盾であるという自然観からすべてを導きたい
→???
現代の科学を否定してまで導きたい、その根となる「自然」とは何かを説明して欲しい >>606
の4ですが、万物は正確に言うと一です
一は多として現象しますがそれは一が本質です >>607
>→なの?
ですから、観念としての存在を実在とすることで現代科学が二元論に陥り
無矛盾であるという原則を放棄させたということです
何回も述べますが、粒子は波が渦を呈しているのですが、対立関係と理解する
不確定性原理も運動を静止で理解することが洞察できていないからです
有を無で、つまり限りなくゼロに近いがゼロではないとするのは必然です
現代科学の方程式と観測結果は否定していません
ライプニッツのニュートン賛美と否定と同じです わたしは今まで確定している法則などを否定してはいません
そこから展開される理解を否定しているだけです
天文学者の観測結果は天動説で理解されてきました
地動説はその理解を否定したのであって、内容である観測結果自体は否定しません
わたしの現代科学「否定」とはそういうことです 夕方になるかな、次は
とりあえずです
なんというか、精読してくれれば判ってもらえると思っていたんですが、うーん、というところです 無限(発散?)と永遠(始まり無し)を自然に繰り込みすればそれでいいのか 繰り込むことは発散と矛盾しないのか?それを問うことは? 無限とは理解不能な何かであり、したがていかなる説明にも用いるべきではない
ーゼノン
わたしの場合自然は無限なんです
それを有限で説明する
有限だから可能となる
有限自体は無限の数から成る
有限自体も説明不能なのでは、と考えていますが、今のところはここまでです
アインシュタインの自然が何故理解できるのか、それが理解できないということでもあります 昨夜、計算していた宇宙がビッグバンしはじめた。
まだ実装前の手計算であったが、なかなかおもしろかった。
だがしかし、
パソコンの中にこじんまりとした宇宙をつくるつもりだったので、困ってしまった。
すぐにパソコンの資源を食い尽くしてしまう。
なんらかの盆栽的手法が必要だ。 ビッグバンは始まりではなく、濃淡の海の過程の一種というケース
も可能性としてあるんじゃないか? 濃淡の海になるのも解釈しだいですね。
無の海というシナリオも考えられる。
対象無き射というものが考えられるとすれば、無は射で満ちている。
しかし、「満ちている」という概念は要注意だ。(時)空間が無いのであれば、それはただひとつであり、かつ、無数でもある。ただし、素朴な無限ではない。 ビッグバンとは時空間の始まり。単に物理量の始まり。
物理量的宇宙の始まりであるにすぎない。
哲学的宇宙あるいは思弁的宇宙ではない。
「始まり」といっているが時間的なものではなく、公理あるいは原理であって、複数あってもよい。
誰かが公理はひとつしかないと証明すれば別だが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています