【神学】キリスト教哲学総合スレ
“神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』)
エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>164
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷啓治、上田閑照らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 シレジウスやエックハルトにおける神性の「無」、あるいはベーメにおける無底としての「無」って
「絶対的存在」を表現する否定神学的なレトリックに過ぎず、読むにあたってはいちいち「絶対的存在」と読み替えてよいものなんだろうか サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 すると、主は言われた。 「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 魔術師サウロね。ま、魔術は結構秘密だけどメジャーになりやすいね。 エックハルトは発想は面白いけど詭弁的だよな
炭を手においた場合〜みたいに “思惟を超えた一はいかなる思惟によっても思惟されない。
言葉を超えた善はいかなる言葉によっても語られない。
それはすべての単一者を一にする単一、
存在を超えた存在、
非知的知性、
語られざるロゴス。
非言語、非知性、非名称。
いかなる存在者として在るものでもない。”
― ディオニシオス・アレオパギテース 「神名論」 1:1:7 『キリスト教神秘主義著作集 1』 (1992) >>174
もう一人、否定神学として知られる、
5-6世紀シリアの神学者、いわゆる偽ディオニュシオス。 エックハルトは「神 Gott」と「神性 Gottheit」を分けた。 「離脱・放下」攷(二十三)― 唯一性と三位一体性との間
https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/c/7c3426c149382b804a8e21cba0562d86/44
> エックハルトのいう神性(Gottheit)は、そこから私たちの精神に表象が形成される根底のようなものである。
> それは、在るものについても在らぬものについても同様である。
> それゆえ、この神性は、構造的に、新プラトン主義者たちのいう言表不可能な〈一〉と似ている。
その他、エックハルトと偽ディオニュシウスについてなど 創世神話や神秘主義、老子などには、最初から前提として無が出てくるが、
エックハルトは、素朴な文章の中に、自ら無を見い出した。 神の姿形を見ることは出来ないという記述
“いまだかつて、神を見た者はいない。”(ヨハネ 1:18)
“あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。”(出エジプト 33:20) 神の姿が人を想起させる記述
“神は御自分にかたどって人を創造された。”(創世記 1:27)
“玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」”(黙示録 19:4) >>179
これはアウグスティヌスの主張と反対なんだわな
多分アウグスティヌスの方が合理性がある エックハルトは死ぬ前に教会に教えとに反すると指摘されたところは全て破棄して教会に従うと証言している
つまり今現存しているエックハルトの著作はエックハルト自身によって否定された内容 マイスター、マスターは、フリーメイソンの称号
ヴィルヘルム・マイスターの修行時代
ゲーテも有名なフリーメイソン
マスター・キートン
フリーメイソンの漫画 >>179
更に、エックハルトの説いた「神性の無」を取り出し、「無底」としたのがベーメ ヤコブ・ベーメの無
“自己の自我ー形成と意欲が沈黙するならば、神の形成と意欲が現れるのである。
なぜなら、没意欲であるものは無と一なるものであり、自然の外にあるが、
この無底が神そのものであるから。”
― 「神を見る高貴な門」 2:20 『キリストへの道』 (1991)
“自然を離れては神はミステリウムであり、すなわち無のうちにある。
まことに自然をとり除けばただ無であり、無は、永遠の目、底無しの目であって、
無のうちに浮かび、無のなかを覗き、まことにこの目は底がないのである。
そしてこの目が意思であり、すなわち、あらわれ出て無を見出したいと願うあこがれなのである。”
― 「シグナトゥーラ・レールム」 3:2 『キリスト教神秘主義著作集 13』 (1989) >>184
>これはアウグスティヌスの主張と反対なんだわな
へえ、それは聞いたことがありませんでした
典拠あります? >>185
ガリレオの言っていたことは間違いかい? >>189
確か「三位一体論」
手元にないからどこかは正確に指定できないわ 人間なんかは、(実際の)人間と(普遍的)人間性とは区別して考えられるが、唯一である神に於いてはそのような区別はできず、神性(Deitas)と神であることとは全く同じである、
というのような話だったはず
他にも三位一体論では「本質(essentia)」と「賢明(sapientia)」は神においては全く同じであることを何度か繰り返しているし、神の十二の属性を三つに還元し、更には一つにすることができるとも言ってる。
このようにアウグスティヌスは神は本来的に無区別であることをめっちゃ強調している >>186
・フィヒテ 「フリーメイソンリーの哲学」 『フィヒテ全集2』 (1997) p339-421
・中沢新一 『対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5』 (2004) p43-45
フリーメイソンに関しても、ちゃんとした哲学的な考察があるから読んでみるといい。
フィヒテは良い大人。
中沢のは図像の象徴解釈。 ここしばらくの論点
・神はいる/いない
・神は有/無
・神は見える/見えない
・神に姿形はある/ない
・神は可知/不可知
・神を信じる/信じない アウグスティヌスは、元々、マニ教的二元論の克服のため回心をしたのだし、
三位一体論理解も様式論的単一神論だった。
エックハルトなどはスコラ神学以降で、アリストテレス主義の影響下にあるもの。 アリストテレス哲学を構造的に取り入れたのが、
ドミニコ修道会(アルベルトゥス・マグヌス、アクィナス、エックハルト)。
質量は形相による限定を受けなければ単なる可能態にとどまっているが、
神とは質量の全ての可能性が実現して、質量としての影を残さない純粋な形相であると。
このように神を認識するようになった。 形相と質料
アリストテレスにとって「もの」はエイドス(形相)とヒュレー(質料)から構成される。
エイドスは「もの」の本質、ヒュレーは「もの」という現実である。
〔例:鉛筆〕
・エイドス … 書くもの … 目的、本質
・ヒュレー … 木、黒鉛 … 材料 プラトンとアリストテレスの違い
「ものの本質」をプラトンはイデア、アリストテレスはエイドスと呼ぶ。
・プラトン … イデア … 現実にない
・アリストテレス … エイドス … 現実にある
プラトンは現象界とイデア界を明確に分けた。
鉛筆も本も物質的な存在はそこにあるが、その本質はイデアという世界にあり、
私たちはイデアが作る幻想を見ているにすぎない。
一方、アリストテレスはエイドスをヒュレーの中にあるものと考えた。
つまりエイドスは現実にある、なにか抽象的なものである。 (205-270) プロティノス
(354-430) アウグスティヌス
(5-6世紀) 偽ディオニュシオス・アレオパギテース
(11世紀以降) スコラ神学
(1225-1274) トマス・アクィナス
(1260-1328) マイスター・エックハルト
>>162以降の話題は、否定神学(プロティノス以降)から始まって、
キリスト教におけるネオプラトニズム(新プラトン主義的神秘主義)の影響とその後をみていっている。 アウグスティヌス … 信仰 > 理性
スコラ神学 … 理性 > 信仰
「理解せんがために、われ信ず(credo ut intelligam)」カンタベリーのアンセルムス(1033-1109) スコラ神学は、プラトン主義とアリストテレス主義の調和目指した。
その矛盾と破綻に端を発したのが、ルターによる宗教改革。(>>136) (1451-1506) コロンブス
(1452-1519) レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1473-1543) コペルニクス(†)
(1483-1546) ルター †
(1491-1556) イグナチオ・デ・ロヨラ †
(1506-1552) フランシスコ・ザビエル †
(1542-1591) 十字架のヨハネ †
(1547-1616) セルバンテス
(1548-1600) ジョルダーノ・ブルーノ †
(1564-1642) ガリレオ
(1575-1624) ヤーコプ・ベーメ †
(1596-1650) デカルト
(1599-1660) ベラスケス
(1632-1677) スピノザ
(1632-1704) ロック >>202
「宗教と科学」という時代に入ってくる。
特に、ベーメやデカルトの時代は、ルターによる宗教改革直後の混乱期。 セルバンテス『ドン・キホーテ』、ベラスケス『ラス・メニーナス』の自己言及性、
ベーメや特にフィヒテによるフリーメイソン議論(>>193)の再帰性には、
ポストモダンの萌芽が感じられる。
ラス・メニーナス:https://okdiario.com/img/2015/12/Menina.jpg ベーメのヴィジョン
“神性の本質は無底の深みのありとあらゆるところにあって、輪(ein Rad)か眼のようである。
始まりがいつも終わりをもっているからである。しかも無底には場所は全く見いだされない。
無底はそれ自身があらゆる存在者の場所であり、あらゆる物の充満であるが、
それにもかかわらず無底は何ものにも?まえられたり見られたりしないからである。
無底はそれ自身においてひとつの眼である。
預言者エゼキエルは、第一章で、彼の意志の霊を神のなかへ導き入れることによって、
そのようなもの[無底]をひとつの形体のうちに見た。”
― ヤーコプ・ベーメ 『無底と根底』 「六つの神智学的要点」 19 (1991)
“第三十年の四月五日のことである。
わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、
そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。[略]
わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。
その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。”
― 旧約 「エゼキエル書」 1:1-17
エゼキエルの車輪
http://www.ritmanlibrary.com/wp-content/uploads/2013/08/Aurora-Morgenrote-in-Aufgang.jpg
その他ベーメのヴィジョン
http://www.esoteric.msu.edu/jpg/Frontispiece.jpeg
http://livedoor.blogimg.jp/fairypot2/imgs/0/6/0674579d.jpg
http://werke.jacob-boehme.org/3-40-Fragen-von-der-Seele.jpg
http://werke.jacob-boehme.org/4-Mysterium-Pansophicum.jpg ベーメは「神は無であり一切である」とした。
神自身をも発現させる、神の最奥にまで遡源すると、
そこでは、いかなるものでもないことによって、一切を生成させる
「無即有」、「有即無」の根源的事態につきあたる。 >>187
ベーメの「無底、無根底 Ungrund」を哲学の中心に据えたのがドイツ観念論。
シェリング、ヘーゲルからその影響はハイデガーにまで及ぶ。
ヘーゲルは『論理の学』の存在論において、
「存在」と「無」は同じであり、これらが同一性と差異性を孕みながら合わさる運動を「生成」と呼んだ。 “神とは(…)あらゆる根底に先立って、あらゆる現実在するものに先立って、
したがってそもそもあらゆる二元性に先立って、自らの本質である「根源実在」なのである。
シェリングはそれを「現根底(Urgrund)あるいはむしろ無根底(Ungrund)」と名付けている。
すなわち、それに関してはいかなる差異も、また有[存在]の組目も、
もともと適当な述語として述べられることのできない「絶対的無差別」のことである。”
― ハイデガー全集42 『シェリング『人間的自由の本質について』』 第18節 無根底は二元論を、その下方への超越において克服する。
ドイツ観念論は、有と無の宇宙を反転させた。 最新の哲学からは、
メイヤスーの『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』(2016)が、デカルトとシェリングの邂逅。
同じく、シェリングの原始偶然に触発された九鬼周造は、
「偶然性は/(1)有が無に根ざしている状態/(2)無が有を浸している形象/(3)無に近い存在」などとしている(『偶然性の問題』(1935))。