【神学】キリスト教哲学総合スレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>86
こういう話は分かりやすいしスッと入ってくるね
物は考えようということで色んなバリエーションが大量に作れそうだが >>86
マリアの言葉にもある。
“神はそのみ腕をもって力強く働き、心の思いの高ぶるすべての者を打ちこわされます。
神は偉大な君侯をその支配(の座)から引きおろし、低くて、無である者を高めてくださいます。”
― 「ルカ」 1:50-51 論理的/非論理的というのは、人間の思惟の偏りでしかないし、
神の能力の限界を考えることは、人間の理性の限界を示すものでしかない。
仮にできたとしても、非論理的なことの実現のために神が存在するわけではない。 真であるものは一つも無い、とする
すると「真であるものは一つも無い」という真であるものが有ることになってしまい、「真であるものは一つも無い」は偽りである
ゆえに、真であるものは一つ以上有る
真であるものすべてを要素とする集合体を「真そのもの」と呼ぶ
すると、真そのものはそれ自体で有り、一つである
ここで真そのものを「神」と呼ぶと
定理1. 神はそれ自体で有り、神は一つである
真は精神が理解するものとして人の精神に有り、人の精神は人に有る
ゆえに神の居場所は人である
神はそれ自体で有るから、人が無くても神が人という居場所に有るためには神が人そのものであるしかない
定理2. 神は人である (この世に来る前の神は可能態としての人)
神は一つである(定理1.による)から
定理3. 神は一人である
ゆえに
定理4. 神はただ一つの人格(Persona)から成る
真を意志するとき、真は「善」と呼ばれる
だから神は善そのものでもある ビッチを問題にしているのではないよ。
出鱈目は困るが。 哲学の命題や宗教の戒律は、地図やコンパスであって、
それによって示され、共有される哲学的・宗教的真理があるというだけの話。 キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」
“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。”
― 「フィリピ」 2:6-7 ἐκένωσεν(ekenōsen)
の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。 >>98-99
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)所収の
・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス
が、キリストのケノーシスと仏教の空を比較していて詳しい。 更に、レヴィナスは、キリストのケノーシスを、モーセの「アナワー(謙遜)」と重ねる。
“モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。”
― 「民数記」 12:3 “高慢は偶像崇拝に等しい”
― 「サムエル上」 15:23 >>101
エマニュエル・レヴィナス 『超越と知解可能性』 (1996) 平凡社ライブラリー
キリスト教史 1巻 初代教会
キリスト教史 2巻 教父時代
キリスト教史 3巻 中世キリスト教の成立
キリスト教史 4巻 中世キリスト教の発展
キリスト教史 5巻 信仰分裂の時代
キリスト教史 6巻 バロック時代のキリスト教
キリスト教史 7巻 啓蒙と革命の時代
キリスト教史 8巻 ロマン主義時代のキリスト教
キリスト教史 9巻 自由主義とキリスト教
キリスト教史 10巻 現代世界とキリスト教の発展
キリスト教史 11巻 現代に生きる教会 平凡社
中世思想原典集成 1巻 初期ギリシア教父
中世思想原典集成 2巻 盛期ギリシア教父
中世思想原典集成 3巻 後期ギリシア教父・ビザンティン思想
中世思想原典集成 4巻 初期ラテン教父
中世思想原典集成 5巻 後期ラテン教父
中世思想原典集成 6巻 カロリング・ルネサンス
中世思想原典集成 7巻 前期スコラ学
中世思想原典集成 8巻 シャルトル学派
中世思想原典集成 9巻 サン=ヴィクトル学派
中世思想原典集成 10巻 修道院神学
中世思想原典集成 11巻 イスラーム哲学
中世思想原典集成 12巻 フランシスコ会学派
中世思想原典集成 13巻 盛期スコラ学
中世思想原典集成 14巻 トマス・アクィナス
中世思想原典集成 15巻 女性の神秘家
中世思想原典集成 16巻 ドイツ神秘思想
中世思想原典集成 17巻 中世末期の神秘思想
中世思想原典集成 18巻 後期スコラ学
中世思想原典集成 19巻 中世末期の言語・自然哲学
中世思想原典集成 20巻 近世のスコラ学
中世思想原典集成 別巻 中世思想史 教文館
キリスト教神秘主義著作集 1巻 ギリシア教父の神秘主義
キリスト教神秘主義著作集 2巻 ベルナール
キリスト教神秘主義著作集 3巻 サン・ヴィクトル派とその周辺
キリスト教神秘主義著作集 4巻 中世の女性神秘家 1
キリスト教神秘主義著作集 6巻 エックハルト 1
キリスト教神秘主義著作集 7巻 エックハルト 2
キリスト教神秘主義著作集 9巻 ゾイゼとリュースブルク
キリスト教神秘主義著作集 10巻 クザーヌス
キリスト教神秘主義著作集 11巻 シュタウピッツとルター
キリスト教神秘主義著作集 12巻 十六世紀の神秘思想
キリスト教神秘主義著作集 13巻 ヤコブ・ベーメ
キリスト教神秘主義著作集 14巻 十七・十八世紀のベーミストたち
キリスト教神秘主義著作集 15巻 キエティスム
キリスト教神秘主義著作集 16巻 近代の自然神秘思想
キリスト教神秘主義著作集 17巻 サン=マルタン 創文社
ドイツ神秘主義叢書 1:マクデブルクのメヒティルト「神性の流れる光」
ドイツ神秘主義叢書 2:マイスター・エックハルト「ドイツ語説教集」
ドイツ神秘主義叢書 3:マイスター・エックハルト「エックハルト論述集」
ドイツ神秘主義叢書 4:ヨハネス・タウラー「タウラー説教集」
ドイツ神秘主義叢書 5:ハインリヒ・ゾイゼ「ゾイゼの生涯」
ドイツ神秘主義叢書 6:ハインリヒ・ゾイゼ「永遠の知恵の書・真理の書・小書簡集」
ドイツ神秘主義叢書 7:ニコラウス・クザーヌス「非他なるもの」
ドイツ神秘主義叢書 8:ヤーコプ・ベーメ「アウローラ : 明け初める東天の紅」
ドイツ神秘主義叢書 9:ヤーコプ・ベーメ「ベーメ小論集」
ドイツ神秘主義叢書10:ドイツ神学
ドイツ神秘主義叢書12:ヴァレンティン・ヴァイゲル「キリスト教についての対話」 マルティン・ルター 『ルター著作選集』 徳善義和訳 (2012) Coro dos Monges Beneditinos - Cristo no Getsêmani: Quaresma
https://www.youtube.com/watch?v=mdXOTbpNwts
The Dark Ages - Sacred Medieval Chants (Album)
https://www.youtube.com/watch?v=Yfwu6LVndGY 哲学を見い出せるかどうかは、
哲学の語彙と文法を持つかどうかによる “解釈学の課題とは、テクストの背後に隠れていると想定される著者の意図からではなく、
このテクストの指示として、テクストの前にくりひろげられる
世界内存在の質から、定義することである”
― ポール・リクール 『聖書解釈学』 (1995) リクールwikiより
> 『記憶、歴史、忘却』執筆時に秘書(編集助手)を務めていたのは当時大学生のエマニュエル・マクロン。 主な聖書(新旧2in1)
・『聖書 新共同訳』 日本聖書協会
・『聖書 新改訳』 新日本聖書刊行会
・『聖書 口語訳』 日本聖書協会
・『聖書 文語訳』 日本聖書協会
・『聖書 フランシスコ会訳』 フランシスコ会聖書研究所 初学者にオススメなのは、
・『聖書 新共同訳(スタディ版)』 日本聖書協会
カトリックとプロテスタントの共同訳で、スタディ版は注釈つき。
注釈も読んでいけば、重要箇所を読み落とすことがない。 有名絵画や図説で読む聖書
・『巨匠が描いた聖書』 町田俊之、いのちのことば社フォレストブックス (2009)
・『図説聖書物語 旧約篇』 山形孝夫、河出書房新社 (2001)
・『図説聖書物語 新約篇』 山形孝夫、河出書房新社 (2017)
・『アートバイブル』 町田俊之、日本聖書協会 (2003)
・『アートバイブル II』 町田俊之、日本聖書協会 (2008)
・『地図と絵画で読む聖書大百科 ビブリカ』 バリー・J.バイツェル、創元社 (2008) \34,560
・『地図と絵画で読む聖書大百科 (普及版)』 バリー・J.バイツェル、創元社 (2013) \4,536
聖書の構成そのままのダイジェストになっているもの。 Textkritik(テクストクリティーク)の元はこの分野 解釈癖より、よく行動する世代かね。しかしテキストの背後
世界内存在 と並べてみると何かおかしいことに気付かんか?
テキストの背景と世界外存在の方がしっくりくるだろう。 >>122
なにしょーもない本を売ろうと煽ってんだよ
クソ高いし誰が買うんだそんなもん >>124
>>115で「テクストの背後に」あるといっているのは著者の意図(ex. ロラン・バルト『作者の死』)。
それに対して、デリダが「テクストの外には何もない」といっているところの、ハイデガー的「世界内存在」。 >>125
同内容の本に目を通す時は、大は小を兼ねる。急がば回れ。
『バイリンガル こどもせいしょ』 エレナ・パスカリ、プリシラ・ラモント (2016) \1,944 読んだ印象が分かれるのは「ヨハネの黙示録」だろう。
アンジェリックな読みから物々しいものまである。
ちゃんとした解説にあたるのがいい。
(1)『ヨハネの黙示録 グループスタディ12章』 加藤常昭、日本キリスト教団出版局 (2010)
(2)『ヨハネの黙示録を読む』 今道瑤子、女子パウロ会 (2000)
1のシリーズは良さそう。 なんなのお この人たちいいいいいいい
ぱぴならあああああああ(о´∀`о) キリスト教を哲学として見ていくには、ルターをやるといい。
『ルター著作選集』は、聖書の手引きとしても最良。 ルター「ハイデルベルク討論」における解体/構築
<解説>
「ハイデルベルク討論」の終わりのところで「十字架の神学」が隠れたる神の逆説として展開する。
ルターによるとキリストにおいて自己を啓示する神、つまり顕れた神は、もっとも深く自身を隠している神である。
(略)キリストは苦難と十字架というローマの極刑に付けられた、見るかげもない哀れな姿において自己自身をあらわす。
<本文>
(19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
(20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
[独語] Die Heidelberger Disputation
http://www.reformatorischeschriften.de/Hddisp/hddisput.html
[英語] The Heidelberg Disputation
http://www.catchpenny.org/heidel.html
解説…『ルター神学討論集』 マルティン・ルター、金子晴勇 (2010)
本文…『ルター著作選集』 マルティン・ルター、徳善義和ほか (2012) >>135
(19)はアリストテレス主義的スコラ学派による「栄光の神学」
(20)はパウロによる「十字架の神学」
ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 >>135
デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009)
https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1
ハイデガーとルター “わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵”
― 「コリントの信徒への手紙1」2:7
聖書に書かれた言葉の様態 “「真理」という語は、ギリシア人のもとでは或る否定を伴っている、
すなわちア-レーテイア<ἀ-λήθεια>――
非-覆蔵性、覆蔵されて-いないこと、である。”
― 『ハイデッガー全集 55 ヘラクレイトス』 p110
真理=隠されていないこと “「オカルト」という語は、けっきょくのところ、「未知なるもの」、隠されているものを意味するのだ。”
― コリン・ウィルソン 『オカルト』 (1985)
オカルト [occult]
神秘的なこと。超自然的なさま。(広辞苑第五版)
ラテン語: occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする。 『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』 トーレイフ・ボーマン (2003)
旧新聖書を通して、ヘブライ/ギリシャ文化の違いは以下の様に説明される。
・ヘブライ人の思惟…動的
・ギリシャ人の思惟…静的 『ポスト・モダン世界のキリスト教 ―21世紀における福音の役割』 (2004)
A.E.マクグラス
>>115、>>126にあるデリダやバルトの話も出てくる。 久々に黙示録読んだけどひでぇファンタジー小説だなw
著者の「ローマ帝国滅べぇぇぇ!信者は絶対に天国!」という願望ダダ漏れで笑える >>132の1の解説では、黙示録の全てが19:10に集中されるという。
それまで常に声をかけ、勝利の幻を見続けさせてくれた天使を、
ヨハネは思わずひれ伏して拝もうとする。
すると、天使が次の様に言うわけだね。
「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」と。
礼拝すべきはただひとり神であると。 >>132の他
(3)『ヨハネの黙示録(全2巻)』 佐竹明、新教出版社 (1978)
(4)『ヨハネの黙示録』 小河陽、講談社学術文庫 (2018)
(5)『黙示録論 ─現代人は愛しうるか』 D.H.ロレンス、ちくま学芸文庫 (2004)
(6)『ヨハネの黙示録を読もう』 村上伸、日本キリスト教団出版局 (2014)
3.黙示録研究の第一人者。翻訳と詳細解説
4.翻訳。図版資料が多い
5.シンボリズム読解に徹底した読み
6.時事問題と対照した読み 田川建三の注解が一番詳細だろ
日本語でこれだけの内容が読めるというのは割と凄い 田川の解説は何冊か読んでるけど、何か回りくどい様に思う 同じ世代だけど、
『イエスとその時代』(1974)の荒井献は良かった。
色々と読んでみたい。 田川建三はテキストクリティークとしては群を抜いて優れているけど、宗教思想書として聖書を読みたい人にとってはあまり役に立たない
信仰の書として読みたい人にとっては害悪だろうな >>149
>(4)『ヨハネの黙示録』 小河陽、講談社学術文庫 (2018)
最近出たこの本だけど、訳者後書きに「文庫化に際して佐竹明の本(3)と田川建三の『訳と注』を検討しようと思ったけど、時間がなくて出来なかった」という趣旨が書かれてあった
出版を急ぐ必要のある種類の本でもないだろうし、講談社は待ってやればよかったのに >>157
その本は、1996年に岩波から出ていたもののリニューアル版。
田川の黙示録は、昨年8月に出たばかりだったね。
かなりの新説ということだけど、amazonではオール5つ星。 『新約聖書 訳と註 第七巻 ヨハネの黙示録』 田川建三 (2017/8/31)
田川建三HP:「ヨハネの黙示録」新訳についての解説
http://www.tagawa-kenzo.server-shared.com/sub30.apocalypse.htm 昨年11月に、『ゲンロン0』と一緒に毎日文化賞受賞してた。
> 「新約聖書 訳と註 全7巻(全8冊)」田川建三訳著(作品社) 「にがよもぎ」は出てこないということに関する小論も付いて… “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』)
エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>164
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷啓治、上田閑照らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 シレジウスやエックハルトにおける神性の「無」、あるいはベーメにおける無底としての「無」って
「絶対的存在」を表現する否定神学的なレトリックに過ぎず、読むにあたってはいちいち「絶対的存在」と読み替えてよいものなんだろうか サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 すると、主は言われた。 「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 魔術師サウロね。ま、魔術は結構秘密だけどメジャーになりやすいね。 エックハルトは発想は面白いけど詭弁的だよな
炭を手においた場合〜みたいに “思惟を超えた一はいかなる思惟によっても思惟されない。
言葉を超えた善はいかなる言葉によっても語られない。
それはすべての単一者を一にする単一、
存在を超えた存在、
非知的知性、
語られざるロゴス。
非言語、非知性、非名称。
いかなる存在者として在るものでもない。”
― ディオニシオス・アレオパギテース 「神名論」 1:1:7 『キリスト教神秘主義著作集 1』 (1992) >>174
もう一人、否定神学として知られる、
5-6世紀シリアの神学者、いわゆる偽ディオニュシオス。 エックハルトは「神 Gott」と「神性 Gottheit」を分けた。 「離脱・放下」攷(二十三)― 唯一性と三位一体性との間
https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/c/7c3426c149382b804a8e21cba0562d86/44
> エックハルトのいう神性(Gottheit)は、そこから私たちの精神に表象が形成される根底のようなものである。
> それは、在るものについても在らぬものについても同様である。
> それゆえ、この神性は、構造的に、新プラトン主義者たちのいう言表不可能な〈一〉と似ている。
その他、エックハルトと偽ディオニュシウスについてなど 創世神話や神秘主義、老子などには、最初から前提として無が出てくるが、
エックハルトは、素朴な文章の中に、自ら無を見い出した。 神の姿形を見ることは出来ないという記述
“いまだかつて、神を見た者はいない。”(ヨハネ 1:18)
“あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。”(出エジプト 33:20) 神の姿が人を想起させる記述
“神は御自分にかたどって人を創造された。”(創世記 1:27)
“玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」”(黙示録 19:4) >>179
これはアウグスティヌスの主張と反対なんだわな
多分アウグスティヌスの方が合理性がある エックハルトは死ぬ前に教会に教えとに反すると指摘されたところは全て破棄して教会に従うと証言している
つまり今現存しているエックハルトの著作はエックハルト自身によって否定された内容 マイスター、マスターは、フリーメイソンの称号
ヴィルヘルム・マイスターの修行時代
ゲーテも有名なフリーメイソン
マスター・キートン
フリーメイソンの漫画 >>179
更に、エックハルトの説いた「神性の無」を取り出し、「無底」としたのがベーメ ヤコブ・ベーメの無
“自己の自我ー形成と意欲が沈黙するならば、神の形成と意欲が現れるのである。
なぜなら、没意欲であるものは無と一なるものであり、自然の外にあるが、
この無底が神そのものであるから。”
― 「神を見る高貴な門」 2:20 『キリストへの道』 (1991)
“自然を離れては神はミステリウムであり、すなわち無のうちにある。
まことに自然をとり除けばただ無であり、無は、永遠の目、底無しの目であって、
無のうちに浮かび、無のなかを覗き、まことにこの目は底がないのである。
そしてこの目が意思であり、すなわち、あらわれ出て無を見出したいと願うあこがれなのである。”
― 「シグナトゥーラ・レールム」 3:2 『キリスト教神秘主義著作集 13』 (1989) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています