数学を初めとした理系の学問と哲学について 10
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>>475
自然科学と抽象的世界の関係についてはフッサール辺りが指摘したとおり
を
自然科学と抽象的世界の関係についてはフッサール辺りが指摘したとおりである
に訂正
上のとおりだと
フッサールがカントの用語で自分の哲学を展開したみたいになってしまう >>475
ヘラクレイトスの「同じ川に2度入ることはできない」という、ことだよね。
その通りだけど、そこまで厳密に考え見ていくと、脳の処理機能がオーバフローして、
生存に適応的に対応できないから、抽象化という形態で省エネ化するんだよね。
その事情はコンピューターでも同様で、メモリリークが発生して処理不能になったり、
あらゆるデータを定義し、加味しようとすると「フレーム問題」が発生して、フリーズ
してしまう。
だから、事象を慣習なり、科学的因果律やパターン化された認知、もしくはラベリング、
、ステレオタイプな反応、イデオロギー等の抽象化で人が認知コストを節約しようとすることは
割と自然なことでしょう。ただ、そのことによって喪失されている残余なり剰余はある訳で、
これらの顧みられない周縁的なものこそが、思想やデータサイエンスにおいて、意外と
大事な要素になってくると思われます。 態々行間の開け方まで工夫しての一人二役ご苦労なこったな(笑) >>477
その抽象化による認知コストの節減とは結局のところ知的不誠実に過ぎない
抽象化能力こそが人間の自由な思考の根源であると同時に人間の思考の陥穽でもある
と>>475で言っているように抽象化を否定しているわけではない
抽象化の利点を強調し抽象化の欠点を見落とすべきではないと言っている
こだわって恐縮だが端的な例が判例法理で事案が抽象化され判例が適用される時リーガルマインドは矛盾する
リーガルマインドにおいて人間は誰でもない甲や乙として扱われることになり具体的な人間としての山田太郎や鈴木次郎としては扱われない
つまり憲法が重視する個人の尊厳という思想と矛盾する
抽象的世界としてのリーガルマインドにおいては個人が存在しないが具体的世界には甲も乙も存在しないのである
特に民法においては第2条「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない」と規定されていることを見逃すべきではない
>>477の「コンピューターでも同様」というのもほぼ同じで認知の節減という点に注目することで人間の認識や思考とコンピュータの情報処理との差異が隠蔽されている
つまり人間の認識や思考とコンピュータの情報処理とが同一化されることで個人の存在や憐み等の人間の感情が考慮の外に置かれてしまう
コンピュータ上では人間は誰でもない統計的なものとして扱われるが具体的世界には誰でもない統計的な人間は存在しない
経済学や心理学や社会学もまたそうであると言ってもいい
これらは抽象的世界を語っているに過ぎないのに具体的世界を説明した気になっている
我々は抽象化能力の可能性を認めながらもその限界を確定しつつ抽象化によって考慮の外に置かれたものを再度思考の中に取り戻さなければならない
それこそが誠実な知性であるし抽象的思考の新たな可能性を開くつまり新たな論理(理論ではなく言葉と言葉或いは命題と命題のつながりのこと)の在り方や思考法へ向かっていくことになる
あくまで観念論の立場を維持しているので抽象化能力を進歩させていけば具体的世界を認識することができると言いたいわけではない
要はもっとちゃんと考えろということ 恣意性が志向する中で思考は考察されるものだから、人間目的があればちゃんと考えるでしょ >>468
可能性って無限にあるの?
100メートル10秒は切れても5秒は無理だよね?
無限ってどういう意味で使ってるの? >>479
だいたい同意見だよ。一応、まとめると、抽象化が為されるのは、有限なリソースを
最適化して用いる場合に、その方が処理しやすくなるからだ。何度も裁判の例を
あげているようなのでそれでたとえてみると、もし、裁判が個々人の実存性を重視し、
判例を用いることなく、そのつど裁判を人間的に処理するとしてみよう。そこで考えられ
るのは、裁判に今まで以上の専門職の動員や時間が掛かり、結局、いつまで経っても判決が
得られず、訴訟待ちの長い行列が出来るであろう事態が想定できる。それはかえって、
非人道的とならないだろうか。人道や実存性に配慮した結果、裁判が異常に長引き、
いつまでも裁定が下されない。つまり、ここに人道のパラドクスが生じている。
だから判例という形で、司法にある程度の汎用性や機械的な合理性を導入することで、
すなわち裁判システムを抽象化することで、よりスムーズに遅滞なく、司法の裁定が
得られることが可能になるよね。これは、一見すると非人間的に映る抽象化が、人間的な
帰結をもたらしたという前者とは逆のパラドクス。
でも、AIによる司法の自動化をやったアメリカの幾つかの州では、やはり>>479が指摘
するような見落としや統計的なバイアスによって司法の公平性が担保されないケースが
幾つか出てきたので、判決におけるAI導入は取りやめになったということは、実際に
生じたことなので、そういう統計や抽象化に回収しきれないバグや問題はあると思う。 ただ、テクノロジーの変遷を見れば分る通り、それは抽象化の階梯を上っていく螺旋運動
なので、その主潮としては、常に抽象化の方へと向かう。現に、ここで自由に発言できる
こともネットという抽象化の産物なのであって、これで時間や場所を問わず、どこの誰とも
分からない匿名的(抽象的)な相手や不特定多数を相手に意見を発信したり、意見交換したり
も出来る。
だから、今後、物理空間はホログラムのような抽象度の高い情報空間へと拡張されていくだろう。
街を見れば、ディスプレイーによる電子看板が増えてきているし、電子書籍、ディスク不要の
映画やドラマのストリーミング配信、電子マネーと、すべて抽象化の方向で進んでいる。
ただ、その反動や飽きとして、アナログ的なやり取りにも付加価値なりニーズが出るだろうけど、
ただ、基本の路線は抽象化の階梯を上る、ということだと思う。
なぜなら、その方が合理的で最適化がしやすいし、リソースの節減と有効利用になるので、
エコの観点から言っても好ましいから。たぶん、捨象されがちな不可視の周縁的な要素さえ、
AIなどを使って抽象化の領域へ回収したり、組み込んでいく方途やアルゴリズムが今後
発達してくると思うよ。 フッサールのイカシタあたまの下にはまだファンも多いんだ。 産業「最適化したいなぁ」
科学「最適化できますよ。ただし抽象的になります」
産業「時間と労力かかりそうだけど仕方ないね」
の繰返し
別に人は本能的に合理的であって欲しいとは思ってない >>443
メイヤスーは実存に傷がいってるタイプよ
⭐⭐⭐ メイヤスーが実存をゼロとみなすからと言って、この思想家の実存に傷がいってるタイプという
推論は、少し短絡的かな。
AI化する社会では、実存ではなく、数学親和性の高いメイヤスーの哲学が
むしろ整合的になりマッチする。だから、ここで紹介しているんだよ。
人間という観察者さえ括弧に入れて、除外出来る思想になっているだろう。
別に人間がいなくても、AIが宇宙と地球を観察して、記述し続ければいいのだから。 >>490
それを宇宙人に置き換えればAIじゃなくてもいいんじゃね? あと信仰や宗教による思考停止でなく、哲学らしく無神論を重視しているんだよ。
AI、ゲーデル、無我(仏教)、メイヤスー……
この流れだと、いつか、「利己的遺伝子」のリチャード・ドーキンスが出て来るかもね。
「神は妄想である」という著書もあるから。メイヤスーは「神の不在」という著書を
書きたいらしいよ。唯物論マルクスでも、いいかもしれないけど。
別に神は存在しないと決めつけているのでなく、それを云々するのは神学論争になる
ばかりで時間と労力の無駄になるので、神の話は無し=無神論で、論を進めて
いこうということかな。
だから、メイヤスーを腐すのは、数学親和性の低い宗教系の人だなと思う。
たとえば、浅田彰とか。 >>491
うん、それでいいんだよ。火星人とかいたら、人間より知的そうじゃない。 知性が及ばないならいいけど弱いと期待するままされるまま駒になるから世の中まわっていくよね、確かに・・・ メイヤスーなんて無名に誰も関心なんか持ってないんだよ
お前がたった一人で勝手に熱吹いてるだけだ だいたい、ゲーテルだとかリチャード・ドーキンスなんて数学や哲学とは何の関係もないじゃねぇか
ゲーテルの成果は数学全体に及ぶようなものではないし安易にゲーテルを哲学に結びつけると
全力で笑われるぞ フレドリックブラウンが自然科学は未発達だが社会科学は地球をはるかに上回る火星人の話を書いてたのを思い出した AI化する社会は人間性を重視する世界を前提に進んでいるのか
経済的合理性を重視する世界を前提に進められていくのか
経済的合理性を優先しないと社会が回らないのは人間性によるもの
人間性というヒューマニズムはとっくに終わっている http://dokushojin.com/article.html?i=6
読書人紙面掲載 特集
2016年7月8日
「ポスト構造主義」以降の現代思想
カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって
やっぱり、これからはメイヤスーの時代だな >>506
創価学会に挑んだことも挑まれたこともないな >>498
現哲特集でゲーデル自身が触れている。
結びつけるのは構わないのだけど、
書き散らかすだけの姿勢が問題。 あと気づくのは、日本の哲学者や思想家と呼ばれる人達は、なぜか、数学親和性が極端に低く、かつ、文系ということだね。これは、何か日本特有の事情が介在しているのだろうか。
だいたい、哲学は理系に近い学問だと思っているので、数学なんて出来て当たり前で、だから、文系畑ばかりの科学音痴の日本の哲学者は不可解だな。だから、ほとんど読んでいない。
自分の感覚にマッチしそうなのは、郡司ペギオ幸夫とかいう人だな。でも、理学者という
肩書になっているね。使っているツールや引用している哲学者が自分好みの人が多いので、
やはり類友の法則みたいなのはあるのかな。メイヤスーもそうだし、割と、自分の考え方や好み、物の見方が重なる。 >>511
数学に哲学が親和性を持つ極端な例ってたとえばどんなの? >>512
たとえば無限を巡る哲学的な考察をしたいな、と言う時、数学が出来る人なら、
あ、そういえば、カントールの超限数やℵ、濃度という概念があったなあ、そこからとりあえず
始めてみようか、という風になれるでしょう。数学の引き出しがない者が、無限を巡る哲学的な考察
をどうやってやるのと、逆に訊ねたいくらいだよ。 >>513
アリストテレスは無限を「通過できないもの」と定義しました✨
無限のものを通過するというのは
自然数を全て数え終わるに等しいくらいナンセンス。⭐
無限の地点があるとするなら、そもそも
通過すべき「最後の地点」を想定することができなくなるの
それは
自然数の「最後の地点」を想定するのに等しいから。⭐「」 自然な数だけではないよ。象形にも意味がある。
値の張る高い数字もあるし、所有するだけで、偶発的に欠けたり
奇妙に踊りだしたり、たとえば階乗とは そういうものだよ。な面。 あと、数の本質とは何かを哲学的に考察する場合でも、数学の引き出しなり、素養が
多少でもあれば、あ、「デデキント切断」という概念があったな。それを切り口にして、
実数の連続性なり有理数やその稠密性辺りから考察してみようか、というフックや
アンカーになるよね。
逆に数学の素養が皆無で数の本質とは何だろうと考えても、林檎とラフランスの数え方は、
別の対象物なのに、なぜ同じなのだろう、というレベルのものしか出てこなそうじゃない。
まあ、それでも中二病的で可愛い感じがするので、別にいいかもしれないけどね
>>514
>アリストテレスは無限を「通過できないもの」と定義しました
これ、実はゲーデルもこれが問題だと思って、これを加味した理論を構築したんだよ。
だって、確かに無限を数え上げることは出来ないから。私たちの有限な脳と生命、身体で
無限を測量するというのは、確かに矛盾した行為であるから。ちゃんと測れる訳ないよね、
ということで、そこはそれで合っているよ。 兵士数でも人間だけの世の中は詰まるまい。
減らないのが攻め 減るのが守り と覚えておくとよい。 城郭はにほんでは無理そうだよね。桓武も自然の地形を生かせず、
遇されず、策略に走るのは必定とされた。 サザエさんジャンケンには法則があると見抜いたのは俺だけか?情けない >>514
「選択公理」における矛盾ね。無限回に選択を続けられのか、という問題系。 斜め読み。で新しいゲーム機でも開発するか。→ベクトルの限界ない。 まほうのれんしゅう?リハビリリハーサルなしの方が。特別な場合を除き
。 悪魔召喚プログラムって、サバトマよりいいという点↗ >>513
数・量・空間などの形式的性質から、その抽象的構造を超限数などの数理で概念化された無限は形式上の無限に過ぎないからね
形式的性質や物理的関係から人文科学的に無限を課題にして考察するのが哲学
知的領域が異なるから、無限にとって数学の引き出しは有限すぎるというわけ 無限を入れる事ができる箱は無い
でも
ある共通の特徴を持った無限個の概念を入れる事ができる箱は考えることができる このスレで大流行しているメイヤスーは、無限の可能世界のメタファーとしての「宇宙サイコロ」や紐、
そして確率推論や集合論(ZF<ツェルメロ-フレンケルの理論>)などを使って、この世界の偶然性の必然性等
を表そうとしているよ。要は、己の哲学構築に数学を使っているということ。
あと、メイヤスーは「カントールの定理」も使っているようだ。 「カントールの定理」は簡単に言うと、集合Aと、集合Aのすべての部分集合からなる集合(冪集合)の
大きさを比べた時、後者の冪集合の方が大きくなるという定理のこと。ここで集合の大きさは、
濃度(cardinal number)で表せる。つまり、集合A、その冪集合をρ(A)、あるいは、2^Aと取ると、
A < ρ(A), もしくは、A < 2^A この「カントールの定理」は、有限集合の時だけでなく、無限集合の時でも正しい。
そして、可算無限集合の冪集合は非可算無限となる。もとの集合Aよりも、その要素で作った
部分集合からなる集合の方が大きくなる、というのがポイント。
濃度の性質で面白いのは、無限集合において、自然数の集合Nの真部分集合でありながら、
(例: N_1,N_2,……)その濃度(集合の大きさ)が自然数の集合Nの濃度であるℵ_0と等しいものが
たくさん出て来ること。部分であるのに、そのもとの集合と大きさが等しいのが面白い。
この性質に最初に気づいたのが、ガリレオ・ガリレイだと言われている。
>>532半分くらいは同意してみようか >>535
無は時間も順序関係も無いので因果関係も遡れない。 >>498
ドーキンスはまだしもゲーデルが数学と関係ないとか無知にもほどがある 哲学板で不完全性定理をドヤ顔で語りたがる手合はちょいちょい現れるよな(笑)無知にもほどがある 無(ゼロ)というのは無いと混同されやすいのだけど、無い訳ではないんだよね。
絶対零度も別にゼロじゃなくて、セルシウス度で、−273.15 ℃だし。
ベクトルにおいても然り、力学においても然り、力が均衡している状態も0で
表せるから。ゼロに感じるのは、むしろ、無限大的な要素だね。
神はなぜ、決して降臨して来ないのだろうか。それは、そのように無(ゼロ)としてあった方が、あるいは、非存在の姿を取った方が、そこに無限の可能性と威力を
人々に想像させるから、取りあえずそうしよう!と神が考えているのかもしれないよ。 >だいたい、ゲーテルだとかリチャード・ドーキンスなんて数学や哲学とは何の関係もないじゃねぇか
ゲーテルの成果は数学全体に及ぶようなものではないし安易にゲーテルを哲学に結びつけると
全力で笑われるぞ
お前がなw ドーキンスと哲学が何の関係も無いってのもアホすぎるな 不完全性定理のドヤ顔馬鹿って定期的に出てくるなほんと、恥の上塗りはその辺にしとけよ(笑) ミームが哲学だとかアホすぎるだろ、こうして既に独自の分野として確立してしまったものは
心理分析などと同様に非哲学の範疇だろアーホ ドーキンスからミームしか連想出来ないのは、ムーミンレベルの知能の持ち主だろうなw まぁ、哲学にゲーテルとか持ち出す人は学位持ってる辺の人からはだいたい相手にされないよね・・・ 延々とメイヤスーとかほざいてるのもゲーテル馬鹿かな ゲーテル、ゲーテルうるせえよ
そんなにゲーテルの話がやりたいなら数学板いけや あほう、数学板なんかいったら余計に相手にされないだろうが むしろゲーテルと哲学を安易に結びつけたいんだが
ある一つの系では、そこに内在する全てを説明付けることは出来ない
一体何がいけないのだ? ゲーテルゲーテルって
ヘンゼルとグレーテル的なのかよ >>543
無(ゼロ)が無いわけではないのは、無(ゼロ)を何かで囲んでそれを外から見てるから
例えば「単位が」ゼロだとか「元が」無いとか「領域が」無いとか 数学とは、結局、純粋に頭の中で作られる理想的世界。✨無限というものが有ると仮定すると
ある種の無限が存在する数学を作ることができるわけよ🎵
そうした無限等無いという数学も作ることができるわけよ🎵
それぞれが対等に正しい数学なのであって
真実は一つではないね⭐
でも矛盾が生まれる恐れが無い限りは
無限が存在すると仮定した方が、綺麗に事が運ぶと、哲学者も物理学者も数学者も理解しているはず。⭐⭐ 結局、存在するはずの理想的な何かに近似できる何かを作る作業の繰返し 物理学者は現象に当てはまりさえすればそれでいい
数学は道具
工学者は設計した通りになればそれでいい
物理は道具 ゲーテルとかほざいても平気な馬鹿って波平ぐらいのもんだぞ じゃあ、なんで
頭の中で作られる
「愛」でも「平和」でも「人権」「平等」でも、こんなにも無力なのに
頭の中で作られる
数学は現実世界でこんなにも有効なのよ。 562のつづき
だけど数学は別
数学はあらゆる他の学問の要請を無視していい 物理学が数学の表現の一部を使って現象を表現しているにすぎない
別に数学は数学自身を現実世界で有効なものにしようなんて思ってない 空間が実在するなら無限の地点が存在しないとは
否定できない。✨ メイヤスーもホラー⭐
残念ながらこの世は、まだ答えは出ていません❗😃 この世界を知るために多くを語る必要があるなら哲学者は失望するよね / ̄ ̄ヽ
▲)人)人))
/▲^ヮ^从 シャランラ〜☆
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(_(_⌒)′
∪(ノ >>572
語り得ないものは沈黙しなければならない。😸 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています