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f´__,,--‐---‐'゙ `゙'ー---ヽィ'ヒ_;--‐'゙゙゙゙"´´゙`゙`゙` `゙゙´`゙''ー---- ヒトラーが構想した「世界首都ゲルマニア」は、計画のみで実現しなかったが、
今も残る模型や図面を見ると、戦慄すべきものを感じる。
一方、中国人は儒教イデオロギーに基づく「世界首都」を地上に実現した。
明清帝国の首都・北京と、その中心に位置する紫禁城(現在の「故宮」)は、
儒教の経典『周礼』冬官考工記の「世界首都」構想を発展的に具現化している。
紫禁城は、宇宙の支配者たる天帝の住まい「紫微垣」(北極星のすぐ横の、天頂の中心)をモデルとする。
北京の都市計画のコンセプトは、「天子」たる中華皇帝が天に代わって世界を支配するための巨大な「魔法陣」だった。
紫禁城は過去の遺産だが、中華帝国の世界首都構想は、21世紀の今日も脈々と受け継がれている。
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ドンドンドンドン! 西内まりやの苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇絽? 13世紀のユーラシア大陸では、東では南宋、西夏の対立が続き、西の方では十字軍とイスラム勢力が争っていました。
こららの争いは、それぞれの国の勢力弱体のみならず、東西を結ぶシルクロード周辺の国々の国力が低下にも結びついていくことになります。
シルクロード周辺の国は商業を中心とする国が多かったため、東西貿易が自由に行えないということは経済に深刻な影響を与えていたのです。
そんな時に現れたのがモンゴル帝国でした。
このモンゴル帝国の歴史は、モンゴル系部族あるいはトルコ系部族の一部をテムジン(後のチンギス=ハン)がまとめ上げたことに始まります。 テムジンは1206年、部族長会議の決定によりチンギス=ハンの称号を受け取ることになります。ハンとは、遊牧騎馬民族の間で最高権力者を意味し、漢字では「汗」と書きます。
このハンにテムジンが即位したことによりモンゴル帝国が成立しました。
チンギス=ハンは、シルクロード沿いの国家に狙いを定めていきます。
まずは、1211年に金を攻撃を仕掛け滅亡寸前まで追い込みます。
1217年には、ナイマン部の支配地を攻撃(部とは部族のことですね)。
1219年にはホラズムを、1227年には西夏を滅ぼします。
チンギス=ハンが滅ぼした国や部族は、ここまでですね。ナイマン部、ホラズム、西夏。
1227年に再度、金を攻略する為に兵を上げるのですが、その半ばチンギス=ハンは病死してしまいます。
そして、時代は2代目のオゴタイ=ハンに続きます。
1234年には遂に金を征服。西夏も征服しているのでこれで華北は支配完了ですね。
そこで、今度は狙いを西側に移します。ここで活躍するのがバトゥという人物です。
このバトゥにより1236年〜1242年にかけてヨーロッパに達するまで侵略の手を伸ばします。 3代目のグュク=ハンの在位はわずか2年で終わり、モンケ=ハンの時代となります。彼の弟があの有名なフビライ=ハンです。ちなみに兄弟にフラグという人物もいますが、彼もスゴイ!
フビライ=ハンは1254年に大理国を滅ぼし、高麗も服従させます。
フラグの方は1258年にアッバーズ朝を滅ぼします。 もうこうなってくると、かなり巨大な帝国です。この通信機器が発達した現代であっても、これだけ広い地域をひとりで管理するなんて無理ですね。実は、チンギス=ハンの時代に、すでに支配領域の一部を息子達に分け与えるということをやっていました。
チンギスハンの次男のチャガタイや三男のオゴタイに与えた土地は、後にチャガタイ=ハンの国、オゴダイ=ハンの国となっていきます。
また、西側を任せたバトゥは、彼が使っていた金張りのテントにちなんでキプチャク=ハンという国を。
フビライの兄弟であるフラグはイル=ハン国を建国しました。 こうして、モンゴル帝国の皇帝のもと、チンギス=ハンの子孫が支配する国々が連合するという形になっていました。
そんな中、第5代モンゴル皇帝に即位するのがフビライ=ハンです(1260年)。
彼は、中国の支配に力を入れていましたが、このフビライの即位に反対する者がいました。
ハイドゥという人物です。彼らフビライの即位に反対する者たちは反乱を起すことになります。バイドゥの乱です。
この内乱は30年余り続き、これがもとで今までモンゴル皇帝のもとにチンギス=ハンの子孫が支配する国々が連合するという形から、事実上これらの国が分裂することになります。
そしてフビライ=ハンは今まで以上に中国支配に力を注ぐことになるのです。1264年には都を大都(だいと)、今の北京ですね。ここに置いて、1271年には国号を元としました。
なんとかハンではなく、ここでは中国風にしたのですね。元! そして、1279年にはついに南宋を滅ぼします。あっ!忘れちゃならない。ちょっと前に日本にも攻めてきましたね。1274年の文永の役。1281年の弘安の役。いわゆる元寇です。
元は、日本の他にもヴェトナムやジャワなどにも侵攻し失敗しているよ。
そして、この元もフビライが亡くなると弱体していくことになります。一族や重臣らによる政治腐敗や経済破綻が原因だったといわれます。 廃ドゥの乱を乗り切ったフビライハンは、元を建国した。 元は、いまでいう北京に、ハンバリクと呼ばれる首都を建設した。 マルコポーロが東方見聞録にザナドゥの古都を書き記したおかげで、ザナドゥは西洋人の憧れ、理想郷となった。 チンギスハンの後継者は、当初はオゴタイだったが、やがて、末子のトゥルイの系統に移っていく。 トゥルイの息子の三兄弟、モンケ・フビライ・フラグが、次代のモンゴル帝国を担うことになる。 チンギス=ハーンの死後大ハーンの位を継いだのが、オゴタイ=ハーン(位1229〜41)です。
かれの時代に金を征服し(1234)など、モンゴル帝国はいっそうの発展をしています。
国家建設が進むにしたがって、統治機構を整える必要がでてきます。
金国を征服することによって、大規模な農耕地域を支配することになる。前回も出てきました契丹族の耶律楚材などを登用して中国人を支配する機構を整えていった。契丹族も非農耕民でありながら中国を支配した経験がある、いわばモンゴル人の先輩格ですからね。 チンギス=ハーンの子供たちについて触れておきます。オゴタイが第二代大ハーンになったいきさつについてです。
チンギス=ハーンには四人の男児がいた。上から順番にジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイです。必ず長男が相続する中国のような、きっちりした相続制度はモンゴル人には無かった。ただ、末子相続が一般的だったらしい。
なぜかというと、農耕民族のように土地を相続するということはないので、子供は大きくなったらある程度の馬や羊を親から分けてもらって一人立ちをしていきます。
上の子からどんどん独立していくので、最後に末っ子が残る。で、親が死んだとき残った家畜の群を末っ子がそのまま相続するのです。
このパターンをハーン位継承に当てはめればトゥルイが大ハーンになるのですが、それに関しては、はっきりした決まりが無かった。そこで、遊牧民のリーダーとしてふさわしい者を有力族長会議であるクリルタイで決定することになります。 長男のジュチは、暗黙のうちに、はじめから跡継ぎとしては除外されていました。
なぜかというと、かれの出生には因縁があった。まだ、弱小勢力だった頃、チンギス=ハーンは対立部族に襲われて新婚早々の妻を略奪されたことがある。
一年後に、かれは復讐を果たし、奪われた妻を取り返すのですが、そのとき妻は妊娠しているの。そして、生まれたのがジュチ。
チンギス=ハーン自身、そのことでジュチを差別したりはしないんですよ。他の息子と同じように扱っています。
でも、この話は公然の秘密だった。誰も口には出さないけれどみんなが知っていたのです。だから、ジュチの相続はありえなかった。
ちなみにジュチというのは「客人」という意味だそうです。出生を考えると、意味深長な名前ですね。 生前、チンギス=ハーンはジュチに西方へ遠征させるつもりで、「西の方どこまでもモンゴルの馬蹄で蹂躙できるすべての土地をおまえにやろう。」と約束していた。
ところが遠征実行前にチンギス=ハーンもジュチも死んでしまった。そこで、オゴタイはジュチの息子バトゥに対して、遠征を命じた。
これが「バトゥの西征」。1236年から大遠征軍がロシア平原に出発した。バトゥを総大将にするモンゴル軍は向かうところ敵なし。
ロシア平原を制圧してそのままポーランドに侵入した。
いきなり東方からやってきた騎馬軍団にあわてたのがヨーロッパの諸侯たちです。
ドイツ、ポーランドの諸侯連合軍一万がバトゥ軍別動隊三万から四万を迎え撃った。
結果はモンゴル軍の圧勝。これをリーグニッツの戦い、または、ワールシュタットの戦いといいます。
ワールシュタットというのは、この戦いのあとで付いた地名で「死体の森」という意味だそうです。 フビライ=ハーンから始まる元は中国の王朝となるのですが、モンゴル人はどのように中国を支配したのか。
「モンゴル人第一主義」という。一番上の身分がモンゴル人、二番目が色目人(しきもくじん)、三番目が漢人、最後が南人という序列がつくられる。
支配者はモンゴル人ですが、人口は圧倒的に少ないし、定住農耕民を統治する行政的な技術や経験が少ないですから、
行政技術者として主に西方出身のイラン人などを官僚として使いました。
かれらのことを色目人というのです。色目人とは雑多な人たちという意味です。
目の色が青いからではありませんよ。マルコ=ポーロなどは、まさしく色目人です。
漢人とはこの時代の特殊な使い方で、旧金朝支配下の漢民族、女真族、契丹族、高麗人を呼ぶ言い方です。
最下位の南人は旧南宋治下の漢民族のことです。 モンゴルは中国の伝統的な官僚登用試験である科挙を廃止します。儒学的教養に価値を認めないわけですね。
中国の経済に寄生して、吸い取れるものは吸い取ろうということです。
マルコ=ポーロの『世界の記述』を見ていくと、マルコは中国各地を旅するのですが、中国人とはほとんど接触していない。
中国語を話している形跡があまりない。同じ色目人同士でペルシア語ぐらいをはなして、
日常の用は足りていたのではないかといいます。
かれらが中国を支配していながら中国人や中国文化に無関心だった具体例ですね。税金さえ取ることができればそれでよかったのです。 「五日目にザイトン(泉州)という非常にりっぱな大都市に着く。
ここは海港で、インドの船はみな高価な商品、貴重な宝石類、大きいりっぱな真珠を満載してここへ入港する。
また、マンジ(中国)の諸地方の商人たちもこの港に集まってくる……。
さて、大汗(フビライ)はこの都会と港から実に莫大な税収を得ているが、
これはインドから来る船はすべて10パーセント、すなわち彼らが持ってくるすべての商品、
宝石、真珠の価格の10分の1を納めることになっているからである。
……こうして、税と船賃とで商人は載んできたものの半分は差し出さねばならぬことになる。
しかも残りの半分でも大変な利益があがるので、もっと沢山商品を持って、もう一度こようと考える。
これをみても、大汗がこの都会から取りたてている税収がどんなに莫大なものであるか、
容易に信じられるはずである。」(マルコ・ポーロ「世界の記述」より) モンゴルのビルマ侵攻(モンゴルのビルマしんこう)は、1277年から1287年にかけて行われた戦争である。
元緬戦争(げんめんせんそう)とも呼ばれる。 南宋の征服後、モンゴル帝国(元)のクビライはさらなる領土の拡張を目指し、1277年からビルマのパガン朝への攻撃を始め、1287年のパガンの戦いでもってこれを完全に制圧した。 ウリヤンカダイによる大理の征服(1253年 - 1254年)以来、モンゴル帝国とパガン朝は国境を接するようになっていた。
帝位継承戦争(1260年 - 1264年)を制し国号を大元としたクビライは、さらなる領土の拡張を目指し、周辺の国々に入貢と臣従を求め使者を送った。 パガン朝のナラティーハパテ王は、1271年に初めて使者が来た際これを拒絶し、1273年に再び使者が訪れた時にはこれを処刑した。
この侮辱的行動に対し、クビライはすぐには行動を起こさなかったため、ナラティーハパテは属国でありながら元朝に内通した金歯などのタイ系の諸族に対し報復攻撃をしかけた。
これに対応する形で、初めてモンゴル軍(元軍)はパガン朝に対し大々的な軍事行動を起こした。 しばらくの間、属国パガンと宗主国元の関係は安定、1296年にはチョウスワー王は長子シンガパティーを入朝させ、
時の皇帝テムルは特許状を授けて緬国王の称号を認め、雲南方面の司令官にこの王国の領域を尊重するよう命じた。
しかし1299年、実質的にパガン朝の実権を握っていたシャン人3兄弟がチョウスワー王とシンガパティーを殺害、
ツオウニ王を擁立した。
これを認めない元は1300年、雲南の平章政事セチュウルに再びパガン領に侵攻させた。
しかし、この時は3兄弟の長男アティンカヤーが元軍を撃退し、チャウセー地方のミンサインで
和議が成立して元軍は撤退した。1303年には征緬省も廃止され、元はこの地方への直接的な
影響力を失ったが、一方シャン人3兄弟は上ビルマのミンザインにおいてミンザイン王国(英語版)を興し、
覇権を確立した。
しかし、シャン人3兄弟の間でも内紛が起き、1312年にピンヤ朝が、1315年にサガイン朝(英語版)
(1315年-1364年)が成立してビルマは約300年にわたる分裂時代に入った。
16世紀にはモン人を中心とする下ビルマのペグー朝、シャン人を中心とした
上ビルマのアヴァ朝、ビルマ人を中心とした東南部のタウングー朝が鼎立し、
タウングー朝のタビンシュエーティー王が他二朝を征服することで、
ようやくモンゴル侵入以来のビルマ内の政治的分裂状態は終結した。 日本・ベトナム・インドネシアに遠征して失敗したフビライだったが、
ビルマでは、なんとかパガン朝を打倒して属国にすることに成功した。
しかし、ビルマの統治には失敗した。
パガン朝が倒れた後のビルマは、アメリカ軍の侵攻でサダム・フセインが
打倒された後のイラクのような混とん状態に陥った。
トゥングー朝によってビルマが再統一されるまでに、300年ほどかかることになる。 中国 あすから全人代 北京では厳重な警戒態勢
3月4日
中国では5日から全人代=全国人民代表大会が開かれ、憲法を改正して2期10年と定めてきた
国家主席の任期を撤廃し、習近平主席が無期限に主席にとどまることが可能になる見通しです。
ただ、国民の一部には撤廃を懸念する声もあり、北京では多くの警察官が出るなど厳重な警戒態勢が敷かれています。 中国では、5日から政府人事や重要政策を決める全人代が開かれるのを前に、
会場となる人民大会堂の周辺では多くの警察官や特殊車両が出て、
通行人にIDカードの確認を求めるなど厳重な警戒態勢を敷いていて、
ものものしい空気に包まれています。
ことしの全人代では、憲法が改正され、国のトップの国家主席の任期を2期10年までと
定めた規定を撤廃し、習近平主席が2期目を終える2023年以降も無期限に主席に
とどまることが可能になる見通しです。
国家主席の任期は、死去するまで絶大な権力を握り続けた毛沢東が晩年、文化大革命を発動し、
中国全土を混乱に陥れた反省から憲法に盛り込まれたもので、国民の一部には任期の制限を
撤廃することに懸念する声も出ています。
インターネット上では、中国版ツイッターのウェイボーで「新たな皇帝」や「独裁者」といった
言葉が検索できなくなっていて、当局が憲法改正に反対する意見に神経をとがらせているものとみられます。 帝政への道を開いた、古代ローマのユリウス・カエサルを想起させるものがある 中国のインターネットでは、「新たな皇帝」がNGワードになっている 「コロコロ変わる短命政権」というのが、日本の政治の大きな弱点だったが 汚職摘発で敵を作りすぎたから、報復されないためには、これしかないのだろう 北京はもともと、モンゴル人がシナを支配するための拠点 日本でいえば、札幌に首都があるようなものなので不自然
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っていうのは、
いッたんです。 梨汁ドップょっとね。
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憲法だけでなく、朝鮮史も語れるとは
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|r-=(へ);(へ) うわ〜良スレだな〜♪
(. ヽ :( ,_、) !
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(。mnノ `ヽ、_nm 台湾の研究家で黄文雄さんが「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」という本でこのようにお書きになられているそうです。
清が明に攻め入る時に先陣を切って朝鮮人は明人を殺しまくったようです。 そして清朝皇帝の前で土下座して臣下の礼を取って明から救い出して頂いてありがとうございました的な挨拶をしたそうです。
私はこの本をまだ読んでおらず、武田鉄矢がこの本を読んで話していた内容だったのですが本当なのでしょうか? 私が聞いた限りだと一応朝鮮人も明には日本との戦いで助けてもらった恩義を感じており宗主国と崇めていたので後金が明に攻め入るのに加勢しろと命令されても断ったという話を聞きました。
もしくは女真族を軽蔑していたので断ったという説もあるとか。
それに激怒したヌルハチは朝鮮に攻め入って朝鮮は降伏。
しかし度々後金の邪魔ばかりして反抗していたという話もあるのだとか。 黄文雄さんの本によると朝鮮人はすぐさま後金に寝返って明に攻め入って明人を殺しまくったろくでなしという書かれかたをしているそうです。
私は黄さんの言う話がもっともしっくりきます。
というのもいかにも朝鮮人らしいというか、掌返しで明が弱体化したのを良い事に強き者に従って長年の恨みと言わんばかりに明を痛めつける事大主義。 日本が大東亜戦争に負けた時も朝鮮が日本になにをしたかを考えても歴史は繰り返すというかなんら変わりがないというか・・・。
つい70年前にも極悪の日帝から救い出して頂いてありがとうございましたアメリカ様みたいな?
今や米韓FTAで完全に経済植民地化され大手銀行や大手家電メーカーなど外資に株をほとんど牛耳られていたりで属国になってます。
なので朝鮮王が清朝に対しても明から救い出して頂いてありがとうございましたと言ったとしてもなんら不思議も無いというか、朝鮮人らしいというか。 ただ、ホンタイジが清朝建国して朝鮮王はホンタイジの皇帝即位式に参加を拒否したとか、
清朝皇帝即位を唯一周辺国で認めなかったとかいう話もあったりで
それに激怒したホンタイジは朝鮮に攻め入って徹底的に叩き潰して服従させて
朝鮮王に三跪九叩頭の礼をさせたという・・・。
急に心変わりをして反旗を翻すというあの民族の特性を考えれば不思議ではないとは思うのですが・・・。
研究者によっていろいろ解釈は違ってくるのでしょうか? 中国の歴代王朝のなかでも、スパイを最も有効的に使っていたのは明朝です。
宮廷内に見張り用の建物である東廠と西廠をつくり、
官の動静を探るのみならず、民間人も徹底的に見張っていました。
明朝が、満州人とモンゴル人の連合王朝である清朝に滅ぼされたのは、
明朝皇帝の人間不信が最大の原因だったとも言われているほどです。 ________
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