Wikipediaの独我論の説明ですが、これは面白いですね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』において、独我論と実在論の完全な一致を主張したが、それは徹底した独我論であり、やはり上の意味での独我論者であるとは言えない。彼によれば、主観/客観の二項対立図式を前提にデカルト的コギトから出発する限り、世界の存在を証明することはできない。名の連鎖である文が真となるのは、文が事態の写像で、かつ、事態が現実に成立する場合である。現実に成立している事態とは、「意識と身体をもったウィトゲンシュタインがいる」というものである。身体と意識を分割したコギトという「意義」は現実に成立している事態と対応しない言葉の誤用にすぎない。現実に成立している事態と名が一対一で対応するのであれば、その事態について思想する主体が存在する。そのような主体が存在しなければまた世界も存在しないということになるからである。主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。独我論のいわんとするところは全く正しい。それは語られず示されるのみである。

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ここまでくれば、ウィトゲンシュタインの態度だけでは済まないということになりますね
実際に、もの自体が存在することを想定するならば、そこにある種の絶対性が生じる
もの自体が存在することを前提としない独我論であるならば、そのような絶対性は生じない

ここでも結局ポイントとなるのは、一元論であるか二元論であるかです
独我論であるならば一元論であり、もの自体を想定するならば二元論になる
どちらが正しいかはおそらく決着は付かないと思いますが、いずれかを選択したのであれば、それに応じた一貫性が求められます
マルクスガブリエルのように物質と精神の二元論を選択したのであれば、ある種の絶対性を認めなければならない
ポイントとなるのはそこですね