時間とは何か 23
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時計と時間は関係ないよ。
時計はどちらかというと数字と関係が深い。
でもって数字はどこにも存在しない概念。
動いていることを観測するなら、ろうそくが短くなるのを眺めるだけ十分。 宇宙は歪んでてワープ出来るから時間も多々あって変幻自在 >ろうそくが短くなるのを眺めるだけ十分
ろうそくを時計として使っているだけですよ?
ろうそくが短くなるのは蝋の燃焼が進んでいるから。
その進み具合が時間の経過を表している。 経験知で天動説は成立した
天動説だと理解しがたい天体の運動という経験知で
科学の経験知とは人間の認識の在り方での自然認識ということが意識されるようになる
座標原点を適当に設置する、ということを科学者は意識しているのはこのことからだと思われる
経験知によって経験知が相対化されたということだろう
保存則は何も生まれない、無くならないということ
しかし自然の目の前の対象は誕生し、無くなる
科学法則を前提にするのなら、やはりこの経験知が相対化されなければならない
科学者たちもわたしたちもまだ天動説を産んだ認識の在り方から抜け出てない 地動説は経験知の在り方の自己言及
進化論もまた
光速度一定の原理は科学法則による経験知の相対化であり
経験知の自己言及
自然科学理論は経験知という人間の認識の在り方であり
自然=理論ではないこととなる
方程式の出発点は仮構であり、天動説なのです
ここからは対象の運動はこう観測できるということ
天動説はこう観測できる=地球が中心で動かないとしたことが誤りで
この仮構であることを意識したのが地動説ということ 現代科学の知というかわたしたちは未だに天動説的認識論から脱していない 自然は無矛盾でなければ理解は出来ない
この大前提を忘れてはならない >>564
具体的に指摘すればどうでしょうか?
できなければ野次でしかありません 存在と時間は、失敗している書である、と言う意見もあるようですが
そう言う評価は、適切ではないと思っています
あの書は、存在の意味は何か、に答えようとしています
そして、答えています
存在の意味は時間である、、、@
です。そして、この言明を説明する為にかなり、詳細に、言ってみれば、丁寧に解説しているのですが。その解説が易しくない。
書を評価するのであれば、@を評価しなければなりませんが、その様な意見を見た事が有りません 時間とは何か、の問い、問いというよりたぶん疑問
には、直ちには、答えられません
時間の意味は何か、の解説が出来てからになるでしょう。そして、その前にまず、意味とは何かを説明しなければなら無いでしょう。
じつは、ハイデガーは書の中で、意味とは何かに答えています
それに、注目する者がいません 保存則は何も生まれない、無くならないということ
ではない。解釈によっては間違いではないが誤解を与えかねない。
保存則は、むしろ、「変化則」であると考えるべきかもしれなせん。
そこにすでに「時間」が「ある」。
つまり「時間」と呼ばれるものの根源は「原理」である。
しかし、保存則は法則であって原理ではない。
根源となる「原理」はわからないとして、
保存則という法則が「時間」を生み出している。
すなわち「時間」とは「物理量」である。
すくなくとも、物理量として「存在」する、といえる。 何も生まれない、無くならないというのは自然が理解できるということでもある
ただそこに在る
それは運動変化の過程として在るだけ
時間は運動変化を直接捉えることが出来ない人間の認識の在り方が要請する
観念としての存在
自然は無矛盾でなければならないというのは大原則 自然という対象に無で成立する次元が実在するはずも無い
自然は単純そのものだ
運動するエネルギーの濃淡の海でありその過程に実在する
次元も力もそれを理解する観念的存在でしかない
有を無、運動を静止という否定関係で理解「しなければ」ならない (現存在として)時間がなんであるかが、解る、と言う事態は
どんな事態であるのか
車がなんであるか、が解っている事態は、(いずれにしても)車を利用出来るという事態である
では、時間が何であるかが解ると、時間を利用出来るのか
時間が利用出来る毎日とは、一体、どんな事態、(現存在としての在り方)を言っているのだろうか けっきょく光速度一定の原理で幻惑され、量子力学の観測問題、不確定性原理とかが
無矛盾な自然観の確立という科学の大前提を放棄させたんでしょう
貫く棒の如きものというか糸が忘れられているのが現代の科学知 不完全性定理の解釈もまた何もわからないのだという理解をする人が増えた一因かな
自然が無矛盾であるから矛盾で理解されなければならないし
そしてその関係は決定不能であるということ
理解が可能だからこその不完全性定理 保存則は、何も生まれない、無くならない、ということを要請していない。
要請されているのは物理量の保存である。
なんのことはない、「無」に物理量を与えれよいのだ。
それでいて「無」という概念と整合性がとれていればよい。
KOBAYASHI-maru problemである。 >>568
メリットがあるのに抜け出せないと想定しているように見えたための振りです。 >>572
自然過程説(о´∀`о)
うわーぷぴぴ!
頭良い。 自然はエネルギー的に安定な方向へ向かうことを好む。その過程は示すために時間が必要とされるのであれば、可逆的ともいえるだろう。
しかしながら、一旦安定なところへ落ち着いたとするならば、それがまた不安定なところへ行くには膨大なエネルギーを必要とする。
従って、その行為が確率的に不可能なほどに外部からのエネルギーを必要とするならば、それは不可逆といえる。
老いて死ぬとはそういうことじゃないかな。
結局、生物は自然へ還っていくことが安定。 >>580
底辺、自然過程説が好きだもん(о´∀`о)!!! >>583
底辺?(о´∀`о)
哲学板のコテほとんどから好かれていると勘違いしてるお!!! 濃淡は安定か不安定か
無矛盾はどうか
大原則とやらを根拠を問えないところへ押しやっていないか >>583
底辺が好かれているのは、底辺にとっての唯一無二の存在。哲学板に来てよかった。 過程といってもネガでなくポジだったねホワイトヘッドは 人間はなんで自然へ還っていく(死)ことから逃げようとするのだろう
自然が安定な方へ向かおうとすることに従わずあえて困難な生へと
前に進もうとするけど、そんなに抗う必要性ないよね、癌になってまで
必死に生きようとしたり、認知症になってまで生きようとする
不自然極まりない チューリングマシンにおいてテープとヘッドの区別をつけないとすれば、
セルオートマトンがヘッドを持たないのでそちらのほうがよい。
あるのはセルとルールだけである。
セルとは「空間」であり、ルールの適用は「時間」である。
セルはルールの適用により生成されるもので事前に存在するものではないと考える。
そうするとルールおよびルールの適用が残る。
ルールとルールの適用は同一視してしまおう。
残るのは「ルール」だけである。
「ルール」に保存則をあてはめてしまう。
保存則は変化則でもあり、保存則というルールによって変化する。
無定義で使用していた「愛」とは保存則のことである。 時間の源流を探してw、たどりついたのは保存則であった。
保存則はルールであって原理ではない。
保存則とは「変化」の「前後」で「物理量」が保存するということである。
ここにすべての源流があるのは間違いない。
「変化」は「有」である限り「ある」。「有」とは「変化」である。
「前後」とはいままで「遺伝的」と語ってきたものだ。
「物理量」とは「関係」である。「関係」は「遺伝的」でもある。
つまり、保存されているものは「関係」であり、それは「変化」するが「保存」されている。
そう考えると、「変化」も「遺伝的」である。
「関係」が「対象(主体)」をつくるのか「対象」が「関係」をつくるのか。
ここでしばし一服して考えよう。主体からも少し離れよう。
関係がなければ対象もなく、対象がなければ関係もない。
そしてその間に隠されたものがひとつある。 この宇宙の核になった構造のなごりがスピンなのではないかと睨んでいる。
まあ、この予想があっていて理論がつくれればノーベル賞ものだがね。
対象と関係ともうひとつの何かがつくる遺伝的ネットワークがわれわれの宇宙であると考える。
手掛かりとしての痕跡はいくらでもある。ありすぎていて人間にはみえていない。
われわれが考えられるもっとも単純な宇宙は空集合であり、そこにすべてのヒントがある。 保存則は宇宙の性質として、とても重要だ。
保存則が成立するという事は、その空間は閉じていると言えるかもしれない。
何故エネルギーが保存されるのか?最もシンプルな解は、他に逃げ場が無いから、つまり閉鎖系だから。
今のところ保存則の破れは発見されてないようだから、やっぱ宇宙は閉じてるのかな? 物理そのものとしては生も死も実在しない
同様に老化も実在しない
自然においては物理状態の変化という普遍の視点からは特別な何ものも実在しない
赤ん坊も老人も、ただ物理状態として在るだけで等価としてある
生と死が実在しないように アインシュタインは光速度一定の原理の理解を放棄し、それを前提として特殊相対性理論を構築した
ボーアもまた波と粒子と確率としての存在、そしてハイゼンベルクの不確定性原理もまた光速度一定の原理に対するアインシュタイン同様に
合理的理解を放棄し、自然はとにかくそうなのだとした
ハイゼンベルクは現代科学が方程式に逃げ込んでいると批判した
しかし彼もまたアインシュタインどうように自然の合理的理解を放棄していると言わざるを得ない
ハイゼンベルクは自然はかく不合理なのだということを現代科学は認めていないということなのだろう
現代科学は観測問題などの合理的理解を趣味的世界とみなしている観がある
哲学はそれで良いのだろうか?とわたしは問わざるを得ない
それらは自らの世界観から合理的に理解しなければならないとわたしは主張する
その世界観からすべては導かれなければならない
わたしは自然は理解可能である、つまり無矛盾であるという自然観からすべてを導きたい
時間もまたその自然観から切り離されて論ぜられるべきではない 卵が先か、ニワトリが先か、という問題の場合進化論から解くことが出来る
つまり卵一般の歴史の中においてニワトリが誕生しているからこの問題は明らかに卵が先ということになる
このように導きの糸が基本として必要になる
わたしは自然観がすべての導きの糸であると主張する
それはある意味経験知と言い換えることも可能だろう >時間もまたその自然観から切り離されて論ぜられるべきではない
自然に実在すると主張しているのだから当然でしょう 自然そのものと理解された自然は違う
生死は理解された自然としては存在する
しかし物理としての生死は実在しない
理解されるとは科学においては運動を静止で理解するということで
自然そのものではありえない
静止もそれによって為される理論は自然そのものではない
わたしは同一では実在し得ないが同一として理解される
数式が近似値であるように、そのように理解してもかまわないのだが
だからと言ってイコールではない
座標原点で理解された対象と科学革命によって否定される座標原点との関係は考察されるべきだろう
そして自然に次元は実在しないということを示す科学革命は深く考察されるべきだろう
科学者の多くは理解された自然と自然そのものを区別していない
アインシュタインもボーアもこの意味では同じなのです ライプニッツはニュートンの重力方程式には敬意を表したが
その理解は魔術的であると拒否した
わたしたちは科学者の示した方程式と事実には敬意を表すべきだが
ライプニッツ同様にその自然観を受け容れる必然性は無い 自然には運動するエネルギーしか実在しない
それが濃淡となり、渦となりそれが粒子として現象し移動するのに必要なエネルギーが重力と理解され
諸力はその物理状態が生成するのに必要なエネルギー量である
その理解に必要なのが次元でしかない
大きさは濃淡の濃を近似値として理解しているのであり、真空はディラックの海でわかるようにエネルギーの一形態でしかない
すべてはその運動変化の生成過程として実在しているだけだ
目の前の自然が濃であるところが、個別して現象しているのであり
ミクロでは一帯ということ
ゼロ次元が科学によって否定されているのは次元自体が理解に必要なだけで実在しないことを示している
運動を静止で理解するからこその不確定性原理でもある エネルギーが運動するのだとするとエネルギーのエネルギーを考えてるわけですね
そしてエネルギーのエネルギーのエネルギー・・・と
w >>603 のレスはミュンヒハウゼン・トリレンマが何を意味しているのか
そして不完全性定理が何を意味しているのかわからないことの見本だけど
現代科学者もそうだし、これが自然と論理の関係理解の糸口になることが判っていないんだよな
上で簡単に触れているけど、理解する気以前に読むきもないんだろうよ
今日は朝飯がうまかったが体調も良かったのかな w >>602
自然、自然って連呼しているけど、過程さんのいう「自然」って次のうちどれなの?
1.人為が加わっていない、ありのままの状態、現象。対義語=人工。
2.1の意味より、山、海など。人工物の少ない環境。自然環境。
3.1の意味より、人間を除く自然物および生物全般。
4.1の意味より、ヒトも含めた[1]天地・宇宙の万物。
5.人災に対置した天災、あるいは人工造成物に対置した天然造成物を考えた場合の、それらを引き起こす主体。
6.意識(意図)しない行動。
7.不思議さ、不可解さを含むと思われる可能性がない事。 自然は無矛盾でなければならないというのは大原則
自然が無矛盾であるから矛盾で理解されなければならないし
そしてその関係は決定不能であるということ
自然は単純そのものだ
運動するエネルギーの濃淡の海でありその過程に実在する
次元も力もそれを理解する観念的存在でしかない
→これがなぜ、
けっきょく光速度一定の原理で幻惑され、量子力学の観測問題、不確定性原理とかが
無矛盾な自然観の確立という科学の大前提を放棄させた
→なの?
わたしは自然は理解可能である、つまり無矛盾であるという自然観からすべてを導きたい
→???
現代の科学を否定してまで導きたい、その根となる「自然」とは何かを説明して欲しい >>606
の4ですが、万物は正確に言うと一です
一は多として現象しますがそれは一が本質です >>607
>→なの?
ですから、観念としての存在を実在とすることで現代科学が二元論に陥り
無矛盾であるという原則を放棄させたということです
何回も述べますが、粒子は波が渦を呈しているのですが、対立関係と理解する
不確定性原理も運動を静止で理解することが洞察できていないからです
有を無で、つまり限りなくゼロに近いがゼロではないとするのは必然です
現代科学の方程式と観測結果は否定していません
ライプニッツのニュートン賛美と否定と同じです わたしは今まで確定している法則などを否定してはいません
そこから展開される理解を否定しているだけです
天文学者の観測結果は天動説で理解されてきました
地動説はその理解を否定したのであって、内容である観測結果自体は否定しません
わたしの現代科学「否定」とはそういうことです 夕方になるかな、次は
とりあえずです
なんというか、精読してくれれば判ってもらえると思っていたんですが、うーん、というところです 無限(発散?)と永遠(始まり無し)を自然に繰り込みすればそれでいいのか 繰り込むことは発散と矛盾しないのか?それを問うことは? 無限とは理解不能な何かであり、したがていかなる説明にも用いるべきではない
ーゼノン
わたしの場合自然は無限なんです
それを有限で説明する
有限だから可能となる
有限自体は無限の数から成る
有限自体も説明不能なのでは、と考えていますが、今のところはここまでです
アインシュタインの自然が何故理解できるのか、それが理解できないということでもあります 昨夜、計算していた宇宙がビッグバンしはじめた。
まだ実装前の手計算であったが、なかなかおもしろかった。
だがしかし、
パソコンの中にこじんまりとした宇宙をつくるつもりだったので、困ってしまった。
すぐにパソコンの資源を食い尽くしてしまう。
なんらかの盆栽的手法が必要だ。 ビッグバンは始まりではなく、濃淡の海の過程の一種というケース
も可能性としてあるんじゃないか? 濃淡の海になるのも解釈しだいですね。
無の海というシナリオも考えられる。
対象無き射というものが考えられるとすれば、無は射で満ちている。
しかし、「満ちている」という概念は要注意だ。(時)空間が無いのであれば、それはただひとつであり、かつ、無数でもある。ただし、素朴な無限ではない。 ビッグバンとは時空間の始まり。単に物理量の始まり。
物理量的宇宙の始まりであるにすぎない。
哲学的宇宙あるいは思弁的宇宙ではない。
「始まり」といっているが時間的なものではなく、公理あるいは原理であって、複数あってもよい。
誰かが公理はひとつしかないと証明すれば別だが。 >>618
プラズマ仮説はそうですね
直接にはそう言っていませんが無限宇宙論です エネルギー保存則をビッグバン、定常仮説、両方破りますからね
基本法則破りますから失格です 今の正体は運動です
そして運動が自然の存在形態ですから、その意味で一瞬は永遠です 自然は運動変化しているだけで、濃淡の海として在るだけです
宇宙のほとんどはプラズマです
でしたらその主体はプラズマというのは自然でしょう
いわゆるダークマターとか必要がありません
ペラットは銀河系の形をプラズマ仮説で作り出すことにシミュレーションでやっています
読んでいただければ手っ取り早いわけですが
「ビッグバンはなかった」ラーナー 講談社
九十年代初めで、まだ借りられると思います ゼノン4つの逆理
これも面白い読み物です
文庫本で再販していますが、図書館で借りられまい 新哲学入門 板倉聖宣さん
これは94年ですし、図書館にあるかどうか
日本語はどういう言語が 三浦つとむさん
文法とか苦手だったわたしが平易にわかる唯一の本
チョムスキーとかいろいろありますが???で正直のみこめません 始りがあると言うのなら証明すれば良いだけ
さて、あなた自身も含めて自然のすべてに始まりはあるのでしょうか?
在るのなら示してください
あなたが生まれた瞬間は? ワインバークは宇宙の誕生の瞬間にまであとわずかまで迫っていると語ります
本当に出来るのでしょうか、そんなことが
そんなことは「永遠」にできないでしょう
なぜなら始りなど無いからです 不確定性原理は位置は認識の在り方の問題です
近似値であるのは有を無で理解しなければならないからです
始りもまた認識のあり方の問題です
静止を認識は要請しますが、それは実在しないのです 運動変化が常態です
紙が灰に成る瞬間はあるのでしょうか?
物理として運動変化は常態です
紙、灰というのは同一、静止として認識されます
どの瞬間から灰に成るのか?
つまり灰としての物理状態の始りの瞬間は指示できるのでしょうか? 紙も灰も無くなり、他の物理状態に変化していきます
しかし物理そのものとしては何も無くならないわけです
紙が、灰が無くなるとはどういうことなのでしょうか
自然において何もなくならないのなら、それは認識の在り方に求めるべきではないかと いわゆる量子力学におけるエネルギー保存則の破れとは
認識の在り方自体の問題であることになる
不確定性原理は近似値でしかわたしたちは自然を理解できないことを示している
運動を実在しない静止で理解することに起因するということです >>633
自然過程説(о´∀`о)!!!
ぷぴぴ! プラズマについていろいろ調べてみます
やっぱ勉強せなあかんな、おもろいもんごろごろでてくる 先年天文観測でプラズマ宇宙論の裏づけになるような事象が報告されて画像が出ていました
いずれにしても結論は未だでていないとするのが妥当でしょう ブリゴジンが語るように科学は始まってさえいないのでしょう
文化もまた
剣道、武道の理解不能な事象は人間の能力の可能性を示唆している
わたしはそう理解しています 科学は天動説を真に克服していない段階だということです
哲学もまた始まってさえいないのでしょう
数学もまたその基礎が未確立です
教育はそのような文化の現状の下で彷徨っている >>608
過程さんありがとう
過程さんの「自然」は「万物」か
でも万物が一でしかもそれが多とは難解だな
最近の過程さんの説明は以前に比べると哲学素人にもだいぶわかりやすくなってきたけど
よかったら「万物が一でしかもそれが多」を詳しく説明してくれませんか? 現象としては多ということです
三次元でも量子レベルではエネルギーの淡は現象しませんが
ディラックの海で実在することがわかります
つまり全ては濃淡の差異でしかありません
それらがある物理条件で違う物理状態に生成され、またその生成された・・・という連鎖です
わたしたちは差異を否定関係でしか認識理解するわけです
ですから万物として現象する物理は実は一であり、その一は濃淡の差異ですから
その差異が万物として現象しているわけです
わかりにくいでしょうか
とりあえずです
また午後のいつになるかは状況次第ですが、わかりにくいところの是正に努めます
まあ、一人で勝手に前提にしているということは二十年ほど前にいやというほど判っているのですが
だからといって直るものでもないようです w >有限自体は無限の数から成る
戯れ言だけど
有限、帳尻が合う、割り切れる、、素数っぽいですね
素数は円とか境界的には周
素数は無限にある
個々の素数に必ず付きまとう1 時計が進むとはどういうことかを根底から考えましょう
そうすれば時間とは何かが見えてくるかもしれませんよ >>640
三次元でも量子レベルではエネルギーの淡は現象しませんが
ディラックの海で実在することがわかります
>ディラックの海=負のエネルギーのつまった海
それらがある物理条件で違う物理状態に生成され、またその生成され・・・
>極短い時間で、粒子と反粒子が生まれ、それがまた対消滅する・・・つまり「真空の揺らぎ」
その連鎖ということは、過程さんのいう濃淡とは「真空の揺らぎ」のこと?、 時間とは何か
と言う問いで、何を問おうとしているのか
つまり、
時間とは何か
と問う行為は、何なのか、何を求めているのか
と言う問題が、あります
この事情は、たぶん、存在の問い
つまり、存在とは何か、と問う場合と
同じでないとしても、確かに似てはいる 哲学とは何か
と問う行為は、毎日、毎日、
何かに夢中になっている者には、無い
毎日、毎日、生きる事に必死で
いる者には、無い
それと同じ事情が、時間への問いにもある
ただ、現在のこの国の人びとには、その問いは
時々は、浮かぶだろう >>4644
>その連鎖ということは、過程さんのいう濃淡とは「真空の揺らぎ」のこと?、
真空も運動するエネルギーの形態です
それは基底状態としてあるという理解です
わたしたち自身も含めた認識可能な現象としての物理状態は濃の状態です
運動していますから全ては揺らいでいます
わたしたちは濃の状態の生成の連鎖の過程での存在で、また違う物理的状態に生成されていくということです
素粒子もまた生成されまた違う状態に生成されていく過程に在るわけです 生物分類は多から一になっていきます
男 女 人間 生物 非生物と生物の中間としてのウィルスは物理存在に収斂します
多は一の差異の状態を否定で理解された状態ですが、生物分類は端的にこのことを示しています
そして光速度一定の原理は自然の存在形態が運動であることを示し、真空もまたエネルギーの一形態であることを示します
つまり一であるエネルギーの濃淡の海は認識能力の限界により、独立しているかのように現象して多と見えるということです
厳密には、ここからここまでというのは量子世界ではありえません
多とは一の差異の状態ですが、否定として現象しているということです
波が渦の状態を呈しているのが粒ですが、周りの波は淡としてあり認識できないわけです
進化論は生成過程としての生物の歴史としてですから、基本は了承できます
どのようにして進化の過程を歩んだのかは議論はあるところでしょうが、自然過程という理解からは必然です
もう少しかんたんに説明できればいけないですが 自然科学はパルメニデス哲学の自然は一であるという理解を支持するということです
ピュタゴラス派は理解の論理であり、その限りでは正しいのですが、自然そのものではありえないわけです サルトルは、ノーベル文学賞を辞退した。
嘔吐を、読み直している。彼が、辞退したのは当たり前。日本語訳ですが、あれを書いた人は、ノーベル賞をもらう訳にいかない。
もっとも、彼はあらゆる公的な賞を貰わなかったと言う。 山川さんはベルグソンはゼノンが科学側だと誤解して、ゼノンを批判していると述べている
いえ、科学は明らかにゼノンの側です
山川さんもまた誤解しているという皮肉
科学理論ピュタゴラス的に自然を理解するのだが、それが認識に対象化されたものであり
自然そのものではないと科学革命は指摘する
地球視点で観測された天体運動は視覚としてなら真理であるが、地球が静止していると理解したら誤謬になるだけ
天体観測結果ではなく、その理解が否定されるのと同様に、数で理解されるということがそのまま自然であると理解する
つまり座標原点、始りが実在すると理解することが誤謬
地動説、光速度一定の原理とは、座標原点で理解された自然の運動をそのまま自然であるとすることが誤謬であることを指摘してる
わたしたちは、どうしても静止で運動を理解しなければならない
この意味で自然観測は必然的に天動説的となる つまり宇宙の始りを主張するビッグバン仮設は本質として天動説であるわけです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています