自由意思はないかもしれないよね?
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本能的に否定する人多いけど人間は有機物でできた精巧なカラクリ仕掛けにすぎないかもしれないんだよ?
脳はただの複雑な有機物回路とも言えるかもしれない。
これ厳密に否定できないよね?現時点では >>100
ソシュールによれば、使用する言語
・・・を追加 自由意思はわずかだよ。ない時も多い。他者が圧倒的にいるからね。 >>103
社会生活が他人の影響を強く受けるのは当然だけど、問題は、自分の心の中でさえそうだということ。 もっと他人が変わるのを期待するより自分が変わる方が世の中がよくなると思う。 心の中までのぞけるのはテレパシーとか特殊な能力者に限られるんだろうか。
その場合の他者の心はどう見えるんだろう。 学術が自宅警備員なら、私はさしづめ自宅経営者だろう。
エコノミーとは本来、自宅経営のことであった。 >>92
そもそもその考えが西洋的すぎる
しかもキリスト教的で中世以後の考え >>110
社会思想として罪は規定される
それはなによりも歴史的事実だろう
君の言ってることは言葉としておかしい
難しい言葉を使っているだけで筋が通っていない
イデオロギが変遷しているというならわかるがイデオロギーが事実ではないとは意味不明な物言いだね
もうちょっと整理して考えて批判して欲しいところだ
頭悪いんだからよく考えてからレス返してくれ 全てがラプラスの悪魔によって計算され過去の因果から未来の因果までが決定ずけられているなら罪もまた最初から決定付けられている
西洋好きの馬鹿に合わせて親切にわかりやすく言うなら原罪として罪を受け入れろ ゴー・ノーゴーを決める自由選択(Free choice)はあるだろ
じゃないと強迫神経症の治療とかできないことになる 自由意志を生み出すために人は犯罪を発明したんだよ
ドストエフスキーの罪と罰はこの逆説のはなしだ だから犯罪が無ければ自由意志は存在しないのだ
リンゴを齧る前のアダムには自由意志は無いからね
悪への加担が先にあり、遡及的にそいつに神に背く原因としての自由意志があったとされる
だが、それはニーチェがいう遠近法的倒錯というもので、
本当はリンゴを齧ったことが自由意志の原因なのだ だから、リンゴを齧った原因は存在しないが正しい
だが、この回答は常識的で事実にとらわれすぎている
本当の正解はこうだと思う
人間はリンゴを齧ることで自由意志を作りたかったのだから、人間は自由意志を欲する生き物だ、だから人間の世界では原因としての自由意志を認めるべきだ 事実に基づいた正解と、人間の欲求に基づく正解ね
我々は科学の世界ではなく人間の世界に生きているので、人間が願う世界に生きるべきだと思うね
自由意志をみんな欲しているよね
人間はそういう性質なんだね 意志は存在しない
人間を裁くためにねつ造された概念
この行為はお前の「意志」でやったのか?それとも、やらされたのか?
言語もそのために歪められて中動態が消えて能動態と受動態とになってしまった アルコール依存症を考えるとよい
患者は依存症になろうと思ってなったわけではない
自分の意志ではないのだから、自分の意志で治すことは不可能 したがって、神の意志は存在しない
よって、神は存在、しない アル中という例えは院卒者にはまさにぴったりだね。
中卒も酒の席ではそこそこ働くし。ヒャヒャ。 院に入れるほどの集中力を発揮するなんてある意味異端だよ。普通は他にやる仕事が沢山あるのだから。 一般的には平均年収500万+嫁の稼ぎで子供2人だろ。
大学院なんて言いだしたらどうなるか想像つくだろ。 人間に必要とされるような、必然的に生まれてくる人っていうのはいて
そうじゃないその他大勢の人は人生適当なところでなるようにしかならないものでしょ
そういうのが大半なわけで 人が生まれるのは必然ではなく偶然
それに目的などない
アスファルトを割って咲いた花に目的はない 人間は経験を積んで変わって行く。経験を積み重ねた上で自由意志が研ぎ澄まされたものになって行く。 偶然生まれても、結果的には必然と理解するのが人間世界
目的は産む側の意思によるもので、アスファルトを割って咲く花には
そもそも考える能力がなく意思もない、同列に語るのが間違い 何のために生きているなどと悩んでいるのは人間くらいだろ、馬鹿らしい
なまじ考えることができるから不幸なのかもしれない 思い上がっている
自殺者3万人とは馬鹿げている
死ぬまでただひたすら生きればいい 何のために生きているかなんてそもそも悩みじゃないだろ、怠惰に過ぎん、馬鹿だけに馬鹿らしいことを言う 偶然生まれてお前が馬鹿なのは必然だろそれがお前を産んだ親の目的なのか お前が偶然生まれて必然的に馬鹿だとしても、お前を生んだ親の目的が分不相応だっただけで、結果的に目的を果たせなかったのが必然 人間は出会ったものに影響されて変わって行く。自由意志は上書きされ、洗練されて行くものだ。
人生の初期に持っていた目的は必然でもなんでもない。
洗練された自由意志がより必然性を持っている。 出会ったものに影響されても、洗練されるとは限らない、「洗練された自由意志がより必然性を持っている」という必然性がそもそもない
洗練されなかった自由意志がより必然性を持つ可能性も自由意志には残るわけ >>145
必然性を持つように自由意志は作られていなかった
学問や人生経験を積んで初めて必然性を獲得する
生れたままの赤子の状態に必然性はない 自由意志とやらの概念は人間が哲学的に考え出した課題であって、自由意志は必然か偶然かという議論なら
自由意志という概念が存在する必然性或いは偶然性を用いている以上、偶然考えだされた概念だとしても必然
或いは必然に考え出された概念だとしても偶然と言える
学問や人生経験も先人、個々人が選択して、結果的に現人間世界に既存する課題や機会として存在しているので
それを個人が獲得するかしないかの選択はそもそも産まれるか産まれないかの必然性或いは偶然性による。
生まれたままの赤子の状態には生まれた赤子という必然性も偶然性も生じている。
自由意意志を論ずるに当たって、必然性や偶然性を用いて、自由意志の何を論証できるのだろうか? 20年前の少女漫画と現代の少女漫画じゃ画風が違うだろ
商業的に成功するってことはつまりそういうことだ アスファルトを割って咲いた花を見るとその生命力に胸を打たれ勇気づけられるが、お前を見ても幸福にはなれない
したがって、お前は花と同列どころかそれより価値がない お前が人の書き込みを見ても幸福になれなかったのはお前が価値なき自由意志を自ら負ったということ 哲学者にとっては自明の理、哲学のない者にとっては不要の理、自由意志にとってはサイコロ 自由意思がないとしたら、
自由な人と奴隷状態の人とを客観的(普遍的に納得するよう)には区別できなくなる。
全体主義国家や独裁国家で暮らす国民と、民主主義国家で暮らす国民と、
どちらのほうがより自由な存在かと問うことが無意味になっちゃう。 全き自由意思のなさなんて想定つかないだろう。
自由は寸分でもある。かといってすべてが自由な世界は破たん。 >>154
自由意志と負荷(ストレス)の少ない状態ってのは別けて考えないと 自由意志があろうがなかろうが、広い庭で育てられる鶏と
工場で飼育されるブロイラーの間には、客観的に見て大きな違いがある 自由意志はないと理解ったから死んでも良いと思うやつはいないだろう
人が求めることは現状と何も変わらない 自由意志がないと判明したら生きてる価値はないと考えて死にたくなるのか変わったやつだな 自由「意志」と自由「意思」でも若干意味合い変わるかもしれんね
基本的に個人レベルでは自由意志などと大げさに言えるほどのものは持っていないと思う
なまじ「自由意志がある」とか「人は本来生まれながらに自由だ」とか言うから
基本的に人(というか生き物だいたい全部)は一人だけじゃ大したことできないという
当たり前の事実に直面した時に悲しくなってしまう。
群れを成して(組織を作って)初めて人類は自分たちの歴史を動かすことができるし
その群れ全体を指してのみ「自由意志がある」と言える
そもそも群れに加わるか加わらないかを選ぶ自由は自由「意思」の方で
これはまあみんな持ってると思う。思考だけなら本当に十人十色だし 自由意志で選べることとは
@考えないこと、
A知識を使わないこと
B論理は使わないこと
C心に依存しないこと
D周囲環境に依存しないこと
E繰り返し奇跡と偶然に任せること、絶対に起きないことを願うこと、自分を否定する選択だ、
F無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄
Gオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ
これが自由意志だ、否定してみろ。
因果関係にしばられる選択など自由意志ではなく、機械的な縛られに流されるだけの仕組みにすぎない。 完全なリズムを踏めば結果として完全にみえても不明確なリズムにしかたどり着けない
これが自由意志の側面である 相模原障害者施設の大量殺人事件や
黒子のバスケ 脅迫事件の犯人は
自由意志を、その行動原理に適応したのだろうか? 行動原理の
ハードル(規範)が
低いだけ
自由意志とは真逆 問い1
CPUに自由意志は有るのだろうか?
問い2
壊れたCPUに自由意志は有るのだろうか?
問い3
人間に自由意志は有るのだろうか?
問い4
壊れた人間に自由意志は有るのだろうか?
問い5
壊れたCPUの自由意志と壊れた人間の自由意志の違いは何か? 問い1 有る
問い2 有る
問い3 有る
問い4 有る
問い5 双方に自由意志が有り違いは無い
この場合CPUに自由意志がある事になる為矛盾が生じる。
問い1 無い
問い2 無い
問い3 無い
問い4 無い
問い5 双方に自由意志が無く違いは無い
よって人間には自由意志が無いと結論付けられる。 自由意志の定義=因果に拠らない回答をするモノ
よって
壊れたCPU(電卓)はある時は1+1=3、またある時は1+1=12の回答を返す存在
壊れた(狂った)人間も然り
つまり、壊れたCPUと狂った人間には自由意志が存在する事になる
これに反証するには壊れたCPUの自由意志と狂った人間の自由意志の違いに関して説明できるか、壊れたCPU、若しくは狂った人間に自由意志が存在しない事を証明しなければならない。 僕たちが精密な機械で同じ条件下に於いては同じ反応しないからと言って今ある感情や思いは否定できない
つまり瑣末な問題に過ぎない
決まっているならそうなるだけだ
決まっていないなら思うがままに生きるだけ
どちらも違いがない >>172
>僕たちが精密な機械で同じ条件下に於いては同じ反応しないからと言って今ある感情や思いは否定できない
自由意志が有ると思い込んでる本人が自由意志が有ると言い張っているのだからそりゃ否定出来ないでしょ。
>つまり瑣末な問題に過ぎない
瑣末な問題と思い込んでるのは本人だけで全く説得力が無い。
>決まっているならそうなるだけだ
>決まっていないなら思うがままに生きるだけ
>
>どちらも違いがない
違いがない事は理解したが未来が決まっているか決まっていないかのどちらなのかを確定しなければこれも説得力が無い。
電卓に自由意志が無い事は電卓を放置していても勝手に計算を始めない事から説明できるが果たして人間ではどうだろうか?
それでは質問
生まれたばかりの赤ん坊をたった1人で宇宙空間に放置して大人にまで育ったとしたらその人間は意志を持っているものだろうか?
今、我々は人間に自由意志が有るのか、無いのかという命題を外部から与えられたが故に思考を開始している。
宇宙空間で育った赤ん坊は何をきっかけとして思考を始めるのだろうか? >>173
>自由意志が有ると思い込んでる本人が自由意志が有ると言い張っているのだからそりゃ否定出来ないでしょ。
全く違う
あってもなくてもいいと思っている
>瑣末な問題と思い込んでるのは本人だけで全く説得力が無い。
説得力というなら君の言動も全く同じで説得力がない
これは説得じゃなく結論としてどちらでも何も変わらないということを示しているだけの話
>未来が決まっているか決まっていないかのどちらなのか
どちらでもあっても結果は直ぐにやってくる
結果が出てる以上は君が信じたいように信じればいい
自分の考えだろ、自分が一番よくわかっているはずだ
そして君に自由意思がなかったとしても他の人間が君が一緒だとは限らない
君の持っている電卓に意思がなかったとしてもほかの電卓に意思がないとなぜいえる?
そもそも君の電卓の液晶では答えだしても半導体の中ではほかの結果を出しているかもしれない
1兆回計算したら計算ミスをするかもしれない
しかしそれを知ったところで何も変わらない
既にそうあるんだから
君の気休めに過ぎない議論だ >>174
>>>173
>>自由意志が有ると思い込んでる本人が自由意志が有ると言い張っているのだからそりゃ否定出来ないでしょ。
>
>全く違う
>あってもなくてもいいと思っている
あってもなくてもいいと思ってるなら自由意志どころか意志すら放棄してるじゃん。
つまり人間には自由意志が無い派という事ね。
>>瑣末な問題と思い込んでるのは本人だけで全く説得力が無い。
>
>説得力というなら君の言動も全く同じで説得力がない
>これは説得じゃなく結論としてどちらでも何も変わらないということを示しているだけの話
その通り。ただし、人間には自由意志が無いを証明するには悪魔の証明となってしまうので自由意志が存在するという人にその証明をしてもらいたいと考えて書き込んだ。
>>未来が決まっているか決まっていないかのどちらなのか
>どちらでもあっても結果は直ぐにやってくる
>結果が出てる以上は君が信じたいように信じればいい
>自分の考えだろ、自分が一番よくわかっているはずだ
>
>そして君に自由意思がなかったとしても他の人間が君が一緒だとは限らない
自分には自由意志か無いのだろう。だから証明する事も困難だ。その通りだと思う。
だからこそ自由意志を持っている人間に証明をしてもらいたいと考えている。
>君の持っている電卓に意思がなかったとしてもほかの電卓に意思がないとなぜいえる?
>そもそも君の電卓の液晶では答えだしても半導体の中ではほかの結果を出しているかもしれない
>1兆回計算したら計算ミスをするかもしれない
1兆回計算をしたら計算ミスをする電卓は壊れた電卓だろう。仮に壊れてないとしても電卓に自由意志が無いことを証明するのは困難だ。
AIでも無い電卓に自由意志など無い事は明白なのに壊れた電卓に自由意志が存在しない事を証明する事ができない。
>しかしそれを知ったところで何も変わらない
>既にそうあるんだから
>君の気休めに過ぎない議論だ
1つ質問
どちらでも良いと言うのは意志なのかそうでは無いのか?どちらでも良いと言うのは因果を生じない意志であるからこれを自由意志と呼んでも良いのだろうか?
因果>どちらでも良い>因果消滅=自由意志 違う
結論が変わらん以上そこに思考のリソースを割く意味があるのかと言っている >>176
まだ結論は同じとは分からない。
仮に自分が自由意志を持たない人間だとして
自由意志を持っている人間から自由意志の使い方を習えば自由意志が使えるようになるかも知れない。
テレパシーを持たない人間がテレパシーを持つ人間からテレパシーを習えばテレパシーが使えるようになるかも知れない。
テレパシーが使えるのと使えないのは結論が同じとは言えないだろう。
自由意志が存在するならそれがどんなもので有るか自分は知りたいのだ。 君に自由意思があるなら君はすでに知っている
今の自分がそうなのだから
ないのならなるべくしてなる
つまり何も変わらない そして君が知りたいというのは自由意志ではなくテレパシーなんだなw
これでやっと君の問いの命題が分かった
〇テレパシーが何なのか知りたい
×自由意志はあるのかどうか >>179
テレパシー=認知できない
自由意志=認知できない
自分が認知できないものを既に知っているとする事に抵抗がある。
普通の感覚なら、認知できない=存在しない
だと思うが? >>178
それが存在するから知っているとするなら
ニュートン以前の古代人は既に万有引力の法則を知っていた事になる。
私が万有引力の法則を知っていようが知るまいが私の生活に影響は無いかも知れないが万有引力の法則によって多くの人が影響を受けている。自由意志の存在を確認する事が将来に渡って影響しないという理論はどうやって導き出されたのだろうか? 万有引力は当然みんな知っている
猿や虫ですらね
自由意志の原理を知りたいと言いたいんじゃろ? 自由意志と決めたものが自由意志であり、同時に『非自由意志』でもある。
あたまの弱いおまえらは、同時に成立することが理解できない、それだけなw >>181
トム・ストッパードの「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という
映画を思い出した。(ヴェネチア映画祭 金獅子賞)
「ハムレット」の端役のローゼンクランツとギルデンスターン目線から
台本通りに演じながらも「ハムレット」劇を再構成する話だが
台本から逃げるブレイクスルーが数々現れる
しかし二人をそれを見逃し、 ブレイクスルーのドアノブに手をかける事が無く
台本通りの運命に従い最後は英国で処刑される。
ローゼンクランツがリンゴが偶然落ちるのを見て何らかのインチュイションをギルデンスターンに
語ろうとするが上手く行かない。ギルデンスターンは馬鹿にした顔でリンゴをかじって終了。
ギルデンスターンは他にも蒸気機関やハンバーガーやディベート(同義反復やトートロジーなど)を
発見するが、悉く台本から抜け出したい筈のギルデンスターンに馬鹿にされ舞台から逃走する事が出来ない。
「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)や「審判」(カフカ)など
自由意志の消滅は他者と場によって消滅、または上書きされるのだろうか? 責任や刑法との折り合いはどうつける?
自由意思が無いとなると、何をしてもその行動や言動に責任は生じないだろ? >>186
他人にハメられて罪を犯した人間でも罰せられるのと同じように罪を犯したのが本人の自由意志でないから責任が問われないとはならないんじゃない?
何か理不尽な気もするがアルコールのせいで本人無罪とか麻薬のせいで本人無罪にならないのと同じ事と考えれば良くない? >>186
責任は生じないが因果が生じるんだね。
因果には誰も逆らえない。
因果によって罰せられる。 我が家の厨房が書いた論文
◯きたないとは何か
○初めに
⚪動機
これは哲学ではなくうんこ学である。人々ははうんこに対して「うんこ」ぐらいにしか思って
いないことだろう。「うんこはきたないか?」と聞かれたら「そうだろう」と答えるくせに
「なぜうんこはきたないか?」と問われれば「分からない。」と答える人もいると思う。そこ
で私は「きたない」について考え定義しうんこが「きたない」ことを証明しようと考えた。
⚪注意
「きたない」について具体的に考える前に注意しなければいけないことが1つある。それは
「きたない」は客観的な事実ではなく主観的な意見に過ぎないということだ。そこに絶対とい
うものはない。何を「きたない」と捉えるかは人それぞれなのである。しかし自らにとっての
「きたない」を考えることは出来る。僕にとって何が「きたない」のか僕にとって先輩はきた
ないのかを知ることは出来る。そこに答えはある。
⚪方法
「きたない」をまず辞書で引いてみる。すると@「不潔」A「下品」B「卑怯」C「貪欲」な
どの意味が見て取れた。今回の場合考えるのは@だろう。ABCは存在そのものに関する言葉
ではなく先輩自体が「きたない」事を証明するのには適していないからだ。そして更に「不
潔」を調べると「不快感を感じるもの」という「感覚」であることが分かった。つまり感覚的
に不快になるものが「きたない」ということになる。それを今回は5感に分けて考える。 ○視覚
⚪一般
まず1番目に考えるのがこれだろう。「茶色いものは『きたない』のだ。世界1『きたない』
うんこが茶色いように。」そう考える人はそう少なくないと思う。しかし私は異論を唱える。
うんこが「きたない」のは茶色いからではない。うんこが茶色いから「茶色いものは『きたな
い』。」と思い込んでいるのだ。彼らはそのくせはのうのうとカレーライスを食す。そして誰
かがうんこの話をし始めた瞬間「きたない」と感じる。
⚪仮説
私は本来「きたない」ということに色彩は関係ないのではないかと考えた。では視覚的に何が
「きたない」という感情を抱かせるのか。それは量である。それもただ単純に量が多い方が
「きたない」のではない。「視覚の全体に占める割合」が重要なのだ。例えば10gのうんこ
と1tのうんこならば前者の方が汚いだろう。異論は認める。しかしよく考えてほしい。臭い
ではない。片付けの大変さでもない。あくまで視覚的なものだ。後者の方が不快感は抱かない
のではないか。
汚物の量と汚さは反比例する。これを「ウンチイッパイデタネの法則」と呼ぶことにした。異
論は認めない。 ⚪考察
なぜそうなるのかを考えてみる。うんこ自体が視覚的に「きたない」のであればうんこの量と
汚さは比例するはずだ。しかしそうではない。つまりうんこはきたなくないのだ。我々の「き
たない」という感情はうんこ本体ではなくその環境における他の要因によるものなのだ。それ
はうんこがその環境に相応しいかどうかだと私は考える。そして視覚に占めるうんこの割合が
大きければ大きいほどに「うんこはその場所に相応しい」という錯覚を覚えることになるの
だ。@家の中にうんこが10g落ちている。A牧場の隅にうんこが10g落ちている。B牧場
の隅にうんこが1t落ちている。果たしてどの順番に「きたない」だろうか。僕の考えが正し
ければきたなさはB<A<@になるはずだ。異論は認めない。何度も忠告するがこれはあくま
で視覚面によるものだ。「くさそう」などの感想はおかしい。しかしこれも「きたない」の1
種なのかも知れない。「茶色は『きたない』色だ。」という考えがあるのも事実だ。私はこれ
に関して以下の考えを持つ。「本来『きたない』色は存在しないのだがうんこというこの世で
最も『きたない』物体が茶色であることから茶色を見るとうんこを連想するようになり茶色は
『きたない』色として定着された。同様に色彩による感情の殆どはその色から連想されるもの
のイメージで成り立っている。(心理的根拠に基づくものも一部あるが。)」例として茶色は
うんこを連想させることなどから「きたない」と言われるしピンクは花などを連想させるため
「きれい」だと言われる。また「相応しい」というのも本来視覚以外によって得られた情報か
らの連想である。つまり何が言えるかそれは視覚的に元々「きたない」ものはないと言ってい
いほど少ないということだ。「視覚的に『きたない』ものは元々はなかった。人によって見た
目の汚さの基準が異なるのはこのためである。」これがかの有名な「ウマイモノハチャイロ
イ」の定理である。 ○嗅覚
⚪一般・仮説
視覚の次に考えるべきなのがこれだろう。一般に臭いものは「きたない」とされる。私はこれ
に特に異論はない。これに関しては生物学的にも考えられる。有害なものをくさいと感じる。
それを避けるべく「きたない」という感情が生まれたとすれば辻褄が合う。
⚪考察
また臭いものには有害ではないとされるものも含まれる。例えばうんこだ。しかしそれはスカ
トールやインドールなどのガス(有害)による臭いがついたものであり有害なものを避ける性
質の一種なのだ。では果たして科学で全てを証明可能なのだろうか。まず主観的だと思われる
例を挙げてみる。それは「自分のうんこの方が他人のうんこより臭く感じる問題」だ。調べた
ところ「自分の臭いは、本能的に安心するという効果があります。特に動物がそうですが、自
身の臭いが他者とのコミュニケーション手段になっているからで、自身の臭いが安定して排出
されていたら、安心できるということです。人間にもそういう本能が残っています。一方、も
しも、自分のうんこの臭さに堪えられないなら、排泄されるまで、腸内にとどまるうんこの臭
いの扱いに身体が困ってしまいます。」(やほお知恵袋)ということらしい。つまりなんとこ
れも本能的なものなのだ。このことから私は「臭いという感覚は全て本能的なものである。」
と結論を出した。嗅覚的「きたない」=臭い=本能ということである。 ⚪一般
「触覚的に『きたない』とはどういうことか?」そう問われた人々はまず頭の中に汚いものを
いくつか思い浮かべるだろう。そしてそれぞれの触覚の共通点を見つけようとする。私も今回
は同じ手法を使おうと思う。
⚪仮説
例えば@うんごAうんちBうんにょで考える。これらは硬さを基準とした感触の違いがありB
<A<@の順番で硬いといえる。では汚さはどうか。私の意見では@<A<Bだ。ここで柔ら
かければ柔らかいほど汚いのではないかという仮説が成り立つ。 ⚪考察
これについて考えるためにはまず「柔らかい」について定義する必要がある。うんご→うんち
→うんにょで何が変化しているか?そう水分量だ。その物体を構成するその他の成分が水より
柔らかくない限り水分量が増えれば物体は柔らかくなるはずだ。(「水」というより「液体」
が適切か。)なぜならほとんどの物体のそれ以外の構成成分は固体であり液体より柔らかいか
らだ。私は柔らかいということを単純に水分量が多いというように考えることにした。それを
さっきの仮説に当てはめてみる。「柔らかいほど『きたない』。」=「水分量が多いほど『き
たない』。」ではこの仮説の正誤を考えてみよう。まず先ほどは3段階で考えたが変域を広げ
てみることにした。うんにょより水分量が多いものをCうんぴという。またうんごより水分量
の少ないものの名称は仮にD(うんご−1)としておく。そしてこの場合の結果を考える。あ
くまで私の主観だが触覚的な汚さはD<@<A<B<C(水分量小<大)であると思う。では
この法則性がどこまでも続くのかを検証してみよう。仮に水分量が0のうんこを(うんご−1
00)完全に液体となったうんこを(うんぴ+99)とする。どうだろうか。(うんご−10
0)より(うんご−99)の方が「きたない」のは確かだが(うんぴ+98)は(うんぴ+9
9)より「きたない」ような気がしないだろうか。つまり「液体の割合が減少するほど汚さは
減少する。これは液体が0になるまで続く。また液体量が増加につれ汚さも増加するがある一
定の値を通過すると完全な液体になるまで汚さは減少しつづける。」ということだ。これをウ
ンコノカセキハクサクナイ理論という。ではなぜこうなるのかを少し考えてみよう。私の予想
だがこれは「手につくかどうか」だと思う。触ったあと手に付着するうんこの量と関係してい
るのではないか。柔らかければ柔らかいほどに手にくっつきやすくなる。だがある一定の液体
量を超えると今度はサラサラとして手にはくっつかないということだ。そして物体を手に付着
させたくない感触を残したくない理由は1つ。(触覚以外の感覚からの連想に基づき)「きた
ない」からだ。つまり触覚も元々は「きたない」を感じることはなかったのだ。(ウマイモノ
ハチャイロイの定理2) ○味覚
⚪一般
このことを考えたことがある人は少ないだろう。「強いて言うのならば不味いものは『きたな
い』…?」と言うような非常に難しい問題である。では「不味いものは汚い」という仮説をた
ててみる。 ⚪考察
考えてみよう。例えばうんこは「きたない」。そして不味い。ではあんこはどうだろうか。あ
んこは不味い。しかし「きたない」とは思わない。この時点で仮説は崩れた。順番が逆なの
だ。不味いものが「きたない」のではなく「きたない」ものが不味いのだとしてみる。それで
は「きたない」ものに本来美味しいものはないという仮説はどうか。昆虫食が一般的な国に行
きディナーにゴキブリを出されたらどう思うか。この「気持ち悪い」という感情は「きたな
い」と同一だと考える。しかしその食用ゴキブリは(少なくとも現地の人々にとっては)美味
なのだ。しかし「きたない」のならこの仮説も正しくないのではないか。そうではない。ゴキ
ブリは「きたない」という先入観によるものだからである。そしてゴキブリが「きたない」と
思うのは元々味覚以外によるものでありそれを連想させるから「きたない」のだ。ゴキブリが
「きたない」理由についてはこう考えられる。「ゴキブリが好む生活条件は衛生的に良くな
い。医学的に不潔である。不衛生で体に害を与える可能性のあるものを避けるのは本能的なも
のである。」つまりゴキブリがきたないのは本能によるものだったのだ。しかし特定の地域で
はゴキブリは食用として衛生的に飼育されているため現地では汚くないのだ。また味覚以外の
要因で「きたない」の条件に当てはまるものも味覚によって汚くなくなる場合がある。例が納
豆だ。納豆がネバネバしていて(付着しやすい)アンモニア臭を漂わせる(アンモニアは有
害)が汚くはない。美味いからだ。また接着剤は臭いし 付着するが汚くない。これらに共通す
るのは何か。役目があり利用することができるということだ。だから汚くないのではないか。
体に悪影響を与えるものを嫌い生命維持や日常生活に役立つものを好む。これも本能のうちな
のだろう。また日常的に肥料として牛糞を使用している農家は都会人ほどうんこを「きたな
い」とは思わないらしい。これは都会で生活する人々が臭いに加え役に立たないという条件か
らうんこが「きたない」という先入観を抱くのに対し農家はうんこを役に立つ肥料としてみて
いるからである。まとめると「本来味覚によりものを『きたない』と感じることはない。しか
し役に立つものは汚くないため『きたない』ものは不味い(美味しくないというイメージがあ
る)ものが多い。」ということである。(ウマイモノハチャイロイの定理3)
○聴覚
⚪一般
一般に「ブリブリ」は「きたない」。
⚪仮説
もうすでに想像はつく。「ブリブリ」という音自体が「きたない」のではない。「ブリブリ」
がうんこを連想させるから「きたない」のだろう。
⚪考察
聴覚という言葉からは少し外れるかもしれないがうんこに対して「きたない」という感情をま
だ抱いていない子供に母親が「うんこは『きたない』からその言葉は使うな」と言えば幼少期
の子にとって親は絶対的な存在であることから「うんこは『きたない』」と覚えてしまう。こ
のように他人の意見や世間の風潮によって「きたない」という先入観を抱くこともある。そし
てその先入観による連想が次の「きたない」を生むのである。元々「きたない」音など存在し
ない。(ウマイモノハチャイロイの定理4) ○まとめ
⚪視覚
本来は汚くないが他の「きたない」ものを連想させると「きたない」とされる。その場に相応
しくないと感じられればより「きたない」と感じる。
⚪嗅覚
臭い(有害の可能性がある)ものは汚い。他の生物により出現した物体などより汚く感じる条
件がありそれらは科学的に説明できる。
⚪触覚
本来は汚くないが他の「きたない」ものを連想させると「きたない」とされる。体に付着しや
すい粘着質なものはより「きたない」と感じる。
⚪味覚
本来は汚くないが他の「きたない」ものを連想させると「きたない」とされる。役に立たない
ものはより「きたない」と感じる。
⚪聴覚
本来は汚くないが他の「きたない」ものを連想させると「きたない」とされる。他人により
「きたない」と伝えられるとより「きたない」と感じる。
⚪考察
「きたない」という感情は嗅覚を中心に成立していて様々な条件がある。そして嗅覚とその条
件は科学的に説明できる。そのため「『きたない』は科学的に説明できる。」のではないか
⚪感想
楽しかった。 「自由」は空想的概念
ある時点で「右を選ぶか左を選ぶか」みたいな
宇宙の状態を分岐することができる力を指している
が選択が何によって決まっているか言ったら
「必然」「偶然」のどちらかであり、
人間が考えた「自由」とはだいぶ違う
ただ1つの正解を間違えずに選ぶ神が機械になってしまうことが
中世の宗教家たちの悩みの種だった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています