西部邁スレ合理論のまとめ
過去ログのリンク先はブラウザでなら見ることが出来ます 独立価値と従属価値論のポイントは、最終的には
合理には必ず始点と終点が存在するという部分につながると思う 582 :考える名無しさん:2010/03/09(火) 21:46:04 0
遺伝子も伝統か。確かにそうだよな。
ある意味、最も確実で純粋な伝統かもな。
親から子、子から孫と必ず代々伝えられるしね。
これが案外一番大きいかもな。人格や人間性も遺伝するわけだし。 >>5
とても鋭いレス
人間、そして生物の本質はループ構造にある
伝統というものも、もちろんこのループ構造を構成している ちょっと前後してしまったが、西部邁スレ合理論の結論は
本スレ1です。つまり
西部さんは最後まで自己決定論者だった
知的存在としての人間が自己決定できる範囲を大きくしていくこと
これが、人類の文明が歩むべき方向性であることは間違いない
それは、この宇宙・世界に対してまったく勝ち目のない戦いではあるけれど
それでも人間はそちらに進んでいくしかない
撤退することは、動物に戻ることであり、それはたとえこの世界に適合性が高まるとしても
人間としての矜持がそれを許さない
ご冥福をお祈りします
これです。
この結論をこのスレの最初に書くべきでした 404 :考える名無しさん:2010/03/05(金) 22:58:31 0
人間の可能性に限界があるっていうのを認めるのはそれほど簡単じゃないよ。
人間の可能性に限界があることを認めるなら、どうしても信仰が必要になる。 >>8
これも鋭いレスですが、合理の終端を意識するとき、そこに信仰・救いが
どうしても必要になる
これは、この合理論では、合理の透明性を理解することで信仰・救いが得られます
これは、仏教の方法論と同じです 人間にとって一番の恐怖は意識の多重ループ構造が
発散することです
意識の合理への静かな収束を心がけることで、
この発散をまさに死の瞬間まで避けることができる
強い合理主義者だった西部氏はこれが出来ていたんだろうと思う そんな救いは必要ないと思う人もいるかもしれないが
自堕落な生活をしていれば、それは救いの下側にいるわけで
すなわち救いは必要ないってことになる
そういう生活に陥らないための救いってことです 458 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 13:45:05 0
>>28
それは、基本だね。
それを意識していろいろな作品を見ると、今まで見えなかったことが本当によくわかる。
たとえば、映画のアマデウスは、才気あふれるモーツァルトと、中世的な常識人のサリエリの
葛藤が、そのまま近代と中世の葛藤に対応している。
サリエリは、中世的常識人として、神の御心としてイデアを見ようとし、
モーツァルトの作品の中にイデアを見いだしたときに、神の御心がモーツァルトにあると考える。
それによって、下劣なモーツァルトを選んだ神を憎み、十字架を火の中に投げ入れる。
サリエリは世俗的にモーツァルトを葬りさったけれど、その価値観において完全にモーツァルトに屈服した。
それは、近代が中世に打ち勝ち、人間が神に打ち勝ったことを表している。
461 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 17:23:26 0
もし、真善美を神を通してではなく、直接追求するとどうなるか。
真善美を表現できる、あるいは体現できる人間が至高の存在になる。
それはつまり、才能に優れた人間、容姿に優れた人間が至高の存在になる。
これは、真善美を直接追求した場合に必然的に到達する価値観だよ。
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素晴らしい洞察だな
しかし、西部スレ合理論の初期は、意識のループを発散させないための
超越性の重要、つまり終端処理の重要性に焦点を当てていた
これは、伝統的な方法ではあるけれど、それで人の苦を解消することは難しい
ITの可能性、遺伝子技術の可能性が大きくなる前の論であろうと思う 459 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 16:34:18 0
つまり、才能が一番大切と考える近代と
信仰が一番大切と考える中世の葛藤がある。
この葛藤こそ、中世と近代を分ける最も重要な部分。
そして、人間の根本的な価値観における最も重要な部分。
「アマデウス」という映画は、この部分をものすごく綺麗に描いている。 462 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 18:54:51 0
真善美の素晴らしさ、栄誉は、
神を通して追求する場合には、神に
直接追求する場合には、人に帰せられる。
これは、善の場合でも同様。善を直接追求するのであれば、その善の素晴らしさは人に帰せられ
神を通して追求するのであれば、善の素晴らしさは神に帰せられる。
これが、近代と中世を分ける本質。日本でもこれは、まったく同様に当てはまる。 その通りで、真善美に憧れるが自己によってそうせざるを得ず、行為の形式が近代的神話になってしまう。 ○
その通りで、自己によって真善美を求めるのは自己を神的にする事だと思う。
それとは別に、私は学問と個人の間で揺れるが、あり方がまずく5ちゃんは止める。 こっちは、基本過去レスを貼り付けるだけ
議論は本スレでやってくれ 633 :考える名無しさん:2010/12/24(金) 10:26:57 0
最近はアカデミズムの「神の座」からの脱落が激しい。
学卒の価値の暴落はもちろん、院卒や大学教員、さらにいろいろな士業の価値も暴落している。
これらはすべて、ヒューマニズムのループバックによる必然的な帰結。
ヒューマニズムをいつまでも「神の座」に祭り上げておくことは出来ない。
これらは、民衆自身にルーバックすることで、「神の座」から必然的に引きずり下ろされる。
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超越性がないものは神の座に留まることは出来ない
それは所与条件ではなく、ループフィードバック系の中に取り込まれ
絶えず再評価プロセスにさらされる
この過程は8年前よりもさらに激しく進行している 715 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/14(日) 08:12:07.49 0
仏教の「諸行無常」の思想の本質とは、
結局イデアの超越性を認めるってこと。
そこまでわかれば、浄土真宗がキリスト教に近い存在になった理由がわかる。
仏教の教えを忠実に辿っていけば、一般的な宗教の形態を取ることになる。
716 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/14(日) 08:54:38.81 0
仏教の理論を借りて宗教を定義するなら、
この世は諸行無常であり、人知を超える存在である。
そして、その仕組みにこそ、イデアが潜んでいる。
故に、人知を超える神にイデアが託されることになる。
人知を超える神とは、要するに諸行無常そのものだ。
神は人知を超えている。だから、神の意図は推し量れない。
これは言い換えれば、世の中は諸行無常であるということを言っている。
世の中は諸行無常であるから、世の中の成り行きは推し量れない。
世の中は諸行無常であるが故に、神は人知を超える存在であり
諸行無常の中にイデアが存在するということは、人知を超える神にイデアが存在するということだ。
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これも終端処理の話です
イデアはデジタル側からアナログ側への写像であり、乱数はアナログ側からデジタル側への写像です
もちろん、諸行無常とは乱数・ランダムのことです