「誰が得をするのか(Cui bono)?」という犯罪捜査の基本としてドラマによく
出てくる通俗的な考え方は、哲学的に考慮するなら、出来事(Ergeignis)を
自己化の現象としての「存在の投企」として解釈しようとする試みとして
理解することもできるのではないだろうか。結果として現れた出来事が
「誰に『よい』ものであるか(Cui bono)」により、自己が主体化されて
現象する。