Mariaの真理探求スレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
自分を信じて行かなければいけない。
教わるものは遠慮なく教わるがいいが、
自分の頭と眼だけは
自分のものにしておかなければいけない。
- 武者小路実篤 - なんで真理探究すれまで立ててる御人が
頓珍漢な切り口でだらだら語り続ける価値があるの?
そんな腐った切り口より、あなたの真理とは何なのかをまず語るほうがマシ 真理とは何か?
数学や物理や科学に登場する法則を指すとすれば、そもそも真理という言葉や概念は不要なはず。
幸福につながる法則があり、それを真理と言うと、認識しております。 まずは人間を創れ、
魂を磨け、
さすれば幸福は
向こうからやってくる。 良い運命の主人公になりたかったら、
心の中に感謝と歓喜の感情を持つことだ。
感謝と歓喜に満ちた言葉と好意は、
人生の花園に善き幸福という実を結ぶ。 たとえ身に病があっても、
心まで病ますまい。
たとえ運命に非なるものがあっても、
心まで悩ますまい。 どんな場合にも
「こまった」「弱った」「情けない」
「腹がたつ」「助けてくれ」
なんていう消極的な言葉を、
絶対に口にしないことです。 人間が生きていくのに
一番大切なのは、
頭の良し悪しではなく、
心の良し悪しだ。 もし、知識を磨いて
人間が幸せになれるなら、
学問を一生懸命した人は
みんな幸福になれそうなもんだ。
そして学問をしない人は
みんな不幸になるはずだ。
しかし、そうなっては
いないでしょう。 人生あまり難しく考えなさんな。
暗かったら窓を開けろ、
光がさしてくる。 一切の人生の果実は、
その人が蒔いた
種子のとおり表現してくる。 運命よりも心の力が勝てば、
運命は心の支配下になる。 「こうあればいい」
という理想を説くのではなく、
「こうすればいい」
という具体的な実践方法が大切。 結局、思えば思うほど楽しい、
考えれば考えるほど嬉しい、
ということだけを心の中の絵巻物の中に、
はっきり、しょっちゅう消えない形で書きどおしに書いて人生に生きることこそ、
人生極楽の秘訣だぜ、これ。 ためしに、おかしくもなんともないときに、「アハハ」って笑ってみてごらん。
なんだかおかしくなってくるから。
悲しいときやつらい時にも、
おかしな話に引き込まれると、
なんだか笑ってるうちに悲しいのや辛いのを忘れはしなくても、
やわらいだっていう経験おありでしょう。 寝床では、
考えれば考えるほどうれしくなること、
思えば思うほど楽しくなることだけを考えてごらん 笑顔を失うと、
命の資本ともいうべき健康もみるみる破壊されますし、
また、運命とて同様に、とかく阻まれがちとなってしまうんですよ。
西洋の諺にも
「和やかな笑顔の漂うところに、運命の女神はその慈愛の手を差しのべる」
というのがあります。
いったい何のために、人間だけが笑えるようにできているのかということを、厳粛に考えなきゃだめですぜ。
あなた方、考えたことあるかい? 日本は朝鮮の独り立ちを助けた 日韓併合も合意の上 行われた
それなのに恩を仇で返すように朝鮮(韓国)では日帝が朝鮮を支配し朝鮮に酷い事をしたと
歴史を歪曲し捏造し過度の反日教育を行ってるのです 「日本人は親切だった」
日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。たとえば、
「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」
といった類の風説です。
学校でも習ったでしょう。あたかも事実であるかのように。
日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。
日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。
ところが、学校に入学すると、先生から、「日本人は韓国人にひどいことをした」と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。
それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。
すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。
やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのものであることを知るようになります。そして、反日主義から抜け出したのです。
彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。
これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代――つまり日韓併合の時代(一九一〇〜一九四五年)を実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。
そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓一五人の証言が書かれています。いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。
彼らは貴重な証言を残してくれました。彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、ということが非常にはっきり見えてきます。
私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。 たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。
「私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことがありません。
とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。……ソウルでもそうでした。……学校では、
『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない』
と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。… 私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。
父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここにいてください』と泣いて別れを惜しんでいました。……
戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。
喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、一般生活者の間ではほとんどなかったということを、
私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」 このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、証言しています。
今日、韓国の学校教育では、
「日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」
「日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」
等と教えられています。
このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、日本人は朝鮮人を虐待し、両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。
しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だったのです。 さらに、一番始めに述べました阿部元俊さんは、従軍慰安婦問題に関する質問に、こう答えています。
「日本人が朝鮮の田舎に行って、若い娘たちを奪ってきたと言われますね。
そんなことはあり得ないです。もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。
いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにやられてしまいますよ。……
またそんなことがあれば、必ず私の耳にも入ってきたはずです。でも、そんな話も噂も一度も聞いたことがありません。
これはね、当時朝鮮に住んでいた日本人の名誉にもかかわることです。……
警察署長も朝鮮人でしたし、裁判所の判事、検事などにも朝鮮人がいました。朝鮮総督府では、局長、部長、課長にも朝鮮人がいました。
もちろん警察官は、朝鮮人だろうと日本人だろうと同じ権限を持っていました。
そういう状況下で女狩りが堂々と行なわれ、一人として問題にする者がいなかったなんて、あり得ないことです。
全人口の一%にすぎない日本人が、そんなに悪いことをして安全に生きられたわけがないんです」
阿部さんは、従軍慰安婦問題というのは、戦後になされた歴史捏造にすぎないと断言しているわけです。 やがて日本が敗戦を迎え、朝鮮から日本人たちがみな去っていったとき、ひとりの人が韓国へ戻ってきました。
彼の名は李承晩(イ・スンマン)。彼は、それまでハワイにいましたが、アメリカから韓国初代大統領の座を与えられ、韓国を支配するようになりました。
もともと熱烈な反日主義者だった李承晩は、日韓併合時代中、ずっとアメリカに亡命していましたので、朝鮮における日本統治を体験していません。
彼は日本統治を知らない。その彼が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々をすべて追放し、もはや反日でなければ韓国では生きられないようにしました。
家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止され、日本の悪口だけが許されるようになりました。
虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、少年少女は、すさまじい反日教育の中で育てられていったたのです。
そうやって、今日の韓国の反日主義が形成されました。
北朝鮮の金日成の場合も同様です。今も北朝鮮、および韓国には言論の自由はありません。そして客観的な歴史教育もないのです。 かつて日本は朝鮮をひとり立ちできる国家にするために、朝鮮を統治していったのです。
これは、朝鮮と日本との間の国際的合意のもとで行なわれたことでした。
また、当時の世界の多くの国々が賛成し、承認したものでした。
そして日本は、実際に朝鮮をひとり立ちできるまでに建て直したのです。恨まれるようなことをやったわけではありません。
また、日本が朝鮮を統治したのは、ちょうどある会社が、破産状態にあった別の会社を吸収合併して建て直すことにも似ていました。
いわば日本株式会社が、破産した朝鮮株式会社を吸収合併して建て直したのです。
こうした吸収合併の際、日本株式会社は、朝鮮株式会社を経済的に支えるだけでなく、様々な人材を送り込んで技術や経営の指導にあたります。そうやって会社を建て直していくのです。
それと同様のことが、朝鮮の国家再建においても行なわれました。
実際、たとえば朝鮮殖産銀行の頭取として働いていた有賀光豊さんも、ふだんから、
「朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ」
という信念で働いていました 日本は莫大なお金をつぎ込んで、朝鮮を近代国家に変えて
いった。これは朝鮮に造られた水力発電所、水豊ダム。
当時出力世界2位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった 私たちは全体的な見方を忘れてはいけないのです。「日本人は悪者だった」という見方は、非常に皮相的で、偏っています。
私たちはそうしたレッテル張りから解放されなければなりません。
私たちに与えられている神様からのメッセージは、「日本人よ、おまえは罪人だ」「悪者だ」ではありません。
「日本人よ、あなたは神に愛されている」
です。
イエス様が人々にどのような接し方をされたかを、思い出してください。イエス様は、あの取税人のかしらザアカイに対してさえ、「おまえは罪人だ」とは一言も言われませんでした。
むしろ、「この人もアブラハムの子なのだ」と言われました。
神の愛の中にある人なのだと。
またイエス様は、あの五人も夫を取り替えたサマリアの女に対して、「あなたは罪人だ」と一言も言われていません。むしろ彼女に、本当の信仰を説かれたのです。
姦淫の現場を捕らえられて連れられてきた女に対しても、イエス様は「あなたは罪人だ」とは言われていません。
むしろ「わたしは世の光です。わたしについてきなさい」と言われました。 イエス様は人々に、ただ神の愛と、真の道を説かれました。
これは非常に大切な点です。もしあなたが、人々に「あなたは罪人です」「悪者です」と説くことが福音宣教だと思っているなら、それは違います。
私たちクリスチャンにとって大切なのは、日本人に対して「日本人は罪人だ」「悪者だ」と説くことではありません。
むしろ大切なのは、
「日本人よ、あなたは神様に愛されています」
と言うことです。
神が「ご自分のひとみのように」日本を愛し、世話し、守り、日本をいつくしんでくださった事実を伝えることなのです。 本が韓国にしたこと
併合時(1910年) → 終戦時(1945年)
・教育の普及 無いに等しい → 小学校5,213校、生徒数2,389,135人、就学率61%(1944)
・耕地面積 246万町歩 →449万町歩
・水田面積 84万町歩 →162万町歩(1928)
・石高(米の生産量) 約1千万石 →2千万石(1930)
・鉄道 0km→ 3,827km
・人口 1,313万人 → 2,512万人(1944)
・植林 禿山 → 30年で数十億本を植林、緑化
・反当たり収量 0.49石 → 1.49(3倍)
・ハングル識字率を大幅に向上
・朝鮮は急激に人口が増加した(以前は、飢餓・疫病が蔓延)
・奴隷解放
・野蛮な刑罰の廃止
・朝鮮半島の戦前、戦中、戦後の混乱や内乱で生じた避難民や経済難民を大量に受け入れて特別待遇(現在の在日に至る)
これらから、日本は朝鮮人に大恩を施したことは明白
日本が朝鮮人に施した恩恵は、いくら感謝されてもされ足りないほど大きい
それが、 「 歴 史 的 事 実 」 です。 明治十八年(1885)時事新報に載った福沢諭吉の「脱亜論」
「わが日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども其の国民の精神はすでに亜細亜の固陋(コロウ)を脱し、西洋の文明に移りたり。
然るに、ここに不幸なるは近隣に国あり、一に支那(清国)といい、一を朝鮮という。
…中略…
わが国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興す猶予あるべからず。
むしろ其の伍(ゴ)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其の支那・朝鮮に接するの法も隣国なるがゆえにとて特別の会釈(エシャク)に及ばず。
まさに西洋人が之に接するの風(フウ)に従いて処分すべきのみ。
悪友を親しむ者は共に悪名を免がるべからず。
われは心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」 言葉というものには、強力な暗示力が固有されている。
従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言葉を戯れにも口にしてはならないのである。 ホカマンテス
私が自分のことをセクシーだって思っている以上に
セクシーが私のことをセクシーって思っているんです❗ 「ライダイハン」と呼ばれる孤児達がいます。
ベトナム戦争で韓国軍兵士に強姦されて産まれた子供達です。
あの米国を破ったベトナム兵でさえ、韓国軍の暴虐非道ぶりに恐れをなし、戦いを避けたとさえ言われています。
女子供に至るまで強姦し、殺害し、燃やしたとベトナム人は証言しています。 ベトナム戦争時、韓国軍兵士は十万人単位のベトナム人女性を強姦し、
その一部を虐殺した。結果、数万人のライタイハン(韓国人とベトナム人の混血児)が戦後、放置された。
この事実を韓国政府は容認することができないでいる。 ベトナム問題に詳しいフォトジャーナリストの村山康文氏は、先月末までベトナム戦争時の激戦地を訪れた。
このゴダイ集落を訪れた時、韓国軍による大虐殺の凄まじさを知ったという。
その集落の村のひとつ、タイヴィン村があった場所には、現在、カラフルな壁画が建てられている。
その鮮やかな色使いとは裏腹に、描かれている内容は悲惨そのもの。
軍服を着た兵士たちの銃口が火を吹き、銃弾が村人たちの体を貫く。
火あぶりにされる裸体の女性の姿も描かれており、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。 15発もの銃弾を受けながら奇跡的に生き残ったタイヴィン村のグエン・タン・ランさん(62)が、当時を振り返る。
「韓国軍が村に来たのは朝9時ごろ。100人以上の歩兵が次々と村に入り、全25世帯、65人の村人を一か所に集合させました。
韓国兵はその中から、年頃の娘を見つけると、彼女を集団から引き離し、村人の前で輪姦を始めたのです。
兵士たちに銃を突きつけられた娘はなす術なく、代わる代わる暴行されました。
そして、最後の兵隊が事を済ませると、彼女を撃ち殺したのです。
その一部始終を見せつけられた村人が怒り狂い、韓国兵に襲いかかろうとしましたが、その場で射殺されました。
韓国兵は私たちを1度に殺さず、数人単位で射殺していきました。私の両親や親族も殺されました」
この壁画は、タイヴィン村での虐殺を忘れないための記念碑のようなものだという。
その傍らにはゴダイ集落で虐殺された380余人の名前が刻まれた慰霊塔も建っている。
そこには「韓国軍が行なった非道は忘れない」という内容の文字も書かれていた。 執筆者はベトナムに留学中の歴史専攻の大学院生、ク・スジョンさん。
韓国は1992年にベトナムとの国交を正常化した。ク・スジョンさんは
1993年にベトナムに留学。
以後、ベトナムの歴史研究を続けていた。
1997年、金大中氏が韓国大統領に当選して韓国では民主化がすすめられた。
こうした状況下で、ベトナム戦争に関するパンドラの箱が開けられたのである。
ホーチミン市でベトナム戦争の調査を続けていたク・スジョンさんによると、
執筆のきっかけは、韓国軍による民間人虐殺を調べたベトナム政府の
内部文書を入手したことだった。
「子供や妊婦を虐殺」という内容に驚いた。
注:「子供の頭を割ったり首をはねたり、脚を切ったりして、火に放り込んで殺した。
女性を強姦してから殺害した。強姦しながら拷問した。妊婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰した」
という、身の毛もよだつような記述を読めば、誰でも、「マサカ? ホント?」と驚かざるをえない ク・スジョンさんは生き残った人から話を聞き、内部文書の内容が
間違いないことを確認した。
ク・スジョンさんは自らの聞き取りをもとに虐殺された民間人数は、
少なくとも9,000人と推測している。
虐殺事件があったビンディン省タイビン村は、アヒルや鶏が小道を横切り、
水田では水牛が遊んでいた平和な村であった。
1966年2月、朝9時過ぎ、韓国軍が突然、タイビン村に進入してきた。
韓国軍は村の住民68人を1か所に集め、うつぶせにさせた。それから
無警告で、突然、一斉に銃撃し、手榴弾を炸裂させた。
グエン・トン・ロンさんの12歳だった妹のフォンさんは頭をやられた。
母は両足を一瞬にして失った。そこまで語ったロンさんが、目を真っ赤にして
泣き出した。
「母は死ぬ直前、助けてと叫んだ。私は足をやられ、動けなかった。
母を何もしてあげられなかった」。タイビン村で生き残ったのは
グエン・トン・ロンさんと他2人の計3人だけだった。
「この傷を見てくれ」。グエン・トン・ロンさんは、突然、ズボンを
下ろして足の傷を見せた。手榴弾の破片が体中に残っている。 日本の自虐史観の対照には韓国の自尊史観があると、筑波大学大学院教授の古田博司氏も指摘していますが、韓国は自国に都合の悪い教育はしません。
ベトナム戦争で、韓国軍が民間人虐殺をしたとうい事実を知らない韓国人は多いのです。 ベトナムのクァンアイソン、ビンホア村にある「韓国軍憎悪碑」に刻まれていることは事実です。
ネットで、ベトナム戦争での韓国軍による民間人虐殺を知っている日本人は、韓国人は残虐だという事実を知っています。
しかし、韓流ごり押しをしている日本のマスコミは事実を報道しません。
マスコミが捏造している韓流ブームに騙されている日本人は、韓国人は残虐だという事実を知るべきです。 韓国の歴史教科書を見ると「韓国軍の戦力増強と経済発展に寄与した」とあり
韓国軍の“民間人虐殺”について記述しているものは皆無だ。
韓国はベトナム戦争での「ライダイハン」を史実から消去する画策までしている 人間は天使にも悪魔にもなり得る生き物
元来 天使や悪魔というのは人間の心の状態を
表したものではないか 人間は人を愛して、正しいことを自分からすすんでやる=天使
人間は欲望のためには何でもやりかねない=悪魔 一度だけの人生だ。
だから今この時だけを考えろ。
過去は及ばず、未来は知れず。
死んでからのことは宗教にまかせろ。 AIは助けてくれない
人間の脳みそこそが宇宙最強なのです 「私たちはまだ解放されていない」日本に謝罪を求める元慰安婦に、
韓国ネットは否定的反応「もう終わりにして」「最近は日本の方が信じられる」 2018年2月16日、韓国・ノーカットニュースによると、韓国の元慰安婦イ・オクソンさんが「私たちはまだ解放されていない」
と述べ、日本政府に心からの謝罪を要求した。
イさんはこのほど、韓国京畿道にある元慰安婦らが共同生活を送る施設「ナヌムの家」で行われたインタビューで、
15年末の日韓慰安婦合意について「私たちに分析する能力はないが、それでも朴槿恵(パク・クネ)大統領は頭がおかしいと思った。
私たち元慰安婦を金で日本に売ったということだ」と述べた。 その後に政権が代わり、合意から2年以上が過ぎた先月9日、新韓国政府は慰安婦合意への対応計画を発表し、「日本政府が拠出した10億円は韓国政府が肩代わりし、日本政府から誠意ある謝罪を受ける」との考えを示した。
これに、イさんは「文大統領を信じる」とし、「大統領が日本に一言でも言ってくれたことがありがたく、今後は政府を信じられる」と述べた。
さらに、文大統領は平昌五輪を機に行われた日韓首脳会談で「慰安婦問題は被害者の心に傷が残ったままでは解決しない」との考えを強調し、日本の「不可逆的」立場とは明確に一線を引いた。
しかし、イさんは「日本と再交渉しなければならない」と主張している。
その理由として「韓国が勝つべきで、負けてはいけない。(日本は)11〜14歳の幼い子どもまで連行して銃や刃物、暴力で殺したが、今もそれを認めていない。
韓国は死んでも謝罪を受けなければならない」と訴えた。 これについて、韓国のネットユーザーからは意外にもイさんや韓国政府に対する否定的なコメントが多く寄せられている。
イさんに対しては「私たちはとっくに解放されている。
歴史を歪曲(わいきょく)するのはちょっと…」「トラウマがあることと国が解放されていないことはちゃんと区別してほしい」「申し訳ないけど、2度の謝罪に補償ももらったのだから、もう終わりにしてほしい」「謝罪はもう受けたはず。
一体何を望んでいるの?」などの声が見られた。
また「過去の大統領が避けてきたことに朴槿恵が向き合い、補償を引き出したんだよ」
「現実的に考えて、心からの謝罪は韓国が日本より強い国にならない限りは不可能。強くなれば日本は自ら謝罪してくる」などと指摘する声や、「正直、慰安婦を信じていない。
最近は日本の言葉の方が信じられる」との声まで。 AI本をさがすと
ジャパンアズビューティフルみたいなのと
教育レボリューションと
格差ァーと
ザ宗教
チャソ写真集
ワシの経営
があるけどどれも買わなくていいの?? >>115
仏教・南妙法蓮華経ですね
南無阿彌陀仏は亡くなった人へのお経ですが
南法蓮華経は生きてる人の為のお経です
生きてる間に幸せになりましょうという
お経です Mariaさんのイメージだと、南無観世音菩薩の方が合う気がする。 『観音経』は法華経のなかの「観世音菩薩普門品第二十五」という一章です。
ここでは、 観世音菩薩が、
私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、
その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくれると説いています。 >>121
観音様は菩薩の中でもメジャーな存在ですね
人々を救済することから愛されているんですよね
まぁ私のイメージはそんなんかといえば
自分ではそうは思わないですね 観自在菩薩は、
サンスクリット語(梵名)では「アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァ」といいます。
昔から広く民衆に親しまれている菩薩様、観音さまです。
観自在菩薩は、多数の別名でも呼ばれます。
・観音さま
・観音菩薩(かんのんぼさつ)
・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)
・救世菩薩(くせぼさつ) あまり知られていませんが
京都には霊山観音という観音様が居ます
戦後に戦死者を慰霊する溜めに建てられた観音様です
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000059 寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを感じる。
〜ホイットマン 何があっても大丈夫。
天があなたを守っているから。
〜齋藤一人さんの言葉 美しいものを、美しいと思えるあなたの心が美しい。
〜相田みつを 人間の地獄をつくり、極楽をつくるのも心だ。心は、我々に悲劇と喜劇を感じさせる秘密の玉手箱だ。 幕末になると三条から四条にかけては暗殺、晒し首など死体を遺棄する場となった。
そして七条まで下った湿地帯では、毎年のように氾濫し多くの死傷者を出した川でもある。
この付近の河原には、貧しい人たちが集まり集落を作って住んでいたが、
長い間京都ではこれを「恥部」として隠し、また無視し続けてきた。これが崇仁地区である。
雪の降る夜。一升の米が入ったズタ袋と名札を首から吊らされた藤井鉄雄が捨てられていたのは、
塩小路橋のたもとだった。泣き声を聞きつけたのは、廃品回収を終えて家路を急ぐ老母である。
http://www.suzin.com/bank/mitsubishi/fuzii-1.html 「鉄雄、昭和24年2月9日生まれ、満二歳、この子をよろしくお願いします」
雪の降る夜。一升の米が入ったズタ袋と名札を首から吊らされた藤井鉄雄が捨てられていたのは、塩小路橋のたもとだった。
泣き声を聞きつけたのは、廃品回収を終えて家路を急ぐ老母である。
橋の上で耳をすませてた老母は「また、捨て子か」と思いながらも、土手に下りていった。この老母が、藤井鉄雄の養母である。
鉄雄は3人目の子供で、老母は彼を極貧のなかで我が子のように育てたのだ。
養母の家は古びた4軒長屋の端にあった。新聞紙を張り固めた壁に、家の中からでも夜空が見えたという。
この4畳半一間で、養父母は3人の子供たちの面倒を見たのである。
敗戦のショックから立ち直りかけた時代で、日本経済復興の兆しが見えていた。しかし、崇仁地区にその兆しは届いていなかった。
毎日の暮らしは成り行き任せ。地区の大人たちが食べ物を得る手段は肉体労働しかなかった。だが、老いた養父母には無理な話だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています