発せられる問ひが「自分は誰に『つか(使/仕)ふ』べきなのか」に限定される
なら、その答えは、「自分を可能な限り高く買ってくれる相手」ということ
になり、「自分が何に「あた(値)ひ」するか」は、自分を使用する特定の誰か
による値踏みに依存することになる。したがって、市場で役に立つ人間を求め
ている雇用者に「つか(使/仕)ふ」価値がないと値踏みされた人間は、無価値
であることになるのだから、「自分は誰に『つか(使/仕)ふ』べきなのか」
という問ひに囚われている限り、自分自身が無価値な存在として現れること
になる。だからこそ、哲学が発する問いは、属人的であるべきではなく、
たとえ他者に無価値であると値踏みされたところで、「自分は何に
『つか(使/仕)ふ』べきか」でなければならないのだ。