慈悲とは自己を捨てて全面的に他の個的存在のために奉仕することである。
それは現実の人間にとっては容易に或いは永久に実現されがたいことであるが、しかも人間の行為に対する至上の命法として実行が要請される。
他の個的存在のための全面的帰投ということは、自己と他者との対立が撫無される方向においてのみ可能である。
そうしてそのことは自己と他者との対立が、実は究極においては否定に裏づけられているということを前提としてのみ成立し得る。
対立は空なのであり、空においてのみ対立が成立する。
この理法は、われわれの現実の生活に即して考えるならば、容易に理解することができる。
例えば、われわれが在る一人の他人を極度に増悪しているとしよう、その限りにおいてわれわれの増悪している他人は、われと対立しているわけである。
しかしその他人の増悪されるべき存在が空観によって否定され、眼に見えぬ本来の人格がこのわれを向き合うことになるならば、
それに対立もなく、増悪の感も消失するであろう。ここに愛憎を越えた慈悲が実現されるのである。P123