時間とは何か 23
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
因果的閉包性 - 心の哲学まとめWiki - アットウィキ
https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/50.html
アルキメデス「私に地球外の1点をお与え下されば、地球を動かして見せましょう」 「理解」とはなにか。
「わたし」である人間は想定しない。
人間を想定しない場合の「理解」とはなにか。最低限必要なものはなにか。
「理解」するということを「理解」できなければならないだろう。
それが「理解」できねば「理解」ではない。
しかし、人間を想定したとしてもそれは理想にすぎないのかもしれない。 >>823
なんだそれ?
ゼノンのパラドックスってやつ? >>823
その理屈は通ると思う
そしてその理解は科学的になんの役に立つ前提なのか 無くなるとは静止、否定として理解された運動変化する物理状態であり、運動しているエネルギーが呈する変化する物理状態自体は普遍であり無くならない。
同一であることは無い自然を同一で理解する。
同一であると理解された不同一である自然は常に生まれ、また無くなっているとも理解できる。
つまり存在すると同時に存在しないということ。 >>829
自然認識の在り方の前提です
有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり
自然そのものではないということです。 >>828
ゼノンの逆説をどう理解したらよいのかが出発点です 3 次元は実在するのか
次元の出発点であるゼロ次元を科学革命である地動説、そして光速度一定の原理も否定しています。
一次元はそのゼロ次元の無限集合であり、二次元もまたその一次元の無限集合、
三次元もその二次元の無限集合であり、運動しない三次元の実在は光速度一定の原理によってその実在は否定されます。
三次元はもともと自然の物理存在、たとえば木、机などの高さ奥行き幅などを計るためには便利ですし
また時代が違っても場所が遠くてもその単位で計測された記録があれば理解できるわけですが
高さそれ自体、奥行きそれ自体は実在せず
物理対象としては分離できるわけではありません。
始点、幅、厚み、運動などの諸次元はそれぞれ独立して自然に実在しないのです。
つまり次元は対象の大きさを理解するために物理存在から抽象されたものであり、実在しないのです。
それは果物一般は実在せず、個々のミカン、リンゴ、スイカとして実在するのと同じです。 単位にしてもフット、つまり足の大きさで測られたりメートルで測られるのですが、
単位の設定は自由で、単位を変換すればヤード、尺で理解することも可能になります。
このことは単位が物理存在から抽象したものですから変換自体が可能になるということです。
また自然は濃淡の海ですから、ここからここまでということは量子の世界では在りませんし、
このことは物理存在の次元の実在を否定しているわけです。
わたしたちは濃淡の海である淡、エネルギーの基底状態としての真空は認識できないのです。
四次元である時間はどうでしょうか。
三次元が諸次元の集合ですが、当然四次元もまた三次元の集合ということになります。
四次元もまた三次元の無限の集合となるわけです。
四次元、つまり時間が実在すると仮定します。
そうだと仮定しますと一秒の時点にも対応する三次元があることになりますし、
どの時点を指示してもそれに対応する三次元が実在することになりますし、
最小単位としての時間、四次元が実在するとしたら、三次元が四次元を構成しますから、
当然その中に無限に実在しなければなりません。
仮に一秒という時間が実在するとしたら、一秒と自然に存在できない寿命の短い、
たとえば素粒子という物理存在はわたしたちの目の前には在るのと同時に無い状態に成ります。
次元が実在すると仮定しますとたとえ時間がどのように短くとも三次元
、つまり静止している物理状態が無限に実在しなければならないのです。
つまり四次元もまた三次元同様にその実在が疑問になるわけです。
三次元が物理存在のための頭の中にだけある存在ならば、四次元もまたそのようなものとして在るのではないのか、という理解になるのは当然です。
では次章では四次元、つまり時間とは何かを論じる前に論理と何かを考えてみることにします。 4 論理の性格について
たとえば、わたしという物理存在は赤ん坊から大人になるまで大きく変化していても、同一としての「わたし」として理解されます。
地球でも太陽系でも自然でも、それ自体では常に運動変化していますしこの意味では人間と同じで、地球、太陽、自然という同一で理解します。そして人間も地球も太陽系も自然自体はどんな場合も同一であることはないのです。
光速度一定の原理が示すように静止は実在しませんし、同一であることはありません。
つまりわたしたちは非同一としての自然という対象を同一で理解するということです。
言い換えると運動する対象をその否定である静止で理解するということです。
このことは自然認識の在り方にどうかかわるのでしょうか。 ヘーゲルという哲学者は、今、此処と指示すると今も此処も飛び去ると指摘します。
このように運動は直接には捉えられませんから量で理解するわけです。
対象である物理対象、つまり人間、車、などなどの速度は座標原点を適宜に設定して運動を量にして理解するわけです。
このことは運動を静止、つまり運動量ゼロとして無限の集合としての四次元、つまり時間で理解することを意味するわけです。
微積分で、限り無くゼロに近いがゼロでは無いということ考えが前提になっていますが、この運動という有を静止という無で理解するということを示しています。
(この不思議な考え方はクレタ人の逆説とも関係しますが、それは後ほど述べることにします。)
またヘーゲルは「運動とは存在すると同時に存在しないこと」と定義しました。
この定義を最初に読んだときにわたしはまったく理解できず、この謎のような定義は以降わたしの頭を離れませんでした。
この不思議な定義を理解する鍵であると思われる「クレタ人の逆説」を考察することにします。 「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というものですが、仮にクレタ人が嘘つきならば、クレタ人本人が嘘つきであるということは言いませんし、クレタ人が正直でしたら、嘘つきだと言うことは無いのです。
この命題は決定不能の命題と知られていますが、この問題は対象をその否定で規定するからです。
クレタ人が嘘つきであるということをその否定、つまりクレタ人が正直に言うからです。
運動を理解する場合に、わたしたちは静止という否定で理解しなければならないのです。
ゼノンの逆説の一つである「飛ぶ矢の逆説」というのがありますが、これは「飛ぶ矢は空間の一点に存在するが、静止もまた空間の一点に存在することだから、飛ぶ矢は飛んでいない。」というものです。
「存在」という定義もまた静止であり、運動を静止、つまり対象をその否定で理解しなければないないことをこの逆説は示しているということです。
つまりクレタ人の逆説と同じであり、運動という対象をその否定で規定するからなのです。
板倉聖宣氏が「新哲学入門」で示すように論理の本質は静止ということを「飛ぶ矢の逆説」は示しています。 ヘーゲルの運動規定もまた、対象をその否定で理解する、つまり運動を静止で理解するから「存在すると同時に存在しない」という決定不能となることを示しています。
いわゆる弁証法の主張する矛盾とは、この決定不能であることを示しています。
生物学者のある方は、生物は生きると同時に死んでいると語ります。つまり生物もまた物理状態としては同一であることは無いわけですが、同一で理解しなければならないことを示しています。
自然もまたその存在形態は運動ですから、同一であることは無いのですが、同一で理解しなければなりません。 ゼノンの逆説は良く知られたものに四つあります。
一つは「競技場の逆説」で時間と物理に最小単位があると仮定するとその半分が存在することを証明したもので、最小単位は実在しないことを示します。
またピタゴラス学派が主張するように自然を構成する数が部分をもたないのならば、アキレスの前にいる亀の空間には無限の数が実在しますから、その無限の数をアキレスは踏破しなければなりません。
(それ以前に部分の無い数、大きさの無い数を無限に集めても大きさを形成することはありません。
0×∞=0なのです。)
二分の一の逆説も大きさの無い数が実在したら目的地に到達することはできない、つまり運動は不可能であることを示しています。
「飛ぶ矢の逆説」は点、つまり大きさの無い数が実在したら、運動が不可能であることを示しています。
この逆説は座標原点が実在すると仮定すると、飛ぶ矢はその一点に実在するのですから、座標原点が意味する静止とその否定である運動は区別がつかなくなるわけです。
(ライプニッツは静止とは運動の均衡状態だと指摘しています。
野球のボールが静止している状態にあったとしても地球自身は運動しています。
わたしたちがこれらを、動いている、動かすと認識ことはこの均衡状態が破れる、つまり加速であることになります。
つまり運動の否定である静止は自然には実在しないのです。)
ゼノンの逆説は、ピュタゴラス学派が主張するように大きさの無い数が実在したら運動は不可能であることを示しています。
科学もまた絶対座標の実在の否定を意味する光速度一定の原理によって、大きさの無い数の実在を否定しました。 しかしこの逆説は数で理解することは否定していません。
存在という言葉は静止であり、わたしを含む自然を静止として理解するということです。
つまり対象をその否定で理解することです。
自然の存在形態は運動である、という場合の存在という言葉は静止ですから、決定不能ということになるわけです。
科学革命である地動説はこの意味では地球が静止すると「仮定」、つまり座標原点を設定して天体運動を観測することを指摘したとも言えます。
光速度一定の原理は絶対座標が実在しない、つまりこの自然のどこにも静止する特別な位置が実在しないことを示します。
このことで自然の存在形態が運動、つまり無矛盾で理解可能であることを示しました。
このことは自然認識である自然科学という学問は、あくまでも人間の自然認識の在り方、つまり静止で理解されていて、自然とはイコール、つまりそのまま自然を写したものでは無いことを示します。
このことは自然科学の理論を規定してきます。 科学革命は自然が運動するエネルギーの濃淡の海であり、わたしたちを含めてその運動変化の結果としての生成過程に在ることを示します。
数、点が実在しないので空間に終始もまた実在しません。
座標原点、絶対座標が実在しないことはこのことを明白に示します。
ビッグバン仮説は未だに確たる証拠があるわけではありませんし、宇宙の果て自体も観測されていません。
いわゆるインフレーション仮説の前提である空間は光速度一定の原理から外れるという仮定は実証されていない仮説です。
あるビッグバン仮説を支持する科学者は新定常宇宙論を好き勝手な仮説を設定すると批判しますが、ビッグバン仮説もこのような仮説で成立していますし、
幾つかの観測事実を説明できていなかったりするのはどの仮説も同じで、近藤陽次氏が語るように、今のところこの仮説で決まりだということはできないのです。
この仮説はなによりも光速度一定の原理の前提である絶対座標が実在しないこと、つまり科学が発見した観測結果を否定しているのです。
さらにエネルギー保存則もまた否定しているのです。
これらの重要な基本法則を破り、検証されていない仮説で成立する学説をわたしは支持することはできません。 >>830 で、無くなる、無くならないということの説明を試みました
まだイマイチかなあ・・・ 関係ないですが、例の731部隊のアメリカ公文書を調べた外人さんが
何も出てこなかったと記しているそうです
なんかなあ・・・
アメリカが公開した731部隊の資料。
"To be honest, I'd hoped we'd find something," Mr. Drea says.
"That's the historian's dream: fresh information that illuminates a dark problem. It just wasn't there."
「正直、何か見つかると思ってた。歴史家の夢、闇を照らす新情報、そんなものは無かった。」
731部隊関連文書、アメリカが隠してると散々言われ続けた機密文書が近年公開され
米の公文書図書館で10万ページを読み漁ったドレアさんのボヤキ
http://chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm
〜まとめ〜
・日本からの風船爆弾には細菌の散布装置はついていなかった。
・石井中将には細菌兵器の戦略及び戦術的な使用に関する「着想」があった。
・終戦後、731部隊関係者がモスクワ近郊で細菌兵器の研究プロジェクトに従事させられた。
・患部の写真等の資料を石井中将が保管していた。
・人体実験の証拠は一件も発見されませんでした。
・ついでに「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが見つからなかった。 歴史としての事実はなかなか確定しないみたいだなあ
勝海舟の談話でも、法螺話もあるとかで、公文書とか調べたら
裏づけもある話もあるそうで
繰り返し検証できる科学観測もあるけど、それが何であるかはわからなかってりする わたしの科学への異議は、観測事実ではなくその理解です
ライプニッツのニュートンの重力某定式への敬意と重力概念への異議と同じです 意味
閑けさや岩にしみ入る蝉の声、、芭蕉
どのようにしたら、岩に蝉の声が入ると言うのか、不可能である。蝉の声がうるさいのに、何故、閑かだと言うとか。論理矛盾である。 ランダムに打たれた点の集合を見て人は何かしらパターンを見つけると人はランダム性を疑う
逆にある程度の数値の上限を持たせた上でマクロに見ると均一に見えるものをランダムだと思う
しかし真にランダムな場合は無限大に点の間隔が開く可能性があるために限られた範囲内に点が一つもない可能性の方が高い
数学や物理を用いて法則を導き出してもそれは人がそう思い込み法則を数学的に作り上げているに過ぎないのかもね 人は有限性の中でしか物事を捉えらないし
数学もまた有限の中で成立する学問だよね
文学も数学で記述は出来るだろうけどそこに有用性を見出さないから取り組む人はいない
しかしAIに文学を書かせるといった取り組みも出てきている
AIが文学を作る過程は複雑すぎて人間は把握できない、或いは把握に膨大な時間がかかり人間用には応用し難いだろう 意味
蝉しぐれ
その山で作者が、体験した蝉の声は、何dBだったのか。その音量は、人が静かだと思える音量なのか。また、岩には確かに何パーセントかの音が入り込むが、それは音の周波数、その岩の表面温度、などで変化するだろうが、岩の表面で反射する音波の方がはるかに多量だろう。
音波が、しみ込むのであれば、周囲にある樹木への、浸透の量の方が明らかに多量だろう。
なぜ、作者は、樹木に吸収される音量に、言及しないのか。ナンセンスである。 3次元(パンドラ)は4次元を裏返したのだ
3から4で包まれたものは3軸加速度センサ なにかを理解するとは、そのなにかが当たり前になるということ
当然 同然 1/2*((-1)^((2t/(2π))+(2t/(2iπ)))+(-1)^((-2t/(2π))+(2t/(2iπ))))=
1/2*((-1)^((1-i)t/π)+(-1)^(-(1+i)t/π))=e^t(cos(t))
1/2*((-1)^((2t/(2π))+(2t/(2iπ)))-(-1)^((-2t/(2π))+(2t/(2iπ))))=
1/2*((-1)^((1-i)t/π)-(-1)^(-(1+i)t/π))=e^t(isin(t)) 意味
『孝雄は、山路を登り始めた。連れは、いつもの山田である。山は実存する。風は無かった。傾斜は緩やかで、無言で登る。道は実存する。孝雄は、頭の中で繰り返す、私は実存する。
昼過ぎの、山路を他に登る者はいない。無は実存するのか。サルトルは実存を思考して、吐き気を覚えたのだが、孝雄にはそれは無い。傾斜が、いつの間にきつくなり、息が上がる。私は実存する。あたりは、杉の森である。
杉は実存する。突然、蝉の激しい声が辺りを支配した。道の左手は、黒い濡れたような岩肌である。蝉の激しい声は降りしきる雨のようだった。
ふと、気がつくと、山頂だった。野原が眼下に見える。山頂を示す道標に一瞥をくれて、二人、下り道にはいる。一陣の風が吹き過ぎる。孝雄は風は実存する、と思うと同時に、蝉の声でいっぱいだったその時、実存を、忘れていた事に気が付いた。
蝉はさっきの様に、激しく鳴くことは、もう無かった。
下りきった所に、お堂がある。入るとその闇の中に山田と座った。閑かである。
外に、出て帰り道を急ぐともなく歩く。再び、実存の問いが襲ってくる。闇は実存するのか。
ふと、気づいた、お堂の闇の中ではその問いは止んでいたと。、、、、完』
『、、から、、』、までは体験現象である。
それは、それの何であるかが、直ちに指摘出来ないが、ある意味を持っている。
翻って、芭蕉の一句は、ある物語の究極の凝縮ではないのか。
逆に、読む者は句から、自身で物語りをつくるのだ。 説明を若干、間違えました。
途中で、何を説明したいのか、混乱しました。 e^t(cos(t)+isin(t))=cos(t+t/i)+isin(t+t/i)
e^t(cos(t)+isin(t))=cos(2πt/(2π)+2πt/(2πi))+isin(2πt/(2π)+2πt/(2πi)) 人間は自然というボールの上を乗りこなしているようなものですね
ケージの中は自然エネルギーに満ち溢れ推移が激しく変動するため
科学で証明できることがあるものの
ケージの外となるとエネルギーは停滞し、科学的認識の域を超え
推測の域をでない
生物、中でも最たる人間は、結果ボールの上でバランスをとるために
意識を開闢し乗りこなすしか術のない哀れなピエロですが、それを
自分の意思と信じ意欲的に立ち振る舞う人間という舞台を設け
自ら人生を強いている愚かな生き物、ボールから降りて歩き出すのは
不可能でしょう・・・ 地球の自転や公転を身体的感覚で感じとれる人っているのかな
ほとんどの人は知識としての自転公転だよね >>861
好天の真昼間に野原に大の字になり寝っ転がって上空眺めてると雲の動きとかで身体全体が何となく自転公転してる気分になる
知識が全くなかった4歳の幼少の頃からずっとそう 5 ここでは四次元、つまり時間について考えてみます。
時間が実在したら、たとえどんなに短い時間を考えてみてもそれは静止
する無限の三次元が実在することになります。 ある物理状態はその中で無くなったり生まれたりするわけですが、それが
一緒に実在するということです。
これは実に理解しがたいことです。
では次元についてかんたんに考えてみることにします。
一次元は大きさの無い点、つまり実在しない点から成ります。
実在しないゼロ次元を無限に集めたら幅の無い一次元が実在すること
にはなりません。 実在しない一次元を無限に集めたら厚みの無い二次元が実在すること
にはなりません。 実在しない二次元を無限に集めたら運動しない三次元が実在すること
にはなりません。 同様に運動しない三次元を無限を集めても四次元が実在することには
ならないのです。
今には幅がありませし、その今を無限に集めても時間にはならないので
す。
四次元は運動しない三次元の無限の集合ですが、わたしたちはそれに
よって対象の運動量を測るわけです。
ゼロ次元によって位置を、一次元、二次元、三次元によって対象であ
る物理存在の大きさを、四次元によって運動量を測りますが、対象であ
る物理の存在形態は運動です。 わたしたちは目の前の自然の物理存在の大きさを測るときに縦横高さと
してその大きさを知りますが、縦横高さはそれぞれ独立して実在するわけ
ではありません。
どうように運動しない三次元は実在しないことからもわかるように、次元
自体は対象である運動する自然の様々な物理存在の抽象であり、対象
である物理状態の大きさ、運動などを認識する場合に必要な観念的存
在というべきものです。
三次元が物理の大きさの抽象であるように、四次元は運動の抽象です
。
いわゆる時間は常に定期的な運動をすると思われる、月、太陽、光の
運動量の抽象です。
これらでわかるように四次元、時間の正体は運動量なのです。 「此処」から、という座標原点、出発点は自然には実在しないことを科
学は示しています。量子力学は自然が運動するエネルギーの濃淡の海
であることを示しますから、わたしたちが「此処」と指示しても濃淡の境目
自体は自然には実在しません。
つまり仮定であり、近似値としてしか縦横高さは認識できないのです。
次元自体は抽象でしかなく実在しないのです。
語義から言いますと、現在は現に在る、過去は過ぎ去る、未来は未だ
来たらざる、ということで、過去も未来も現在には存在しません。
現在には幅が在りません。在ったらその中には過去も未来も並存するこ
とになりますし、基準の採り方で現在は過去や未来になります。
そして現在という有は無で理解されるからこそ、幅が無いということになり
ます。 様々なことは、現在の正体が運動であることを示しています。
わたしたちは運動を静止、つまり有を無で理解しています。
そして時間とはある対象の運動量をある物理存在、つまり太陽、月、光
速度などで理解していますが、この共通点はいずれも運動量です。
対象である自然はこの現在においてのみ運動していますが、次元が対
象である自然の物理存在の抽象であり、それで自然の物理存在の大き
さ、運動量を理解していますが、運動を量にしてその抽象が四次元であ
り時間で、ゼロ次元から三次元がそれ自体で独立して実在しないように、
時間という四次元は運動しない三次元の集合ですし実在するはずもあり
ません。
自然には数が実在しないことは、数に大きさが無いことでも明白ですし
、座標原点が実在しないことを科学革命は示しています。
時間もまた諸次元同様に自然を理解するために運動する自然の物理
対象を抽象した観念としての存在なのです。
この意味で、科学革命はゼノンの逆説の主張、つまり自然は数ででき
ていないということを裏付けたわけです。 6 ここではエネルギー保存則について考えてみることにします
エネルギー保存則については量子力学でその破れが言われています。
超心理学という分野では、理解できない超常現象と思われる現象がある実験方法で確認されますが
新たな実験方法でその理解できない現象が合理的に、つまり非超常現象として理解できるようになるのですが
それでもまた理解できない現象が出てくるという繰り返しの歴史だそうです。
エネルギー保存則もまた同じ歴史を辿っているという指摘があります。
これらは現在の科学の水準で理解できない現象は必ずしも超常現象、エネルギー保存則などの破れが実在することを意味しないということです。
科学の分野での一例をあげますと、雷はフランクリンの実験があるまで電気現象であることがわかりませんでした。
つまり理解できるまでは未解明現象であり、その時までの科学などでは理解できないわけなのですが
○○だと断定することは理解することになりますが、そういうことはいえないということです。
これは、雷の正体が不明なときに神鳴りと理解してはいけないということです。
その未解明現象が未来にわたっても未解明であることが証明されれば別ですが、それもわからない限り
それについて将来もわかる、わからないとは言えないということです。
量子力学分野でのエネルギー保存則の破れと言われている事象は、実は未だに確定しているわけではないということです。 量子力学のエネルギー保存則の破れといわれる現象は、自然認識は運動を実在しない静止で理解することですから此処からの此処は実在しない仮定である座標原点を設定した下での近似値ですし
不確定性原理の意味とは正確にそのまま対象を測ることが測定の本質上不可能ということです。
この破れといわれる現象は超心理学、エネルギー保存則の理解の歴史が示すように、対象では無く認識する側の在り方の問題だとするのが妥当なのです。 なによりも物理存在が無くなったり生まれたらどこに行くのかということにもなりますが、自然しか実在しませんから何処にも行くところはありませんし、また認識が近似値であり、そのままで理解できるわけではないのです。
そのことはミクロの世界であればあるほど顕わにされるということです。
量子力学でのエネルギー保存則の破れと思われる現象はあくまでも認識する側の問題でしかありません。
自然以外が対象として実在するとしたら光速度一定の原理である座標原点はどこにも実在しないという観測事実を否定することになります。
対象である自然には静止は実在しないということはそういうことでもあります。
自然は無限なのです。
わたしたちは、無くなる、生まれると認識します。
科学は何も無くならないし、何も生まれないと自然を認識します。
これはどういうことなのでしょうか。 生まれるというのは物理状態の変化です。
死ぬということもまた物理状態の変化です。
つまり物理状態の変化という観点からは生死は実在しないのです。
ある生物学者が語るように、生物は生きつつ、かつ死んでいるわけです。
生物もそうですが、自然自体は運動変化する過程に実在しているだけです。
それは或る物理状態から違う物理状態に生成していく過程に実在しているだけなのです。
或る物理状態は常に同一としては実在していません。
しかしこの不同一としての物理状態自体は恒常、つまり同一として実在することです。
不同一を同一で理解するから生まれる、無くなると理解することになります。
無くなるとは静止という否定で理解された物理状態であり、運動しているエネルギーが呈する変化する物理状態自体は普遍であり無くなりません。
同一であることが一切無い自然を同一で理解するのです。
同一であると理解された不同一である自然は常に生まれ、また無くなっているとも理解できます。
つまり存在すると同時に存在しないということで、決定不能であるということです。 7 一が多と成り、多が一と成り
科学革命である地動説、進化論、光速度一定の原理の発見によって自然科学は対象である自然が運動するエネルギーの濃淡の海であり、
濃淡の物理状態としての現象は差異であり
物理条件で他の物理状態との親和、反発の過程を経て様々な物理状態と成り、
またその物理状態もまた違う物理条件で様々な物理状態に成るという生成過程が自然であることが導かれます。
人間はその過程で生成され、また違う何かに生成されていく過程として実在します。
地球という自然環境も太陽との関係もありますし、また太陽もその基本として生成され、
また違う何かに生成されていきますし、自然は全てそのようなものとして在るわけです。
エネルギーの淡の状態は基底状態であり、無は実在しませんが、それを裏付ける事実として、
ディラックの海は真空は無でないことを示しています。 わたしたちの目の前の自然は多と現象しているのですが、それは一としての展開であり、濃であるエネルギーの状態が認識可能であり、淡の状態は認識できないということです。
むろん、濃であるエネルギー状態は条件によって淡となり認識できなくなりますし、またその逆もあるわけです。
一は多として現象しますが、それは一が濃淡の海であり、淡は認識できないからです。
一は多と成り、多は一と成る、ということです。 8 哲学と数学の諸問題
ここではかんたんに板倉聖宣氏が指摘した論理の本質である静止という観点から、
今までに述べきたことを概観することにします。
つまり古代ギリシャが提起した諸問題と、カントの二律背反、
つまり時空には終始があると同時に存在しないこと、ヘーゲルの運動定義と矛盾、数学の不完全性定理などです。
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解することが原因で決定不能となることを示します。
ゼノンの逆説は、自然が多、つまり数で出来ていると仮定すると運動は不可能であることを示しました。
科学革命は大きさの無い点が実在しないことを指摘しています。
わたしたちは自然という運動する対象を静止、つまり否定で理解するということです。
カントの二律背反は、自然、つまりは無限の運動する自然を理解するには否定である有限で理解するという
自然を理解する論理がもたらす問題です。
つまり自然は無限なのですが、論理は有限であるということを示しているわけです。
ヘーゲルの「運動とは存在すると同時に存在しないこと」という不思議な定義は、運動を静止、
つまり対象をその否定で理解しているために決定不能ということを矛盾と捉えたもので、正当だということです。
数学の不完全性定理もまた有限を無限で、つまり対象をその否定で理解するので決定不能な命題が在るということです。 またこれらは論理の自己言及という側面があることを指摘しています。
自然は運動し無限ですが、論理自体は静止であり有限です。
静止は実在しませんが、論理の中では存在します。
つまり論理は無が「在る」という矛盾で成立しています。
ヘーゲルの運動定義はそうですし、弁証法の矛盾とは決定不能の言い換えです。
つまり無矛盾である自然を矛盾である論理で理解しなけれはなら無いのです。
(科学革命は、自然においては座標原点が実在しないことを示しますし、このことは論理、つまり静止、有限の実在を否定していることを示しています。
科学理論は人間の認識に対象化されたものであり、実在しませんし、方程式も近似値であり自然の運動そのものではないのです。)
クレタ人の逆説でわかるように、運動を定義する論理は静止、つまり対象をその否定で理解するのですから、決定不能となるわけです。
アインシュタインは自然をなぜ理解できるのかは理解できないと語りました。
自然は無矛盾ですから理解可能なのですが、理解自体は無の存在という矛盾ですから理解できないのです。
自然という運動する対象を論理という静止で理解しますから、運動はヘーゲルが規定するように矛盾、つまり決定不能ということになります。 9 宇宙論の現在の主流はビッグバン学説ですが、近藤陽次氏はその著書で今のところは何も決定的な証拠がないと指摘していますし、
宇宙背景放射もまた火星に運河を発見した類ではないかという指摘を或る天文学者がしていて、
これでノーベル賞を受賞したスムート博士がこの可能性を否定していないことは前にも述べましたが、
この宇宙背景放射という理解については以前からビッグバン仮説に批判的な科学者たちが同様のことを指摘しています。
またいわゆる宇宙が膨張している証拠であるとする赤方偏移は必ずしも膨張していることを示しているのではない可能性を
アープという天文学者が観測事実を集めて指摘しています。
科学史は科学者が発見観測した事実を正確に理解しているわけではないことを数多く示していますし、天動説はその典型であるわけです。
この仮説はエネルギーの保存則を破ったり、インフレーション仮説は光速度一定の原理は空間には適用されないとしたり、
天動説がその綻びを繕うために周転円をたくさん描いたように、様々な仮説で一杯になっています。
現代科学、なかんづく宇宙論の分野では光速度一定の原理が示した絶対座標の実在の否定が忘れられていますが、
ある科学者が語っている、宇宙の始まりまであと僅かまで迫っているというのはかなり疑問だと思っています。
わたしたち自身もそうですが、身のまわりの全ては始まりはありません。
始点の実在、つまり静止は科学によって存在しないことが証明されています。 新井白石は、西洋では自然を神が創造したと主張し、神は元々存在していると考えているようだが、だったら自然が元々存在すると考えても良いと指摘しているそうです。
わたし自身はエネルギー保存則の何も生まれないし、無くならないという科学の示す事実からも、この新井白石の指摘はもっともだと考えています。
科学は自然が無矛盾、つまり理解可能だと前提しないと成立しません。
自然の誕生と死、無、つまり非自然から有、自然からの無ということはエネルギー保存則の否定となります。
ビッグバン仮説はこれらの科学の成立条件と基本法則と合致しません。
科学の基本法則と科学革命が示すように自然は生まれたものではなく、運動変化するエネルギーの濃淡の状態としてただ在るだけなのです。
新定常宇宙論もまたエネルギー保存則を破ります。
プラズマ宇宙論は、プラズマが宇宙のほとんどであるから宇宙はプラズマが主役だと主張しますし、無限宇宙論であり、エネルギー保存則、光速度一定の原理などの科学法則を破りません。
またプラズマ宇宙論を支持するぺラット博士は、シミュレーションで様々な形の銀河系生成を再現していますし、ラーナーは宇宙の泡構造を予想したと述べています。
ビッグバン宇宙論が主張する宇宙年齢ではいわゆる大構造形成に必要な時間はとても足りませんが、無限宇宙論であるプラズマ宇宙論では無視できます。
ビッグバン宇宙論、新定常宇宙論、プラズマ宇宙論とありますが、説明できない観測結果があるのは現状ではどれも同じですが、わたし自身は既成の科学法則を破らないプラズマ宇宙論に可能性を感じます。
なによりも科学革命が無限宇宙論を支持しているのです。 有限宇宙論と無限宇宙論について
エドガー・アラン・ポーは宇宙が無限だとすると重力で潰れてしまうと指摘し、無限宇宙論を退けました。
ここでは有限で無限ができていると理解されています。
しかし有限自体が自然には実在していないのです。
わたしたちは無限を実在しない有限で理解しているのです。
ゼノンは「無限とは理解不能の何かであり、したがっていかなる説明にも用いるべきではない」(「宇宙天体論」学研155頁)と言っているそうです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり此処という有限の出発点である静止が否定されています。ということは有限は自然には実在しないということですし、自然の何処にも静止が実在しないということは自然が無限であることを示します。
オルバースのパラドックスは無限宇宙論だとすると宇宙は光で満ちているはずだと無限宇宙論に疑問符が突きつけます。
これに対して無限宇宙論側の解答はわたしは寡聞にして知りません。(光は減衰するという仮説があるそうですがインフレーション仮説の前提同様に証明はされていません。) 地球が運動しているのならば裏側の人たちはどうやって地球にしがみついているのだという地動説批判について、ガリレオはそれは後世の人が説明してくれると語ったそうです。
この逸話は、各学説このように主張することが可能であり、決定的な証拠がない現在、たとえ説明できない事象があったとしても、それらはなんら各学説が誤謬であることを示しているわけではないのです。
有限宇宙論、無限宇宙論は各々現時点では説明困難な事象を抱えています。
私見だと、やはり基本法則を破らない仮説に魅力を感じます。
また哲学などの疑問にも解答から導き出すことができる科学革命が裏づけとなる無限宇宙論にわたちしは可能性があると考える者です。 付論 ここで簡単に自己言及について考察したいと思います
三浦つとむ氏は、言語は対象ー認識ー表現という構造を持つとしました。
スポーツの実況中継はそれがよくわかります。
わたしという言語表現の場合、自己言及ですが、対象と認識主体が同一です。
この「わたし」という言語表現の認識構造を考えてみることにします。
わたしたちが地図を描く場合には、頭の中で街の空の上に自己がいるものとして描きます。
日本地図、地球、太陽系などそれまでの知識が元になって描くわけです。
またわたしたちは赤ん坊を見て自分の過去、年上の人たちを見て自分の将来をそれぞれ想像します。
テレビドラマを見たり、小説を読んだり、映画を観たりして頭の中で過去や未来、現在、他の天体に行ったり、宇宙人が来たり、またそれらの中の主人公とか空想上の、また歴史上の人物などになったりします。
わたしたちにはこういう能力があり、それは三浦つとむ氏は観念的な自己分裂と名付けました。 わたし、という言語表現も、頭の中で自己自身を対象として、認識し表現するわけです。
それを直接示すのが、鏡です。鏡を見てわたしたちは服装が似合っているかとかいろいろ観察します。
この場合、実は頭の中では鏡に映った自分が現実の自分を認識することになります。
鏡の中の自己が認識主体ということになり、現実の自己は認識対象であり、それが「わたし」という表現となります。
これまでが三浦つとむ氏が「日本語はどういう言語か」、「弁証法はどういう科学か」で展開された観念的な自己分裂という用語のわたしの理解した説明です。 わたしは、ただ一点この説明に疑念を抱いています。
それは表現された「わたし」は鏡の中の「わたし」が現実の「わたし」という理解です。
実はここにも「クレタ人の逆説」の本質である決定不能という命題が潜んでいるのではないのか、ということです。
認識対象である現実の自己と認識主体である観念としての自己は対立関係で、互に他者としての自己です。
つまり現実の自己、わたしは鏡の中の自己にとっては他者でもありますし、また鏡の中の自己は現実のわたしには他者なのです。
「わたし」という表現にはこの決定不能というクレタ人の逆説が潜んでいるのではないか、というのがわたしの疑念です。
認識対象と認識主体という対立、否定関係がもたらす決定不能ではないかという疑念です。 表現としての「わたし」という自己言及は認識主体と認識対象という対立が本質としてありますので、このような決定不能の命題を抱えるのではないかということです。
運動を理解するには静止という運動の否定で理解しますが、運動とは何かと定義することは、そのことの自己言及です。
数学では有限を無限で理解しますから、これも否定関係ですし、不完全性定理はこのことの自己言及です。
自然科学という学問は自然が生成した人間の脳が自然を理解しますから、その本質として自己言及であることに成ります。
意識が薬で変容することは知られますし、睡眠薬は意識を一時的に無くしたりできますし、また脳を無くせば意識もまた失われます。
このことは意識は物理存在のある状態の付随現象と理解されるべきことを示しています。
意識とは自然の物理存在が自己言及可能な状態であると定義できます。 自己言及についてはもう少し考察する必要がありそうな あとは纏めですが、これはまだやっていません
今週中というか、必要があって水曜か木曜の早朝までに仕上げたいのですが 半世紀にかかりましたか
まだまだ推敲は必要ですが、ライフワークは八分がた出来上がりました
何かあったとしても悔いは無いと思っています
さりあえずです フランス構造主義
内田さんが、フランス構造主義を学生のときには読んで全く分からなかったが、時が経って大人になって読むと分かった。と言い、寝ながら読める構造主義、を書いたと言います。
これは、大人になったから分かったのではありません。その間、意識していない中で考え続けていたのです。 >>863
何でエネルギーが存在しないんですか
エネルギーって何か分かってますか? >>890
エネルギーってゆーのは
濃とか淡とかあって
運動してて
基底状態とかあって
万能薬みたいなもん とりあえずの纏めです
自然は光速度一定の原理が示すように運動するエネルギーの濃淡の海であり、すべてはその生成過程として存在します。
絶対座標は自然理解に必要ですが、実在しません。
生物分類は濃淡、つまり差異として実在する自然を否定関係で理解することを示します。
座標原点もまた否定関係で理解することを示します。
座標原点は実在せずいわゆる三次元もまた差異を否定で理解するということです。
此処からの、此処は実在しませんし、また此処までも実在しないのです。
わたしたちは対象である自然の運動をそのまま理解できるわけではないので、運動量としなければなりません。
四次元とは静止である三次元の運動量の静止の無限集合です。
運動する自然をその否定である静止で理解することは地動説、光速度一定の原理が示しています。
ゼノンの逆説は大きさの無い数で自然ができているのなら運動は不可能であることを導きます。
カントの二律背反もまた、運動する自然と論理の関係です。
生物分類で分類が困難な対象が出てくるのは、なんら対象の問題ではなく、差異を否定で理解するという分類そのものの問題です。
同様に、ゼノン逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定、光速度一定の原理、量子力学の理解困難な事象、エネルギー保存法則の破れなどは、対象とそれを理解する論理の問題です。 構造主義 レヴィ=ストロース
「実存主義は死んだ」⭐🌺 ハイデガーの実存哲学は存在無き存在論です。👰
「実存哲学は死んだ」
ハイネマン。⭐🌺 「キリストの誕生により、その時に哲学は終焉してる」
バルト。👰
皆様悔い改められますように〜🌠 白馬の王子さまは、現れない(;゜0゜)
「美魔女は詰んだ」⭐🌺 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 「現代の実存の呪いを解かなくてはならない」
バルト。👰 >>905
われ!(`ヘ´)なめとったら鼻の穴から割り箸…💦われ! >>831有限で理解する科学理論は、人間に確認可能な規則性なのだから
認識のあり方を媒介したもので自然そのものではない前提は
科学的に役に立つことにならないんじゃないか? うーん・・・
天体観測は地球が静止していると仮定してですよね
それを理解すると地動説になりますし
イコールというのは有りえないんです 天動説・地動説
結局のところはどちらの方が天文学として理解しやすいのかという選択に過ぎない >>910
学問は科学的な認識の上で行われるものなので
>有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり
>自然そのものではないという自然認識の在り方の前提
は科学的な関与はないのでは?という意見です。
どのように科学的な学問に貢献する前提での主張なのかなと。 のび太に貢献するドラえもん
四次元ポケット
時間の要素は存在せず、4次元の空間に無限に物体を収納することができるというもの 科学的な認識は有限でしか有りえないということなんですが・・・
しかし無限は有限で出来ているわけではない、有限で理解しているだけです
ポーは有限で出来ていると理解しているからこそ、無限宇宙は重力で潰れてしまうと
有限宇宙論を否定しました。
科学者はこのことを意識しなければならないわけです 光速度一定の原理は絶対座標を否定します。
つまり方程式の座標原点は仮のものだと理解しなければならない。
それがどのように有効であったとしても。
地動説は観測結果はあくまでも地球が静止したものとしてであり
仮のものでしかないことを指摘したので、地球からこう観えるということは否定していない。
天動説論者の天文学者が観測したものでも、それは否定しないわけです。
一般相対性理論がどのように有効であったとしても、それは宇宙の始りを示さない。
出発点、つまり絶対座標が否定されているという光速度一定の原理の意味が理解されていないからこそのビッグバン宇宙論ということです。 科学者たちはこの原理が根本的に次元の実在を否定し、次元もまた否定されていることに未だ気がついていない。
そしてこの原理が示す事実は量子力学的自然観を導くわけです。
つまり次元で理解されるが次元の実在は否定される
地動説もまた座標原点で理解される、つまり地球からの観測はあくまでもその仮定で展開され
その結果自体は否定しません。
両方とも、それで理解することは否定しないのですが、それは仮であることを示しています。 認識は静止です。
それは自然には実在しませんが、それで認識するしかないのです。 地動説、進化論、光速度一定の原理は、認識の在り方の自己言及です。
わたしが、この原理が科学革命の一つだと主張する所以です。
つまりそれで理解しなければならないのですが、それは実在しないというこです。
進化論は自然の生物を認識している人間は認識主体であり、天動説の地球と同様に理解されていたが
やはり人間自身もまた生物の一つであり、なんら特別では無いこと、つまり認識主体は認識対象の一部であることとなります
静止という特別な立場など無いが、それで理解しなければならない 有限で理解されるが、有限の実在は否定される
最小単位など無いし、自然は生成過程として実在するだけです
絶対座標が実在しないことが理解されていないからこそのビッグバン仮説です
これが理解されない限り、周転円はまだまだ出てくることでしょう
つまり天動説は未だ克服されていない 意味
時間とは何か、と問われて答えられない。その問いは、時間の意味とは何かに置き換えられるとして、しかし、そもそも、意味とは何か、と問われても答えられない。
意味についても、人は、意味了解と言った状況にあるのか。 存在了解
ハイデガーは、存在と時間の中で、人は、現存在は、ある存在了解の中にあると言う。しかし、その了解は、していると、させられている、が混ざっている。
している、は主体的な判断であり、させられている、は社会的な状況を含んだ判断である。
そこで、主体的な判断を目指すとして、充分に主体的な判断としての、意味了解となる。ただ、さらに、充分とは、何に対して充分なのか。 意味了解
人は、現存在は、日常、自身の意味了解をかなり、自主的、主体的にしている。勉強しなさいと言われ、する者としない者といる。しない者は、すでに、主体的にその判断を、しているのだ。
意味は、個人的、個別的なあり方をしていて、個人的な現存在はその個人的意味了解にある。
勉強、アメリカの首都はワシントンである。
それを覚えて、一体何の意味があるのか。 https://www.wolframalpha.com/input/?i=cos(x)%2Bisin(x)%3Dlim(n%E2%86%92%E2%88%9E)+((1%2B1%2F(2i%CF%80*n))%5E(-2x%CF%80*n))
cos(x)+isin(x)=e^(ix)=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。