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(∵/ |∵ノ (∵ノ .. |∵ノ 出世した人を見て、「道徳的には俺のほうが優れている」といって精神勝利するのが、ニーチェのいうルサンチマン。 「モンゴル人や満州人より、弱者である我々のほうが道徳的に優れている」 ホッブズによれば、この世は、万人の万人に対する闘争 スピノザによれば、そんな闘争が起きるのは、人間が感情に支配されているのが原因 しかし、人間は闘争するだけではない
相互扶助してもいる ジル・ドゥルーズも、スピノザとニーチェを熱心に研究した 「私が影響を受けた唯一の哲学者は、ミシェル・フーコー」 フーコーも、スピノザとニーチェから強い影響を受けている 西洋哲学史上、過激な哲学者
1位 スピノザ
2位 ニーチェ
3位 ハイデガー バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, ラテン語名ベネディクトゥス・
デ・スピノザ Benedictus De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)は
オランダの哲学者、神学者。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者
として知られ、その哲学体系は「神即自然 (deus sive natura) 」といわれる
汎神論的な一元論である。 一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。
近代ではヘーゲルがスピノザ実体概念を自分の絶対的な主体へ発展させている。
またスピノザの思想は無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する
無世界論(Akosmismus)であると評している。 西洋文明において、人間は自然――ギリシャ語のフュ シス、ラテン語のナトゥーラ――と闘い、
自然を克服したという説明を、我々日本人は好む。そして、しばしば「自然と調和したり、対話する」
日本的あるいは 東洋的自然観をもちだして、西洋の自然認識との「違い」を持ち出してなんとか
それを説明した気持ち(=理解する)になっている。だが、これはあまりにも西 洋における
「自然認識」についての浅薄で一面的な見方である。西洋もまた(たぶん東洋や極東たる「日本」
と同様な情熱をもって)「自然とは何か?」につい て深く、そして長期にわたって考えてきたのだ。 スピノザの形而上学の中核は「実体」概念であり、それはアリストテレスからスコラ学者を経てデカルトへ受け継がれてきた実体概念の影響を受けている。スピノザは主著『エチカ』において実体とそれに関連する概念を以下のように定義している。 その例を、能産的自然(natura naturans)と所産的自然(natura naturata)という2つの自然概念から考察することは、大変興味深い。
デカルトによると、神から人間に与えられた認識能力、すなわち「自然の光 (lumen naturale)」により、良識(ボン・サンス)を得ることができるという(『哲学原理』I-30)。
この場合の自然は、人間に対峙し克服すべきもので はなく、むしろ逆に人間に与えられる恩寵の一種なのである。
自然は、野生につながる野蛮で統御不能な超自然的な秩序であると同時に、人間を人間たらしめる 「理性の働き」でもある。
この自然の力がもつ、相矛盾する考え――人間の認識を超える最後は人間に付与される超自然的で人間の能力を超える奇跡的な秩序形 成力と、
人間の理性を含めたそのような自然の作用を理解しその帰結としての秩序を反省的に眺めることができる人間の能力――と、その理解が重要なテーマと して浮上してくるのだ。 今道友信からの引用:「恩寵をラテン語ではグラー ティア(gratia)というので、
中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, ca. 1225-1274)の思想の要約として、しばしば "Gratia naturam non tollit, sed eam perficit"=恩寵は自然を破壊せずこれを完成する、という文章が引用される。
これが神としての超自然と人間を含めての自然一般との 関係をあらわし ている。
動物はこのナトゥーラすなわち自然の世界にとどまるが、人間はとくに、それを超える営みをすることができる」
(今道友信『自然哲学序説』p.19, 講談社学術文庫、1993年)。 能産的自然(蘭:natuurende Natuur)スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』第1部第8章 所産的自然(蘭:genatuurde Natuur)スピノザ『神・人間および人間の幸福に関する短論文』第1部第9章 ルネサンスの自然哲学の考え方の中には、すでにこの 自然は二重の位置を与えれていて、自然に対する神の調停機能の理解として、神は「能産的自然(natura naturans)」、
現象世界は「所産的自然(natura naturata)」と捉えて、この矛盾の一致を、神において認識するというものがある。
知恵ある無知という考え方を提示したニコラウス・ クザーヌスがそ の例であるが、この用語を明確に区分し、能産的自然に神の位置をあてはめたのはスピノザだという。
しかし、この2つの用語の最初の提唱者は、ヴィンデルバ ンドによるとアヴェロイズム(Averroism、アイブン・ルシュド=アヴェロエス ( Averroes, 1126-1198)
中世の偉大なアリストテレス註釈者による哲学や思想)に由来するものだという。 生み出された結果としてある自然界 (→所産的自然 ) に対し,
これを生み出す力としての自然をいう。ドゥンス・スコツス,エリウゲナに発し,
イブン・ルシュドが展開し,G.ブルーノ,B.スピノザが主要概念としたほか,
F.シェリングもその自然哲学に用いた。多くの場合,神や絶対者に等しいが,
M.デュフレンヌのようにこれをただ自然の有機的生産力の意味で用いる学者もいる。 要するに、能産的自然とは創造主、所産的自然とは被造物のこと スピノザ(Baruch de Spinoza 1632-77)
当時、ヨーロッパで最も繁栄するアムステルダムのユダヤ商人の子として生まれ、
ユダヤの教育を受けるが、教義に疑問を抱き、教団から無神論者として破門された。
その後、人文主義的教養を得、また、デカルト哲学に影響を受け、独自の哲学を
築き上げた。彼は、今日のコンピューター技師にも相当する、レンズ磨きという
当時の高等専門技術を持ち、大学からの職も辞退して、清貧ながらも自由な生活を選んだ。 スピノザがレンズ磨きだったというのは、哲学史上に有名なエピソード。
早死にしたのも、レンズ磨きのせいだと言われている。 レンズ磨きは、現代人には地味な職人仕事に見えるけど、当時としてはそうではない。
当時としては先端技術だった。
現代でいえば、最先端のIT技術者にも相当する。 彼は、デカルトの方法装置である《論証主義》を徹底し、哲学の全体系を幾何学的に証明しようとした。これが、主著『エティカ』である。しかし、その内容は、徹底した《汎神論》であり、
そして、その神もおよそキリスト教的人格神ではなく、まったく機械的な機能装置として扱われており、無神論に近い。つまり、ある種の《理神論》と言える。
このために、当時から、彼の哲学は非キリスト教的《汎神論》、《無神論》として批判を浴び続けた。
しかしながら、こういったさまざまな論争の後、精神と物体を並行同一とする《汎神論》の意義がようやく理解され、《ドイツ観念論》に大きな影響を与えた。 スピノザが無神論者として非難されたというのは、昔の「天皇機関説」みたいなものだ。
天皇を否定してるわけじゃないのに、国家機関と位置付けたことが、右翼の憤激を買った。
それと似たようなものだ。 スピノザも、神を否定したわけじゃなかったが、「能産的自然」という機械的な存在とした。 〈限定〉とは、[あるものと他のものとの間に区別を立てること]であり、ある図形が無限の空間を限定することによってできる場合に、それは空間の否定、空間の非存在に係わるように、すべての限定は否定であり、非存在に係わる。
したがって、有限であることは存在の部分否定であるが、神の本質は存在そのものであるがゆえに、神は必然的に無限である。
これは、旧来、無限が単なる限定の否定として消極的に考えられてきたのに対し、彼は、これを逆転させ、無限の方を積極的なものとし、有限を無限の否定とした、と言える。 これは、非常に科学的な「神」論だ。
神を語ってるという時点で科学ではないが、物理学を論じるような調子で、神を語っている。 〈実体〉とは[それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの]、すなわち、[その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもの]である。
それゆえ、それは自己原因であり、本質として存在を含む。
しかし、同じ本質のものはただ1つしか存在しないので、実体は存在するものとしてただ1つのみ存在する。
そして、有限であるものは同じ本質の他のものによって限定されなければならないが、同じ本質のものは他には存在しないので、実体は無限なものである。
ところで、神とは絶対無限の存在者であるから、このような実体こそが〈神〉なのである。 スピノザの形而上学の中核は「実体」概念であり、それはアリストテレスからスコラ学者を経てデカルトへ受け継がれてきた実体概念の影響を受けている。スピノザは主著『エチカ』において実体とそれに関連する概念を以下のように定義している。 「実体」とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他の概念を必要としないもの、と解する。(定義3)
「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義4)
「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義5) 世界にあるさまざまな事物は、必ず他のものとの相対的関係、また相互作用や因果関係をもって存在しており、ゆえに実体ではない。
他のものとの関係をもたず、「それ自身で存在している」といえるのは「世界全体」のみなのである。
世界全体を「一」の存在として見るならそれは「実体」といえる。
その唯一の実体である世界全体は「神」の概念と一致する。
それゆえに、スピノザにとって神と自然はイコールの関係なのである。 「これよりも大いなるものはない」、「これよりも完全なものはない」という、
デカルト的な「神」の定義からすると、それを突き詰めて考えるならば、
「神とは、世界全体のことである」ということにならざるを得ない。 神の他にも何かが存在するのなら、「全体」は、神と、その他のものを含むことになる。
ということは、神よりも、「全体」のほうがより大きく、より完全であるということになる。
それは矛盾するから、「神こそが全体である」ということにならざるを得ない。 「神」とは、「これより大いなるものが存在しないもの」、「これより完全なものが存在しないもの」と定義する。
そして、もしも、「世界全体」の中に、「神」が存在して、「神」の他にも何かが存在するとする。
すると、「世界全体」は、「神」と「他のもの」を含むことになる。
よって、「世界全体」は、「神」よりも大きく、より完全であるということになる。
これは、神よりも大きく、より完全なものはないという定義に矛盾する。 全体集合の中に、神と、被造物が入っているのはおかしい。
神こそが全体集合でなければ、論理的にツジツマが合わない。 スピノザは無限や全能のような概念は存在全体に帰せられるべきだと考えていた。
もし神が全てではないとしたら、神で無いものがあることになり、神の無限性を否定することになるからだ。
また神が原因で無いことが生じるなら、神の全能性を否定することになるからだ 「神は全知全能である」というのが事実なら、必然的に、「神とは世界全体である」という汎神論が導かれる。 ユダヤ―キリスト教の、世界外部に位置して世界を創造したとする人格的・超越的な神を否定したため、
スピノザは無神論者であるとみなす人もいる(汎神論論争)。しかし汎神論は有神論を含んでいるのだから
厳密には正しくはない。ただスピノザの神は創造を行わず、世界の外部から働きかける「超越的原因」
ではなく、非人格的な世界そのものであり、世界のあらゆるものの働きを世界自身の本性から導く
「内在的原因」なのである。神の力――作用因を自己原因という。神は超越的な原因ではなく、
万物の内在的な原因なのである。 スピノザの哲学はそれほど神の概念に依存しているわけではないので、「神」という言葉を「存在するもの」と読み替えれば、
彼の哲学は自然主義とみなすことができ、自然科学と対立しない。アインシュタインは「人格的な神は信じないがスピノザの神は信じる」と述べている。 神があるかないか何て人間いは決定できないよ。神にに捨てられた状態を無神論、
神とともにある状態を有神論というのであって、へりくだって神に接しなさい。 人間が神をつくったのではない
。神が人間をつくったのだ。
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f´__,,--‐---‐'゙ `゙'ー---ヽィ'ヒ_;--‐'゙゙゙゙"´´゙`゙`゙` `゙゙´`゙''ー---- デカルト哲学は、心(精神)と身体(物体)を別々の実体とすることにより心身問題をもらたしたが、その後、この難問を“解決”しようとする哲学が続々と現れた。
そうした哲学を唱えた1人が、スピノザ(1632〜1677)である。 カルトは、実体とは他の何ものにも依存しないものだと考え、精神と物体を実体として認めた。
しかし、精神と物体という2つの実体があるとすると、実は互いの存在をあらかじめ前提していることになり、実体の定義に反することになる。
そこでスピノザは、実体はただ1つであるという“出発点”から自身の哲学を構築していった。 『エチカ』の冒頭においてスピノザは、「自己原因(カウザ・スイ)とは、その本質が存在を含むもの、
つまり、その本性が存在するとしか考えられないもののことである」(「定義1」)「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。
つまり、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもの」(「定義3」)であると述べている。 これは、実体とは、他の存在に依存したり影響されたりしない、自分自身にしか根拠を持たない(「自己原因」としての)存在であり、他に依存しないのであるから、必然的に唯一の存在である。
つまり、スピノザにおいて、実体とは「神」のことなのであるが、この神はさらに無限であり、すべての存在を部分として包み込み、世界(宇宙)に遍在する存在なのであった。(※1) 神が唯一の実体であるとすれば、デカルトにおいて実体とされた精神と物体はどうなるのか?
スピノザによれば、精神と物体は、実体そのものでは決してなく、実体=神の「属性」である。
つまり、精神と物体は、そもそもが同一の実体に属している性質であり、人間の理性が実体についてその本質を構成していると認識するもの(1つの実体をそれぞれ別の側面から見たもの)にすぎないのである(「定義4」)。 こうしてスピノザは、デカルトの心身問題を克服しようとしたのであった。 なお、スピノザの哲学には、「実体」「属性」という概念と並んで、「様態」という概念がある(「定義5」)。
これは、神の、その時々における(一時的な)個々の表れのことである。
そのため、様態は有限で変化し、人間の目には偶然に見えることがある。
たとえば、人間が“世界”という言葉で理解しているものは、実は神の様態なのである。 この世界、ひいては、この世界に存在する存在者
これは、神の様態といわれる このワンセットがそろって、はじめてスピノザの汎神論 実体 属性 様態
まずは、この3つをしっかり押さえる 最低でも、これくらいの予備知識はないと、「エチカ」を読んでも何が何だか、まったく理解できない 個人的には、エチカを読むのは時間のムダであり、スピノザ入門とかなんとか、そんなのを読んだほうが効率が良いとは思うが しかし、それはスピノザに限らない
哲学は、みんなそうだ プこプこって
プいてるがね って
プいププこって
プいてるがね こって
プいてるがね てるがプこって
プいてるがね ね . ________
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ヽ_`⌒,,ノ.(、_, )ヽ⌒_ノ
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o0○ノ / 3 \ (::::⌒ヽ / とノ\ ヽ○0o
( /、_ノ\ Y `(_、_) / \´ )゚
\_) `ヽ : : : * : : : | (_ノ
人___ノ、___ノ 現代人にとっては、神がどうのという時点で、すでに怪しい しかし、神を論じた書物としては、最も合理的で、論理的 アインシュタインも、「スピノザの神なら信じられる」 実体・属性・様態という、物理的な概念で神を説明した 哲学書はたいていそうだが、エチカを読むのは、かなりの時間のムダ スピノザについては、まあ、こんなとこでいいんじゃないかな? スピノザとニーチェは、二大過激思想
最低でも、この2人は押さえておかないと、哲学通と呼ぶには値しない もっとも、哲学通と呼ばれたところで、なんのメリットもないわけだが ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(フランス語: Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。右目に強度の斜視があり、
1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物である。 1943年、主著『存在と無』を出版する。『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と打たれているとおりにフッサール現象学、精神分析学、そしてマルティン・ハイデッガーの存在論に色濃く影響されている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています