可能性は無限にあるが可能性を現実にするのは有縁性つまりつながりである
有縁性が認められないものは支離滅裂や矛盾や飛躍や妄想あるいは外部や敵等のレッテルを貼られる
例えば1+1=2ではなく1+1=3でもよかった
しかし1+1=3は1の次の数は2であるという前提及び+1という操作は次の数を示すという前提とのつながりを喪失してしまうため偽とされる
確かにこの有縁性は必然的ではなく恣意的である
1の次の数が2でなければならない理由はどこにもないのだから
このとおり有縁性は恣意的であると言うことは容易い
ポスト構造主義にはこの類の話が多い
有縁性の恣意性を指摘することで別の可能性が開けて来ることも確かであり
ポスト構造主義者と呼ばれる人達が目指したものはこの開かれた可能性だった
有縁性は必然的なものなのか恣意的なものなのか
そうではなくて論理つまり言葉のつながりのレベルで考えてみたい
つまり何故我々は言葉と言葉あるいは命題と命題の間に
つながりを認めてしまうのかあるいはつながりを求めてしまうのか
何が支離滅裂とされ何が支離滅裂とされないのか
何故支離滅裂や混乱は整合や一貫よりも劣ったものと見做されるのか
こうしてポスト構造主義以降の哲学は認識論へと回帰する