時間とは何か 23
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はじめに
学生時代に科学啓蒙書を読んでいましたら、エネルギー保存則が出てきて、物理として何も無くならない、何も生まれないという説明が出てきました。
しかし目の前の食べ物は食べたら無くなりますし、いろいろなものが生まれます。
歴史上の人間もまた生まれて、亡くなります。
そして地球自体も太陽系もまた同じです。
科学が何も無くならない、生まれないというのなら、一体これはどういうことなのでしょうか。
この疑問に対して直接答えてくれるような書物はありませんでしたので、しばらく悩んでいました。
このわたしの疑問もあるのですが、どう理解したらよいのか古来人を悩ませてきた問題は哲学、科学、数学の分野で山積しています。
ゼノンの4つの逆説、クレタ人の逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの「運動とは存在すると同時に存在しないこと」という規定、光速度一定の原理、量子力学の観測問題、不確定性原理、数学の不完全性定理などは未だどう理解してよいのかわかりません。
数学の不完全性定理などは、人間はなにもかも理解できないことの証明なのだとする人もいますが、「定理」である以上、理解したからこそですし、何かがわかったわけです。
なにも理解できないということが理解できたというのなら、なにも理解できないことが理解できたということはどういうこのなのでしょうか。 では人間は何も主張できないのでしょうか。
科学は自然の事象を発見観測し、いろいろ「理解」してきましたが、これらと不完全性定理との関係はどうなるのでしょうか。
このことは未だ「理解」できていないようです。
また宇宙はビッグバン仮説で決まりだというのが現代科学の主流ですが、この仮説を決定づけるといわれる宇宙背景放射には天文学者が違うのではないかという論文を出して、この観測結果でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性は否定できないとコメントしています。
科学では観測したものを誤解するのはよくある話です。
十九世紀末に火星を観測した天文学者はそこに「運河」を発見しましたし、酸素を発見した科学者は死ぬまで自分が発見したものが、自分が信奉する燃素説を否定していることに気がつきませんでした。
もっとも有名なのは天動説です。
このことは、対象の発見、観測は事実でも科学者たちが必ずしも正確には理解していないことを示しています。
天動説はいろいろと自説では説明できない天体運動を説明するために周転円という仮説をもちだし、いくつもの周転円を作り出さなければなりませんでしたが、ビッグバン仮説もまたいろいろな仮説で成立していますし、なによりも決定的な証拠に欠けるようです。
この仮説はエネルギー保存則を破りますし、またインフレーションという仮説が現在の主流ですが、これは光速度一定の原理は空間には適用されないという仮説が前提です。 科学者によっては、これで何もかも説明できると主張していますが、宇宙の大構造はビッグバン仮説が主張する宇宙年齢の約百四十億年では
到底足りない年月が必要であり、さまざまな「仮説」を試みていますが、発見以来三十年未だそれは説明できていません。
この仮説に否定的な科学者は地球年齢は聖書に拠れば数千年であるが、科学はそれを事実で否定したが、
大構造はビッグバン仮説に対する科学の回答だと述べています。
科学は対象である自然が無矛盾であること、つまり理解できることが前提ですが、
現代科学は光速度一定の原理が何を意味するのかを理解することは放棄していますし、量子力学もまた合理的な理解は未だに為されていません。 二十世紀末の九十年代に二冊の本が上梓されました。
一冊は「新哲学入門」板倉聖宣氏著、もう一冊は「ゼノン4つの逆理」山川偉也氏著です。
板倉氏はこの本の中で論理の性格を指摘し、山川氏はゼノンの4つの逆説が、ピュタゴラス学派が主張するように世界が数でできているのなら運動は不可能だということを、ピタゴラス学派が主張した前提でこれらの逆説を展開し、示したことをその著書で示しています。
この二冊の本を読んでいくうちに、論理の性格を指摘した板倉氏の理解で上記の諸問題が解けると考えるようになりました。
ライプニッツはニュートンの重力方程式には敬意を表しましたが、その重力理解は魔術的だと拒否しました。
わたしもまた「現代」科学の成果である方程式には敬意を表しますが、その理解には疑問があります。
現代科学が示した事実の合理的な理解を以下の小論で試みることにします。
これはあくまでも試論ですし、また現代科学の主流とは違う自然理解になりますが、主流派の仮説で決定していない以上、違う理解も基本として筋が通っていれば仮説としての存在を許されるわけですので、以降かんたんにわたしのそれらの理解を記すことにします。
この小論は科学が前提とする自然を無矛盾に理解することが目的であることをお断りしておきます。 科学的に、時間とは何か、にせまる試みがあります
哲学と科学との関係は、どうなのか。説明している者は無いと思いますが。
さて、科学的な理解は、何処まで可能なのか、です。
多くの反対があるかも知れませんが、私論では、世界は完全には解明できない。
それどころか、世界が完全には解明できない、つまり、世界が確定する事はない。
そして、驚くべき事に、世界は確定しない、完全に知ることもできない、そして、だからこそ、世界が成立する。
だからこそ、世界現象が可能である。現存在は、世界現象の当事者である。 ファッショナブル・ナンセンス風に言うと、
1^(t/2iπ)=xという数式が成立するものと想定して、
1が現存在、^(t/2iπ)が鏡としての時間、xが存在者ということになるのかもしれません。
なんとなくそう思っただけですので、あまり真に受ける必要はありませんが。 日本語で、哲学と言うと、何か権威を感じてしまいます。
それで、それをフィロソフィアとします。フィロソフィアは、事物を説明します。そして、人を解放します。何から解放するかと言うと、怖れからとしておきましょう。ただ、完全に解放するかと言うと、そうではありません。
完全にそれらのものが無くなれば、人は人で無い何かになってしまうでしょう。 人体という絶対的な形式があるので、人は人ではない何かになることは決してないんだよね
人が人ではない何かになってしまうのではないかという恐怖から開放(解消)されてこそ
人体や人間というネットワークがようやく起動すると個人的には思う。
現時点はネットワークの概要が見えた段階で、ここからこのネットワークの秩序を
自然ではない人智でどのように活性化させるのかというのが見物。 現存在、と言うと、すでにそれが良く分からない、了解できないと言う人がいるでしょう。
現存在とは、存在論的責任を持って世界内存在する存在者です。存在論的責任を持って世界の中にある、知的生命体と読み替えて下さい。
存在論的責任とは、基本的、根底的なある責任と、とりあえずしておきます。
さて、この現存在は、いつもある社会内にいます。ある社会内に在る現存在が、実存者です。現存在が、ある社会内に在る様態が、実存です。
実存者は、いつもある了解の中に、了解と共に世界内にいます。(世界内のある社会に) 宇宙が起きてる時にだけ時間が進んでて宇宙が寝てる時は時間は止まってる、そのことにヒトはまだ気付いてない この場合、1^(t/2iπ)=xという数式が成立するものと想定するというのは、
1^(t/2iπ)=(-1)^(2t/(2iπ))=
(-1)^(2t/(2iπ))=cos(2t*π/(2iπ))+isin(2t*π/(2iπ))
が成立するものと考えるということです。
2iπを周期として測られる数値として累乗の指数を表す^(t/2iπ)が、
現存在を時間的な存在者として映し出す鏡であるとするのは、いかにも
突飛に聞こえますが、それをラジアンの数値として三角関数に代入してみると、
なんとなく辻褄が合うように感じられるのです。 ここで、t=log(x)を代入してみると、
(-1)^(2log(x)/(2iπ))=cos(2log(x)*π/(2iπ))+isin(2log(x)*π/(2iπ))=x
ということになります。 推敲していたら、いろいろ出てくるなあ・・・
2-10
科学革命が示す事実
最初に生物分類が示す面白い事実を考えてみることにします。
男は女ではありませんが「同じ」人間です。人間はライオンではありませんが「同じ」生物です。ウィルスは生物か非生物かわかりませんが「物質」の在りかたです。
男、女、人間、ライオン、ウィルス、生物、非生物と否定関係で分類しますが、最終的に否定関係が同一関係に収斂していきます。
ウィルスが示すことは、生物、非生物は物理としてのさまざまな在りかたの一つであり、差異としてあり決して否定関係ではないということです。
このことは自然は差異としてあるのであり、それを否定で理解するからウィルスのような分類しがたい対象が出てくる、つまりこれは分類という行為自体の問題であるということです。
分類行為が示すこの事実は、分類しがたいことは対象である自然の問題ではないように、哲学、科学などの難問が出てくるのは理解する側、つまり論理の性格が原因ではないのかという予想が出来ます。 ここではそのことを科学革命が示していることを論じてみることにします。
科学革命はわたしは三つあると考えています。
地動説、進化論、光速度一定の原理です。
これらの特徴は自然には特別なものは何も無いということを示しているということです。
地動説は地球は不動ではなく、諸天体と変らない存在ということです。
進化論は人間もまた動物であり、なんら特別な存在ではないということです。
光速度一定の原理は、この自然には絶対座標は実在しない、つまり静止する何ものも無く、自然の存在形態が運動であることを示します。
わたしたちは自然という対象を理解しますが、それを理解する側は理解される側とは互に否定関係なのであり、その否定関係である理解する側の実在は科学革命によって否定されています。
座標原点、生物として人間は特別である、絶対座標、これらは理解する側なのですが、いずれも自然には実在しないのです。
科学革命は理解する立場は必要ですが、自然には実在しないということに言及したわけです。
科学革命は自然が無矛盾であり理解可能であることを示したわけです。
理解ってなんなんだろうと、時々思います
けっきょくある前提を考えることなく、その理論を受け容れれば良いのかなと思うようになりました
十代のときに教科書の重力の説明が皆目わからず、また数学もそんな感じで、脱落しました
後年、この説明ではわかるはずもないということを科学史家が述べていました
ヘーゲルの精神の現象学も序文は理解できたのですが、だんだん???が増えてきて、とにもかくにも最後までは読んだのですが、全然残りませんでした
ただ、序文のニュートン力学というか、科学認識の基本の指摘は今でも覚えています。
三浦つとむさんの論理学の本で試運転がされていたのか、エンゲルスとかの本は読んで、まあまあ理解できたかなとは思いました
ただ、運動とは存在すると同時に存在しないこと、という定義は???でしたが、三浦さんの言語学は前提を飲み込めば、とてもよく理解できましたので、そのうちに理解できるかも、などと思いながら読んでいました。
後年、三浦さんの学問では矛盾が前提で十分なのだが、自然科学はそうではないのでは、ということに思い至りました 武谷三男さんが大学院生を教えていたときに、理解力が驚異的な院生がいて、将来を期待したが、何もしない
またこういう人は何人か現われたが、こういう人に限って何もしないと書いていました。
メンサの会員が学問で画期的、ないしはそれなりの業績を残した人の割合を知りたいところではあります。
けっきょく人間の能力の在りかたというのはいろいろな意味でまだまだわからないんじゃないかなと思ったりします
わたしたちが学問に限らず、諸分野で何が出来るのか、出来ないのか、というのはいわゆる学校制度の中の優劣と正比例しないのは確かなようです
いずれにしても人間の文化の程度はまだまだということなんでしょう
剣道の達人、賭け事の達人などなどの語ることは人間の可能性を示していて興味深い
新渡戸稲造は、納豆作りの女性の技術に感嘆していましたが、やはり人間の能力の未知なる可能性ということでしょう 新渡戸さんの教養に対する理解はとても興味深いです
なぜ戦後で途絶えた観があるのか
やはり戦前の全否定もあって、彼は武士道という形で述べていますから、それもあったのかなと思ったりします
また教育の在りかたも、先生と生徒が対等な授業方式とか、いろいろ面白い
いずれにしても、科学の分野のブレゴジンが語るように人間はまだ始まってもいないということなのでしょう わたしは科学の最終理論は光速度一定の原理の理解から導かれると理解していますが、同時にそれは出発点だと考えています つじつまがあう。
理由がないということ、それだけ。
思いついたのでメモ。 わたしの実家は工場でしたが、そこで働いている人が講習会に行って
ある技術を数時間でマスターして指導していた人が驚いたそうです
小さい時から手先が器用だったそうですが、目の前でその技能を見ていて
こんなのは大人になった今でも俺なら数ヶ月は掛かりそうだなと思いました
本人は必死だったからと言っていましたが、いやいやそんな思いだけではと思ったりしました
数学は思春期に集中的にやらないと伸びる可能性はほぼ無いそうです
諸分野の能力の獲得は時期、環境の問題は大きいのでしょうが、可能性としての能力自体は個体差があるのかというと疑問だったりします
人間がこの先どのくらい生存するかはわからないのですが、後世の人たちが振り返ったら
人間の能力が先天的と理解していることに苦笑する気がします >理由がないということ、それだけ。
これはわたしの理解と同じですが、内容が一致するかどうかはわかりません 理由が無い
とは、理由がわからない、であるかも知れない
さらに、それは理由を説明できない、かも知れない
そして、説明できない原因は、それが(良く)分からない以外にも、何らかの理由で(今は)説明できないのかも知れない。
(ほとんどメモですので悪しからず) >>695
こういう人って、アスペだよ。
IQが高いほど、自閉傾向がある。
でも、しかしながら驚異的な能力というのは理解力じゃないよ。
現象が初めから捉えられている人。
何もしないうちから10段階中8くらい見えててあとやるだけって人がごく稀にいるらしい。
あとは学力が伴えばいいんだけれどね。
そういう研究者は、1人知ってるけれど、できすぎて人の気持ちが分からないみたいだね。 単なるアスペは、往々にして研究が苦手。
手先は不器用だし、深く考えすぎて行動に起こすのに人の何倍も負荷と時間がかかるから。 あとよくあるのが、教科書に書いてることしか理解できない人。こういうタイプは文献調査はうまいのだろうけれど、研究は苦手。 それもありますが
自然に存在理由は無いですからねえ・・・
この物理状態が、この物理条件だとなぜこうなるのかは究極としてはわからない
米を炊くと柔らかくなる
なぜ柔らかくなるのか
○○だから・・・無限遡行となる
可知は不可知であるから
これも決定不能のような
理由は人間が何故?と問うからであり・・・ 若いうちは先天的な能力が大半だが、(血統的な仕込みとか、)繁殖になると
より後天的な能力が重要。
・・・未だ理解力の段階か・・・。
アスペは無理に既存の人生のフレームに当てはめると苦戦するから、
セレブな、シードな待遇になるように育てなさい。 イマイチわからないけど、なんかわかる気も
初歩につまづくタイプですので、はっきり捉えられないのですが
>でも、しかしながら驚異的な能力というのは理解力じゃないよ。
現象が初めから捉えられている人。
何もしないうちから10段階中8くらい見えててあとやるだけって人がごく稀にいるらしい。
あとは学力が伴えばいいんだけれどね。 有名な武道家が達人、名人はけっこう普通以下の運動能力がいると語っている
アドラー心理学も、そんなところが大きくクローズアップしていたような記憶が在る
百メートルは才能だが、あとはそんなに必要じゃないと断言してけどね
個人的には特に欠損が無い限り、先天的なものはそれほど重要じゃないと認識している 武道に向いている人、学問に、ということは認めているけど
それは性格みたいのが大きく関係して、能力そのものとしてはどうなのかな
環境との関係も大きいんだろうけど
いずれにしても未だわかっていないことだらけでしょう >>708
いや、大抵これなんだよ。大発見ではないけれど、コンスタントに現象解明していく有能な研究者って。つまり、想像力に長けた人。隣に論理的で学力のある人がいればOK。 >>711
10段階中8、予めほぼ完璧に予測できる人は本当に稀だけれど。 いずれにしても、わたしにとっての学問は人間という存在の自己言及です
自然科学も人間存在の自己言及という側面が強い
宗教ではなく、学問で人間の在り方とか生き方の探求を考えてみたい
その時々の社会の枠もあり、それが撤廃しても良いのか、拡げても良いのかとかいう問題もあります
それらの洞察もして人間がそれぞれの能力を発揮できる社会というのが良いんでしょうが
それはそれできついのかなとは思いますが、社会制度の改善も必要なんでしょう
自由主義と社会保障のバランスをどう採るのかは、様々な発展との関係なのかなと思います
現状の資本主義社会はバランスを逸している観があります >>711
インドの事務員出身の数学者思い出しました
一日に定理を一つ、二つ証明なしに記し、それを英国数学者が纏めると言っていたような ちなみにそれを紹介していた数学者は、年に一個か二個定理発見している程度だと言っていました
それでも、そこそこなんでしょうか cos(2π/(2iπ))+isin(2π/(2iπ))=e
ですが、これが暗示しているのはやはり、
cos(2π/(2iπ))+isin(2π/(2iπ))=(-1)^(2/(2iπ))=1^(1/(2iπ))=e
ということなのではないでしょうか。さらに、^(t/(2iπ))が現存在を
存在者として映し出す鏡としての時間であると解釈するとき、
^(t/(2iπ))に現存在とされる1そのものが反射されるとき、つまり、
^(1/(2iπ))であるとき、存在者として映し出される現存在の
姿はeであるということを、このことは意味しているように思えます。
eは、それを日常言語で言い表すとするとやはり、習慣ということに
なるのでしょう。 >>714
これですね。ただこういう数学者がいたとしても、普通は利用されるだけ。例えば、結婚しててその夫が論文書いて出世するとかならいいよ。 個人的には、現行教育制度の中での優劣でしかないことがわかれば良いと思っています
仕事で有能な人たちが時折見せる劣等感は、やはりわたしたちが小さい頃から叩き込まれたことを示しているような
マーチあたりにも合格しなかった人でも、社会では十分能力を発揮してやっていける人もけっこう多いし
官僚になる人たちは、エリート意識は必要なんでしょうが、それでもそこから脱落したわたしたちとしては、それを振り回されても迷惑であり、どこかでそういう能力評価を在るべきところに位置づけたくあります
それは一つの能力であり、人間の能力全体の評価ではないのだと
ひいては人間そのものの価値の問題ではない
最近新渡戸稲造さんの語るところがとても面白く思えてきています
人間はいろいろな意味でまだ中世に毛が生えた程度の文化状態のような気がします このスレも小アスペと中アスペの群れかもしれない
俺は微小、ミジンコアスペかな ますます人間はスタート地点にも立っていないのかもと思えてきた >>716
それでも、普段、時間そのものとして認識されているのは、
cos(2tπ/(2iπ))+isin(2tπ/(2iπ))=(-1)^(2t/(2iπ))=1^(t/(2iπ))=e^t
におけるtの部分だけであるということなのでしょう。
現存在と時間と存在者の関係を説明しようとすると、説明や記述という
行為が一般に存在者についてのものであることを暗黙の前提とするので、
現存在も時間も存在者もすべて存在者として同等に扱われるかのような
錯覚を生じて、説明や記述は、一筋縄ではいかなくなる。そのような
錯覚を利用しなければ、記述は可能ではないが、他方、そのような
錯覚を脱しなければ、その記述の理解は不可能となる。 >>720
スタート地点というところの、ラインの諸条件を描いた上で思えているか否かが問題なわけですが、その辺はどうなんですか? 以下の表現は、数学では認められていない。
cos(2tπ/(2iπ))+isin(2tπ/(2iπ))=(cos(2π)+isin(2π))^(t/(2iπ))=e^t
それでも、おそらく、時間は、この関係を成立させるような想定として捉えられているのだろう。
それは、この1時間と次の1時間、今日1日と明日1日がまったく違うものであることを
知りながらも、それを同じものの繰り返しとして捉える、矛盾を排除するわけでも、
解消するわけでもない想定である。 >>722
教育なんて、ダメダメだと思っていますけどね
人間の能力の可能性を切り拓くどころか、摘んでいるのが現在でしょう
科学にしても、混乱状態というのがわたしの理解
上手くいえないけど、こういう物理条件でこういう物理存在はこうなるというのは
予想できないのが多いし、逆にいえばある意味沃野だと まあ、漠たる予感ですが
科学の終焉を読んだ時に、ホーガンさんご冗談をという感想しかなかった
その後ブリゴジンが同じことを言っていたので意を強くしました 理由があるという理由がない。
理由がないという(メタ的)理由もない。
裸の無は理由がないということであり、
空とは理由そのものである。
主体としての「わたし」は「理由」である。
理由がないということが理由をうみだしてしまうとしたら、そのメカニズムはどういったものなのか。
「無い」ということが「有る」ということをうみだしてしまう。
保存則もみたしており、理由もうみだす。
ここでうみだされた「わたし」が真の「わたし」であって、「あなた」は真の「わたし」の遺伝的コピーである。
しまたー。神の存在証明だ。 おそらくこれが、ゲーデルのやりそこなった神の存在証明である。
不完全性定理は、あと一歩足りないのだ、という予想。 「無い」ということがさらに「無い」ということを「有る」と考えるか、より深い「無」であると考えるか。
「有る」ということがさらに「有る」ということを「無い」と考えるか、より深い「有」であると考えるか。
ネーターの定理から考えると対称性があるべきだ。
対称性とは「波」である。途中をすっとばして考えれば保存則とは「波」のことである。
ここで「理由がない」という問題に戻れば、
「波」でない理由はないということである。
かなり強引だw
「無」とはBLACKではなくWHITEである。
「無」には、可能なすべての波が「ある」。
このシナリオなら「無」から「自発的」に「存在=自己同一性」がつくることができる。
遺伝的ということも「波」であると解釈できる。
時空間の中に「波」があるのではなく、「波」が時空間と認識されるなにかをつくりだす。
非時空間的な「波」を真のモナドとして想像できるかどうか。そこが問題だ。
「語るものの正体」としての「波」。物理的な概念の波ではない。 濃淡の海ではないけれど、タレスは万物の根源は水と考えてたね
重力からフリーの液体って球状になるけど(無限とはいえ)濃淡の海の形やいかに
勿論海っていうのは比喩でしょうが 2 絶対座標の否定が示すこと
光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。
地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。
絶対座標を探求することは、自然における始点の探求でもありますが、それはこの原理によって否定されたわけです。
座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。
このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。
この原理は静止の実在を否定していることを示しています。
つまり自然の存在形態は運動ということになり、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を導くことが出来ます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係が成立することはないからです。 いわゆるエーテルという光速度を変えるような物理存在は無いのですが、運動の普遍性を示していますから、物理存在そのものは否定できませんし、ディラックの海はそのことを裏付けていると言ってよいのです。
いわゆる真空はエネルギーの基底状態として理解すべきであり、何も無いわけではないということです。
ここから観測問題である対立する波と粒子と理解されている現象は実は波が渦の状態を呈していると考えれば対立、否定関係は解消されます。 自然は運動するエネルギーの濃淡の海ですからすべては波ということです。
(この理解はなんら突飛ではなく、現在でもブリゴジン学派の科学者たちはその予想で研究していますし、十九世紀の英国学者はそのように理解していますし、また古代ギリシャ哲学の一派は粒子は波の一形態だと述べています。
「ビッグバンはなかった」の著者であるラーナーはこの説に言及していますが、銀河系の渦状態を示す方程式との関係で面白い指摘をしています。)
重力は加速に必要なエネルギー量、諸力はある物理的状態から違う物理的状態、つまり渦の状態である粒子をさらに小さい渦状態に生成するのに必要なエネルギー量と定義すればよいわけです。
この理解において重力、諸力はエネルギー量に還元できるわけです。つまり力は実在しないのです。
重力は加速に必要なエネルギー量であり他の諸力は運動する自然の物理状態の生成過程に必要なエネルギー量という違う側面であることになります。
いわゆる最小単位問題は、ある物理条件が設定可能ならばいくらでも小さくできる、実際には渦の状態である粒子をより小さい渦状態にすること、つまり最小単位は実在しないことになります。
つまりすべては運動するエネルギーの多様な在り方ということです。
光速度一定の原理が示す無矛盾な自然観から、観測問題と最小単位問題の一つの解決案を出すことができましたが、不確定性原理は違う問題ですので次章以降で解決案を出すことにします。 フィロソフィアと、一般的な日常
フィロソフィア的な問題。そしてそれは人はなぜ問うのかと言う、問いにさえ至る。
何かの回答が、あるのか無いのかも良く分からない。
で、最初に哲学とは何か、の問いへの答え、を書きました。フィロソフィアは人に必要であると。ヨーロッパなどでは、何かの拍子に、貴方の哲学はなんですかと聞かれ、そんなものは考えてない、みたいな答えをすると怪訝な顔で見られると言います。
人であるなら、フィロソフィア的な問題は避けられないと、考えます。証明の様なものも出来るかも知れません。 >>701
追加発言
意識下の問題
これは、つじつまが合う、と言う発言への思い付きです。
辻褄があう、と言う実存的事象の説明の試みで、それは、人間はつまり現存在は、意識下でも物事を考えているからではないか。
人は意識下でも、物事に対する判断を行なっています。つまり、意識下でも思考しています。
また、意識下でも、つまりはっきり意識していないでも、何事かを認識している状態があります。 ビッグバンがないと宇宙の一部の途中からの説明がなりたたない。 わからないことというのは否定の根拠にはならない
大構造の年月はたしか六百億年前後だったかな
いまでも解決試みているけど、三十年くらいダメでしょう
他の仮説も説明できないのはいろいろあるけど
ガリレオはなぜ地球の裏側の人たちは落ちないんだと言われて
それは後世の人が解決してくれると言った
それはどの仮説も同じだけど、個人的には保存則破らない、光速度一定の原理を否定しない
プラズマ仮説が納得できる わたしの理解だと自然はただ運動変化しているだけで、時間も含めて次元はそれを説明する自然を抽象した観念的存在
実在しない有限で無限を理解している
ニュートン、ポーは無限宇宙論では重力で潰れてしまうと否定したが
有限が無限に集まって無限と理解している
実在しない有限が幾ら集まっても実在することにならない カントの二律背反は自然が無限であり論理が有限だとしないと解決できない
何より基本法則否定したらわたしには理解できない 自然科学は自然が矛盾したら理解できないでしょう
「現代」科学は大前提を忘れている >>736
やれやれ、次元は数だと思ってるみたいだね。違うよ。
端的に言うと次元とは方向かな?
0×∞=0
これで次元の実在が否定できる?
こんな掛け算が何を実証してるの?
基礎をちゃんとやらないと、こんなんなっちゃうんだろうね。 エネルギー保存則は何も生まれない、無くならないということ
光速度意一定の原理も静止する何も実在しないということ
つまり自然が無矛盾であることを証明した基本法則
これを破るような自然理解は誤りでしょう 「ある」ということを考える。「存在」ではない。
1があるとすれば、それが保存されるということは変化が無い。変化する理由がみあたらない。
2があるとすれば、2つの「もの?」の間に関係があり、関係が変化しても2は保存される。
関係がないという理由がみあたらない。関係がなければ2ではなく別個の1である。
1-1であり、1は変化しないのだから変化するのは「関係」である。
主体としての外部の認識者は必要ない。
この1が外延性の公理からただひとつであるとするならば、関係は自己射である。
ひとつになった1は消滅し、自己射だけがチェシャ猫のニヤニヤ笑いのように残る。
それは存在でないのにかかわらず「存在」である。
1と1は自己射に保存される。
振動しているのは「関係」であり、「波」とは「関係」の「波」なのだろう。
電磁波というものを考察しなおす必要がありそうだ。そこにヒントがある。
「関係」が「変化」するということ、それが「時間」という概念を生む。
「関係」が自己射を持つならば「存在」であり、そこだけを考えれば変化をみいだせない。
しかし、自己射を持たない「関係」は「関係」として「ある」にもかかわらず変化しないという理由をみいだせない。
「存在」を集合に限定されたクラス、
「ある」を真のクラスを含みうるクラスと考える。
「真の『ある』」が、変化そのものでもある。 「関係」が「変化」をもたらす「理由」としての「理由のないこと」がやっとみえてきた。
1対1の関係では「変化」にまでいたらない。
やはり3つ必要なのだ。
関係とは2であり、それが3の関係であれば2-3オートマトンが形成できる。 2*3=6。
6本のルールはアインシュタイン方程式における6本の運動方程式である。
さらに4本の方程式は2つの保存則である。
2-3オートマトンの2と3、状態と色で2つ。これほ保存則と考えれば、
4つの方程式から成り立っているはず。
状態が運動の保存則であり、色がエネルギーの保存則。(逆でもつじつまがあっていればよいw)
とりあえずアインシュタイン方程式につながる道がみえてきた。 古典的にデカルト座標で考えるなら、
2-3オートマトンは、回転と並進の2つと3つの座標から6つの自由度を持つのだとされるだろう。
2-3オートマトンにおける6つのルールは自由度だと考えられる。
これはxyzあるいはxyiオートマトンとでも呼ぶべきものかもしれない。
古典的には三次元空間上で展開されるはずだ。まずここをしっかりとおさえておかないと、
次のステップである量子論的描像にたどりつけない。 時間とは何か、の問い
実は、個人的には、このスレッドを立てた人に、好感は持てませんでした。
本気なのか? と言う気持ちが、先になったからです。
しかし、たとえ不完全でも、ハイデガーが、存在とは何か、に答えているとしたら、時間とは何か、にも答えはあるかも知れません。
そして、そこに、問いがある以上、研究する、考えてみるしかない。
この、問いがあるからと言う事情は、何故か、禅問答みたいですが。 存在者が時間的に存在することが現存在を映し出しているのです >>749
変形や変質し続けているさなかですが
保存則が尽きる可能性は絶対にない? 何も生まれませんし、無くなりませんから
身の周りでもそんなことは起きませんし
何よりも時間は実在せず、自然はたんに運動変化しているだけです
今、一瞬が永遠に自然の存在形態として在るだけです
今の正体は運動です 人生暇つぶし。退屈死しないように、時間があったりなかったりする。 説明と了解
我々は、現存在は、了解して何かでいます。
そして、その了解は、ある説明によって構成されています。
明日、会社に出て行く者は、その事情を了解しています。あるいは、了解させられています。
ある現存在が、何かボーとして今日を過ごすとしても、その者は、ある了解の中で今日を過ごしました。
ある人が、今日、何かをしているのも、そして何かをしないでいるのも、了解してなのです。
我々の実存は、ある了解の中にあります。
その了解が、不十分だとしたら、より充分にしたいのです。
我々の実存の、了解に向けた説明の中に、時間とは何かの問いがあります。その問いは、問い続けられます。 >>711
わかるけど俺としてはそれは能力がどうというよりはその発想をその時たまたま持っていたかどうかだと思う
もちろん能力が高い方がそういう発想をいくつも同時に抱えたり新たに気付いたりできるんだけど
天才が全くの無から思い付いてるように見えても、それは彼らがその裏にある理論を言語化できないだけで
彼らなりの思考の道筋というものはあるはず。裏に思考がないならたまたま当たることはあっても当て続けることは不可能でしょ >>763
イマイチ理解できなかったんで、展開期待したりします お前に俺の気持ちが分かるかよ。
まだ私欲で行動するのかよ。 中学生でも扱えるような簡素な放物線を使ったテレビゲームばっかり作りやがって 「裸の無」は保存則に従えない。それが保存してしまうと「空」になってしまうからだ。
「空」は保存則に従い、保存則自身でもある。
そして「主体」であり、「主体」であるがゆえに「空」は「空の『宇宙』」を持つ。
保存則が尽きると考えるならば、それは「空」の消滅である。
「空」の消滅とは「裸の無」になるということだが、「裸の無」は「無」であるがゆえに「ない」。
よって、保存則は尽きない。
すべては「空」の遺伝的発展である。
「空」とは「仏性」であり「神」でもある。
「神の存在証明」ではなく、「仏性の存在証明」である。「仏性」は尽きない。すべてのものごとは「仏性」の遺伝的発展である。 気を付けなくてはならないのは「遺伝的発展」という「煩悩」だろう。
「保存則」が「煩悩」をうみだしてしまう。
「保存則」こそが「煩悩」の元となる「愛」なのだ。
「空」は常に「可能性」をうみだしている。「可能性」とはなにか。それが問題だ。
「保存則」とは「自己射」であり、「対象」である。
「空」は対象としての自分自身を取り込もうとする。
ラッセルのパラドックスである。
パラドックスが矛盾にならないように「可能性」がうみだされる。
この「可能性」を「希望」であるとみなして、可能性をうみだす機構をパンドラ構造体と仮に名付けてみたわけだ。
矛盾+可能性=無矛盾
これが「変化」や「時空間」となるものの正体であろう。 パンドラ構造体、パンドラ機構への言及は先送りしてモナドを考える。
ライプニッツのモナドはモナドではない。
真のモナドは「空」であり、ただひとつである。
ライプニッツのモナドは「真のモナド」の遺伝的発展であり、やはり、モナドの定義から外れる。 時間には展望(prospect)と回顧(retrospect)があるんだよ。展望と回顧は、
対称的な関係にはない。なぜなら、回顧は既に起きたことの回顧であり、
個別の事象にかかわるが、展望は、これまでに生じたことの反復または
展開として見通されるのだから。 >>759
運動が継続している間、何も生まれないしなくならないのは理解できますが
身の周りでそんなことが起きないのは継続しているからではありませんか?
自然の存在形態そのものが停止する事態が起きる可能性がないと
人間が言い切ることはできないのではないかと思う。 光速より速いものはない
「今」のvelocityは光速
こんなに宇宙は広いのに遍く光速で同期
普く同時に訪れる未来
velo velo ばー 僕は理系の人達の方が好き。
だから、このスレは割と好き。 2 絶対座標の否定が示すこと
光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。
地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。
光速度一定の原理は、自然における絶対座標、つまり自然における始点を実験で否定したものです。
座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。
このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています