数学を初めとした理系の学問と哲学について 10
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>>409
遺伝子とか、永劫回帰とか、生命とか思いついた マキャベリの近代性はどこにあるか。
道徳(アリストテレスが「徳」としていたもの)に政治が従属するべきであるという政治理論を変えた点にあるとされる。
ホッブズの近代性はどこにあるか。
アリストテレス以来の「この世界」に対する物の見方を転換した点にあるとされる。
アリストテレスは人間は集合的に生きる存在であり、この世界は、ある1つの方向に進むと考えた。
しかし、ホッブズは、アリストテレスとは対照的に、個人から出発した。
この世は徳や目的をもった人間の集合体などではないと考えた。
そのことを前提としつつも、ホッブズは、人間は近代国家がないと平和に生きることができないと考え、
平和に暮らすためには自己保存たる自然権の一部を放棄しなければならないという。
それが、ホッブズの社会契約説である。
ロンドン・スクール・オブエコノミクスの哲学博士 >>410
例えば遺伝子と連続体仮説とどういう関係があると? >>410
永劫回帰なんて自然界に存在すんのかよwwww さぁ?数学のそれがなんなのかまったく知らないから適当w 連続体仮説は数学の仮説で自然界関係ないから、知らないなら引っ込んでな >>415
自然数使ってるくせに偉そうにでしゃばってんじゃねーぞごらぁあああ 自然数を自然界に当てはめるときには既に近似を行ってる 近似を行えるのも自然界から数の概念を学べた智の恩恵、哲学さまさま もう二度と哲板に来なくていいよ、昔も今もこれからも数学だけやっていればよろしい 洞察というのは不正確だが正しいと予言者と崇められるよね ゲーデルの構成可能集合( Gödel's constructible universe)は、クルト・ゲーデルによって導入された
集合論の公理を満たすモデル上で空集合から帰納的に構成していける集合のことである。
ゲーデルは、構成可能集合からなるクラス(通常 L と記される)が ZFC、すなわち ZF に
選択公理を加えたものの ZF での内部モデルになることを示した。彼はさらに、L が
一般連続体仮説を満たすことも示した。これによって、ZF が無矛盾ならば ZFC に
一般連続体仮説を加えたものも無矛盾であることが証明された。
L はそれ以外にもたくさんの興味深い性質を持っていることが分かっている。 >>401
二流以下の数学者を羅列してどうする。
世界三大数学者といえば、
アルキメデス、ニュートン、ガウスで、彼らは哲学を馬鹿にしていた。 >>428
その三人が哲学を馬鹿にしていたというソースは? これは逆の話。
哲学は数学に通ずる、だ。
学問の祖舐めんな。 相変わらず、馬鹿ばかりでレベル低いなw
どうせ、こいつら数学だけでなく、哲学なども出来やしないから 論理学や集合論をいくらやったところで数学はわからんのだよ 「ex falso quodlibet」
これは、ラテン語で「偽からは何でも導出できる」というニュアンスの意味で、数日前、
渋谷の紀伊国屋で買ったカンタン・メイヤスーの「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての詩論 ―」
という哲学書にあったもの。訳者は、千葉雅也、大橋完太郎、星野太とある。
千葉雅也のスレはよく上がってくるけど、読んだことないな。
ここで、矛盾許容論理のことが記述されている。カンタン・メイヤスーによれば、矛盾許容論理が
作られたのは、実在的に矛盾する事実を考慮するためではなく、医療機器などのコンピューターが
矛盾した情報(同じ事象に関する対立した診断など)に面した際、そこから任意で恣意的な帰結を
演繹してしまうのを避けるために作られたものであるらしい。
つまり、「ex falso quodlibet」 になってしまっては拙いということ。哲学的な思弁や考察も一歩間違えると、
何でもありの世界になってしまって、それだと単なる妄想との差異や境界線が不明となる。 矛盾と言えば、ヘーゲルの弁証法が矛盾を止揚する方法として使われていたり、そうした弁証法の発想を
継承したマルクス主義であったり、ゲーデルの公理系自身からは、その無矛盾性を証明・導出
出来ないなど、哲学において、矛盾やパラドクスというのはよく扱われる素材であると思う。
つまり、矛盾を巧妙に扱い用いることは、哲学において意義と価値があるということ。
現実においても、人々は矛盾した状態や二律背反的な状況に陥ることがある。そうした中で、
人は単純なゼロサムゲームや二項対立ではない、哲学的洗練されたアプローチが選択できる。
それは、ベイトソンの「ダブルバインド」理論のように物事の二重化された状況を、そのままで
持ちこたえていくような戦略。単純な二項対立は、状況を敵と味方に分けて、敵項を抹消する
よう働きかける、というのが一般的なアプローチだけど、矛盾許容論理や弁証法は、
状況にたいして、そうした単純な戦略を採用しない。ここにも、哲学的な考察の射程の長さや
深さがある。
以上、ゴールデンウィーク中の秀才の意見でした。 クァンタン・メイヤスーには、その研究分野に「数学の哲学」があって、
「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての詩論 ―」 もまだ、殆ど読んでない
けど、そこに哲学における数学的思考力の重要性が語られていた。
やっぱり、真性の哲学者は数学を重視している。
この著書の中で、「ヒュームの問題」という章があるのも興味深い。
なかなかの良書っぽいので、これは、お勧めの哲学書だね。 メイヤスーは高等師範学校で哲学者のベルナール・ブルジョワとアラン・バディウの薫陶を
受けた。バディウはメイヤスーの処女作『有限性の後で(Après la finitude)』(2006年)の序文を
執筆し、そこで同書は近代哲学にとっての全く新しい選択肢を紹介するものであり、
イマヌエル・カントの3つの選択肢、すなわち批判主義、懐疑主義、独断主義のどれとも異なる
ものであると述べた。同書は哲学者のレイ・ブラシエにより英訳された。
メイヤスーは思弁的実在論運動に関連付けられている。同書でメイヤスーはポスト・カント哲学が
「相関主義(correlationism)」と彼が呼ぶものに支配されていると主張している。それは人間は
世界なしに存在できず、また世界も人間なしには存在できないとする立場で、あまり公言される
ことはない理論である。メイヤスーによれば、これは不誠実な戦略であり、あらゆる人間の
アクセスに先立って世界がどのように存在しているか、そしてそれをいかにして記述するか
という問題を回避してしまう。
彼はこの前‐人間的な現実を「祖先以前的(ancestral)」領域と名付ける。師であるアラン・バディウが
数学に対して関心を抱いていた影響もあり、数学は物体の知覚において表れる二次性質ではな
く一次性質そのものに達することができるとメイヤスーは主張する。 原因と結果の存在を疑う不可知論的懐疑主義者たちは、そもそも因果的必然性など全く存在しない
というラディカルな主張を取るべきだとメイヤスーは示そうとする。この主張により、自然法則が
偶然的であるということそれ自体は絶対的に必然的である、という主張をメイヤスーは宣言する
ことになる。世界は超(ハイパー)カオス的であり、無矛盾律は保持されるが、充足理由律は
打ち捨てられるのである。
これらの理由により、メイヤスーは哲学においてカントのコペルニクス的転回を拒絶する。
カントは観察者である人間の条件に世界を依存させてしまっており、「プトレマイオス的反革命」
を起こしたとしてメイヤスーは非難する。 >「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての詩論 ―」 ×
>「有限性の後で ― 偶然性の必然性についての試論 ―」 ○ どんだけメイヤスーと言いたいんだよ
そんな無名の学者などに要はない 言うなれば数学というのは、決定論的な世界観だよね。たとえば、変数x=5、
y=3、z=2 と置けば、x + y – z = 6 , (x * y) / z = 7.5 と言った感じで、入力側の
演算子と変数の値さえ決めてあげれば、 その解は一意に決定的に定まって出力される。
その解には、恣意性も自由意思も忖度もないし、機械的・論理的な演算の手続きがあるのみ。
前野隆司の「受動意識仮説」も、意識が物事を意思的に選択・決定するよりも前に、
無意識レベルや脳のニューロンの状態で或る決定Xが先に既に為されていて、意思や意識は
その受動態や追認として事後的に生じているもの、という仮説があるけど、だからそれも
決定論に近い考え方だろう。それに遺伝子決定論や社会環境決定論を付加すれば、
もっとそうした人間や物事の決定論的なトーンは強化されるであろう。
ただ、決定論の問題は、それだと凶悪な犯罪行為がなされても、それは受動的にさせられた
非意思的な犯罪に過ぎなくなるため、極度の精神疾患者の犯した犯罪と同様に自己責任を
問えず、今の社会制度を全般的に見直すような膨大なコストも発生するし、倫理規定も変更を
余儀なくされる。それに、決定論が正しいという明証性も特に得られる見通しがないので、
それはあくまで仮説の一つに留まるだろう、と思われる。 あと、この世界や社会が「このよう」であって、「あのよう」や「かのよう」ではない理由も本当は
よく判らない。ここで、今ある世界とは真逆の世界を想像してみよう。
人間は後ろ向きに、マイケルジャクソンのようにムーンウォークして歩き、男が妊娠をし、
女が孕ませる性となる。夜間に人々は働き、日中は皆が寝る。公共交通機関も夜間にだけ
運行され、日中は運行を停止する。植物は、向光性から光回避性となって、光と逆方向に
葉を伸ばすようになる。極悪非道の悪を為す者が称賛され、善行に励む者は偽善者と
罵られ批判される。
このような、今あるのと真逆な世界であってもいいはずなのに、なぜか、そうはなっていない。
テスラのイーロン・マスクはホーキング博士のAIによる人類滅亡に対する具体的な対策として、
スペースXによる人類の火星移住計画があるようだけど、火星なら、火星ならではの適合・適応形態
というものもありそうで、それは地球のそれとは異なるかも知れない。要は、別の公理系を
選択したのだから、別の演繹と演算を用いて、別の解を出力する(適応)すれば良い、ということだね。 哲学とは何かと言えば、それは知識についての知識(メタ知識)、認識における認識(メタ認知)を
追究していくことだから、事象の枠組みや前提そのものを、その外部から問い直すということがあるだろう。
上から目線は世間で悪く言われるけど、哲学にはそうした対象-俯瞰的な上から目線が必要とされるだろう。
だから、それは形而上学と呼ばれる。
人々が慣習的に自明視している事柄について、それはそれほど自明ではないことを哲学は
示唆する。あるいは、人々が確実視している事柄についても(たとえば、万有引力の法則)
、それが実は確実とは言えないことを示唆する。仏教だと、真理は空、自我は無我になるので、
数学的に言うと真理値と実存、生きる意味はゼロとなり、ニュートラルになる。
あらゆる方向に向かう、あらゆる大きさのベクトルを想像してみれば、それは全体として見た
場合力がキャンセルされあって、方向性と大きさ無しのゼロベクトルになると思うので、
このゼロという性質なり、無限大の思考というのも哲学ではキー概念となるだろう。 >>444
このスレは俺が育てた( ー`дー´)キリッ >>447
俺もメイヤスーはすぐに忘れ去られると思う
「ex falso quodlibet」って要はあるシニフィアンに対応させることができるシニフィエは無限にあるってことと同じだし
ポスト構造主義は基本的にシニフィアンとシニフィエの対応つまり世界の意味付けは恣意的なものだよってことを主張している
そもそも世界の意味付けとは人間中心に為されるものであり加えてカントは物自体を認識することはできないとしただけで物自体が存在しないとは言っていないから先祖以前云々は反論にならない
また複数の哲学的立場を相関主義という概念に還元してしまうことはそれらの哲学的立場の差異を消滅させるものであってそれこそ「ex falso quodlibet」以上に差異や境界線が不明となってしまう
加えて人間のアクセスに先立って世界がどのように存在しているかを記述する前にどのようにしてそれ(物自体)を認識するのかという問題に直面するだろう
この点に無頓着であるから「プトレマイオス的反革命」と言ってしまう
更に数学を自然に適用することの基礎付けを行おうとしたカントに否定的でありながら数学における数字や記号という概念から物自体を如何にして認識できるというのか ライプニッツは、今あるこの世界が神の創造した最善の世界である、と述べているから、
そういう神による一意決定システムの発想の方がよほどオカルト的だと思うよ。なぜなら、
神の存在は全く明証的でないので、そうした不明瞭なもので、この世界を意味・価値付ける
ことは出来ないはずだから。
むしろ、この世界は、数ある可能性の中から偶々、今ある物理定数と共に選択されたものに
過ぎない(偶発性)とみなした方が、少なくとも整合するように思う。マルチバースの考え方だと、
文字通りどこかに別のクロックと価値観で動いている平衡宇宙や生命系があるという説だけど、
それらも端的存在とみなすよりは、思考実験のツールとして用いてみるのが、
取りあえずはいいだろう。
たとえば、サイコロを投げて3の目が出た。これが最善の出目なのだろうか。5でも良かったし、
1の出目でも良かったはずだ。なぜ、3の目が出たのか、その物理的な必然性は完全に
真であるのか、物理以外の介入要素、たとえば念や意思などは本当に皆無なのか、
あるいは、この世界がその3の目で構成されたとして、なぜ、違う賽の目の値で構成され
得なかったのかという存在論的なバグやブラックボックスは残りそうだ。 「神はサイコロを振らない」。そう言ってアインシュタインが量子力学を批判したのは有名な話だ。
彼は観測される現象が偶然に選ばれるという量子力学の曖昧さに納得せず、最終的には
すべてが古典力学で説明できるのではないかと考えていた。
こうしたアインシュタインの考えは長く否定されてきたが、最近、徐々に賛成する研究者も増えてきた。
古典力学から量子力学を導き出す試みがさかんになっており、その代表は「隠れた変数理論」と
呼ばれる理論だ。かつてノーベル賞を受賞したト・ホーフトは、古典的なシステムと量子的な
システムの決定的な違いは、情報の損失の有無だと主張する。古典的なシステムが摩擦の
ようにエネルギーを空間に散逸させる力によって情報を失い、その結果、量子的に振る舞う
ようになるという。
一方、理論物理学者のハドレーは、過去だけでなく未来に起きる出来事が現在に影響すると
考えることで量子現象を古典的に説明できるとしている。量子力学現象が確率的なのは、
未来に起こることを私たちが知らないせいだという。量子力学と相対性理論を統合する
統一理論、例えばひも理論などの研究者の中で、量子的なシステムが古典的だとまで
言い切る者はほとんどいない。だが量子力学には未だ理解しにくい怪しげな部分が数多く
残っている。アインシュタインが提起した問題点を掘り下げることで、理論の新たな発展が
見えてくるかもしれない。 >>461
最善の出目を得るには、むしろ決してサイコロを振らないことだね。
そうした宙吊りと永遠の未決状態こそが、想像上の最善の出目や完全性を担保する。
予言は必ず当たる。ただし、その条件は時間制限が一切ないこと。
ハルマゲドンも天使降臨も期間を限定しなければ当たるんだよ。無限の時間を
持ってくればいいんだから、いつまでも予言的中の可能性はどこかで残る訳だし。
無限遠点を作ればいいだけのこと。人はそこに永遠を仮構する。
だからアインシュタインは「神はサイコロは振らない」なんて言ったのかもよ。 つまり
椅子💺には世界が無いので壁に触れることはできない。 可能性は無限にあるが可能性を現実にするのは有縁性つまりつながりである
有縁性が認められないものは支離滅裂や矛盾や飛躍や妄想あるいは外部や敵等のレッテルを貼られる
例えば1+1=2ではなく1+1=3でもよかった
しかし1+1=3は1の次の数は2であるという前提及び+1という操作は次の数を示すという前提とのつながりを喪失してしまうため偽とされる
確かにこの有縁性は必然的ではなく恣意的である
1の次の数が2でなければならない理由はどこにもないのだから
このとおり有縁性は恣意的であると言うことは容易い
ポスト構造主義にはこの類の話が多い
有縁性の恣意性を指摘することで別の可能性が開けて来ることも確かであり
ポスト構造主義者と呼ばれる人達が目指したものはこの開かれた可能性だった
有縁性は必然的なものなのか恣意的なものなのか
そうではなくて論理つまり言葉のつながりのレベルで考えてみたい
つまり何故我々は言葉と言葉あるいは命題と命題の間に
つながりを認めてしまうのかあるいはつながりを求めてしまうのか
何が支離滅裂とされ何が支離滅裂とされないのか
何故支離滅裂や混乱は整合や一貫よりも劣ったものと見做されるのか
こうしてポスト構造主義以降の哲学は認識論へと回帰する 以前、「君の名は」という映画が大ヒットしたけど、あれも存在論的に哲学的な意匠の
もとで解釈出来そうだね。
あんまりストーリーをよくは覚えていないけど、物語では登場人物の高校生の男女が、
ある日、突然入れ替わり、入れ替わった状態で、従来の自分とは異なる環境(都会と田舎の島嶼)
と属性を生きることになる。そして、時間軸も通常のクロックが一部、無効化されて、
極限的タイムトラベルが可能になっていて、その新たな拡張された物理法則のもとで、
未来に起こることが確実である隕石飛来による島嶼全滅の運命を、主人公たちが救い出そう
とするプロットだったかな。そこでは、時間の巻き戻しが可能になっている。 こういう属性を入れ替えたり、時空や時間軸の変容は、一種のシミュレーションとして
見ると興味深い点があるだろうね。それで、客観的とされる物理法則のアプリオリな
所与性を懐疑にかけることが出来るし、ヒュームがしたことが、そういうことだよね。
ヒュームは、物理法則は永続的確固不滅の真理(因果法則)ではなく、反復を伴うだけの
慣習に過ぎないと考えた。何度も反復されるのを見るので、人はそこに科学的永続性を
仮構しているだけであり、明日も、未来永劫にわたってそれが反復される保証は全然ない、
という見解をヒュームは示した。だから、「君の名は」で属性が入れ替わった状態で
突然、他人としての人生を生きたり、時空や未来が何度か変容可能になっている、
マルチバース的な宇宙観もこの作品には感じられる。 人間の認識は、単なる偶然性やランダムネスによる所与性を絶対化しやすいし、
代替可能性については、盲目でありやすい。己の人種やジェンダー、祖国、
現代的価値観のみを絶対化しやすい。人が非難する者、あるいは、忌み嫌う者や
軽蔑する対象も、それらを好むような環境や属性、性格に、もし自分が偶然、
生まれていれば、かえって、それら憎むべきものが、今度は逆に高く評価して愛好する
ーという世界が誕生しても不思議ではない。
ただ、多くの人々は所与性に認識がベタに拘束されやすいので、自由な認識も行動も
生じづらいのだ。既存の物理学の法則だけを絶対視しやすいし、今の自分や他者が
全てだと思い込みやすい。もしかしたら明日は、違うようになっているかもしれないでは
ないか。これが慣習だけにベタに拘束されない、所与性から解放された自由な認識。
シミュレーション的な仮想空間は、十分に現実を侵食し得ると思うし、それは現実を
変容する力にもなることだろう。 場所くってるだけで、役に立たない。
哲学を嫌う姿勢。
役に立つ事を端的に書けば良いのだが。 自然の斉一性が成立しないつまり世界は反復しえない以上慣習が因果関係を仮構させると言うことはできない
慣習が因果関係を仮構されるという主張においては世界が同じように繰り返されることが前提となっているからである
世界が同じものとして認識されなければ慣習は成立しない
ここで反復しえない世界を同じものとして認識させる能力は抽象化能力であって
自然科学と抽象的世界の関係についてはフッサール辺りが指摘したとおり
カントの用語では物自体が具体的世界であるのなら現象は抽象的世界であると言える
私達が生きているのは具体的世界であるにもかかわらず私達が認識しているのは抽象的世界である
抽象的世界を生きているからこそ世界を同じものと見做すことができる
因果関係を成立させるものは慣習ではない
理解社会学がその典型であり理念型はまさに抽象化の産物である
「歴史は繰り返す」もまた世界を具体的に認識していては出てこない発想である
モデル的思考や概念的思考が人間の世界に対する自由な(ただし恣意的な)意味付けの基盤であるとも言えるが
観点を変えれば具体的世界からその固有性をそして他の具体的世界との差異を消滅させている
その端的な例が判例法理であって判例がある事案に適用される時その事案固有の要素は顧みられない
厳密に言うと法的判断を行うのに不要な要素は顧みられない
もっとも分かり易い点は時空であって判例が適用可能かどうかを判断する際には場所や年月日の違いは考慮されない
情状酌量等個別性が考慮されることもあるではないかと思うかもしれない
確かにそのとおりであるがそれは構造主義における祝祭や供犠の論理と同じであくまで法中の法外に過ぎない
法的判断を行うのに必要な限りで考慮されるものに過ぎない
話を元に戻すと
抽象化能力こそが人間の自由な思考の根源であると同時に人間の思考の陥穽でもある
だからこそ
抽象的認識/思考を成立させるようなつながりとはどのようなつながりであって人はなぜつながりを求めてしまうのか
について考えなければならない
つまり「カントに帰れ」
併せて抽象化の陥穽に陥らないようにしなければならない
つまり「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」
私の問題意識はアドルノに近い >>475
自然科学と抽象的世界の関係についてはフッサール辺りが指摘したとおり
を
自然科学と抽象的世界の関係についてはフッサール辺りが指摘したとおりである
に訂正
上のとおりだと
フッサールがカントの用語で自分の哲学を展開したみたいになってしまう >>475
ヘラクレイトスの「同じ川に2度入ることはできない」という、ことだよね。
その通りだけど、そこまで厳密に考え見ていくと、脳の処理機能がオーバフローして、
生存に適応的に対応できないから、抽象化という形態で省エネ化するんだよね。
その事情はコンピューターでも同様で、メモリリークが発生して処理不能になったり、
あらゆるデータを定義し、加味しようとすると「フレーム問題」が発生して、フリーズ
してしまう。
だから、事象を慣習なり、科学的因果律やパターン化された認知、もしくはラベリング、
、ステレオタイプな反応、イデオロギー等の抽象化で人が認知コストを節約しようとすることは
割と自然なことでしょう。ただ、そのことによって喪失されている残余なり剰余はある訳で、
これらの顧みられない周縁的なものこそが、思想やデータサイエンスにおいて、意外と
大事な要素になってくると思われます。 態々行間の開け方まで工夫しての一人二役ご苦労なこったな(笑) >>477
その抽象化による認知コストの節減とは結局のところ知的不誠実に過ぎない
抽象化能力こそが人間の自由な思考の根源であると同時に人間の思考の陥穽でもある
と>>475で言っているように抽象化を否定しているわけではない
抽象化の利点を強調し抽象化の欠点を見落とすべきではないと言っている
こだわって恐縮だが端的な例が判例法理で事案が抽象化され判例が適用される時リーガルマインドは矛盾する
リーガルマインドにおいて人間は誰でもない甲や乙として扱われることになり具体的な人間としての山田太郎や鈴木次郎としては扱われない
つまり憲法が重視する個人の尊厳という思想と矛盾する
抽象的世界としてのリーガルマインドにおいては個人が存在しないが具体的世界には甲も乙も存在しないのである
特に民法においては第2条「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない」と規定されていることを見逃すべきではない
>>477の「コンピューターでも同様」というのもほぼ同じで認知の節減という点に注目することで人間の認識や思考とコンピュータの情報処理との差異が隠蔽されている
つまり人間の認識や思考とコンピュータの情報処理とが同一化されることで個人の存在や憐み等の人間の感情が考慮の外に置かれてしまう
コンピュータ上では人間は誰でもない統計的なものとして扱われるが具体的世界には誰でもない統計的な人間は存在しない
経済学や心理学や社会学もまたそうであると言ってもいい
これらは抽象的世界を語っているに過ぎないのに具体的世界を説明した気になっている
我々は抽象化能力の可能性を認めながらもその限界を確定しつつ抽象化によって考慮の外に置かれたものを再度思考の中に取り戻さなければならない
それこそが誠実な知性であるし抽象的思考の新たな可能性を開くつまり新たな論理(理論ではなく言葉と言葉或いは命題と命題のつながりのこと)の在り方や思考法へ向かっていくことになる
あくまで観念論の立場を維持しているので抽象化能力を進歩させていけば具体的世界を認識することができると言いたいわけではない
要はもっとちゃんと考えろということ 恣意性が志向する中で思考は考察されるものだから、人間目的があればちゃんと考えるでしょ >>468
可能性って無限にあるの?
100メートル10秒は切れても5秒は無理だよね?
無限ってどういう意味で使ってるの? >>479
だいたい同意見だよ。一応、まとめると、抽象化が為されるのは、有限なリソースを
最適化して用いる場合に、その方が処理しやすくなるからだ。何度も裁判の例を
あげているようなのでそれでたとえてみると、もし、裁判が個々人の実存性を重視し、
判例を用いることなく、そのつど裁判を人間的に処理するとしてみよう。そこで考えられ
るのは、裁判に今まで以上の専門職の動員や時間が掛かり、結局、いつまで経っても判決が
得られず、訴訟待ちの長い行列が出来るであろう事態が想定できる。それはかえって、
非人道的とならないだろうか。人道や実存性に配慮した結果、裁判が異常に長引き、
いつまでも裁定が下されない。つまり、ここに人道のパラドクスが生じている。
だから判例という形で、司法にある程度の汎用性や機械的な合理性を導入することで、
すなわち裁判システムを抽象化することで、よりスムーズに遅滞なく、司法の裁定が
得られることが可能になるよね。これは、一見すると非人間的に映る抽象化が、人間的な
帰結をもたらしたという前者とは逆のパラドクス。
でも、AIによる司法の自動化をやったアメリカの幾つかの州では、やはり>>479が指摘
するような見落としや統計的なバイアスによって司法の公平性が担保されないケースが
幾つか出てきたので、判決におけるAI導入は取りやめになったということは、実際に
生じたことなので、そういう統計や抽象化に回収しきれないバグや問題はあると思う。 ただ、テクノロジーの変遷を見れば分る通り、それは抽象化の階梯を上っていく螺旋運動
なので、その主潮としては、常に抽象化の方へと向かう。現に、ここで自由に発言できる
こともネットという抽象化の産物なのであって、これで時間や場所を問わず、どこの誰とも
分からない匿名的(抽象的)な相手や不特定多数を相手に意見を発信したり、意見交換したり
も出来る。
だから、今後、物理空間はホログラムのような抽象度の高い情報空間へと拡張されていくだろう。
街を見れば、ディスプレイーによる電子看板が増えてきているし、電子書籍、ディスク不要の
映画やドラマのストリーミング配信、電子マネーと、すべて抽象化の方向で進んでいる。
ただ、その反動や飽きとして、アナログ的なやり取りにも付加価値なりニーズが出るだろうけど、
ただ、基本の路線は抽象化の階梯を上る、ということだと思う。
なぜなら、その方が合理的で最適化がしやすいし、リソースの節減と有効利用になるので、
エコの観点から言っても好ましいから。たぶん、捨象されがちな不可視の周縁的な要素さえ、
AIなどを使って抽象化の領域へ回収したり、組み込んでいく方途やアルゴリズムが今後
発達してくると思うよ。 フッサールのイカシタあたまの下にはまだファンも多いんだ。 産業「最適化したいなぁ」
科学「最適化できますよ。ただし抽象的になります」
産業「時間と労力かかりそうだけど仕方ないね」
の繰返し
別に人は本能的に合理的であって欲しいとは思ってない >>443
メイヤスーは実存に傷がいってるタイプよ
⭐⭐⭐ メイヤスーが実存をゼロとみなすからと言って、この思想家の実存に傷がいってるタイプという
推論は、少し短絡的かな。
AI化する社会では、実存ではなく、数学親和性の高いメイヤスーの哲学が
むしろ整合的になりマッチする。だから、ここで紹介しているんだよ。
人間という観察者さえ括弧に入れて、除外出来る思想になっているだろう。
別に人間がいなくても、AIが宇宙と地球を観察して、記述し続ければいいのだから。 >>490
それを宇宙人に置き換えればAIじゃなくてもいいんじゃね? あと信仰や宗教による思考停止でなく、哲学らしく無神論を重視しているんだよ。
AI、ゲーデル、無我(仏教)、メイヤスー……
この流れだと、いつか、「利己的遺伝子」のリチャード・ドーキンスが出て来るかもね。
「神は妄想である」という著書もあるから。メイヤスーは「神の不在」という著書を
書きたいらしいよ。唯物論マルクスでも、いいかもしれないけど。
別に神は存在しないと決めつけているのでなく、それを云々するのは神学論争になる
ばかりで時間と労力の無駄になるので、神の話は無し=無神論で、論を進めて
いこうということかな。
だから、メイヤスーを腐すのは、数学親和性の低い宗教系の人だなと思う。
たとえば、浅田彰とか。 >>491
うん、それでいいんだよ。火星人とかいたら、人間より知的そうじゃない。 知性が及ばないならいいけど弱いと期待するままされるまま駒になるから世の中まわっていくよね、確かに・・・ メイヤスーなんて無名に誰も関心なんか持ってないんだよ
お前がたった一人で勝手に熱吹いてるだけだ だいたい、ゲーテルだとかリチャード・ドーキンスなんて数学や哲学とは何の関係もないじゃねぇか
ゲーテルの成果は数学全体に及ぶようなものではないし安易にゲーテルを哲学に結びつけると
全力で笑われるぞ フレドリックブラウンが自然科学は未発達だが社会科学は地球をはるかに上回る火星人の話を書いてたのを思い出した AI化する社会は人間性を重視する世界を前提に進んでいるのか
経済的合理性を重視する世界を前提に進められていくのか
経済的合理性を優先しないと社会が回らないのは人間性によるもの
人間性というヒューマニズムはとっくに終わっている http://dokushojin.com/article.html?i=6
読書人紙面掲載 特集
2016年7月8日
「ポスト構造主義」以降の現代思想
カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって
やっぱり、これからはメイヤスーの時代だな >>506
創価学会に挑んだことも挑まれたこともないな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています