数学を初めとした理系の学問と哲学について 10
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対象が「高階述語論理」となる場合に、不完全性定理が証明されるということは、 システムや系が複雑、かつ、複合的な抽象的構造物になるに従って、そうした 矛盾する要素やバグを構造的に発生させやすい、という洞察もそこから得られそうだ。 たとえば、異常気象が頻発する自然界だけでなく、現代の社会システムは流動的で 変化が激しく、非常に複雑に見える。北朝鮮情勢一つ取ってみてもそうだ。こうした複雑な現実や社会に適切に対応するには、完全性を証明できる単純なモデルや一階 述語論理で世界や社会を捉えるよりも、それらを一種の高階述語論理としてモデル化して捉えた方が、より無理のない柔軟性を備えたシステムやモデルを構築することが 可能になるだろうね。 あと、米大統領選では大方のクリントン勝利の予想をトランプが覆して勝利した。 その開票時、自分はライブで、天才統計学者と呼ばれるネイト・ シルバーのtwitterを見ながら、 彼の当選予想の経時的推移を示すグラフ更新をずっと見ていたけど、結局、彼の予想は 大外れだった。欧米の一流紙と呼ばれるジャーナリズムも同様に、大外れ。 これに、ゲーデルの不完全性定理を哲学として実装することで、なにか見えて来るものがありそうだ。 統計学という、その内部では、一つの無矛盾で、整合的、完全だと思われていたシステムが、 全く、現実の動き(投票行動)を反映して予測することが出来なかった。 ゲーデルなら、統計やシステムが持つ矛盾やバグ、不完全性に対して、もっと明示的である ことが出来たのではないだろうか。統計学の正しさは、決して統計学自身からは証明できない…、 それをベタに信用するな、といった風にね。財務省の公文書改竄や森友への8億円ディスカウント 国有地払い下げもそうだ。 統計学者は選挙が構成に行われるという前提で試算をしてるはずだから ロシアゲートの介入がなければヒラリー・クリントンが勝ってたということで正しい 出口調査で虚偽の回答をする隠れトランプ支持者の存在もかなりあっただろう そうした有権者の虚偽の回答数を統計学的に正しく補足、補完、校正出来なかったので、 そのアウトプットとしての当選予想も偽となったのだろうよ。 m11sであれば、mathematicsの略語、 p10yであれば、philosophyの略語として使えそう トランプが大統領になったら世界はとんでもないことになる。 だからみんなでヒラリーを応援しなければならないと唱えていた 人々は、ヒラリーが大統領になっていたら、ウクライナと巡る ロシアとの対決、シリア問題、北朝鮮問題などで今よりはるかに ましな状況になっていたはずだと信じているのかな。 ヒラリーが大統領だったとしたら、米国の外交政策がどのように 変わって、なにがどのように改善したはずだと考えているのだろう。 英国がEUを離脱すると天地がひっくり返ったようなとんでもない事態に なると騒いでいた人々もいた。英国がEUに留まっていたら、今のような ぐだぐだの事態は生じなかったはずだと信じているのだろう。だとすると、 英国がEUに留まることで、何がどのように改善していたはずだと考えて いるのだろう。 構想に具体性がなければ、改善の道筋も見えてこないのではないか? 英国のEU離脱がとんでもない悲劇を引き起こすと騒ぎなら、その一方で カタルーニャ州の独立を応援していた人々もいた。その人々は、今でも カタルーニャは国家としての独立を目指すべきだと考えているのだろうか。 カタルーニャが独立するとどんなよいことが生じると想定されるのだろう。 必ずしも数学との関連は無くていいが、日本の教育課程における理系に準ずる話題でお願いしたい アッカーマン関数Ack(m,n)は、非負整数m,nに対し、 Ack(m,n) = { n + 1, (m = 0 の時) Ack(m-1, 1), (n = 0 の時) Ack(m-1, Ack(m, n-1), (m ≠ 0, n ≠ 0) } という風に定義される関数のことで、関数の中に関数が入っている いわゆる再帰関数が入っている点がポイントになる。 このアッカーマン関数Ack(m,n)は、Ack(m=4,n=2)の時点で、既にその値が (2^65536) - 3 という非常に巨大な数値となってしまい、それ以降の値は、 指数タワーやハイパー演算子などの特殊な記法を使わないと表現出来なくなる。 つまり、一般的な演算子では表現しきれない巨大な値になってしまう。 だから、グラフで表示出来る範囲、m = 0〜3 , n = 0〜5 の範囲で、 このアッカーマン関数Ack(m,n)を3D散布図のグラフでプログラミングをしてみた。 https://i.imgur.com/MyVi8c3.png 3Dグラフなので、本当はクルクル座標を360°回転させられるのだけど、これは静止画像を アップしただけなので、そうしたインタラクティブな動きはここでは出来ないけど、 アッカーマン関数が作るm,nが小さい時の値(解)なら、このグラフでイメージは掴めるだろう。 Ack(m=5,n=0),Ack(m=4,n=1)でその解は、既に共に65533、Ack(m=5,n=1)で、65536階立ての 指数タワー マイナス3で表されるような非常に巨大な値になってしまう。 なので、それらのグラフに表示しきれないm,nの変域は、このグラフで使っていない。 このことからも分る通り、このアッカーマン関数Ack(m,n)の特徴は、解の発散性にある。 m,nが割と小さな値の時でも、すぐに解が巨大な数へと発散する。 グラフ理論の問題の計算量の評価に、アッカーマン関数の逆関数が使われたりする。 だから、いわゆる「最適化問題」などに、この関数が使われていることが分るね。 あと最初に書いたように、アッカーマン関数Ack(m,n)の構造的特徴は、再帰関数を使って定義していること。 少しだけ具体的なアッカーマン関数Ack(m,n)の解を書いておく。 Ack(m=3,n=0) → 5 Ack(m=3,n=1) → 13 Ack(m=3,n=2) → 29 Ack(m=3,n=3) → 61 Ack(m=3,n=4) → 125 Ack(m=3,n=5) → 253 Ack(m=4,n=2) → (2^65536)-3 Ack(m=4,n=3) → (2^2^65536)-3 巨大数とは、日常生活において使用される数よりも巨大な数(実数)のことである。 非常に巨大な数は、数学、天文学、宇宙論、暗号理論、インターネットやコンピュータ などの分野でしばしば登場する。天文学的数字と呼ばれることもある。 巨大数に対して、0ではないが0に限りなく近い正の実数のことを微小数という。 巨大な数や微小な数を処理するために特殊な数学記号が使われている。 ビジービーバー関数 Σ は、あらゆる計算可能関数よりも速く増大する関数の一例である。 ビジービーバー関数自身は計算不可能である。引数が比較的小さな値であっても巨大な値を返す。 n = 1, 2, 3, 4 に対して、Σ(n) の値はそれぞれ 1, 4, 6, 13 である。 Σ(5) は未知であるが、4098以上の値をとる。Σ(6) は少なくとも 1.29×(10^865)である。 また、解析によるとΣ(23)がグラハム数を超えることが分かっている。 不完全性定理ってある系の中では無矛盾を証明できないって話じゃないのか 統計学は予測を外すから完全じゃないとかちょっと困りますね >>381 アッカーマン関数Ack(m,n)を3D散布図のグラフでプログラミングをしてみた。 それを少し、角度を変えて、同じ散布図を表示させてみた。 https://i.imgur.com/wJMf39J.png Ack(m=3,n=5) の解が 253 となるので、 3D散布図のグラフでは,解の最大値が253を付けているのが、おおよそ分るだろう。 Ack(m=4,n=2)だと、もう、(2^65536)-3 のように解が巨大数になっているので、 普通の方法ではグラフにそのまま表示出来ない。再帰関数が持っている 不可思議な構造が、そこに垣間見えるね。 >>385 なんで、数学できないのに、このスレに入ってくるの? 天文学的な数っていうけど、天文学で使う数は精々指数表記レベル 巨大数の世界では弱すぎ >>387 それと哲学の関係を述べないとスレ違いなのだが? http://www.washington.edu/news/2018/04/09/admx-detection-technology/ April 9, 2018 After 30 years of R&D, breakthrough announced in dark matter detection technology, definitive search to begin for axion particles ADMX is an axion haloscope — essentially a large, low-noise, radio receiver, which scientists tune to different frequencies and listen to find the axion signal frequency. Axions almost never interact with matter, but with the aid of a strong magnetic field and a cold, dark, properly tuned, reflective box, ADMX can “hear” photons created when axions convert into electromagnetic waves inside the detector. このアクシオンという暗黒物質は、強い磁場の中やアクシオンを電磁波に変換する過程で、 光になると予想されているで、超伝導検出器で高い感度での検出が試みられている という感じかな。 昔は実験屋の実験結果を理論屋が解析していたけれど、いつしか理論屋が作った理論を実験屋が検証するという流れになった 実験屋が何回失敗しても理論屋が上手いこと考えて理論を組み立てて持ってくる だから理論的に有望でも検証する側は常に懐疑的だ 理論には許容される範囲内で何通りかの解釈が出来る 時としてそれらの解釈は同値でかつ正しく、また時としてそれらは証拠を観測できないという意味で正しくないとされる 理論屋は予言者だが、ほとんどは妄想屋だ 理論的に可能、だけだと、ほぼ何でもいけちゃう。 失敗した原因を洗い出し、実現可能かどうか判断しないと。 数学できない奴は哲学は無理。妄想は、哲学ではないし >>397 数学ができた奴で、一流の哲学者になった奴なんていないぞ。 ライプニッツは哲学者としては一流半だしな。 プラトン、ピタゴラス、デカルト、ライプニッツ、パスカル、ラッセル、ホワイトヘッド、ベルクソン、 フレーゲ、フッサール、ウィトゲンシュタイン、クワイン。 カントは、数学をアプリオリな綜合判断だと主張している数学論がある。 つまり、数学こそ真性の哲学に通じている。 「連続体仮説」という議論があって、「数直線は実在するのか、それとも離散的 (つまり実在ではない)のか」という問題があり、「数直線は実在する」とも証明できるし、 「数直線は離散的である」とも証明できる、とのことです。これは要するに、 「数直線」という「イデア」が実在的なのか、それとも観念なのか、決着がつかないこと、 「証明」しようとすると「二重証明」に陥ることを表しているようです。 このように、人間の「脳」の中で考えた数式が、どうして宇宙を表現できるのか、 という難問があるようです。たとえば「1たす1は2」と言われていますが、 これは「1を加える」ということ、加えた分「増加」することを前提としていますが、 この増加現象は絶対的ではありません。無限に「1を加える」と増加せず、 無限のままです。 このように、「有限量」という前提の上に「1を加えると増える」という現象が あるわけです。ですから前提の違う宇宙においては、「1たす1は2にならない」と 予想できるのです。 「三角形の内角の和は180度である」という命題も、曲面幾何学では通用しない。 リーマン幾何学においては「180度」にはなりません。このように、 数学は初期の前提が変われば、内容が変化するようです。 >>401 こら。 最後の二行が繋がってない。 数学「も」…通じている「可能性」がある、 だろ。 自然界の連続体仮説を数理で方程式に抽象化するのが数学なんじゃない >>407 自然界の連続体仮説とは具体的になによ? >>409 遺伝子とか、永劫回帰とか、生命とか思いついた マキャベリの近代性はどこにあるか。 道徳(アリストテレスが「徳」としていたもの)に政治が従属するべきであるという政治理論を変えた点にあるとされる。 ホッブズの近代性はどこにあるか。 アリストテレス以来の「この世界」に対する物の見方を転換した点にあるとされる。 アリストテレスは人間は集合的に生きる存在であり、この世界は、ある1つの方向に進むと考えた。 しかし、ホッブズは、アリストテレスとは対照的に、個人から出発した。 この世は徳や目的をもった人間の集合体などではないと考えた。 そのことを前提としつつも、ホッブズは、人間は近代国家がないと平和に生きることができないと考え、 平和に暮らすためには自己保存たる自然権の一部を放棄しなければならないという。 それが、ホッブズの社会契約説である。 ロンドン・スクール・オブエコノミクスの哲学博士 >>410 例えば遺伝子と連続体仮説とどういう関係があると? >>410 永劫回帰なんて自然界に存在すんのかよwwww さぁ?数学のそれがなんなのかまったく知らないから適当w 連続体仮説は数学の仮説で自然界関係ないから、知らないなら引っ込んでな >>415 自然数使ってるくせに偉そうにでしゃばってんじゃねーぞごらぁあああ 自然数を自然界に当てはめるときには既に近似を行ってる 近似を行えるのも自然界から数の概念を学べた智の恩恵、哲学さまさま もう二度と哲板に来なくていいよ、昔も今もこれからも数学だけやっていればよろしい 洞察というのは不正確だが正しいと予言者と崇められるよね ゲーデルの構成可能集合( Gödel's constructible universe)は、クルト・ゲーデルによって導入された 集合論の公理を満たすモデル上で空集合から帰納的に構成していける集合のことである。 ゲーデルは、構成可能集合からなるクラス(通常 L と記される)が ZFC、すなわち ZF に 選択公理を加えたものの ZF での内部モデルになることを示した。彼はさらに、L が 一般連続体仮説を満たすことも示した。これによって、ZF が無矛盾ならば ZFC に 一般連続体仮説を加えたものも無矛盾であることが証明された。 L はそれ以外にもたくさんの興味深い性質を持っていることが分かっている。 >>401 二流以下の数学者を羅列してどうする。 世界三大数学者といえば、 アルキメデス、ニュートン、ガウスで、彼らは哲学を馬鹿にしていた。 >>428 その三人が哲学を馬鹿にしていたというソースは? これは逆の話。 哲学は数学に通ずる、だ。 学問の祖舐めんな。 相変わらず、馬鹿ばかりでレベル低いなw どうせ、こいつら数学だけでなく、哲学なども出来やしないから 論理学や集合論をいくらやったところで数学はわからんのだよ 「ex falso quodlibet」 これは、ラテン語で「偽からは何でも導出できる」というニュアンスの意味で、数日前、 渋谷の紀伊国屋で買ったカンタン・メイヤスーの「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての詩論 ―」 という哲学書にあったもの。訳者は、千葉雅也、大橋完太郎、星野太とある。 千葉雅也のスレはよく上がってくるけど、読んだことないな。 ここで、矛盾許容論理のことが記述されている。カンタン・メイヤスーによれば、矛盾許容論理が 作られたのは、実在的に矛盾する事実を考慮するためではなく、医療機器などのコンピューターが 矛盾した情報(同じ事象に関する対立した診断など)に面した際、そこから任意で恣意的な帰結を 演繹してしまうのを避けるために作られたものであるらしい。 つまり、「ex falso quodlibet」 になってしまっては拙いということ。哲学的な思弁や考察も一歩間違えると、 何でもありの世界になってしまって、それだと単なる妄想との差異や境界線が不明となる。 矛盾と言えば、ヘーゲルの弁証法が矛盾を止揚する方法として使われていたり、そうした弁証法の発想を 継承したマルクス主義であったり、ゲーデルの公理系自身からは、その無矛盾性を証明・導出 出来ないなど、哲学において、矛盾やパラドクスというのはよく扱われる素材であると思う。 つまり、矛盾を巧妙に扱い用いることは、哲学において意義と価値があるということ。 現実においても、人々は矛盾した状態や二律背反的な状況に陥ることがある。そうした中で、 人は単純なゼロサムゲームや二項対立ではない、哲学的洗練されたアプローチが選択できる。 それは、ベイトソンの「ダブルバインド」理論のように物事の二重化された状況を、そのままで 持ちこたえていくような戦略。単純な二項対立は、状況を敵と味方に分けて、敵項を抹消する よう働きかける、というのが一般的なアプローチだけど、矛盾許容論理や弁証法は、 状況にたいして、そうした単純な戦略を採用しない。ここにも、哲学的な考察の射程の長さや 深さがある。 以上、ゴールデンウィーク中の秀才の意見でした。 クァンタン・メイヤスーには、その研究分野に「数学の哲学」があって、 「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての詩論 ―」 もまだ、殆ど読んでない けど、そこに哲学における数学的思考力の重要性が語られていた。 やっぱり、真性の哲学者は数学を重視している。 この著書の中で、「ヒュームの問題」という章があるのも興味深い。 なかなかの良書っぽいので、これは、お勧めの哲学書だね。 メイヤスーは高等師範学校で哲学者のベルナール・ブルジョワとアラン・バディウの薫陶を 受けた。バディウはメイヤスーの処女作『有限性の後で(Après la finitude)』(2006年)の序文を 執筆し、そこで同書は近代哲学にとっての全く新しい選択肢を紹介するものであり、 イマヌエル・カントの3つの選択肢、すなわち批判主義、懐疑主義、独断主義のどれとも異なる ものであると述べた。同書は哲学者のレイ・ブラシエにより英訳された。 メイヤスーは思弁的実在論運動に関連付けられている。同書でメイヤスーはポスト・カント哲学が 「相関主義(correlationism)」と彼が呼ぶものに支配されていると主張している。それは人間は 世界なしに存在できず、また世界も人間なしには存在できないとする立場で、あまり公言される ことはない理論である。メイヤスーによれば、これは不誠実な戦略であり、あらゆる人間の アクセスに先立って世界がどのように存在しているか、そしてそれをいかにして記述するか という問題を回避してしまう。 彼はこの前‐人間的な現実を「祖先以前的(ancestral)」領域と名付ける。師であるアラン・バディウが 数学に対して関心を抱いていた影響もあり、数学は物体の知覚において表れる二次性質ではな く一次性質そのものに達することができるとメイヤスーは主張する。 原因と結果の存在を疑う不可知論的懐疑主義者たちは、そもそも因果的必然性など全く存在しない というラディカルな主張を取るべきだとメイヤスーは示そうとする。この主張により、自然法則が 偶然的であるということそれ自体は絶対的に必然的である、という主張をメイヤスーは宣言する ことになる。世界は超(ハイパー)カオス的であり、無矛盾律は保持されるが、充足理由律は 打ち捨てられるのである。 これらの理由により、メイヤスーは哲学においてカントのコペルニクス的転回を拒絶する。 カントは観察者である人間の条件に世界を依存させてしまっており、「プトレマイオス的反革命」 を起こしたとしてメイヤスーは非難する。 >「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての詩論 ―」 × >「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての試論 ―」 ○ どんだけメイヤスーと言いたいんだよ そんな無名の学者などに要はない 言うなれば数学というのは、決定論的な世界観だよね。たとえば、変数x=5、 y=3、z=2 と置けば、x + y – z = 6 , (x * y) / z = 7.5 と言った感じで、入力側の 演算子と変数の値さえ決めてあげれば、 その解は一意に決定的に定まって出力される。 その解には、恣意性も自由意思も忖度もないし、機械的・論理的な演算の手続きがあるのみ。 前野隆司の「受動意識仮説」も、意識が物事を意思的に選択・決定するよりも前に、 無意識レベルや脳のニューロンの状態で或る決定Xが先に既に為されていて、意思や意識は その受動態や追認として事後的に生じているもの、という仮説があるけど、だからそれも 決定論に近い考え方だろう。それに遺伝子決定論や社会環境決定論を付加すれば、 もっとそうした人間や物事の決定論的なトーンは強化されるであろう。 ただ、決定論の問題は、それだと凶悪な犯罪行為がなされても、それは受動的にさせられた 非意思的な犯罪に過ぎなくなるため、極度の精神疾患者の犯した犯罪と同様に自己責任を 問えず、今の社会制度を全般的に見直すような膨大なコストも発生するし、倫理規定も変更を 余儀なくされる。それに、決定論が正しいという明証性も特に得られる見通しがないので、 それはあくまで仮説の一つに留まるだろう、と思われる。 あと、この世界や社会が「このよう」であって、「あのよう」や「かのよう」ではない理由も本当は よく判らない。ここで、今ある世界とは真逆の世界を想像してみよう。 人間は後ろ向きに、マイケルジャクソンのようにムーンウォークして歩き、男が妊娠をし、 女が孕ませる性となる。夜間に人々は働き、日中は皆が寝る。公共交通機関も夜間にだけ 運行され、日中は運行を停止する。植物は、向光性から光回避性となって、光と逆方向に 葉を伸ばすようになる。極悪非道の悪を為す者が称賛され、善行に励む者は偽善者と 罵られ批判される。 このような、今あるのと真逆な世界であってもいいはずなのに、なぜか、そうはなっていない。 テスラのイーロン・マスクはホーキング博士のAIによる人類滅亡に対する具体的な対策として、 スペースXによる人類の火星移住計画があるようだけど、火星なら、火星ならではの適合・適応形態 というものもありそうで、それは地球のそれとは異なるかも知れない。要は、別の公理系を 選択したのだから、別の演繹と演算を用いて、別の解を出力する(適応)すれば良い、ということだね。 哲学とは何かと言えば、それは知識についての知識(メタ知識)、認識における認識(メタ認知)を 追究していくことだから、事象の枠組みや前提そのものを、その外部から問い直すということがあるだろう。 上から目線は世間で悪く言われるけど、哲学にはそうした対象-俯瞰的な上から目線が必要とされるだろう。 だから、それは形而上学と呼ばれる。 人々が慣習的に自明視している事柄について、それはそれほど自明ではないことを哲学は 示唆する。あるいは、人々が確実視している事柄についても(たとえば、万有引力の法則) 、それが実は確実とは言えないことを示唆する。仏教だと、真理は空、自我は無我になるので、 数学的に言うと真理値と実存、生きる意味はゼロとなり、ニュートラルになる。 あらゆる方向に向かう、あらゆる大きさのベクトルを想像してみれば、それは全体として見た 場合力がキャンセルされあって、方向性と大きさ無しのゼロベクトルになると思うので、 このゼロという性質なり、無限大の思考というのも哲学ではキー概念となるだろう。 >>444 このスレは俺が育てた( ー`дー´)キリッ >>447 俺もメイヤスーはすぐに忘れ去られると思う 「ex falso quodlibet」って要はあるシニフィアンに対応させることができるシニフィエは無限にあるってことと同じだし ポスト構造主義は基本的にシニフィアンとシニフィエの対応つまり世界の意味付けは恣意的なものだよってことを主張している そもそも世界の意味付けとは人間中心に為されるものであり加えてカントは物自体を認識することはできないとしただけで物自体が存在しないとは言っていないから先祖以前云々は反論にならない また複数の哲学的立場を相関主義という概念に還元してしまうことはそれらの哲学的立場の差異を消滅させるものであってそれこそ「ex falso quodlibet」以上に差異や境界線が不明となってしまう 加えて人間のアクセスに先立って世界がどのように存在しているかを記述する前にどのようにしてそれ(物自体)を認識するのかという問題に直面するだろう この点に無頓着であるから「プトレマイオス的反革命」と言ってしまう 更に数学を自然に適用することの基礎付けを行おうとしたカントに否定的でありながら数学における数字や記号という概念から物自体を如何にして認識できるというのか ライプニッツは、今あるこの世界が神の創造した最善の世界である、と述べているから、 そういう神による一意決定システムの発想の方がよほどオカルト的だと思うよ。なぜなら、 神の存在は全く明証的でないので、そうした不明瞭なもので、この世界を意味・価値付ける ことは出来ないはずだから。 むしろ、この世界は、数ある可能性の中から偶々、今ある物理定数と共に選択されたものに 過ぎない(偶発性)とみなした方が、少なくとも整合するように思う。マルチバースの考え方だと、 文字通りどこかに別のクロックと価値観で動いている平衡宇宙や生命系があるという説だけど、 それらも端的存在とみなすよりは、思考実験のツールとして用いてみるのが、 取りあえずはいいだろう。 たとえば、サイコロを投げて3の目が出た。これが最善の出目なのだろうか。5でも良かったし、 1の出目でも良かったはずだ。なぜ、3の目が出たのか、その物理的な必然性は完全に 真であるのか、物理以外の介入要素、たとえば念や意思などは本当に皆無なのか、 あるいは、この世界がその3の目で構成されたとして、なぜ、違う賽の目の値で構成され 得なかったのかという存在論的なバグやブラックボックスは残りそうだ。 「神はサイコロを振らない」。そう言ってアインシュタインが量子力学を批判したのは有名な話だ。 彼は観測される現象が偶然に選ばれるという量子力学の曖昧さに納得せず、最終的には すべてが古典力学で説明できるのではないかと考えていた。 こうしたアインシュタインの考えは長く否定されてきたが、最近、徐々に賛成する研究者も増えてきた。 古典力学から量子力学を導き出す試みがさかんになっており、その代表は「隠れた変数理論」と 呼ばれる理論だ。かつてノーベル賞を受賞したト・ホーフトは、古典的なシステムと量子的な システムの決定的な違いは、情報の損失の有無だと主張する。古典的なシステムが摩擦の ようにエネルギーを空間に散逸させる力によって情報を失い、その結果、量子的に振る舞う ようになるという。 一方、理論物理学者のハドレーは、過去だけでなく未来に起きる出来事が現在に影響すると 考えることで量子現象を古典的に説明できるとしている。量子力学現象が確率的なのは、 未来に起こることを私たちが知らないせいだという。量子力学と相対性理論を統合する 統一理論、例えばひも理論などの研究者の中で、量子的なシステムが古典的だとまで 言い切る者はほとんどいない。だが量子力学には未だ理解しにくい怪しげな部分が数多く 残っている。アインシュタインが提起した問題点を掘り下げることで、理論の新たな発展が 見えてくるかもしれない。 ■ 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read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる