新プラトン主義
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何か名前がかっこいい新プラトン主義について語りましょう プロティノスを文庫化しないどころか、全集を
重版はおろかオンデマンド化すらもしない
中央公論新社。 >>3
中公クラシックじゃ駄目?
文庫になっても値段はあまり変わらんよ。 文庫でないと邪魔になるし何度も開く気にはならないからな
大きな本を得意気に並べて自己流の注釈を入れる余白が重要とか抜かしているやつは
地球環境のことを考えたことがない変態 キリスト教神学者のアウグスティヌスの思想にはプロティノスによる新プラトン主義の影響みられる 地球環境のことを考えたら電子化一択になるから、それほど考えないことが重要だ 中公クラシックスはなんか色々駄目だな
世界の名著にはプロティノスの他にポリュピリオス、プロクロスまで入って一冊だったのにクラシックスだとプロティノスだけで二分冊だもんな 中公さんクラシックじゃなくて世界の名著を再販してたら神と崇めてた 462 :美魔女 ◆pFEO6hs5XI :2018/10/14(日) 13:08:07.54 ID:y5Ep86+N
>>460
だけども
私らは現在 死んでるのであって
肉体は私らにとって墓なのです
プラトン「コルギアス」 デカルトは、新プラトン主義に傾倒した
三十年戦争に兵士として従軍したのも、本場イタリアに渡るにはドイツ・オーストリアを通るからだったと言われている 新プラトン主義といっても、プロティノスが始めた古代ローマのと、フィチーノが始めたルネサンス期イタリアのがある ライプニッツの思想の出発点(そのすべてではないにしろ、その重要な一つ)は、書物にすれば2頁ほどのテキストの中にある。「観念とは何か」である。
この草稿でライプニッツが言っているのは、次の二つのことである。
1)観念はそれ自体として実在するものであること。
2)観念の本質は「表出」にあること。
デカルトもライプニッツも「観念」というものが存在することを認める。しかし、ライプニッツからすると、デカルトの言う「観念」は単に我々の意識にしかすぎない。それは主観的なものにすぎないのだ。
これに対してライプニッツは、デカルト的な意識=主観性を超えて、観念はそれ自体として実在的なものであることを強調する。
そして、そうした実在する観念の本質が「表出(表現)」である。 「観念」がある種の働きを持っている実在的な・存在論的なものであるという意味で、ライプニッツの「観念idea」はプラトンの「イデアidea」に似ている。
だが、決定的に違っている部分がある。それは、プラトンの「イデア」は、基本的にその対象と「似ている」と考えられていた点だ。
例えば、プラトンの考えでは、「赤さ」のイデアはやはり「赤い」。
「赤い」ものの中でももうこれ以上ないくらい「赤い」ものが「赤さのイデア」なのだ。だがライプニッツの場合、「赤さ」の観念は「赤い」ものである必要がない。
また、プラトンが最も重視し、「イデアの中のイデア」、キング・オブ・イデアと考えた「善のイデア」は、
やはり善いものであり、もう光輝く、そりゃもう大変なものだ。だが、ライプニッツにとって「善の観念」は少しも「善い」ものである必要はないのだ。
この考えは当時は画期的過ぎて分かり難かった。
だが、現代の我々にとってはほぼ自明のことである(例えば、コンピュータの図像データと図像そのものは全く似ていない)。だからこそ却ってその意味ないし意義が捉えにくいかもしれない。 プロティノスをはじめとする新プラトン主義の哲学者とライプニッツの関連が問題になるが、これについては、かなり明瞭なつながりが認められているようだ。
たとえばドゥルーズ「襞----ライプニッツとバロック」には、ライプニッツのモナドという言葉は、新プラトン主義の哲学者の用語に由来すると書いてある。 多分, オッカムが剃刀で削ぎ落としてしまったものは,プラトンのイデア論なのだろう. ハイレヴェルな有機体から、社会有機体説をフォローするのがプラトン的かもしれない。 哲学とはイデアに届きそうにない事、という弁証法的な知覚がモノを言う世界だろうね。 赤さのイデアとは、「赤い」という言葉それ自体である
「赤い」という言葉は赤くはない
そうでなければ、我々は、怒りについて語るときに、その言葉を通過した瞬間に、怒らなければならないだろう
怒りについて語るときに怒りの感情が湧かないなら、その人はすでに怒りのイデアを活用しているのである リアルな赤があるとすれば、赤いという言葉でその対象が指示された瞬間に、赤いものとして事後的に見出されるしかない
だから、その言葉の手前にあるリアルな赤とは、もはや色もない単なる衝撃というほかないだろう 言語を切り分けないと漏れるんだろうな。リアル アカ。 >>27
現代人の科学知識からすれば、赤というのは、波長の長い可視光線に対する脳の反応なんだが しかし、それというのも、もともと「赤」という観念が先天的に備わっているから 赤ということがあるからこそ光の特定の波長を赤と感じることができる 赤という観念は、人間の意識の中にあり、観念を超えたところに赤はある イエスキリストは神様自身
神様を見える形がイエスキリストです✨ もしも、「実在」が存在しないと仮定する
それは、「実在」であることと矛盾する
ゆえに、「実在」は存在する 実在という概念が存在することは
実在することを意味しない >>48
たとえば
タイムマシーンの概念は存在しているが
それはタイムマシーンが存在することを意味しない >>51
理論的存在者であるタイムマシーンの概念だからな
外的存在者である限定は必要ない >>52
外的存在者である必要がないなら
それは実在とは言わない >>51
時間移動という概念は、人間がこの世で生きることにより「時間の経過」を経験したことから、後天的に得られたもの
それに対して、「永遠で無限の完全なる神」という概念は、経験によって後天的に得たものではない 有限で不完全な私に、無限で完全なる神という、明晰判明な観念がある
有限で不完全なものから、無限で完全なものが生じることはない
ゆえに、この観念の出どころが私自身であることはあり得ず、神によって刻印されたものと考える他はない 概念にしても意味にしても現実には届かないのよ
だからこんなことも言えてしまう。
「美魔女は美女である。」 では訊くが、美人は必然的に女性なのか?
美人とは美しい人のことだろう。なぜ女性だと思うのか? >>58
有限なものから無限なものが生じることはないし、不完全なものから完全なものが生じることもない
ゆえに、神の観念は私から生じたものではあり得ない 神は、完全にして無欠である
もしも、神が存在しなかったとしよう
それは、神には「存在」が欠如していることを意味する
それは、神が完全無欠であることと矛盾する
ゆえに、神は存在する >>60
「美魔女」は出てきたが「美人」はどこにも出てきてないど 人間に神という観念があること
それが神が存在する証拠 ・・・というのがデカルトの確信だったが、それはジョン・ロックの「白紙」理論 によって退けられた この「生まれつき備わっている」というのが確信なのだ
もしも、神という観念が、後天的に獲得された知識だとしたら、デカルトの存在証明は根本から崩れる ジョン・ロックは、白紙理論によって、「先天的に備わっている観念」を全否定した
しかし、ロック亡き後、デカルトの存在証明は形を変えて復活する 他人の中に神があるかの方が大事じゃないの?永遠の愛を誓うなら信教の問題も大事。 「神という原因があるから、人間という結果があるのだ」というのは、「目的論的な証明」と呼ばれる別のタイプの存在証明だと、カントによって分類された 神観念とは コトバンク
神観念の内容は,それを分類し整理し定義する方法のいかんによって大きな変化を示す。哲学者はそれを万物の存在根拠であり絶対者であると考え,神学者は超越的な救済神であるとみなした。… デカルトいわく
われわれはさまざまな観念を持っているが、そうした観念のなかには神という観念がある。
その神は“無限な存在”であるが、有限から無限は生じないのであるから、有限な存在である人間から“無限な存在”という観念が生じることはない。
とすると、神という観念は、人間以外のところから生じたという他はない。
つまり、神が存在するからこそ、“無限な存在”である神という観念が生じたのである。
一方、われわれのなかに生じる観念には、必ずその原因がある。
当然、神という観念にも原因がある。
神は“完全な存在”だともされているが、この観念は不完全なものや無から生じたものではない。
というのも、原因のなかには結果(観念)よりも多くの(少なくとも同じ程度の)実在性や完全性が含まれていなければならないが、
もしも結果(観念)のほうが原因よりも多くの実在性や完全性を含むとすると、結果(観念)のなかに含まれる実在性や完全性の一部は無から生じたことになり、
これは“無からは何も生じない”という明晰判明な理解に反するからである。
ということは、完全な存在という神の観念は、不完全な存在である人間から生じたのではない。
つまり、この観念は、完全な存在である神自身によって、不完全な存在であるわれわれ人間に生まれつき与えられた「生得観念」なのである。 早い話が、デカルトは、神という観念が、人間かな生まれつき備わっている「生得観念」であるとし、それこそが、神が存在する証拠なのだと主張した あらゆる観念は後天的に知識として獲得されたものであり、人間の脳内現象にすぎないと考える人々にとって、これはまったく意味をなさない「存在証明」 結局のところ、これも、プラトン的なものとアリストテレス的なものの、毎度オナジミな対立 せいとく‐かんねん〔‐クワンネン〕【生得観念】 デジタル大辞泉
哲学で、人間が生まれながらにもっている観念。デカルトやライプニッツはこの観念の存在を主張したが、ロックは観念はすべて後天的に得られると説いた。本有観念。生具観念。 生得観念 せいとくかんねん idea innata ブリタニカ大百科事典
生れながら人間精神に内在するとされる観念。
経験によって獲得される習得観念と対立する。
ただし生得的であっても生れるとすぐ観念として現実態をとるのではなく,いわば潜勢態の観念として観念形成の能力や傾向として存在し,好適な条件を得て初めて現実の観念となる。
人間としての誕生以前から魂は存在すると想定するプラトンによれば,
すべての観念は魂に本来的にそなわっているが,魂は肉体との結合によりそれを忘却し,
認識によってそれを想起するとした。 何千年か前に地球(というか全宇宙)がだいたい一挙に創造されたという宇宙論がポピュラーな時代ならデカルトの証明も意味をなした
人間ははじめから人間として創造されたわけだから
しかし進化論や天文学・地質学が発達した現代だと受け入れるのが難しい 近代哲学では、大陸の「合理論」と、英米の「経験論」が対立してきました・・・と、高校の教科書には書いてある。
でも、「最大の争点は何だったか?」については、なぜかハッキリとは書いてない。
ハッキリ言えば、「魂は永遠であり、神の観念は生まれつき備わった生得観念である。われわれは、これを後天的に学ぶのではない。思い出すのだ」という、プラトン的な思想を認めるかどうか。
なんといっても、ここが最大の争点だったと言えるだろう。 観念を生得的,外来的,人為的に3分したデカルトは,その根底において心身を截然と区別する立場から,すべての観念の本来的な精神内在を,つまり生得性を考えていた。
デカルトを徹底化したマルブランシュは生得説を偶因論と結合させた。
経験論に立って生得説反駁をその哲学の中核としたロックを批判してライプニッツは,魂や単子はその存在の全期間を通してかかわりあうすべてのものをおのれのうちに表現しており,神ならばそれを読取って確実に未来をいいあてうるとした。
またカントが経験の条件としてあげた時間,空間や諸範疇の先天的形式はそれ自体観念ではないが,観念を現実化する根底として上述のプラトンやデカルトの生得説と本質的な類縁性をもつものである。 障害を抱えると、完全な世界に執着はない。書けていることそのものが能力の
傑出を生んで先に逃げている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています