【神学】キリスト教哲学総合スレ
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ヤコブ・ベーメの無
“自己の自我ー形成と意欲が沈黙するならば、神の形成と意欲が現れるのである。
なぜなら、没意欲であるものは無と一なるものであり、自然の外にあるが、
この無底が神そのものであるから。”
― 「神を見る高貴な門」 2:20 『キリストへの道』 (1991)
“自然を離れては神はミステリウムであり、すなわち無のうちにある。
まことに自然をとり除けばただ無であり、無は、永遠の目、底無しの目であって、
無のうちに浮かび、無のなかを覗き、まことにこの目は底がないのである。
そしてこの目が意思であり、すなわち、あらわれ出て無を見出したいと願うあこがれなのである。”
― 「シグナトゥーラ・レールム」 3:2 『キリスト教神秘主義著作集 13』 (1989) >>184
>これはアウグスティヌスの主張と反対なんだわな
へえ、それは聞いたことがありませんでした
典拠あります? >>185
ガリレオの言っていたことは間違いかい? >>189
確か「三位一体論」
手元にないからどこかは正確に指定できないわ 人間なんかは、(実際の)人間と(普遍的)人間性とは区別して考えられるが、唯一である神に於いてはそのような区別はできず、神性(Deitas)と神であることとは全く同じである、
というのような話だったはず
他にも三位一体論では「本質(essentia)」と「賢明(sapientia)」は神においては全く同じであることを何度か繰り返しているし、神の十二の属性を三つに還元し、更には一つにすることができるとも言ってる。
このようにアウグスティヌスは神は本来的に無区別であることをめっちゃ強調している >>186
・フィヒテ 「フリーメイソンリーの哲学」 『フィヒテ全集2』 (1997) p339-421
・中沢新一 『対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5』 (2004) p43-45
フリーメイソンに関しても、ちゃんとした哲学的な考察があるから読んでみるといい。
フィヒテは良い大人。
中沢のは図像の象徴解釈。 ここしばらくの論点
・神はいる/いない
・神は有/無
・神は見える/見えない
・神に姿形はある/ない
・神は可知/不可知
・神を信じる/信じない アウグスティヌスは、元々、マニ教的二元論の克服のため回心をしたのだし、
三位一体論理解も様式論的単一神論だった。
エックハルトなどはスコラ神学以降で、アリストテレス主義の影響下にあるもの。 アリストテレス哲学を構造的に取り入れたのが、
ドミニコ修道会(アルベルトゥス・マグヌス、アクィナス、エックハルト)。
質量は形相による限定を受けなければ単なる可能態にとどまっているが、
神とは質量の全ての可能性が実現して、質量としての影を残さない純粋な形相であると。
このように神を認識するようになった。 形相と質料
アリストテレスにとって「もの」はエイドス(形相)とヒュレー(質料)から構成される。
エイドスは「もの」の本質、ヒュレーは「もの」という現実である。
〔例:鉛筆〕
・エイドス … 書くもの … 目的、本質
・ヒュレー … 木、黒鉛 … 材料 プラトンとアリストテレスの違い
「ものの本質」をプラトンはイデア、アリストテレスはエイドスと呼ぶ。
・プラトン … イデア … 現実にない
・アリストテレス … エイドス … 現実にある
プラトンは現象界とイデア界を明確に分けた。
鉛筆も本も物質的な存在はそこにあるが、その本質はイデアという世界にあり、
私たちはイデアが作る幻想を見ているにすぎない。
一方、アリストテレスはエイドスをヒュレーの中にあるものと考えた。
つまりエイドスは現実にある、なにか抽象的なものである。 (205-270) プロティノス
(354-430) アウグスティヌス
(5-6世紀) 偽ディオニュシオス・アレオパギテース
(11世紀以降) スコラ神学
(1225-1274) トマス・アクィナス
(1260-1328) マイスター・エックハルト
>>162以降の話題は、否定神学(プロティノス以降)から始まって、
キリスト教におけるネオプラトニズム(新プラトン主義的神秘主義)の影響とその後をみていっている。 アウグスティヌス … 信仰 > 理性
スコラ神学 … 理性 > 信仰
「理解せんがために、われ信ず(credo ut intelligam)」カンタベリーのアンセルムス(1033-1109) スコラ神学は、プラトン主義とアリストテレス主義の調和目指した。
その矛盾と破綻に端を発したのが、ルターによる宗教改革。(>>136) (1451-1506) コロンブス
(1452-1519) レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1473-1543) コペルニクス(†)
(1483-1546) ルター †
(1491-1556) イグナチオ・デ・ロヨラ †
(1506-1552) フランシスコ・ザビエル †
(1542-1591) 十字架のヨハネ †
(1547-1616) セルバンテス
(1548-1600) ジョルダーノ・ブルーノ †
(1564-1642) ガリレオ
(1575-1624) ヤーコプ・ベーメ †
(1596-1650) デカルト
(1599-1660) ベラスケス
(1632-1677) スピノザ
(1632-1704) ロック >>202
「宗教と科学」という時代に入ってくる。
特に、ベーメやデカルトの時代は、ルターによる宗教改革直後の混乱期。 セルバンテス『ドン・キホーテ』、ベラスケス『ラス・メニーナス』の自己言及性、
ベーメや特にフィヒテによるフリーメイソン議論(>>193)の再帰性には、
ポストモダンの萌芽が感じられる。
ラス・メニーナス:https://okdiario.com/img/2015/12/Menina.jpg ベーメのヴィジョン
“神性の本質は無底の深みのありとあらゆるところにあって、輪(ein Rad)か眼のようである。
始まりがいつも終わりをもっているからである。しかも無底には場所は全く見いだされない。
無底はそれ自身があらゆる存在者の場所であり、あらゆる物の充満であるが、
それにもかかわらず無底は何ものにも?まえられたり見られたりしないからである。
無底はそれ自身においてひとつの眼である。
預言者エゼキエルは、第一章で、彼の意志の霊を神のなかへ導き入れることによって、
そのようなもの[無底]をひとつの形体のうちに見た。”
― ヤーコプ・ベーメ 『無底と根底』 「六つの神智学的要点」 19 (1991)
“第三十年の四月五日のことである。
わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、
そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。[略]
わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。
その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。”
― 旧約 「エゼキエル書」 1:1-17
エゼキエルの車輪
http://www.ritmanlibrary.com/wp-content/uploads/2013/08/Aurora-Morgenrote-in-Aufgang.jpg
その他ベーメのヴィジョン
http://www.esoteric.msu.edu/jpg/Frontispiece.jpeg
http://livedoor.blogimg.jp/fairypot2/imgs/0/6/0674579d.jpg
http://werke.jacob-boehme.org/3-40-Fragen-von-der-Seele.jpg
http://werke.jacob-boehme.org/4-Mysterium-Pansophicum.jpg ベーメは「神は無であり一切である」とした。
神自身をも発現させる、神の最奥にまで遡源すると、
そこでは、いかなるものでもないことによって、一切を生成させる
「無即有」、「有即無」の根源的事態につきあたる。 >>187
ベーメの「無底、無根底 Ungrund」を哲学の中心に据えたのがドイツ観念論。
シェリング、ヘーゲルからその影響はハイデガーにまで及ぶ。
ヘーゲルは『論理の学』の存在論において、
「存在」と「無」は同じであり、これらが同一性と差異性を孕みながら合わさる運動を「生成」と呼んだ。 “神とは(…)あらゆる根底に先立って、あらゆる現実在するものに先立って、
したがってそもそもあらゆる二元性に先立って、自らの本質である「根源実在」なのである。
シェリングはそれを「現根底(Urgrund)あるいはむしろ無根底(Ungrund)」と名付けている。
すなわち、それに関してはいかなる差異も、また有[存在]の組目も、
もともと適当な述語として述べられることのできない「絶対的無差別」のことである。”
― ハイデガー全集42 『シェリング『人間的自由の本質について』』 第18節 無根底は二元論を、その下方への超越において克服する。
ドイツ観念論は、有と無の宇宙を反転させた。 最新の哲学からは、
メイヤスーの『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』(2016)が、デカルトとシェリングの邂逅。
同じく、シェリングの原始偶然に触発された九鬼周造は、
「偶然性は/(1)有が無に根ざしている状態/(2)無が有を浸している形象/(3)無に近い存在」などとしている(『偶然性の問題』(1935))。 井筒のカバラとセフィロト(参考:『意識と本質』 10章)
(1)「ケテル Kether」
意味は「王冠」。存在流出の究極的始源。
『旧約』(出エジプト記 3:14)の神言「在りて在るもの」に当たる純粋「有」の絶対的「一」。
仏教では「空」すなわち「真空妙有」の「妙有」的側面に当たり、一切の「多」を無文節的に内蔵する。
(2)「ホクマー Hokmah」
「叡智」。仏教でいう「般若」だが、カッバーラーではこれを神の意識とする。
神が自らを観想するところに現成する知で、絶対無文節的覚知。
イマージュとしては、際涯ない空間の拡がりの中に、独り燦然と輝く巨大な太陽。
この太陽から不断に発生する光線の一つ一つが、もっと下の存在段階で結晶して経験的事物の「元型」となる。
(3)「ビーナー Binah」
「分別知」。神が自らをそこに映して、自らの内面をあるがままに眺める鏡に例えられる。
神は自らの一者性の内に潜む多者を見る。
あたかもプリズムを通った光のように、「神の顔」は無数に分かれ、ここに最初の存在文節が起こる。
密教でいう「種子(ビージャ)」。
(4)「ヘセド Hesed」
「慈悲」。神の創造性の肯定的側面を表し、全てのものに存在を与える。
・
・
・
(10)「マルクート Malkut」
「王国」。先行するすべての「セフィーロート」のエネルギーが一つになってここに流れ込んでくる。
神的実在の世界は「元型」構造的にここで終端に達し、その下には被造界が展開する。
セフィロトの樹:http://blog-imgs-76.fc2.com/a/a/5/aa57/treeofflife20150115.jpg 田川の新訳をみていってるが、確かに参照せざるを得ない。
本文訳40ページに対して、註解800ページ。
註解の中では、既存の「A訳のここはダメ」、「B訳のあそこはけしからん」などといいながら、
全ての訳出の意図を解説している。
これ程の註解は見たことがない。 本文訳だけを集めて一冊にするという話もあるが、
この人のは註解を読むものだろう。 古代ギリシャ語について
「自分の語学力が辛うじて及第点に到達したかな、
と思えるようになったのは、六十歳代も半ばになってから」
とか、
「今日新約聖書のギリシャ語の最高級の学術的辞書だと評価されている
バウアーの辞書のその語の項目をみると、バウアーがつけている訳語の用例として
同時代の碑文、パピルス、著作等々のさまざまな個所が言及されている。(略)
しかしそれを見て、どうもこれはおかしいんじゃないか、とぴんときた。」
という具合。
田川『新約聖書 訳と註 第3巻』の中で、
・「全体への序文」
・「解説」で最新のテクストクリティーク事情
が読める。 (1)『書物としての新約聖書』 田川建三 (1997)
(2)『はじめて読む聖書』 田川建三 (2014)
1.独立した本として、田川による新約のテクストクリティーク(正文批判)について読めるものはこれ。
2.「神を信じないクリスチャン」の背景はこちら。 プロテスタントとカトリックとの共同訳によるものでも、護教的な解釈がみられる、というスタンス。 >>161
「苦よもぎ」については、スイスとフランスの酒造法の違いの話とか
>>213
マルクス『資本論』邦訳へのダメ出しまで
>>216
> 神を信じない
というのは不可知論的なニュアンス >>105-110
白水社
『現代キリスト教思想叢書 1 シュライエルマッハー、リッチュル』
『現代キリスト教思想叢書 2 トレルチ、ケーラー、ヘルマン』
『現代キリスト教思想叢書 3 ニューマン、チェスタトン、エリオット』
『現代キリスト教思想叢書 4 ウェスレー、フォーサイス』
『現代キリスト教思想叢書 5 ヘーゲル、キルケゴール』
『現代キリスト教思想叢書 6 ヴェーユ、ボンヘッファー』
『現代キリスト教思想叢書 7 ベルジャーエフ、マルセル』
『現代キリスト教思想叢書 8 ティリッヒ、ニーバー』
『現代キリスト教思想叢書 9 バルト、ゴルヴィッツァー』
『現代キリスト教思想叢書 10 ブルンナー、ゴーガルテン』
『現代キリスト教思想叢書 12 エリュル、ムニエ』
『現代キリスト教思想叢書 13 ラーナー、グァルディーニ』
『現代キリスト教思想叢書 14 オット、パンネンベルク』 『福音と世界 2018年7月号 特集=クィア神学とは何か』
「クィア」な知の営み ―周縁から規範を徹底的に問い直す … 佐々木裕子
クィア神学の定義をめぐる諸問題 … 朝香知己
「イエスとクィア」から「クィアなイエス」へ ―クィア理論を用いた聖書解釈の新たな地平 … 小林昭博
教会をめぐるクィアな可能性 ―〈怒り〉の回復とその共同性に向けて … 堀江有里
これからの「せい」の話をしよう ―生なる、性なる、聖なるかな … 川江友二
*
現代に生きる主の弟子のあり方を問う ―WCCアルーシャ世界宣教伝道会議報告 … 村瀬義史
*
【連載】
地のいと低きところにホサナ7 ―福祉と施し、そしてルースの受難 … ブレイディみかこ
福音の地下水脈(アンダーグラウンド)9 … IKAZUGOKE(前編)
聖書とわたし28 責任、そして「隣人になる」こと … 國分功一郎
みことば散歩19 素顔の君でいて … 望月麻生
野に咲く民衆の神学―別所梅之助を読む4 ―儒教・うるおい・神の裁き … 森 宣雄
現代神学の冒険―新しい海図を求めて22 ―生命の神学3―環境倫理と動物倫理 … 芦名定道
レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む40 … 内田 樹
佐藤優のことばの履歴書52 10年を経て … 佐藤 優
詩篇の思想と信仰155 詩篇149篇 … 月本昭男
新約釈義29 第一テモテ書(5:17-25) … 辻 学
表紙画について … 八木美穂子 “神が聖書のなかに、そして聖書を通して語ったことを見出し、
それをわれわれ自身の時代の概念で包むことが神学のつとめである。”
― A.E.マクグラス 『ポスト・モダン世界のキリスト教 ―21世紀における福音の役割』 (2004) >>221
結局、キリスト教が古い教えでありながら、
常に時代の最先端の問題に対応していっているのは、こういう言葉が示すところだろう。
以下は、聖書の該当する箇所。 “わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵”(2:7)
“目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された”(2:9)
― 「コリントの信徒への手紙1」 >>223
2:9は、「神のメッセージ」が、人智を超えたものであることを示し、
しばしば、宇宙からのシグナルにも例えられる箇所。
2:7では、このように人間にとって「未知なるもの」を、「神秘」という言葉によって内蔵し、
尽きることのない求心力になっている。 “神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。”
― 「エフェソの信徒への手紙」 1:8-9 >>225
「神のメッセージ」=「秘められた計画」を解き明かしていくのが科学だろう。 “天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。”
― 「詩編」 19:2-5 >>227
そして、その教えは、世界中に伝えられる。 >>132、>>149
(7)『新約聖書 訳と註 第七巻 ヨハネの黙示録』 田川建三 (2017)
新約研究の第一人者。本文訳40ページに対して、註解808ページ
付論
・オリーヴ油と葡萄酒、ローマ帝国の保護主義的経済政策。レナック説について (6:6)
・熱心派の籠城? (11:1-2)
・神は王? 政治の言語と宗教の言語 (11:15)
・新約における非人称的三人称複数について (13:16)
・ローマ帝国の貨幣経済、黙示録とマルクス (13:17)
・皇帝礼拝という歴史的幽霊 (13:17)
・再生のネロの伝説 (17:11) “神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。”
― 旧約 「創世記」 1:3 “初めに言(ことば=ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。”
― 新約 「ヨハネによる福音書」 1:1-2
“ハジマリニ カシコイモノゴザル。
コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。
コノカシコイモノワゴクラク。”
― 最古の日本語聖書、ギュツラフ訳 「ヨハネによる福音書」 1:1-2
カール・ギュツラフ(Karl Gutzlaff)は、マカオで漢訳『神天聖書』を参照しながら
日本人漂流民3人の協力を得て『約翰(ヨハネ)福音之伝』(1837年)を訳し、
シンガポールで出版した。 >>234-235
聖書にある2種類の「言葉」
・ヘブライ語の「ダーバール(רבד dabar)」(創世記 15:1)
・ギリシャ語の「ロゴス(λόγος logos)」(ヨハネ 1:1)
ダーバールは、動的で、働きかける特質があるのに対して、
ロゴスは、静的で、存在していることを特質とする。
特にダーバールは、創世記冒頭や言霊のような存在喚起力をイメージするといい。
(参考:>>141) ヘブライ的「言葉」ダーバール
・前へと駆り立てる → 話す → 「言葉」 → 行為的
ギリシャ的「言葉」ロゴス
・集める、秩序 → 話す、計算する、思惟する → 「言葉」 → 理性的 ロゴスを万物の根本としたのは新約だけではない。
「パンタ・レイ(万物流転)」で知られるヘラクレイトスなども例に挙げられる。 ヘラクレイトス
・「理(ことわり=ロゴス)に聞いて、万物が一であることを認めるのが知」(断片50)
・「理(ことわり=ロゴス)――全体を司るもの」(断片72)
万物が流転する中に、一切を統合する理法としてロゴスを重視するものだが、
ヘラクレイトスはエペソス(トルコ西部の小アジア)出身であり、
その哲学は、非ギリシャ的であることがしばしば指摘される。 キリスト教の中心にあるロゴスとは、
存在エネルギーであり、一にして一切である神的次元の言語。
ロゴスの先にダーバールがある。 『ソシュールで読む聖書物語』 高尾利数 (1993)
聖書に、ランガージュ(言語活動)の神話的表出を読む “五大にみな響きあり。(地・水・火・風・空の五大からなる森羅万象が声として響き)
十界に言語を具す。(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の十界すべてが言語を具え)
六塵ことごとく文字なり。(色・声・香・味・触・法の六塵といった知覚世界の諸差異が文字を生じ)
法身はこれ実相なり。”(宇宙の本源たる大日如来は、この世界のあるがままの姿に他ならない)
― 空海 「声字実相義」
宇宙の姿は、大日如来の言語活動(ランガージュ)そのものであると エックハルトやベーメみたいなキリスト教思想界から見れば木っ端みたいな連中をありがたるのは日本人の一部だけ >>243
では、今、誰もしくはどんなことに注目すべきだと? >>242
こんな空海がどうだのキリスト教思想と何も関係ない
まさに上っ面の上っ面 >>245
では、今、誰もしくはどんなことに注目すべきだと? >>243
>>141のボーマンは、
キリスト教会は、ユダヤ人であったキリストをギリシャ人として表現してきた。
だから、(考え抜いたのなら)日本人はキリストを日本人として表現していい、とまで言っている。
それは、キリスト像が民族を越え、全人類に属すという考えにある。 >>243
今、注目されている哲学者
・仏のカンタン・メイヤスー
・独のマルクス・ガブリエル
こういう人たちが、シェリングからの影響を挙げているが、
キリスト教との関連として、どのように説明する? >>245
> 上っ面の上っ面
ランガージュといっているのは、言語の深層次元や深層テクストの話。
上の方↑でも、ポスト解釈学時代のキリスト教という話をしてきている。 「キリスト教と自然過程」という話は、ダン・ブラウンのテーマにもなった。 “どんなものも新たに生み出すことはできない、それはもとから自然に記されているのだから。
独創性(オリジナリティ)は起源(オリジン)への回帰によって成り立つ。《アントニ・ガウディ》”
“それこそが、自分にとってこのサグラダ・ファミリアが大きな意味を持つ理由のひとつなのです。
未来の聖堂…自然と直接つながる聖堂のように思えましてね”
― ダン・ブラウン 『オリジン』 (2018) >>鹿取信二
>学問的にイエス・キリストの存在が証明されないのなら、イエス・キリストは架空の人物で間違いないね。 この発想そのものが不勉強な証拠です。
何度も言っているように、そんな基準が成り立つなら、お釈迦様やソクラテスなども、架空の人物になってしまいます。 認識論を考えましょう。
>聖書って聖典じゃないの誤りがあっては困るでしょ。 「誤り」って言葉を単純に、一元的に理解しているから、そういった見解になるんです。 時間的前後関係、地理的な記述、細かな筋立て、などには、人によっては「誤り」だという部分はあります。
現代人が要求するような正確さを、昔の人は考えないからです。それを「異同」なのだと理解する人もいますが、「誤り」は「誤り」として、ではなぜそうなっているのかを考えながら
研究するという人もいます。 それでも「聖典」「正典」として、機能するんですよ。 あなたが知らないだけです。 >>鹿取信二
>>これらの大学では、聖書の逐語霊感論(or 聖書無誤説)に立っていませんから、そうなります。 そんなに驚いているのを見ると、聖書学の本を何も読んだことがないんですね。
だったら、『聖書解釈の歴史』(日本基督教団出版局、同様のが三種類あります。よかったら全部)を読んでみてください。 聖書は人間の原語で、特定の文化の下で書かれているので、その意味で制限があります。
また、古代の人と近代以降の人とでは、文章を書く上で、その精神性に大きな違いがある。このことをあなたのような人が「誤りや矛盾」があると騒ぎ立てているわけですね。
なので、そういうことを「誤りや矛盾」と言っていいのだとすれば、それを知ったうえで、聖書の啓示としての神の言葉の部分を読み取っていこうというのが、多数派の聖書学の立場なわけです。
あなたは、おそらく現代の聖書学の本を一冊も読んだことがないようなので(無神論者なのでしょうがないいけど)、「爆弾発言」だなんて、無知ぶりをひけらかしているのではなく、図書館
にでも行って専門書を見てみてくれませんかね。
そうすれば、信じようと信じまいと、何が常識的なことなのかがわかると思いますから。 すべての人に開かれていることです。 >>鹿取信二
>>「キリスト教の聖書なんて、オカルト雑誌と同じ」と言うけど、じゃ、どうして東大や京大などの
国立大学で聖書が教えられているのかな。ハーバード大学の聖書学は有名だよね。
「聖書は過去の聖職者たちが自分たちに都合がいいように改竄したものが多数出回ってしまっているので内容を検証するのはタブー扱い」というのは、真っ赤なウソです。
新約聖書で言えば、1世紀の写本の断片から始まって、さまざまな古代の写本が研究され、分析され、現代の底本が出来ています。
いつ頃、誰が、自分に都合のいいように「改ざん」したというのでしょうか。「タブー扱い」って(笑)、聖書学に関する無知にもほどがある。
というか、どこでこんなガセネタ仕入れたのか、ぜひとも教えてください。 (まさか『ダ・ヴィンチ・コード』だなんて言わないでね)
「改竄が発覚するのを恐れているからこそ現存する最も古い聖書である死海文書の大部分が現在でも非公開」。
これも大間違い。死海写本は、8年前すべて公開されています。 https://japanese.engadget.com/2010/10/19/google/ 実物は以下。 http://dss.collections.imj.org.il/ どうして一から十まで間違うことができるのか不思議だよ。
すべての人にオープンになっている情報でさえ、まっとうに理解できない人が何言っても
説得力がないね。残念だけど。
でもさ、あなたが指摘したミトラ教の件は、どうしたの? アホなキリスト教徒に「破折」されたってことでいいわけね? >>鹿取信二
>>聖書に、文字通りに読む箇所と、比喩や象徴で書かれている箇所が混在していても、まったく、不思議では
ありません。
聖書に限らずとも、普通でしょ? こういうことに、一貫性など求めてはいけません。
「平和」の意味ついても、文脈で判断するのは、解釈の常識です。単語が全部、一義的にしか使われないなんて、ありえない。
辞書を開いてみれば、わかりますよ(英和でも古語辞典でも)。 「黙示録」についても、全巻あつかった説教集も出ています。
「取り上げない」なんてことはありませんね。
ただ、難解なので敬遠されることはありますが。「レビ記」「オバデヤ書」「フィレモンへの手紙」なども、ありがたいが、積極的に取り
上げていません。説教をどの書からするかって、決まっているんでしょうか。
牧師さん次第でいいんじゃないの?(カトリックは朗読箇所が決まっていて、黙示録もわずかですが読まれます) >>鹿取信二
>>そういう説明は知っているよ。 ただあなたが、いや、ONE PIECE Luffy氏が「存在しない」、と言っていたので、挙げたんですよ。 (だったら、最初から「信じるに足りる文献はない」とか
言えば?って話です) タキトゥスは挙げなかったけど。 また、『古代誌』の中でも、あなたが挙げた箇所を私は、証拠としていないので、誤解なきよう。
(後代の書き込みが指摘される部分と、そうでない部分がある) でも、イエス・キリストの存在を証明することは同時代の文献がないから、実在しないというのから、前にも書いたように、ソクラテスも、プラトンも、ブッダも、存在した証明ができないなります。
これは、古代の人、すべてに起こり得る現象です。 はっきり言って、どうでもよいこと。単なる懐疑主義に浸るつもりはないので。 >>鹿取信二
>>そういう説明は知っているよ。 ただあなたが、いや、ONE PIECE Luffy氏が「存在しない」、と言っていたので、挙げたんですよ。 (だったら、最初から「信じるに足りる文献はない」とか
言えば?って話です) タキトゥスは挙げなかったけど。 また、『古代誌』の中でも、あなたが挙げた箇所を私は、証拠としていないので、誤解なきよう。
(後代の書き込みが指摘される部分と、そうでない部分がある) でも、イエス・キリストの存在を証明することは同時代の文献がないから、実在しないというのから、前にも書いたように、ソクラテスも、プラトンも、ブッダも、存在した証明ができないなります。
これは、古代の人、すべてに起こり得る現象です。 はっきり言って、どうでもよいこと。単なる懐疑主義に浸るつもりはないので。
https://youtu.be/BCQqeYxwszg >>鹿取信二
>>別アカウントですか。 発見されたピース自体は、復元されています。手に入れることのできた断片を再現できたということです。
欠落したり、判読不可能な部分は、それがわかるように示されています。 誰も、純粋に欠落なしで、原本が回復されたなんて言っていません(死海写本について、完全に1片の欠損もないなんて、そんな議論はありません)。
そもそも私は、コメント欄から逃げてしまったONE PIECE Luffyさんが、
「死海文書は公開されていない」と批判してきたので、すでに公開されていることを教えて差し上げたまでです。?? あるキリスト教徒がユダヤ人カバリストの下に行き、カバラを教えてほしいとお願いした。
ユダヤ人カバリストは「あなたたちにはベーメがあるではないか」と言って断った。
↑
これの意味するところは、某国人が「ドラえもん」を見ようとしたら、日本人に「おまえたちにはトンチャモンがあるじゃねーかw」と答えたようなもん
ユダヤ人カバリストの言うところは「おまえたちにはパクリ思想のベーメで十分だろw」ということ。 イエスは、コヘレトにあるような仏教的思想だったのではないか。
http://www.geocities.jp/todo_1091/religion/028.htm
神を完全に知る事を「悟り」
キリスト教の言う天国というのは仏教の言う「涅槃」に近い概念。
死後の世界観
生きている間、愛に生き、死ぬ瞬間にも愛の内にいた者は、
神と結ばれ、永遠に愛の内に留まります。
これが天国の正体です。
教皇ベネディクトXVI世の回勅『希望による救い』より〜
天国、地獄などという場所があり、そこに至ったり、
落ちたりするものではないと考えるのが主流です。
人は死ぬと霊魂は物理学的な宇宙を去ります。
相対性物理学によると宇宙は「時空」と呼ばれ、
空間(場所)と時間(過去と未来)が合わさった存在ですので、
死後の霊魂の世界には場所の概念も時間の概念もありません。
「ここ」も「あそこ」もなく、「過去」も「未来」もありません。
それがどのような世界なのか…宇宙に閉じ込められた我々の創造を絶していますが、
現代宇宙論でも146億年前に宇宙が生まれる前はそのような状態だったと言っています
そのような状態こそ聖書で言う「永遠」だと言われます。
聖書には確かに「信じない者はどうかなる」ような書き方があります。
でもその「信じない」は「愛と救いの力を信じない」という意味であって、
キリスト教という宗教を信じないという意味ではないのです。
キリスト教と仏教というのは親和性のあるもので
イエスの言葉の多くが釈尊の教えに近い。
カトリックは元々のイエスの教えに立ち戻ったのです。 イエスは、コヘレトにあるような仏教的思想だったのではないか。
http://www.geocities.jp/todo_1091/religion/028.htm
神を完全に知る事を「悟り」
キリスト教の言う天国というのは仏教の言う「涅槃」に近い概念。
死後の世界観
生きている間、愛に生き、死ぬ瞬間にも愛の内にいた者は、
神と結ばれ、永遠に愛の内に留まります。
これが天国の正体です。
教皇ベネディクトXVI世の回勅『希望による救い』より〜
天国、地獄などという場所があり、そこに至ったり、
落ちたりするものではないと考えるのが主流です。
人は死ぬと霊魂は物理学的な宇宙を去ります。
相対性物理学によると宇宙は「時空」と呼ばれ、
空間(場所)と時間(過去と未来)が合わさった存在ですので、
死後の霊魂の世界には場所の概念も時間の概念もありません。
「ここ」も「あそこ」もなく、「過去」も「未来」もありません。
それがどのような世界なのか…宇宙に閉じ込められた我々の創造を絶していますが、
現代宇宙論でも146億年前に宇宙が生まれる前はそのような状態だったと言っています
そのような状態こそ聖書で言う「永遠」だと言われます。
聖書には確かに「信じない者はどうかなる」ような書き方があります。
でもその「信じない」は「愛と救いの力を信じない」という意味であって、
キリスト教という宗教を信じないという意味ではないのです。
キリスト教と仏教というのは親和性のあるもので
イエスの言葉の多くが釈尊の教えに近い。
カトリックは元々のイエスの教えに立ち戻ったのです。 http://www.geocities.jp/todo_1091/religion/028.htm
>上村氏「先ほど説明した黙示思想の二元論が出てきた時代。コヘレトはこの二元論を全否定し、死後の世界への期待を切り捨てた。
>ユダヤ教の根本を否定した。歴史は反復するのであり、終末というのも存在しないと。コヘレトの有名な言葉に『空の空』というものがある」
>岩上氏「ほぼ仏教ですね」
この岩上って誰だか分からんけど、どこが「ほぼ仏教」なわけ?.
仏教なんて死後の世界バリバリに期待しまくる宗教だし、仏教に特別な歴史観はない
何もわからんないから適当に仏教言って話についていってるふりしてるだけだろう
つまる↑レスの
>コヘレトにあるような仏教的思想だったのではないか
もこの岩上とかいう人物と同じ程度の認識が長レスしてるって証拠 それはそのとおりだけど、言わずもがなの話だわな
岩上安身が人文的・思想的教養に乏しいのは今に始まったことではない
その長文レスも岩上のコメントもまともに読むに値しないのは自明 初期仏教に死後の世界に期待しまくる概念なんぞないだろう
釈迦は生まれ変わるとか死んだらどうなるって問題は人生にとってはどうだって良いことであると退けている 霊は最強系の保険もあるけど にぎみたま と言われる魂には変幻自在の
欠けがあるでしょう。月を詠んでも面白い。
たましいは みたまにのこる みぎわのさ れいのはいめい いわずともがな つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 女性のつまんない世界を面白くする努力はしてきたつもりだけど。
面白い世界を奪われたことについて、また面白くするということでもないのであろう。 ブッダは、認識の届かない死後の世界に関して「ある」とか「ない」とか
断定する立場を「愚か」であると批判しました。
一つは「人は死んでも永遠に生きる」という考え方
もう一つは「人は死んだら無と帰す」という考え方。
仏教は前者を「常見」と呼び、後者を「断見」と呼んで、その両方を批判して、
仏教の無我・縁起の立場を「中道」と呼びました。常見も断見も
「死後における自分の運命がどうなるかを心配する」点において同類の思想です。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があって
はじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後
存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、
ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方が
あろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、
悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』
中公バックス、P473〜P478) スッタニパータ 第三 大いなる章
10、 コーカーリヤ
「たとえば、コ―サラ国の桝目ではかって二十カーリカのごまの積荷(一車輛分)があって、それを取り出すとしよう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつとりだすとしよう。
その方法によって、コ―サラ国の桝目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輛分)が速やかに尽きたとしても、一つのアブッダ地獄はまだ尽きるに至らない。
二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄〔の時期〕に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄〔の時期〕に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄〔の時期〕等しい。
二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄〔の時期〕に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄連地獄〔の時期〕に等しい。二十の黄連地獄は一つの白睡蓮地獄〔の時期〕に等しい。
二十の白睡蓮地獄は一つの青連地獄〔の時期〕に等しい。二十の青連地獄は一つの白連地獄〔の時期〕に等しい。二十の青連地獄は一つの白連地獄〔の時期〕に等しい。
二十の白連地獄は一つの紅蓮地獄〔の時期〕に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」
「悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、十万と三十六のニラッブダの〔巨大な年数のあいだ〕また五つのアッブダの〔巨大な年数のあいだ〕地獄に赴く。
うそを言う人は地獄に堕ちる。また実際にしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者ともに行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に堕ちる)」
これがブッダの真説です。 >>263-264
ニヒリズム(虚無主義)に寄り過ぎかな “禅の方法をクリスチャンに説明するために聖書の言葉を借りるとしたら、
『詩編』四十六篇の有名な一節がふさわしいでしょう。
「静まりなさい。そして、私が神であることを知りなさい」。[略]
聖書学者によれば、ヘブライ語で「知る」を意味するyadahという言葉には、
「体験する」という意味もあるそうです。
したがって、聖書でも「静寂、沈黙を守れば、神を体験するようになるだろう」と語られていることになります。”
― イレーヌ・マキネス 『禅入門 カトリック修道女の歩んだ道』 (2009) 1章 >>279
こちらも、禅とカトリックと旧約の比較になるが、随分と印象が違う。
他には、エックハルト、十字架のヨハネ、ヨハネス・タウラーなどが引き合いに出される。 『テオーシス 東方・西方教会における人間神化思想の伝統』 田島照久、阿部善彦 編 (2018/2/8)
東方キリスト教における神化思想
第1章 プラトン主義と神化思想の萌芽──東方教父思想における「神に似ること」概念の編y王
第2章 ニュッサのグレゴリウスにおける神化思想──人間本性の開化・成就と神化への道
第3章 証聖者マクシモスにおける神化思想──神化の道行の動的かつ全一的かたち
第4章 デュオニュシオスの神化思想──ヒエラルキアと不知の暗黒
第5章 ディオニュシオス『神秘神学』におけるヒュムネイン(讃えること)──「彼方」の招きと拒絶
第6章 パラマスにおける神化思想──東方的伝統と独創
女性神秘思想における神化思想
第7章 ハーデウィヒの神化思想
第8章 マルグリット・ポレートの神化思想──源流と波紋、火と水の比喩を中心に
ドイツ・ドミニコ会学派における神化思想
第9章 フライベルクのディートリヒの神化思想──「神の像」としての人間知性の観点から
第10章 モースブルクのベルトルトにおける神化思想──神的人間論の観点から
エックハルトにおける神化思想
第11章 エックハルトの「魂における神の子の誕生」教説と「神性への突破」教説
第12章 エックハルトにおける人間神化と関係的存在論
第13章 エックハルトの神化思想と異端断罪
エックハルト以降の神化思想
第14章 タウラーの神化思想──エックハルト断罪以後という観点から
第15章 ゾイゼの神化思想──西方キリスト教におけるキリスト中心的霊性
第16章 リュースブルクの神化思想
近世・近代の神化思想
第17章 クザーヌスの神化思想──神と被造物を隔てる二分法的限界と人間の完全性
第18章 イグナチオ・デ・ロヨラの神化思想──自己無化の下降的動性による一致と涙
第19章 スペイン神秘主義における神化思想──十字架のヨハネとアビラのテレサ (1)『正教会入門:東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』 ティモシー・ウェア 著、松島雄一 訳 (2017)
(2)『ロシア原初年代記』 国本哲男、中条直樹、山口巌 訳 (1987)
“「ロシア原初年代記」には、キエフ大公子ウラジミールがまだ異教徒であった頃に、
彼が真実の宗教とは何であるのかを知りたいと切望し、
家臣を次々と世界中のさまざまな国々へ送り込んだという記述がある。
家臣たちは最初にボルガのイスラム教徒ブルガール人のもとを訪れた。
彼らは、祈る時ムスリムたちはあたりを見回し、
まるで何かにとりつかれたようだと感じ、満足せず次の地へと向かった。〈略〉
次に彼らが訪れたドイツとローマでは、それなりに満足のできる礼拝の形を見つけたが、
祈りには美しさが欠けているのが不満だった。
最終的に彼らはコンスタンティノープルまで足をのばした。
彼らは聖ソフィア大聖堂の聖体礼儀に与り、ついに求めていたものを発見した。
「私たちは天にいるのか地にいるのかわからないほどでした。
この世にこれ以上の壮麗で美しいものはないでしょう…〈略〉」” (1のp305より) ウラジミールじゃなくてウラジーミルな
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