時間とは何か 23
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>>890
エネルギーってゆーのは
濃とか淡とかあって
運動してて
基底状態とかあって
万能薬みたいなもん とりあえずの纏めです
自然は光速度一定の原理が示すように運動するエネルギーの濃淡の海であり、すべてはその生成過程として存在します。
絶対座標は自然理解に必要ですが、実在しません。
生物分類は濃淡、つまり差異として実在する自然を否定関係で理解することを示します。
座標原点もまた否定関係で理解することを示します。
座標原点は実在せずいわゆる三次元もまた差異を否定で理解するということです。
此処からの、此処は実在しませんし、また此処までも実在しないのです。
わたしたちは対象である自然の運動をそのまま理解できるわけではないので、運動量としなければなりません。
四次元とは静止である三次元の運動量の静止の無限集合です。
運動する自然をその否定である静止で理解することは地動説、光速度一定の原理が示しています。
ゼノンの逆説は大きさの無い数で自然ができているのなら運動は不可能であることを導きます。
カントの二律背反もまた、運動する自然と論理の関係です。
生物分類で分類が困難な対象が出てくるのは、なんら対象の問題ではなく、差異を否定で理解するという分類そのものの問題です。
同様に、ゼノン逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定、光速度一定の原理、量子力学の理解困難な事象、エネルギー保存法則の破れなどは、対象とそれを理解する論理の問題です。 構造主義 レヴィ=ストロース
「実存主義は死んだ」⭐🌺 ハイデガーの実存哲学は存在無き存在論です。👰
「実存哲学は死んだ」
ハイネマン。⭐🌺 「キリストの誕生により、その時に哲学は終焉してる」
バルト。👰
皆様悔い改められますように〜🌠 白馬の王子さまは、現れない(;゜0゜)
「美魔女は詰んだ」⭐🌺 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 「現代の実存の呪いを解かなくてはならない」
バルト。👰 >>905
われ!(`ヘ´)なめとったら鼻の穴から割り箸…💦われ! >>831有限で理解する科学理論は、人間に確認可能な規則性なのだから
認識のあり方を媒介したもので自然そのものではない前提は
科学的に役に立つことにならないんじゃないか? うーん・・・
天体観測は地球が静止していると仮定してですよね
それを理解すると地動説になりますし
イコールというのは有りえないんです 天動説・地動説
結局のところはどちらの方が天文学として理解しやすいのかという選択に過ぎない >>910
学問は科学的な認識の上で行われるものなので
>有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり
>自然そのものではないという自然認識の在り方の前提
は科学的な関与はないのでは?という意見です。
どのように科学的な学問に貢献する前提での主張なのかなと。 のび太に貢献するドラえもん
四次元ポケット
時間の要素は存在せず、4次元の空間に無限に物体を収納することができるというもの 科学的な認識は有限でしか有りえないということなんですが・・・
しかし無限は有限で出来ているわけではない、有限で理解しているだけです
ポーは有限で出来ていると理解しているからこそ、無限宇宙は重力で潰れてしまうと
有限宇宙論を否定しました。
科学者はこのことを意識しなければならないわけです 光速度一定の原理は絶対座標を否定します。
つまり方程式の座標原点は仮のものだと理解しなければならない。
それがどのように有効であったとしても。
地動説は観測結果はあくまでも地球が静止したものとしてであり
仮のものでしかないことを指摘したので、地球からこう観えるということは否定していない。
天動説論者の天文学者が観測したものでも、それは否定しないわけです。
一般相対性理論がどのように有効であったとしても、それは宇宙の始りを示さない。
出発点、つまり絶対座標が否定されているという光速度一定の原理の意味が理解されていないからこそのビッグバン宇宙論ということです。 科学者たちはこの原理が根本的に次元の実在を否定し、次元もまた否定されていることに未だ気がついていない。
そしてこの原理が示す事実は量子力学的自然観を導くわけです。
つまり次元で理解されるが次元の実在は否定される
地動説もまた座標原点で理解される、つまり地球からの観測はあくまでもその仮定で展開され
その結果自体は否定しません。
両方とも、それで理解することは否定しないのですが、それは仮であることを示しています。 認識は静止です。
それは自然には実在しませんが、それで認識するしかないのです。 地動説、進化論、光速度一定の原理は、認識の在り方の自己言及です。
わたしが、この原理が科学革命の一つだと主張する所以です。
つまりそれで理解しなければならないのですが、それは実在しないというこです。
進化論は自然の生物を認識している人間は認識主体であり、天動説の地球と同様に理解されていたが
やはり人間自身もまた生物の一つであり、なんら特別では無いこと、つまり認識主体は認識対象の一部であることとなります
静止という特別な立場など無いが、それで理解しなければならない 有限で理解されるが、有限の実在は否定される
最小単位など無いし、自然は生成過程として実在するだけです
絶対座標が実在しないことが理解されていないからこそのビッグバン仮説です
これが理解されない限り、周転円はまだまだ出てくることでしょう
つまり天動説は未だ克服されていない 意味
時間とは何か、と問われて答えられない。その問いは、時間の意味とは何かに置き換えられるとして、しかし、そもそも、意味とは何か、と問われても答えられない。
意味についても、人は、意味了解と言った状況にあるのか。 存在了解
ハイデガーは、存在と時間の中で、人は、現存在は、ある存在了解の中にあると言う。しかし、その了解は、していると、させられている、が混ざっている。
している、は主体的な判断であり、させられている、は社会的な状況を含んだ判断である。
そこで、主体的な判断を目指すとして、充分に主体的な判断としての、意味了解となる。ただ、さらに、充分とは、何に対して充分なのか。 意味了解
人は、現存在は、日常、自身の意味了解をかなり、自主的、主体的にしている。勉強しなさいと言われ、する者としない者といる。しない者は、すでに、主体的にその判断を、しているのだ。
意味は、個人的、個別的なあり方をしていて、個人的な現存在はその個人的意味了解にある。
勉強、アメリカの首都はワシントンである。
それを覚えて、一体何の意味があるのか。 https://www.wolframalpha.com/input/?i=cos(x)%2Bisin(x)%3Dlim(n%E2%86%92%E2%88%9E)+((1%2B1%2F(2i%CF%80*n))%5E(-2x%CF%80*n))
cos(x)+isin(x)=e^(ix)=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) 自然=万物というのを前提とした過程さんの仮説はなんとなく理解できた。
プラズマ宇宙論のように万物は無限に続いていく。常に変化しているが総エネルギーは変わらないという主張なのだろう。
絶対座標がなく相対座標というのも同意する。
でも"科学的な認識は有限でしか有りえない"という根拠がわからない。
宇宙論でも量子論でも有限か無限かはわかっていないというのが現状だ。
宇宙論でいえば、例えばマルチバースのような最新の宇宙論では(負の曲率にいる)宇宙の中の人から見れば無限だが、その外側にいる人から見れば有限(正の曲率)となる。
量子力学でも粒子で理解すれば無限になってしまうが、超弦理論で理解すれば有限になる。 "最小単位など無い"というのもわからない
"自然(万物)は生成過程として実在するだけ"は超弦理論で理解できるけど・・・
量子力学では、粒子の位置凅と運動量冪には、冪凅≦h/2というハイゼンベルクの不確定性原理という関係がある。過程さんもご存知だと思うけど、量子ゆらぎによって素粒子の位置と運動量は同時には確定できないということだ。
粒子の位置が近づきすぎると無限の運動エネルギーが出現してしまう。
だから粒子ではなく大きさのあるものにしたい。シンプルに点を一方向にだけのばし、最小単位を粒子(0次元)ではなく、大きさのあるひも(1次元)にしたのが超弦理論だ。 e^(ix)=(-1)^(x/π)=(-1)^(2ix/(2iπ))=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) 天動説も地動説も両立しえる。
意味とは言語という妄想に張り付いている
了承可能なもののことだろうな。時間にもそういう傾向があるが、
時間に遅れると神の次元から零落し、退屈とあきらめの日常になる。
早く務め励み、素早く信仰し、急いで善を行え。神の次元から遅れないように
準備しておくんだ。
存在を了解するべきだ等より存在を疑うべき。意味は他社投影の販社として写すもの
映るものだから。個人的な意味ナルシストじゃいけないな。
無限はなく有限はある。宇宙買いも平常テンションで想定できる。
光速は一定ではない。進化は事故や怪我によってもなされてきている、
断続平衡的ラインともいえるが。
過程さんの仮説にケチばかりつけて何も主張しないというのも恐縮なので、わたしの「時間とは?」の問いに対する仮説を一つ。
まずカリフォルニア大学バークレー校の野村教授などが中心となって研究されている「量子マルチバース」が前提となる。
量子マルチバースの実証可能性はこの宇宙に「負の曲率」が観測されることだ(現在の観測結果ではわれわれの宇宙は平坦とされているが、今後数十年で観測精度が2ケタほど向上すると考えられているので期待したい)。
野村教授によれば「量子マルチバース」は厳格に定義された確率を含んでいなければならず、この制約によってマルチバース全体の量子状態を決定できる見込みが出てきたそうだ。このことはマルチバース全体の量子量が静的な可能性を示唆している。
例えば、マルチバースの中にいる観測者から見て、あらたな泡宇宙が常に生まれ続けていても、マルチバースの外側にいる観測者から見れば、マルチバース全体の量子状態は変わらない。
宇宙の中にいる私たちの知覚が時とともに変化していくこと、つまり「時間」の概念は幻にすぎず、「時間」は、もっと根源的なものから生まれる「創発的な概念」の可能性がある。
「時間」とはマルチバースのそれぞれの局所的な枝の中にだけあるもの、それぞれの「宇宙の地平」の中においてのみ存在するもの、というのがわたしが今信じている仮説です。 宗教
何らかの宗教を信じる者は、他の宗教を排除する。その宗教が、すべてを説明するからそうなる。とりあえず、妥協できていても、何か衝突する事態がいつか、生じうる。
例えば、物理学で、世界を説明しょうとする者は(物理学で世界を獲得する者は)、たとえ意見が異なっても、論争にはなっても深刻な衝突には、なりにくいだろう。 >>924
どこかに座標原点設定しないと認識できません
科学革命はその座標原点の実在を否定することで自然が無限であることを示します
うーん、と
何回も書いているのですが、わかりにくいということかな いちおう疑問にはすべて答えているつもりではありますが 具体的に説明してもらえないと分かりません
頭が悪いので 過程氏の主張から推測するに
例「おにぎり」という物体は
認識上有限する認識として存在する
しかし、認識の前提では「おにぎり」という有限の物は存在しておらず
おにぎりはアミノ酸、糖質、水分等々のエネルギーが作用していて
夏場、1週間経過したらおにぎりと認識できなくなるように
有限の物質は、宇宙に何一つないと、すべては無限に運動していると
科学的な思考をするのには一端、有限する「おにぎり」と仮定認識せざる得ないということかな。
認識上の規則性に過ぎないそれらを科学的な前提としたところで
科学の役に立つわけではないけど、人間が科学を理解するための前提と言えるのでしょう。
おにぎりはご飯でできている前提が成り立つように 座標原点とは、いわゆる現存在のことでしょうか?
現存在はそのもの自体として表れることは決してなく、
存在者が時間的に現れることに映し出され、
そのことにより存在者としての地位を得る。
ただし、存在者としての地位を得た現存在を
座標原「点」と呼ぶことはできないでしょう。 >>935
通訳になったのかどうなのか?
そこは過程氏に判断してもらわないとね >>931
何回も書いてくださっているけど正直わかりにくい
わたしの頭が悪いのかな
>どこかに座標原点設定しないと認識できません
う〜ん、なぜ科学認識で座標原点を設定しないと認識できないの?
もしかして宇宙はビッグバンからはじまったというのが座標原点ってこと?
ビッグバンは量子のゆらぎからインフレーションが起こってはじまったとされているけど、ゆらぎがどうして起こったのかまだわかっていない。
だからまだ誰もスタートがどこかなんてわかっていない。ゆらぎの前にもしかしたら別の宇宙があったのかも・・・
宇宙の終わりにしたって何パターンも想定されている
つまり、科学に座標原点なんてない
>>934
わかりやすい^^ >>934
イメージ的にはこれですか
粒子というのはけっきょく波が渦を呈している状態です
厳密には境目など無く濃淡の淡が認識できないだけです
すぺて内も外も無い
アスペだったかな、一瞬にして情報がというのは自然に切れ目が無いことでもありますし
重力もニュートン的な遠隔作用というライプニッツが批判した魔術的理解を排除できる
他の力はくっ付けているのではなく、そのような状態にするのに必要なエネルギー量という理解です
力はこれですべてエネルギー量に還元できます
重力と他の諸力は本質として違います 座標原点は、此処から始めるという意味です
車の速度計測は此処からスタートします、とか
車が動き始めるというのは、地球が運動していますから加速です
山は動いていないと言っても地球は運動しています
つまり静止しているのはこの地球上のどこにもない
静止とはライプニッツが指摘するように均衡状態です
運動量は座標原点設置しないと測れないでしょう ビッグバンは仮でしかない静止が実在しているという仮説ですから、それはおかしいということです どんどんどんどんトンデモになっていくから、なにをやっているのかわからなくなるw
座標原点?
どっかに決めればいいだけでしょ?
有限も無限も、どんな意味でつかっているかすらわからない。
素朴存在論的トンデモ世界なんだろうねぇ。 「点」を考える。
「点」は大きさもなにも持たない。位置も持たない。「点」が存在する空間も無い。
そう考えれば、「点」とは、ただ「ある」ということである。
「自己同一性」も無い。すなわち「点」は「わたし」であることもできない。
しかし、なにものかによって語られている以上「自己同一性」を持ってしまう。
なにものか? 「点」しかいないのだから「点」が語るしかない。
なにものもなく、ただ「語られる」。
「語られる」ことで「空」(=空集合)が「ある」。
結局、「点」とは「空」である以外にありようがない。 おにぎり例がイメージ的にそう遠くないということなので
実在しない時間がなぜ時間が実在しているかのように
認識してしまうかを例のごとくおにぎりで推測してみましょうか・・・ 「空」が基本的なものではなく、「空」を作る「力」あるいは「ルール」が基本的なものであると考える。
それは、「集合化」である。
それも、部分集合の集合を作るということになる。
これがすべての「力」の根源であり、その名残りともいうべきものが「重力」であろう。
裸の無から部分集合の集合がつくれるのかどうかは検討中だが、
空集合の集合からは、この「ルール」によってあらゆるものが作成できる。
問題は空集合から空集合の集合がつくれるか、
そして、裸の無から空集合がつくれるかということだ。
空集合から空集合の集合をつくる、ということと、部分集合の集合をつくる、ということをひとつのルールとして統合はできるだろう。
選択公理とはなにか、というところに踏み込んでいる。ZFとCの統合は不可能ではないという予測。
「反集合」とでも呼ぶべきものを含めて公理系を再構築できるかどうか。考え中。 ネイピア数について教えるのに、最初に
e=lim(n→∞) ((1+1/n)^n)
の形式を導入するのはいいとして、続いて次に
e=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(2iπ*n))
の形式を教えていれば、三角関数との関係が明らかになって、
多くの理解の困難が避けられると思うんだけど、
なぜ、この形式が提示されることがないのだろう。 そりゃあな
冪数に虚数を導入できることは自明ではないからだ >>944
ビッグバンは宇宙が膨張してるってのを逆算すれば宇宙は最初小さな火の玉だったことになるってだけの話だぞ
別に神秘主義ではないのでその小さな火の玉になる前がどうだったかまではわからんし言及もしてない
wikipediaにすら載ってるぞ少しでも調べたのか 哲学は手法が古くて実際に調べるってことをしないから実践研究の話になるとすぐボロが出るのが嫌なところね フィロソフィアの可能性
空、点、集合、良いですね。
読ませてもらいます。おにぎり思考、も面白い。
大げさに聞こえるでしょうが、フィロソフィアの可能性を、感じている。実は、このフィロソフィアの可能性は、例えば、デカルトのコギトにあるし、ハイデガーの存在と無にもあると考えています。
フランス構造主義、ポスト構造主義、新しい世界が(人間存在に)、開きつつある、大袈裟ですが。 フィロソフィアの可能性
人間は、自身の考えているようになる。
これは、思考は実現する、という言葉とほぼ同じですが、何時からか、それは事実であると思う様に成りました。ある程は、その理由が説明できると考えています。
人間は、考えている事を、無意識下でも実践する。つまり、それへの実践、努力を10年以上などに渡り、し続ける訳である。東大教授になってやろう、がどこどこの教授で実現する。
有り得えます。
ここ事象を、集合としての人間存在にも(つまり世界、社会)、適応出来る。ただ、すぐにでは無い。 フィロソフィアの可能性
例えば、デカルトのコギトは、民主主義に実現しょうとしていると思える。(デリダが、来るべき民主主義、と繰り返しますが)
存在と時間も、何かに実現すると思われます。 意味としての世界
意味としての世界の研究、そして世界内存在者としての人間存在の考察に向けての研究は、人間存在と世界を変え得る。
父母未生以前自己
父母未生以前自己如何、禅問答の、この問いも、それが何かを意味しているなら、それは、いずれ解説可能になり、説明される。
そして、すでに、その問いを思いつき、人に問うた者がいた。 >>943
>運動量は座標原点設置しないと測れないでしょう
相対座標じゃだめなの? なんか返事をする気もなくなるようなレスばかりで w
何かが爆発したとしてのそれはその中で爆発しただけ
ビッグバンもそういうお話
宇宙のものが誕生したわけじゃあない
宇宙は誕生も死も無い
すべてはその中で >>962
だからあ、実在しないでしょ、というお・は・な・し 座標は人間が定義するもの。原点が実在とかアホな力説をするまでもない。
座標そのものが実在せず、原点はその内の一点に過ぎない。 六十年代に、素粒子論の科学者が動物分類やっておけば良かったと冗談紛れに言っていたのは有名だけど
けっきょく生物分類と同じで、素粒子も地球も太陽系も銀河系も
いろいろ分類されるけど、それは差異を否定で理解しているには変わりが無い
すべては宇宙における差異を否定で理解しているだけ 光速度一定の原理の絶対座標否定を考えれば
静止は実在しないし、宇宙無限であり始まりなんか無いでしょ、ということ
これが否定されたら、わたしの論拠は根本的に崩壊します
この一点で成立しています
↓ どうぞ >>967
自然過程説(о´∀`о)!!!
ぷぴぴ。ぱぴならー! 底辺さんのいつものレスで笑ってしまった
自然の存在が前提で、絶対座標の実在はそれを否定することになる
自然が誕生することを意味するのだから
すべてはこの枠の中で展開されている
この枠を否定するような理解は×ということ
絶対座標実在はこの枠の否定になるということ >>969
自然過程説(о´∀`о)!!!ありがとう(о´∀`о)!!! 意味としての世界
意味としての世界の研究は、先ず、この人間存在の経験する世界が、意味的である事情を説明しなければならない。(経験する世界は、また、実践する世界だろう)
その前に、意味とは何かに付いての大まかな考察が必要であろうか。
ものとこと
ものと、事と言う表現は、日本語特有であるという。ものとは、空飛ぶ絨毯のようなものがあったらいいなぁ、と言う時のものである。それは、仮定上の物を表現する手段である。
こととは、もしそんなことがあったら大変だ、と表現する時の事であり、仮定上の事象事態である。
我々が、日常これらの、こととものと言う表現を多用する(多用して生活する)理由は、ひとつ、それが便利であるからだが、同時にその言辞の使用によって、様々の事実的な事態が、不明の闇のなかに置き去りにされる結果になる。(ここではそれらの表現を意識して避けている)
また、それらの表現行為は、現状の世界、社会の中での “やりくり” に役立っている。これと同じ事情が、意味という言辞行為にも潜んでいるのでは無いか。
としたら、意味の研究は、とりあえずの意味理解、意味了解から出発するし、現在ここで、我々が、その意味了解にある、(それが実存)限り、それしか出来得ない。(人は、何時でも、いまここからしか出発できない) 大前提忘れて科学理論を構築するなということ
宇宙に始りがあるはずもなし 自然科学なんだから、自然が実在しないのからそれは自然科学ではなくなる
そして自然は無矛盾でないと理解は出来ない
対象が自然と非自然で在るなら、対象は理解できない
「現代」科学は天動説である地球静止と同じ誤謬でしかない
地動説に戻れ 主に参照した書物
「新哲学入門」板倉聖宣
論理が静止であることを指摘している
実験概念が重要であることを指摘していて、禁酒法、社会主義が社会実験の結果失敗していて、人間社会には向いていないと結論している
「ゼノン4つの逆理」山川偉也
ゼノンの逆説がどういうものかを示している。
師であるパルメニデスの世界は一であり数でできていないという主張を擁護するために有名なアキレスと亀の逆説などで、ピタゴララス学派が主張するように世界が数でできていると仮定すると運動は不可能であることを示した
山川氏は科学がピタゴラス学派の論理であると主張するが、科学革命はピタゴラス学派の論理で理解されることを指摘していて、その実在は否定している
またヘーゲルの運動定義を否定しているが、運動を静止で理解するから矛盾、つまり決定不能であることを示し、わたしは正しい定義だと理解している
「日本語はどういう言語か」三浦つとむ
「弁証法はどういう科学か」三浦つとむ 特に鏡の論理、観念的な自己分裂の項
板倉聖宣氏に大きな影響を与えた言語学者であり、認識論の分野では業績があり、とくに観念的な自己分裂という概念の再発見は重要で、また「資本論」のマルクスが展開している認識論の重要性を指摘している。 「ビッグバンはなかった」ラーナー
ビッグバン学説を批判し、代案としてプラズマ宇宙論を提出している。無限宇宙論を主張しているが、プラズマが宇宙のほとんどを占めていることを指摘している。
この学説はエネルギー保存則、光速度一定の原理などを守り、わたしもまたこの説に説得力を感じます。
「精神の現象学」序論
ニュートン力学の認識論的基礎を指摘している。
ドイツ古典哲学がニュートン力学の衝撃から誕生していることがわかる書物。
「反デューリング論」エンゲルス
ライプニッツどうよう静止が運動の一形態であることを指摘している。
思想と学説の区別については、三浦つとむ氏の弟子筋である政治学者である滝村隆一氏が指摘していて、マルクスの方法で学問は展開しているが、思想自体は否定している。
彼はマルクス主義者である三浦つとむが展開した「制度論」を受けて、人間社会に制度が必要である限り共産主義は成立しがたいことを1972年の「北一輝」という書物の末尾に記している。
彼はマルクスの学的方法の重要さを指摘していて、マルクスの政治論文の完成度の高さに感嘆している。
「無限論の教室」野矢茂樹
不完全性定理について平易に解説している >954
>そりゃあな
>冪数に虚数を導入できることは自明ではないからだ
でも、オイラーの公式を暗記させて、ネイピア数と三角関数を結び付ける
時点で冪数に虚数を導入できることは自明とされるわけでしょ。その
時点で元に戻って、ネイピア数を導く計算に虚数の冪数を導入するのが
自然では? 新たに得られた知見から、元に戻って基礎を捉え直すことを明確に言語化する
ことを怠っているから、数学の説明はとても分かりにくいものになっている
と思う。元に戻って言語化するように捉え直す作業が哲学と呼ばれるものだ。 言語化
コンピュータで、何が出来るか。と言うと、言語化できるもの、言葉で表せる作業は、出来るそうです。
あとは、その言語化を、いかにして、論理化して、プログラムするかです。
自己学習という手法から、将棋、囲碁が、コンピュータの最強となったのも不思議ではありません。フィロソフィア的思考は、たぶん、出来ないでしょう。
そのひとつに、無意識は言語化出来ないだろうという予想がある。
こう考えると、無意識とは、我々の、人間存在のひとつの、優れた在り方かもしれない。 人間存在
人間存在は、無益な受難である
サルトル、存在と無
つまり、受難出来うる者は、人間存在、人だけである。機械、コンピュータは受難しない。 「対象をその否定で理解する」という過程さんのやり方自体は否定しないけど、そのせいでわかりにくくなっているとは思う。
整理すると過程さんの主張は、
1. 自然=万物 →○ 実在する
2. 光速度一定の原理 →○ 正しい
3. 2より絶対時間 →× =相対時間
4. 2より静止 →× すべては運動している
5. 絶対座標 →× 実在しない
6. 座標原点 →× 実在しない
7. 生物・無機物の分類 → 還元すればただの差異
8. 生物の生死 → 還元すればただの差異
9. 宇宙 → はじまりはなく無限=無限宇宙
10. 9よりビッグバン理論 → × プラズマ宇宙論
11. 10よりインフレーション理論 → × 否定する
12. 多は一、一は多 →すべてのものは一に還元できる、多は一の差異(のような感じ?)
13. 現代の科学 → 天動説のうようなもの?(よくわからん)
14. 0次元 →× 実在しない(次元自体が空間に広がりをあらわすただのベクトルなので、実在しないという表現自体が?なのだけれど)
当ってる? 文学
文学に就ては、何を言っても良いのだとデリダも言っていますが。蝉しぐれの、駄文が、つまり芭蕉の句の(一つの)意味である、と言う主張があり得ると言いたいのです。
実際、その句は様々に解釈されている。様々な解釈を生む出す句は、意味を持っている。 >>983
それと、実存主義は、今、生きてる時代を超越出来ない♪😃 現象学
実存論における事実は、受け取る実存者に於いて、現象学的に検証される。
エクリチュール、書かれた物
エクリチュールを、実存者は誤解する権利、権能を持つ。この権能を持つからこそその実存者は、そのエクリチュールを読める。 パロール、話された言葉
パロールは、その話された瞬間に、すでにあるメシア性を持っている。すべての言語の持つメシア性である。『語る事と行為とが同時に起こる約束と言う次元を含んでいない言葉はありません。デリダより』 >>986
「語り得ないものには、沈黙をしなければならない♪🎁」 世界は、暫定的である
世界は、事実より成りますが、それは暫定的な事実です。暫定的事実よりなる、世界は暫定的です。世界が確定する事は、ありません。完全に確定する事はありません、つまり、世界は確定しません。
実は、この世界の暫定性こそ、世界生成の、世界成立の理由でもあり、また原因です。 >>989
「世界」は「事象」ではなくて「概念」です。👰 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。