「操り人形が自分の意思決定が操られている事を自覚した上でそれを受け入れたならば
それは果たして自分の意思と言えるのか」
について考察しています

つまり「決定論と自由意思は両立するか?」という問題ですね。で、これに関しては
・固い決定論(両立しない派)
・柔らかい決定論(両立する派)
に意見が分類できるようです。

自分は両立する派でいこうと思います。
例えば世界を支配する神や物理現象といったものに自分が囚われていて、その通りに選択の余地が自分に於いて無かったとしても
自分の行為に於いては「そうしようと思って、それをする」という事が可能な様に「何モノかに囚われたから」ではなく「そうしよう」と思うことで「それをする」事が出来ます。

これはある側面から見ると、物理的現象によるのではないか!?と言うことも可能でしょうが、
別の面から見れば自分以外のモノに囚われない自分の意思によるものだと主張する事も可能だと思います。

そう言うワケであるので何モノかに支配されていたとしても、その意思の「選択」に於いては、自由は何モノかに支配されているでしょうが、
その意思の「行為」に於いては、そこに意思を実行する分だけの意思(己の意思)はあり、それを自由意思と呼べるのではないかと考えます

両立しない派の立場や、私に対しての意見をください