X



西部邁スレ合理論のまとめ
0001考える名無しさん
垢版 |
2018/09/12(水) 15:41:03.570
時系列を追ってまとめてみようと思います
0061考える名無しさん
垢版 |
2018/09/30(日) 22:43:14.090
合理の衝突を如何に偽超越性を介さずに解決できるか
ここに、人々の苦を軽減するための鍵がある
0062学術
垢版 |
2018/10/01(月) 07:15:11.810
イデア界は実在します。
0063考える名無しさん
垢版 |
2018/10/01(月) 08:44:39.750
超越性への着目は西部スレ合理論の初期からあったんだが
鍵となったのは、デジタルとアナログの切り分けだな
これで、超越性について何が問題なのか、一気に核心に迫ることができた
0064考える名無しさん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:02:15.670
市場による合理の解決->軍事による合理の解決の部分は
スパイラルダイナミクスという理論で哲学的に説明できる
んだがこれが出たのは2015年ぐらいだったか
まだ先だが、気になる人は調べてみてくれ
0065考える名無しさん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:03:35.710
>市場による合理の解決->軍事による合理の解決
->
市場による合理の衝突の解決->軍事による合理の衝突の解決
0066考える名無しさん
垢版 |
2018/10/08(月) 07:52:18.080
341 :考える名無しさん:2011/09/10(土) 09:18:40.15 0
欧米の一部でオタク文化がもてはやされるのもそれが原因。
欧米の文化では、ヒューマニズムは完全に死滅しつつある。
ヒューマニズムを称揚するいかなる作品も陳腐化してる。

そういう状況で、オタク文化が持つヒューマニズムは
新鮮な驚きをもって迎えられ、敏感な人はそこに希望があることを感じ取っている。

ただし、ヒューマニズムの敗退は自然の摂理として決まっている。

-------------------------------------------------------
ヒューマニズムとは、超越性を認めない態度と言える
オタクによるヒューマニズムは、ひたすら細分化し、従来は
超越性が存在した隙間を細分化によって、つまりアナログデジタル変換
の精度を上げることで、超越性を埋める作業と言えるかもしれません
この部分では、まだフロンティアは残っていると思われます
ITによる細分性の向上も同じ流れです
欧米でうまくいっていないのは、この細分化を妨げる何か、それは人種の壁であったり
その他大きなコミュニティを志向する何かが強かったりするためでしょう
本質ではなく政治的理由による区分が強い
アメリカのオタクの対極であるタフネス志向も政治的理由です
タフであることで、すべての属性を受け入れることができるわけですから
ただし、これは細分性に逆行しますから、超越性が大きくなり、したがってヒューマニズム
は行き詰まります
ただ、ITではそうした志向にとらわれず、細分化は進んでいます
0067考える名無しさん
垢版 |
2018/10/08(月) 08:41:21.610
オタクは、ソフトウェア的な細分性への取り組み
ITはハードウェア的な細分性への取り組みと言えるかもしれません
もちろん、両者の相性が良いのは、周囲を見れば明らかでしょう
そして、細分化による合理の衝突について言えば、これはIT・AIによる
解決システムの実現が待たれているところだろうと思います
0068考える名無しさん
垢版 |
2018/10/08(月) 12:39:09.670
日本的視野狭窄のガラパゴス化がオタク化の領域にあるもので、
トランプ的古い視野狭窄田舎者的差別や低脳低学歴貧乏ネットウヨが、
マッチョなタフネス志向や全体性への志向の典型か
0069考える名無しさん
垢版 |
2018/10/08(月) 13:10:41.040
ガラパゴス化ではあるけれど、それが内面の本質だから
デジタルアナログ変換の精度を上げてるんだよ
足下をおろそかにすれば、それは無用な超越性を発生させるだけ
ガラパゴス化自体の弊害は、ITが解決するでしょう
0070考える名無しさん
垢版 |
2018/10/08(月) 13:48:46.940
同様にマッチョもそれが内面の本質ならかまわないけれど
政治的理由、つまりマッチョであればあらゆる属性を受けられられる
みたいな理由でそれを広めているなら、それは無用な超越性を発生
させているだけということになるね
0071考える名無しさん
垢版 |
2018/10/08(月) 13:50:27.070
それは封建領主が所領を収めるという状況と
同じ類のものだよ
0072考える名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:33:05.020
854 :考える名無しさん:2011/10/12(水) 19:20:04.88 0
今の時代って頭の悪い人間でも市民権を得てる時代でしょ。
頭の悪い人間でもあれこれ工夫して、自分の立ち位置を高くしようと努力してる。
これが、昔の頭悪い人間が発言権のなかった時代と比較して、衆愚が増えたと感じてしまう
理由だと思うよ。頭の悪い人間が目立つから、衆愚が多いと不愉快に思う。
だから、これが不快なら、頭悪い人間を黙らせるしかないと思うよ、昔みたいに。
0073考える名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:35:00.610
858 :考える名無しさん:2011/10/12(水) 20:19:13.02 O
兄弟が何人か居た。
しかし、兄弟のうちの一人は平凡に成長できず幼くして亡くなった。
ひとりは悩みを抱え精神を病みで生を断念した。
お袋は平凡な生活を望んでいたが、親爺の商売の失敗で塗炭の苦しみを味わった。
親爺は七転び八起きの末に、細やかな会社を興した。

皆平凡に普通に生きようと思ったが、なかなかその希いは叶えられなかった。

色々な事があったけど、やっと今平凡な暮らしが出来る。
兄弟や親の量り知れない(だろう)犠牲を経て、俺はささやかな暮らしをさせてもらっている。

家族と天に感謝する。
0074考える名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 22:25:32.690
234 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 16:51:31.73 0
誰もが経験するような何かを描いて金をとることはできないし
ましてそれで賞賛されることはないでしょ。

賞賛される芸術的小説というのは、人間性の中にイデアを
うまく表現できたとき(ヒューマニズムの巧みな表現)に与えられるもの。

小説にしろ映画にしろドラマにしろ、誰もが経験する当たり前のことを
描いても誰も興味を持たない。何かのイデア、つまり真善美が求められてる。

ドラマなんかで注目されるファッションなんかですら、真善美の美を示している。
ただし、こうしたものは超越性がないので、すぐに人に一体化して霧散する。
0075考える名無しさん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:48:13.040
242 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 19:19:18.90 0
ヒューマニズムの行き詰まりとともに本格的なイデアを追求してきた小説の
存在意義が失われつつあるということだよ。

それに対して、形だけのイデアとして愛や美を添え、娯楽性をメインに追求している
映画などのメディアの存在意義はそれほど薄れていない。

いずれにしろ、形だけであってもイデアを提示できない作品は、公衆向けの作品としては
体をなさなくなると思う。

イデアを持たない公衆向けの作品は、たとえ娯楽作であっても不謹慎、不道徳であるとすら感じられる。
それは、公衆向けの作品には、人々が宗教性の代替としての存在を求めているからかもしれない。
0076考える名無しさん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:52:03.960
246 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 19:57:32.35 0
>>245
ちょっと・・、それは元はアマデウスの話だろ。

愛をイデアとして添えた娯楽映画は数多くあると思う。
タイタニックを初めとして、アルマゲドン、インディペンデンスデイ、アバターなど。
そのほかにも、公衆向けの作品には何かのイデアが必ず添えられている。
名作として挙げられるのは、娯楽性以外にも、そうしたイデアの描き方が巧みな作品だと思う。

アマデウスは、美のイデアを神から切り離すことができることをモーツァルトが体現する
ある意味異色の名作だと思う。
0077考える名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 21:27:11.050
52 :考える名無しさん:2011/11/17(木) 16:59:02.08 0
昭和中期がよく見えるのは
下層にも優秀な人たちがいたからだろうね。
戦前までのほぼ生まれで決まる階層のために、
優秀な人間も大勢下層に存在した。
だから、下層であっても幸せな励ましあいがあり、すばらしい人たちが存在した。

それを良いと思うか悪いと思うかは判断の分かれるところでしょ。
社会全体としてみればそういう社会もいいものだと思うけれど
個人として見れれば、優秀であっても下層に留まらなければならないというのは憤懣を感じる部分もある。
まあそれは今の時点の見方で、その当時の人々はそう感じていなかったかもしれないけどね
0078考える名無しさん
垢版 |
2018/11/03(土) 22:14:45.610
776 :考える名無しさん:2012/01/10(火) 16:36:21.09 0
ヒューマニズムというのは、個人の力で何でも出来るって考え方。
人間の本質を解放すれば、すべてがよくなる、すべてが解決するって考え。
だから、ニーチェの超人なんていうのもヒューマニズムだね。
ニーチェは、ニヒリズムじゃなくて、しょせんヒューマニズムでしかない。

ヒューマニズムは人間の本質を解放すれば良くなるって考えなので
わざと偽悪的になったりする。ドクロマークは、実はヒューマニズムの象徴なんだけど
それは、人間の本来の性質を信じてるっていうメッセージ。

だから、ヒューマニズムによって道徳が乱れるのは、ある意味当然。
道徳が乱れても、人間の本質を信頼してるから、制約から解放されることでよりよくなるって考えが
ヒューマニズム。
0079考える名無しさん
垢版 |
2018/11/08(木) 17:46:01.160
中国を「チャイナ」「シナ」と呼ぶのは(ネト)ウヨ

小物を「先生」「さん」付けするのは西部シンパ(土建カルト)
0080考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 09:58:11.740
256 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 22:02:10.63 0
ここで一つ、「人道」という言葉がある。
「人道」は、ヒューマニズムの訳語となる場合もある。

人の道とは、まさにヒューマニズムのことを指しているように思われる。
そうであるなら、超越性が生じることはない。

なぜ、武士道や茶道では超越性が生じ、人道では超越性は生じないのだろう?
それは、義務的な繰り返しによる道の確立があるかどうかによるんだと思う。

職業的な「〜道」は義務的な繰り返しによって確立されるのに対して、
「人道」は何も繰り返すことなく、ただ無条件にあることが期待されている。
それは人の生来の性質としてあることが期待されている。
まさに、人の自発的な性質として「人道」が存在する。そこに超越性が介在する余地はない。

それに対して、武士道などの職業的な「〜道」は義務的な繰り返しにより確立され
その非自発的性ゆえに、超越性が生じてくることになる。
このことは、非情に興味深いことだと思う。

ここでカントの定言命法について考えると面白いかもしれない。
絶対的な定言命法を命じるものが、人道なのか、武士道などの職業的な道なのか、あるいはその他の超越的な道徳なのか。
定言命法を命じるものに超越性があるかないかで、その性質は大きく変わるものになると思う。

258 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 22:36:28.18 O
生活も繰返しだし、人間の生きることって殆ど強制された条件の中で毎日を繰返すことだと思うよ。
だから、人生もまた道のひとつではないのか。

道に超越性が生じるのなら、また宿命を生きる普通の人間にも超越性が生じるということになる。
0081考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 10:14:50.850
613 :考える名無しさん:2012/01/01(日) 07:09:53.60 0
淘汰を許容しないといっても並大抵のことじゃないよ。
どうしようもない人間もたくさんいる。
そう言う人間を淘汰なく矯正するには遺伝子治療や人格矯正なんかが必要になると思う
。でも、左派は自然の克服を是とするから、その方向にむかうと思う。
0082考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:06:09.150
馬鹿の考え休むに似たり
ニタリニタリかな
0083考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:11:49.120
途上なんで口を出さないでくれ
ここは黙々と貼り付けていくだけ
0084考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:15:30.300
836 :考える名無しさん:2012/01/16(月) 10:27:41.23 0
ALWAYS 三丁目の夕日という映画が人気だが、
主人公は作家志望の高等遊民だね。
そして、人々は知にあまり接していなくて、エリートに対する尊敬の念が十分に残っている。

主人公は、エリートとして、あるいは知の神官としてのアイデンティティを余裕を持って持ちながら
人々の昭和の暮らしのいいとこ取りをできる。

エリート崩れ、つまり世俗的でないヒューマニズム信仰者にとって、夢のような舞台だけれど
それは人間を廃人にしてしまうシチュエーションでもある。
0085考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:19:05.790
881 :考える名無しさん:2012/01/18(水) 16:41:37.21 0
バブルというのは、それまでの日本文化の集大成なんだよ。
あの非合理さというのは、それまでの昭和文化の表出にほかならない。
バブル崩壊後の合理主義的な文化というのは、それまでの日本文化には
あまり見られなかった。

バブルの崩壊時に日本文化は大きく断絶してると思う。
昭和までのいい加減さが終わり、平成の合理性がとって代わった。
これは、さらにさかのぼった日本の歴史の中でも大きな文化的な出来事なのではないか
と思う。日本のいい加減さというのは、かなり古くから続いてきたものだしね。
0086考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:20:40.320
896 :考える名無しさん:2012/01/19(木) 09:46:29.54 0
昭和30年代、40年代というのは、神としての「知」が健在だった。
神が存在する世の中というのは、穏やかで人々は希望を持ち、満たされている。

ただ、神としての「知」の欠点は、それがループバックすること。
つまり、「知」が神であったはずなのに、いつのまにか自分が神になる。
これが昭和50年代、あるいは1980年代に起きた。

その結果として、ちっぽけな自分(自分がそのことを一番よく知っている)が神であるなら、
この世に神は存在しないということになる。それが、現在。
神のいない世の中では、人々は希望を失い、絶望の中を生きることになる。
0087考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:37:21.910
360 :考える名無しさん:2012/02/17(金) 11:20:40.45 0
根本の問題は、他人に必要とされない人間が酷い目に合うことは
正しいのか、そうでないのかだ。
他人に必要とされない人間でもちゃんと生きることができる世の中が正しいと思うなら
自由経済では無理だ。そこに、強制的な再配分の仕組みが必要になる。

でも、ここで考えて欲しい。配偶者に何の魅力もない人間をあてがわれることを許容できるかどうか。
それを許容できるのであれば、自由経済を捨てる覚悟はある人間だろう。
昔の人間は、お見合いの相手をそのまま受け入れていたから、これは必ずしも無理な話じゃない。
もし、魅力のある人間と付き合いたい、そういう人間が周りにいて欲しいと思うなら
自由経済を選択するしかないだろう。
その場合、他人から必要とされない人間が酷い扱いを受けることになるのは必然ってことになる。
0088考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:42:08.470
当時は、娯楽がほとんどなかったから、何の魅力もない相手でもそれなりに遊びを思いついていたけど
まで読んだ。
0089考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:45:40.410
388 :考える名無しさん:2012/02/20(月) 08:31:21.57 0
また、社会全体の問題とは別に、
人々の行動の合理化によって、割を食う存在がある。
それは今まで、人々の行動に無駄が多かったために、合理的に立ち回ることで
利益を得ていた存在。つまりエリート層だね。
このようなエリート層は、今まで合理的に行動することで無駄の多かった一般大衆よりも
優位に立つことができたんだが、人々の行動が合理的になるほど、
合理的であるという点のみで優位に立つことは難しくなる。

このような点のみで優位に立っていて伝統的エリート層はかなりいると思う。
「合理的である」というその一点だけで、良い教育を選択し、良いキャリアを選び、良い待遇を得る。
これは人々に無駄が多く、人々が不合理であったが故に比較優位があったから。

ところが、人々の行動が合理的になると、「合理的である」という点だけど比較優位を得ることは難しくなる。
これが現代社会。このときに比較優位を得るには、本当の生まれながらの「才能」が必要になる。
これは、自身の意思選択や努力では獲得できない部分でもある。これは皮肉だけれど、よく考えれば当然のことなんだよね。
0090考える名無しさん
垢版 |
2018/11/22(木) 18:47:12.860
これは6年前の言説なんで、議論するのは辞めてくれ
これらもそのうち徐々に解決されて、整理されてくる
0091考える名無しさん
垢版 |
2018/11/23(金) 13:28:44.390
608 :考える名無しさん:2012/03/09(金) 08:29:50.78 0
この世界、自然、そして運命は、人間個人の尊厳など一切考慮せず、
それを押し潰していく。伝統宗教はそれを受け入れる心の準備をするためのもの。

スピリチュアルは、人間個人の尊厳こそ至高のものであり、それを守るための
努力を諦めるなという。そしてたとえ負けた場合でも、それは仮のものであり
生まれ変わりでもなんでも可能。なぜなら、人間個人の尊厳こそ至高だから、
それを保証するものは何でも存在するって考え。また人間個人の尊厳は、周りの人々との
調和がなければ成り立たないから、それも重視する。ただし、人間個人の尊厳を確立するための
周囲との調和であって、それを一切無視したものは受け入れない。
それに対して伝統宗教は、人間個人の尊厳を一切無視した運命を受け入れる準備をするための教え。
0092考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:43:39.140
177 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 06:58:30.49 0
いじめっていうのは、パープルとレッドの世界だよ。
理屈が通らず、印象的呪術的に物事が動く。その中で強いものが君臨する。
原始的呪術的なパープルの海の中からレッドが君臨するんだよ。それがいじめの世界。

178 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 07:39:20.44 0
レッドを抑えるには、ブルーの規律が必要。
オレンジやグリーンは、パープルやレッドに直接には対峙出来ない。
日本は今、ブルー的な規律が不在になってる。
この部分をなんとかしないと、いじめに対処できない。
そのために、イエロー的な視野からのブルーの再構築が必要だと思う。
小中学校の教師は特に、ブルー的な価値観が必要。
高校大学からオレンジ、グリーンへと導くべき。
0093考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:44:35.710
186 :考える名無しさん:2012/07/12(木) 06:53:45.59 0
オレンジが主流の現代社会では、子供たちにはとりあえず
ブルーの素養までは身につけさせないといけないと思う。
ブルーの素養があれば、たとえオレンジに対して反発したり抑圧を受けたりであっても
社会とまともな接点が持てる。そこから社会に参加し、影響を受けたり影響を与えたりできる。

これがパープルやレッドに留まると、社会とまともな接点が持てなくなる。
そうすると、社会から脱落したり犯罪者になったりする。
だから、初等教育においてはブルー的な規律を身につけさせることを
まず目標にしないといけない。

187 :考える名無しさん:2012/07/12(木) 09:53:41.94 0
江戸時代においては、支配階級がブルーであり、
庶民はパープルやレッドであっても、ブルーから抑圧されたり指導されたりという
直接的な関与を受けることが出来た。だから、江戸時代では庶民はパープルやレッドでも社会参加できた。

ところが、現代社会では、支配階級のオレンジがパープルやレッドに対して直接関与する術を知らない。
だからオレンジは、パープルやレッドを法律の枠内であれば完全放置する。
こうなると、パープルやレッドは社会に参加できなくなる。
いじめ問題もこの放置から来てる。ブルーはパープルやレッドに対処し指導できるけど、オレンジには
それが出来ない。
このために、初等教育においてはブルー的な人員を配置して、パープルやレッドを指導し
ブルー的な素養をすべての子供に身につけなせないといけない。
それが江戸時代と現代の違いだと思う。
0094考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:45:15.640
189 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 08:04:54.97 0
スパイラルダイナミクス関連のリンク
http://blog.livedoor.jp/rsuganami/archives/1322494.html
http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/spiraldynamics.htm

http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/yellow.htm

http://blog.livedoor.jp/rsuganami/archives/1343699.html

ベージュ→パープル→レッド→ブルー→オレンジ→グリーン
これが第1階層

イエロー→ターコイズ
これが第2階層

基本的にブルーやグリーンなどの寒色系は、エゴは環境に従属すべきと考え
レッドやオレンジなどの暖色系は、エゴが環境を管理すべきと考える。
各階層の最初のベージュとイエローはエゴと環境が統合されている。

パープルは、呪術的。エゴと環境はまだ未分化。
レッドは、強さこそ正義。環境からのエゴの独立。戦国時代。
ブルーは規律を重んじる。武士道、キリスト教、儒教など。
オレンジは自由を重視。資本主義と民主主義。
グリーンは多様性を重視。ポストモダン。
0095考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:46:46.530
191 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 08:37:12.52 0
なぜ、イエローで次の階層になるのかというと、
イエローは第1階層のすべての色の意義と重要性を理解しているから。
第1階層を俯瞰的に捉え、それぞれの色の長所と欠点を理解し、構造全体にとって各色が不可欠であることを
理解しているから。このために、次の階層に置かれることになる。

また、イエローではエゴと環境が統合されるけれど、イエロー自体は暖色系でありエゴの力により序列化を行い
それを進化の力とする。
0096考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:48:29.510
197 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 16:48:04.95 0
とにかく、いじめ問題は酷すぎる。
オレンジ的な手法やグリーン的な手法はいじめにはまったく効かないどころか
かえって逆効果。

ブルーの規律を学校現場に導入しないと、どうにもならない。
レッドとパープルからなる原始的な力と論理のない感覚の世界がいじめであり
これを指導するにはどうしてもブルーの規律を学校現場に導入しないとダメ。
オレンジやグリーンにはまったく手に負えない世界だよ。
0097考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:50:56.820
スパイラルダイナミクスを理解してもらうには学校のいじめ問題が一番わかりやすい感じだな
また、これはアメリカや中南米のギャング集団なんかに当てはめてもわかりやすい
0098考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 19:55:16.160
218 :考える名無しさん:2012/07/14(土) 07:57:39.89 0
なぜかというと、近代理念というのは、それ以前に確立していた
規律を前提として生まれてきたものだから。
その規律がなくなってしまうと、近代理念が生まれた前提がなくなってしまうことになる。
そうなると、近代理念の存在理由自体が怪しいものになる。

かといって、規律が確立する前の状態に戻れば、それは混沌とした
戦国時代のようなものであり、はっきりいって酷い世界。
近代理念を活かすには、それが成り立つ前提となった規律を身につけないといけない
ってことだと思う。
0099考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 20:26:43.270
229 :考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:43:54.40 0
>>224
未分化なエゴを持つパープルの集団に強いエゴを持つレッドが君臨する構図だね。

昭和40年代ぐらいまでは、学校に強い規律が存在したので
こうした集団をうまく指導できたんだが、その規律が薄れてしまい
オレンジやグリーン的な指導が学校で行われるようになると、パープルとレッドを直接指導できなくなって
しまった。それで生徒間の関係が原始状態に逆戻りしてる。
とても文明社会とは言えない。学校に規律を取り戻さないと、オレンジ的(民主的)教育をする基盤がないよ。
それ以前の原始状態だから。

230 :考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:49:51.40 0
強い規律を持つ人々に民主教育をするから意味があるのであって、
原始状態にある人々に民主教育などまったく意味がない。

歴史的にも、強い規律を持つ人々が民主主義を選択したわけで、
原始状態の人々が選択すべきなのは強い規律だよ。
歴史はまさにその通りに経過してきたわけだし。
0100考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 20:32:34.500
264 :考える名無しさん:2012/07/28(土) 16:21:54.83 0
要するに、グリーン的な間違いに陥ってるんだよ。
平坦な多様性を認めても、問題は何も解決しないどころか
却って悪化する。いじめられる多様性やいじめる多様性も認めろよとなるだけ。
そこに問題があるわけじゃない。むしろ逆。

ブルー的な規律が必要であるのに、それを排除しようとしてる。
それは、グリーンのみの価値観があればいいと考えるグリーンの欠点。
イエロー的視点で、すべての段階の価値観が必要であると認めれば、現状の学校に不足しているのは
ブルー的な規律だとすぐに分かる。

尾木ママのようなマイノリティ的立場の人は、自身への迫害を恐れるあまり、
多様性を重視するグリーン的価値観の人が多いが、
そこからさらに進んで人間の歴史においてたどってきた各段階の必要性にも目を向けないといけない。
同時代の横軸の多様性だけでなく、歴史あるいは成長の縦軸の多様性を認めないといけない。
そしてその上で、社会を良くしていくという視点を忘れてはならない。
0101考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 20:48:12.530
996 :考える名無しさん:2012/09/13(木) 07:00:11.59 0
腐りかけが一番おいしいんだよな。
特に、封建社会から近代社会への移行期は
民衆の忠誠心が封建支配層からアカデミックエリートに振り替わった時期だから、
アカデミックエリートにとってみれば神になった気分を味わえた。
アカデミックエリートにとっては、戦前のような移行期はあこがれの対象なんだよ。

997 :考える名無しさん:2012/09/13(木) 07:47:35.68 0
封建期から近代への移行期は、民衆はまだ自我に目覚めておらず、
その一方で知識人は自我に十分に目覚めていた。
これは、気持ち良いよ。今みたいにみんなが自我に目覚めてしまっては不快そのものだけど、
民衆は素朴で信心深く、言ってみればうざい存在ではない。
その一方で自身は自我に十分に目覚め、民衆の思いもよらないいろいろなことに思索を巡らす。
まあ、神になった気分になると思うわ。
0102考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 21:04:38.040
558 :考える名無しさん:2012/10/11(木) 22:06:16.67 0
もし遺伝子を自由に操作できるのであれば、
人類の夢であるヒューマニズムは完遂できるようになると思う。
ヒューマニズムがうまくいかなかったのは、人が人の属性を自由に決定できなかったことが原因だから。
だから、自然淘汰の仕組みに頼るしかなかった。これによって人は超越する存在にすがるしかしょうがなかった。
それは人の立ち位置が動物と同じであり、発達した大脳を持つ人にとってはその立ち位置を
納得するために超越した存在を架橋して自由な大脳の働きに制限を掛けるしかなかった。
そうした人にとってある意味残酷な制約が、遺伝子操作技術によって不要になる。

山中教授のIPS細胞の技術は、アインシュタイン以上に歴史に名が残る、科学技術分野だけに留まらない
哲学思想分野にまで影響を与える千年に一度の大発見だよ。
0103考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 21:06:53.900
569 :考える名無しさん:2012/10/15(月) 18:56:56.52 0
文芸作品というものは、基本的にヒューマニズムを描かなければまともな話にならない。
このヒューマニズムを描くうえで非常に都合の良い時代がある。
それは19世紀の後半から20世紀の初頭。
この時代は、人々の伝統的な信仰心が科学文明への崇拝に変わっていく過渡期で
ヒューマニズムを描くうえで非常に都合が良い。
映画で言えば、タイタニックなどはこうした時代背景がまさに神がかり的にマッチしていて
まさに映画史上最高の名作といえる出来になっていると思う。

また、今年のアカデミー作品賞とその候補となった3作はすべてこの時代を描いているもので
それぞれ自然にヒューマニズムを描くことに成功している。今後面白いと思える映画作品は
この時代を描くものが多くなるかもしれない。

日本の西洋崇拝のモデルとなっているのもこの時代で
まさに古き良き西洋文明の円熟期とも言えるのかもしれない。
宮崎駿のアニメなんかもこの時代を念頭に置いた雰囲気のものが多いと思う。
今年のアカデミー作品賞の候補になった「ヒューゴの不思議な発明」は、宮崎アニメ的な雰囲気
が多分にあって、この時代を描く作品は、ヒューマニズムを求める人々の琴線に触れるものがある
と思う。
0104考える名無しさん
垢版 |
2018/11/24(土) 21:10:29.960
573 :考える名無しさん:2012/10/15(月) 21:37:47.44 0
ヒューマニズムを描くには、超越性がないといけないんだと思う。
それが伝統的な神であるなら、19世紀や20世紀初頭は良い舞台になるし
現代でも超自然的霊的な現象などを導入することでそれに成功することがある。
村上春樹なんかのポストモダン派的な小説では、こうした霊現象をうまく使って
ヒューマニズムに必要な超越性をうまく導入してたりするね。

575 :考える名無しさん:2012/10/15(月) 22:02:59.32 0
もともとヒューマニズムというものは超越性を廃したいという人々の願いでもある。
その願いは、まさに超越性が存在するからこそ成り立つもので、超越性がなくなってしまえば、
ヒューマニズムも消えてしまうのは当たり前なのかもしれない。
イデアは超越性があるからこそ存在するもので、超越性がなくなれば消えてしまう。
そうなると、人々はニヒリズムに怯えることになるね。
0105考える名無しさん
垢版 |
2018/11/25(日) 20:41:55.000
とりあえずスパイラルダイナミクスまで出てきたね
ここでは、いじめ問題を例に取っているけど
これは、先に述べたように市場による合理の解決と軍事による合理の衝突の解決
についてもうまく説明できる
つまり、まずオレンジによる解決が試みられ、それで無理な場合にレッドによる
解決が試みられる
エゴとエゴの衝突だから、エゴが前に出る暖色系の解決策になる
0106考える名無しさん
垢版 |
2018/11/25(日) 20:44:15.490
要するに、勝てば官軍ってことですね
このために、まず市場が戦場になり、それで解決出来ない場合に実際の戦闘が行われる
これが、現代の世界の秩序維持の仕組みです
0107考える名無しさん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:36:11.690
>>105
>これは、先に述べたように市場による合理の解決と軍事による合理の衝突の解決

>これは、先に述べたように市場による合理の衝突の解決と軍事による合理の衝突の解決
0108考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 15:56:40.940
109 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 10:19:25.35 0
なぜ論理的に解決できない矛盾が人間の根本に存在するのか?
それは、この宇宙に人間が存在すること自体に矛盾があるから。
この宇宙を認識すること自体が矛盾ある行為なんだ。宇宙というものは元来そういうものではない。
宇宙は認識してはいけないんだ。宇宙を認識することで、宇宙の状態が固定される。
認識者がいて初めて、この世界は固定される。でもそれは矛盾ある行為なんだ。
なぜなら、それは認識者自身を自己否定することになるから。宇宙というものは、そういうものだ。

宇宙は時間も空間もなく不定常にあることが元来の姿であり、それこそが安定した状態なんだ。
宇宙の認識者はある時点空間での宇宙を固定化させてしまう。でもそれは、認識者に悲劇をもたらすだけなんだ。
宇宙はそういう状態では安定しないから。

これこそ仏教の世界観であり、またキリスト教が原罪と言ってるものでもある。
元来は知恵の実を食べてはいけないんだよ。
それでも、知恵の実を食べてしまった人間でも、この世界を信頼しないといけない。その解決策としては、超越性の向こうにある
何かを信仰することしかないんだろうと思う。
そして、それは人間性の源泉として理性の自立性と調和するものでなければならない。この難しい問題を解決することこそ
本来の哲学の役割だと思う。
0109考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 15:58:15.520
111 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 11:07:57.49 0
そして、超越性の向こうにある何かとは何ってことになると思うけれど、
これは人間がこの世界を信頼するために行うものであるから、それを可能にしてくれる神聖な何か、
人間がこの世界を信頼するために信じるべきものってことになると思う。
それこそが、イデアあるいはイデアの源泉となる神ってことなんだろうと思う。
それは、人間の理性がこの世界にあるべきと思うものであり、それがあることで
人間の理性はこの世界を信頼に足るものであるとみなすためことができる。

それがないとき、人間はこの世界を信頼できなくなり、ニヒリズムへと墜ちることになる。
0110考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 15:59:26.460
112 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 11:12:21.35 0
つまり、信仰とは理性が導くものなんだね。
本当にスコラ哲学の後をたどる感じになるけど。

113 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 11:24:24.58 0
そう考えると、仏教は人にとって超越性が必要である理由を理論化したのに対して(色即是空)
キリスト教は、その超越性に対する人間性のあり方を理論化した(空即是色)ものといえるね。

超越性が必要である理由については、キリスト教は原罪の一言で片付けるけど、仏教は膨大な
理論を残している。
逆に、超越性に対する人間のあり方については、仏教では親鸞の結論に至ったところまでだけれど
キリスト教では信仰と人間性の源泉である理性の関係について膨大な理論を残している。

こう考えると面白いね。
0111考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 16:45:47.420
402 :考える名無しさん:2013/02/19(火) 18:28:12.83 0
遺伝子工学は人類を救うよ。
今のままだと、あまりにも残酷だから。
すべての運命を受け入れるのが当たり前と思えなくなった人間にとって
今の状況はあまりにも残酷だよ。遺伝子工学の発達がないと
結局人間は動物と同じ扱いになってしまう。運命によって、つまり遺伝子によってほぼ人の生きる道は決まる。
それがヒューマニズムの行く手をさえぎった一番大きな要因だから。

遺伝子工学によって思想は大きく変わる。
まず保守思想の人間は変わらないという前提が遺伝子工学によって崩れる。
これによって、思想の潮流は再びヒューマニズム側に大きく振れると思われるよ。
0112考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:22:05.160
109 :考える名無しさん:2013/04/27(土) 19:45:59.15 0
フェアであるからこそ、超越性の重要さに気づくんだと思うよ。
生まれ持った能力というものは、結局自分ではどうにもならない。
そして、その能力によってフェアに結果が決まるのであれば、その結果は
結局は超越性がもたらすものとしか言いようがない。
ところが、アンフェアであるなら、そこにたどりつく前に人間の悪意が視野に入るわけで
それは結局争いに種にしかならない。そして、悪意というものは人間の意思が介在する要素が非常に大きい。
天賦の才能は超越性がもたらすものであり、人間の意思では制御できないけれど、悪意の狡猾さは人間の意思で制御できる。
超越性が争いをもたらすというより、その手前の人間の悪意が
争いをもたらしているんだと思う。
0113考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:24:50.530
114 :考える名無しさん:2013/04/27(土) 20:47:57.45 0
超越性とは、欧米人にとっては神の意志だけど
日本人にとっては絶望なのかもな。
ここの部分は辛いね。
ヒューマニズムにどっぷり浸かってるように見える欧米人が、その根本で
神の超越性を受け入れているのであれば、絶望を避けられる。
日本人が欧米人の表層のヒューマニズムを心底まで受け入れてしまうと、
絶望は避けられないということになってしまう。

116 :考える名無しさん:2013/04/27(土) 21:07:05.33 0
欧米人の意識の二重構造にだまされてたのかもな。
昔の日本人には日本人なりの超越性の意識の仕方があったんだが、
欧米人のように表層のヒューマニズムと深層の超越性の意識をはっきり分け持ってる
人々とは思考回路が全く違ったんだと思う。そこで、深層の超越性の意識については全く気がつきもしないで
表層のヒューマニズムだけに影響されてしまった。
今の日本人の絶望はこの部分にあるのかもしれないと思う。
まあ、今でもこの表層のヒューマニズムに影響を受けていない日本人は、昔ながらの超越性への意識を
持ってる人も多々居るのかもしれないけどね。
その辺のことが今の思想界の潮流の根底にあるような気がする。
0114考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:26:23.940
126 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 05:27:20.85 P
表層のヒューマニズムと深層の超越性への意識というものこそ
資本主義精神の核なのかもな。それで、資本主義の考え方そのものが理解できる気がする。
表層に超越性を持つのであれば、何らかの神権政治になる。
ここの部分が日本人にとって資本主義精神を理解しにくい根本だと思う。
0115考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:29:52.440
133 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 06:39:32.70 P
つまり、フェアで正直で努力することこそ、天賦の才能を発揮させることであり
それこそが神の意志に沿うってことか・・
欧米では長々とこういう神学論争をやってたわけだ。
それは無駄というわけでもないよ。というより有益だったかも。

136 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 07:05:27.09 P
天賦の才能という超越的な要素で最終的な結果が決まるのであれば、
それを神聖なものとして扱わないと、健全な社会を維持できない。
何しろ、公正さの概念やら努力やら人間が大きなエネルギーをかけて
取り組むことの目的がそれなんだから、それが神聖でないとするなら、世の中は荒廃してしまう。
それこそが資本主義の倫理ってことになるんだろう思う。
資本主義と神の関係というものには、一定の合理性があるように思う。
0116考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:31:08.340
141 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 07:26:40.97 P
わかりやすい例を挙げると、整形手術というものに人はある種の抵抗、不正感を感じるでしょ。
それはなぜかというと、天賦の容姿によらないで、人の意思の介在した容姿によって
資本主義社会でメリットを受けようとする行為が整形なわけだから、そこに不公正感を感じてしまう。
天賦の容姿は神聖であって、その神聖なものによって決まる結果だからこそ尊重されるんで
人為的な整形によって得られた結果には不公正感がつきまとう。
この部分は、すごく深い思想的な背景があると思う。
この部分の掘り下げが日本の思想界ではまったく足りてないよ。
0117考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:33:36.800
178 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 10:51:54.56 0
フェアという概念は超越性と密接に結びついてる。
超越性を持たないなら、フェアという概念は成り立たないのかもしれない。
いや、超越性を持たないならフェアという概念は結果の平等というヒューマニズムになる。
つまり、超越性がないならフェアという概念はヒューマニズムになる。
まあさんざん言われてる結論になってしまうけど。

179 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 11:01:58.48 0
つまり、ヒューマニズムでは人間が最も崇高な存在と最終的には考える。
人間は一人一人が神である。その神に対して、あの神よりこの神の方がえらいなどと言えるだろうか?
すべての神は平等にえらいのである。したがって、結果の平等が求められる。

それに対して、人間を超越する崇高なものを想定するのであれば、
その最も崇高なものを基準として、人間の価値の高低をフェアにつけることができる。
これが機会の平等ってことになると思う。
0118考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:34:54.030
180 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 11:13:33.34 0
要するに、資本主義というものは、超越性がなければフェアには機能しない。
それを無理に不正に機能させるか、フェアにこだわるのであれば結果の平等という社会主義化するしかなくなる。
つまり、資本主義がフェアであるためには超越性が必要であり、
超越性がないのであればフェアであることを諦めるか、資本主義を諦めるかどちらかになる。
これが今の日本の現状そのものだと思う。

181 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 11:27:07.73 0
そう考えるなら、フェアな資本主義というものは、超越性を持たない
日本人にはまったく理解不能ということになる。超越性を持たない人にとっては
資本主義は常に不正であり、フェアであるのは社会主義であって、妥協の産物として
資本主義を選択しているということになる。
0119考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:51:53.710
188 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 21:19:15.60 0
独立価値というより超越価値と言った方がいいかもね。
超越価値と従属価値の方がわかりやすい。

189 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 21:32:56.89 0
確か、内在的価値と独立価値が比類されてたように思うけど、
内在的価値と超越的価値って対義語に近いと思う。
従属価値と道具的価値はほぼイコールのように思うけど、
内在的価値と超越的価値が対義語であるなら、それぞれが対義語を構成する3つの言葉(内在的価値、超越的価値、道具的価値)
が存在することになるよ。これはどこか言葉の定義におかしなところがあることになる。
3つの言葉がそれぞれ対義語になるということはないはず。どこかで定義が重なってる。
となると、おそらく内在的価値と超越的価値に重なりがあるってことになる。この両者と道具的価値の区別は明らかだから。
それでも内在的価値と超越的価値は対比的であるように感じる。
この部分は思想的に重要な気がする。

191 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 21:46:42.16 0
内在してるのに超越してるっていうのは、神学的に重要な概念なのでは?
この辺にわかる人がいそうだけど。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0120考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:55:29.390
217 :考える名無しさん:2013/05/01(水) 07:44:14.49 0
内在的価値⇔道具的価値
これは哲学界で実際に使われてるからいいよね。
独立価値⇔従属価値
これも語義も意味も対義になってる。
超越的価値の対義語は、普通に考えるとどうも内在的価値になってしまう気が・・・。

視点によって、対義語にもなり、同義語にもなるのは
思想的に何かの意味があると思う。

219 :考える名無しさん:2013/05/01(水) 08:17:35.61 0
視点を変えたときに二つの言葉が同義にもなるし、対義にもなるというのは
あり得ることだよ。だから、その視点がどういうものであるかというのが
思想的意味ってことになると思う。
0121考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 18:59:04.790
238 :考える名無しさん:2013/05/01(水) 11:31:41.77 0
京都大学の児玉聡氏のホームページにはこうあるよ。

あるものが内在的価値を持つとは、それ自体に価値があることである。
自体的価値などとも呼ばれる。 対義語は、道具的価値(手段的価値 instrumental value)で、
道具的価値を持つものは、 なにか別の目的を達成するための手段として価値があるということである。

たとえば、薬が価値があるのは、 「健康のために役立つ」からであり、
したがって薬の価値は道具的である。 それに対し、健康はそれ自体として
重宝される場合があり、 その意味では健康は内在的価値を持つ。

またたとえば、 カントやアクィナスは、 動物を虐待すべきではないと考えたが、
それは動物を虐待する人は、 人間に対しても冷酷になり、人間(や神)に
対する義務を果たすことが できなくなると考えたからであった。
この場合、 動物は手段として重要なのであり、それ自体として価値があるわけではない。
それゆえ、カントやアクィナスは動物に道具的価値を認めたが、 内在的価値は認めなかったことになる。

しかし、あるものが内在的価値を持つのか、道具的価値を持つのかは、
人によって異なる場合がある。 たとえば、「健康であることはお金をもうけるための
条件にすぎない」 と考える人にとっては、健康は道具的価値しかもたないといえる。
また、そういう人は、お金を道具的価値と考えているかもしれないし、
あるいはそれ自体で価値があると考えているかもしれない。
(守銭奴は、お金という本来は道具的価値しか持たないはずのものを、
内在的価値を持つものと考える例としてよく挙げられる)

また、知識や自由や平等、民主主義が内在的価値を持つのか、
あるいは道具的価値しか持たないのか、 というのはよく議論になるテーマの一つである。

http://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/intrinsic.html
0122考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:02:17.390
264 :考える名無しさん:2013/05/02(木) 19:34:23.20 0
結局、知性を持った生物であると言うこと自体がこの宇宙の仕組みと
矛盾しているからこそ、超越性が必要になる。
人間ももともと宇宙の一部じゃないかと思うかもしれないが(これが汎神論だろう)
知性を持った人間は宇宙と矛盾する存在であって、宇宙の一部であって一部ではない。
仏教はこの本質に一番近づいていると思う。ただ、それに対して人間がどうすべきかとなるとキリスト教の方が
理解が深いのかもしれない。キリスト教の解答は、内在と超越であり、その意味するところは
人間への愛ということになるんだろう。矛盾した罪深い存在してはいけないものに対してすら愛が存在する。
これが仏教の空即是色に相当するんだと思う。そのことがあるからこそ人間はこの世界を信頼できる、
また信頼しなければならない。そういうことだと思う。

265 :考える名無しさん:2013/05/02(木) 20:42:15.64 0
内在しつつ超越するということは、要するに
色即是空、空即是色ってことでしょ。
内在が色、超越が空。

内在的価値と超越的価値は同じであり、それは色即是空・空即是色であり、
内在しつつ超越するということ。

そして色即是空を理解するために必要なのは論理であり、空即是色を理解するために必要なのは慈悲(愛)ってこと。

要するに、内在的価値を超越的価値として理解するのは論理であり、
超越的価値を内在的価値として理解するのは慈悲(愛)ってことです。

これが一連の議論の解答だと思う。
0123考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:07:05.090
277 :考える名無しさん:2013/05/03(金) 06:51:48.96 0
キリスト教が一神教である理由がわかったよ。
超越的価値を内在的価値とみなすには、愛と信頼が必要なんだけど
それには愛と信頼を与える対象が必要なんだ。それがいろいろ存在してしまうと
愛と信頼は得られず、内在的価値を信頼しきれない。そういうことだと思う。
出口の部分だね。仏教が出口の部分が混乱しているのは、この愛と信頼を与え切れていないからだと思う。
0124考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:09:23.280
284 :考える名無しさん:2013/05/03(金) 18:08:37.78 0
親鸞の悪人正機というのは、空即是色・慈悲に当たる部分だけど
あまりにも未熟すぎる。それでも、仏教ではこの結論に至るしかないのかもしれない。
まず、色即是空が自然の摂理とそのまま主張してしまうのはしょうがないのかもしれないが
空即是色が観音菩薩の慈悲としてしまうと、色即是空と空即是色の動因が分かれてしまう。
これでは、空即是色の慈悲が非常に厳しいものであるという部分にならない。
色即是空をもたらす存在が、空即是色の慈悲をもたらすことで、その空即是色の慈悲は非常に厳しいものになる。
それと同時に愛と信頼の有り難さが伝わることになる。

これがないから仏教ではすべての人が救われるという慈悲になってしまった。
この原因は色即是空の主体と空即是色の主体が分かれているために、空即是色の慈悲をもたらす主体が
無条件の慈悲を持つものと解釈するしかなくなってしまうことだと思う。
0125考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:11:09.980
289 :考える名無しさん:2013/05/03(金) 20:55:28.54 0
元々、近代の秩序は西洋人が作り上げたわけだから
彼らの精神のあり方が近代を生きる上で一番適応してるんだと思うよ。
特に、表層のヒューマニズムと深層の信仰は、この今のある意味狂った世界を生きるのに
よく適合するように思う。
かといって、他の人々が世界をリードして文明を作っていたらこれほどよくできた文明には
絶対ならないだろうというのも確かではあるわけだけど。そういう意味でキリスト教は
欠点がないわけではないけど、特に世界の厳しさを知りながら世界を信頼するという
宗教にとって最も大事な役割を十分に果たしている唯一の宗教ではあると思う。
0126考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:20:10.450
297 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 09:08:24.91 0
内在的価値と超越的価値が仏教の色と空に対応するということで
すべての謎が解けてしまったね。

内在的価値なんてないんだと仏教はさんざん言うんだけど、
かといってニヒリズムを主張しているわけではない。空というのは超越的価値のことだ。
そして空を導き出す縁起論では道具的価値を併用して、内在的価値が存在しないことを証明している。

なぜ空が超越であるかというと、空とは縁起の無限連鎖であり、その無限連鎖こそが超越性そのものであるということ。
そして仏とは空と一体化した存在であり、それは要するに仏とは縁起の無限連鎖と一体化した超越的存在である。
いや、空が言いたいのは超越そのものであって(なぜ縁起の無限連鎖を考えるのかというと、それこそ超越性の根本だから。
縁起の無限連鎖は宇宙の摂理であり、それこそ超越性の本質だから)、その仏こそ尊いのだと言うことは
要するには尊いものは超越性の向こうにあるということだと思う。これはイデア論そのものということになる。

298 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 09:33:17.44 0
なので、色即是空とは
内在的価値とは超越的価値であるという主張であって
空即是色とは
超越的価値とは内在的価値であるという主張ということになる。
超越的価値を内在的価値と見なすには、この世界に対する信頼が必要になる。
それこそが慈悲であり愛であり、また禅などの修行にもその要素があるのかもしれない。
0127考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:23:55.800
301 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 13:16:01.71 0
内在的価値がないというのはわかるんだが
超越的価値というのは何なんだろ?
超越とは神の意志であり、それは縁起の無限連鎖であるってことでしょ。
そこに価値がある。縁起の無限連鎖の末に獲得する価値。それが超越的価値であり、
それは神の意志による価値。こういうことかな。

303 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 13:36:45.22 0
超越的価値とは、縁起の無限連鎖の末に獲得する価値だね。
仏教って縁を大事にする。袖すり合うも多生の縁などと言って、縁によって獲得する価値があると考えるのが
仏教の本質だと思う。そして、その縁は無限に続く。それは神の意志と言って良い。
そうであるならば、その縁によって獲得したものに価値がないわけがない。なぜならそれは神の意志だから。
これが超越的価値。
0128考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:51:05.280
445 :考える名無しさん:2013/05/29(水) 07:30:41.99 0
結局は、利益の分配に争いは必要かどうかってことになるんだろうな。
利益を分配するために争いが必要だとすれば、それは昔なら戦闘、今なら市場競争で決着しないと
いけない。また、利益を分配するために争いが必要のない世の中もいずれ訪れるかもしれない。

市場によって善悪が決まるというのは、昔ならば戦闘によって善悪が決まっていたことが
今は市場によって決まっていると言うことなんだろうと思う。勝てば官軍という言葉があるように
今は売れれば正義ということなんだろうね。
でも、善悪の概念というものは、歴史的にはそういう戦闘の勝者が作ってきたわけで
戦闘の勝者が善悪を決めるにしても、市場の勝者が善悪を決めるにしても、それは
伝統的な方法から外れてるわけではないんだよ。

446 :考える名無しさん:2013/05/29(水) 07:54:30.20 0
そう考えると、国家社会主義の一番の問題点は、
外国との利益分配で、市場競争を使えないってことだと思う。
利益分配に必ず争いが必要なんだとすれば、そして市場競争が使えないとすれば
残る利益分配のための手段は戦闘だけということになってしまう。
これが国家社会主義に戦争が常につきまとう理由なんだと思う。
0129考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 19:52:34.710
453 :考える名無しさん:2013/05/29(水) 18:55:25.83 0
国家も最初に武力で統一したものがその国家の善となるわけだけどね。
まず、人々の価値観でもルールでも統一しなければ、共同体は生まれない。
その力となったのが武力。統一するということは、押しつけるということだから、力がいるんだよ。
そして価値観やルールを同じくする人々が国家を構成するようになった。
今は、この価値観やルールの統一化を武力ではなく、市場で行ってるってことだよ。
価値観やルールの押しつけには力がいるけど、現代ではそのために武力を使うことはできない。
その代替となっているのが市場。
利益の分配も同じ事だとおもう。利益を分配するには、ある種の押しつけが伴う。誰にとっても満足できる
分配方法はないわけだから。その押しつける力となっているのが、昔であれば武力であり、今であれば市場
って事だと思う。

日本の武士道のように、こうした力と道徳というものは密接に結びついてる。
だから武というものは神聖なものと捉えられるんだよ。それは道徳を押しつける力であるから。
その部分が現代では市場に変わったわけで、保守派が不満に思う部分の本質はそこなんだと思う。
道徳の源泉が武から商に変わることで、道徳の中身は大きく変わるからね。
このことが、市場が善を決めてるという意味だと思うよ。
0130考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 20:08:29.190
605 :考える名無しさん:2013/06/15(土) 14:01:32.81 0
現代の本当の対立軸というのは、どうもコスモポリタニズム(個人主義)とコミュニタリアニズム(集団主義)みたいだね。
サンデル以降、このことがアメリカなんかでも意識されだしてきたようだ。
この本当の対立軸をうまく管理できるようになれば、人類の社会学的な経験値はだいぶ上がると思う。
それは、実際の社会に目に見える恩恵があるほどの影響があると思う。

コスモポリタニズム(個人主義)   コミュニタリアニズム(集団主義)
資本主義・国際社会主義          封建主義・国家社会主義
自由主義                    統制主義

これが本当の対立軸。そしてこの対立軸は人間の本質を分ける最も重要なものだと思う。
もちろん、両極端を選択する必要はないけど、双方の特性、利点、欠点の理解が進むことで
この対立軸をよりうまく管理できるようになり、その結果として人類の多くの問題が解決されることになる
んじゃなかと思う。これは、実際にはアメリカでの社会科学の進歩を持つしかないところが残念ではあるけど。

606 :考える名無しさん:2013/06/15(土) 16:09:28.64 0
よく考えると、2つの世界大戦と冷戦はすべてこの軸で行われてる。

             自由主義            統制主義
第一次世界大戦   連合国       同盟国(ハプスブルク-オスマン)
第二次世界大戦 連合国             枢軸国(国家社会主義)
冷戦           西側諸国           東側諸国(国家社会主義)

まあ今さらこの軸に気づくのも遅すぎるのかもな。
社会科学は、良い人材を自然科学に取られすぎてるからかやっぱり未発展だと思う。
0131考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 20:49:03.810
909 :考える名無しさん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN 0
結局、問題になるのは超越に対する理性のあり方なんだと思う。
超越自体は、この宇宙の性質から必ず存在する。
その超越に対して、理性はいかにあるべきかというのが本当のテーマ。
それが哲学にとって最も重要な部分なんだよ。

だから、スコラ哲学の一見すると不毛な論理の積み重ねが
実は最も重要な作業であったということだと思う。
西洋人が他の人々よりも優位になったというのは、このスコラ派のおかげだと思う。
これによって、超越に対する理性のあり方というものをある程度定めることができた。
日本人には、この部分はほとんど手つかずで、それ故に日本の今のいろいろな問題が
生じてるとすら思う。
0132考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 20:59:01.790
13 :考える名無しさん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN 0
市場は戦場だからね。
戦争というものは、革命よりもはるかに深く多くの伝統を喪失させる。
日本でも戦国時代で伝統が断絶したでしょ。
市場というのは、そういうバーチャルな戦場だよ。

本当の戦争の場合、被害があまりにも甚大になるので、たとえ数十年戦闘が続いても
その後長い間平和が続いたりする。それは、人々が戦争の悲惨さが骨身にしみてわかるから
争いを決して起こさないと決意するから。

ところがバーチャルな戦場である市場は甚大な被害が起きないので、常に戦闘状態であっても
誰も困らない。なので、薄い戦国時代が常に続いている状態になるんだよ。
戦国時代では、既成の秩序は失われ、新しい秩序が生まれる。
既成の伝統は失われ、新しい慣習が起こる。
それが、日々永遠に続くのが資本主義の市場だよ。常に下克上が起きる。
それは革命よりもはるかに強力なものだよ。
なので、本当に伝統を守ることが必要であるなら、資本主義は続けられないってことになるね。
0133考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 21:02:36.290
62 :考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
>>60
日本人にとって超越それ自体はなじみ深いんだよ。
それは諦観みたいなものだからさ。
仏教と言ってることは同じだし。
ただ、超越を前にした理性の有り様がどうにもらない。
諦観を前にしても理性を働かせ続けるということができないから。
その辺が神を前にした理性のあり方を考えるというある意味とんでもな
学問を究めてきた西洋人は強いんだよ。
0134考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 21:05:26.720
75 :考える名無しさん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
逆に今の方が厳しい部分もあるんだよ。
戦前は素性がボロでも厳しい教育と社会がそれを矯正してくれた。
ところが今はそのままが良い教育なので、素性がボロだとボロのまま。
そしてたぶん、ボロのままだと生きていけないよね。
今の方が素性重視主義なんだよ。そのままで良いっていうのは、そういうこと。
そして、そっちのほうが厳しい部分も多い。
精神的には昔の方が厳しいだろうけど実態としては今もかなり厳しい。

でも戦前のやり方にも欠点はある。素性がボロの人間を無理矢理矯正して社会に適合させても
結局はそれなりであって、本当に良い人間にはならない。だから、外面はまともでも、
中身が腐ったような人間が野放しになる。中身が腐ってれば外面も腐る今の方が
社会全体としてはありがたいかもしれない。素性主義は、外面だけじゃなくて中身までの潔白さを求めるから
逆に偽物は通用しないってことでもあるね。

戦前のような素性を軽視する社会では外面まともでも内面が腐った人間が野放しで、そういう人間が要職についたりすると
社会は大損害を被ってしまう。
0135考える名無しさん
垢版 |
2018/12/02(日) 22:11:06.040
54 :考える名無しさん:2013/10/11(金) 13:28:58.44 0
この世界に超越が存在するのは明らかだけど
それで諦めちゃだめなんだよ。
それで諦めれば、猿が天皇でも良いでしょになってしまう。

信仰とは、理性が導くんだよ。
超越を認識する目的は、理性を健全に働かせるためであるということを忘れてはならない。
超越とは何かを理性で最後まで追求したトマスアクイナスの姿勢こそ、
現代人が今見習うべきものだと思う。
0136考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:16:04.370
58 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 06:49:58.69 0
トマスアクイナス

全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、
哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、
神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。

人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。
しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、
理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられる
ことによって知性は成長し神を認識できるようになるが、
生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。
人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。
0137考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:17:00.230
59 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 08:33:40.91 0
これはどういうことを意味してるかというと、
人間は死ぬことによって、宇宙と自身との矛盾が解消されるということだよ。
死ぬことによって、真に人間は宇宙と調和する。
理性は決して宇宙とは調和しない。それでも理性は、その活動を止めてはならない。
そういうこと。
0138考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:18:27.540
61 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 14:52:50.32 0
宇宙論的証明

全ての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。
ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、
初めてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。
こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。
宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、
出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。

あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、
根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、
そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。
このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。

------------------------------------------------------
この後段のことを仏教は言ってるんだね
0139考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:34:47.410
63 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 15:26:09.22 0
>>59
>理性は決して宇宙とは調和しない。

これがキリスト教でいう原罪であり、仏教でいう一切皆苦だね

64 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 15:32:27.47 0
理性は宇宙と調和できなかったがゆえに「イデア」という概念を発明したんだよ。
0140考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:40:50.510
130 :考える名無しさん:2013/10/23(水) 23:31:57.54 0
いや、初めから諦念を持ってきちゃ駄目だよ。
まず理性で詰めて行って、それから諦念を持ってこないと。
最初から諦念では、差別、自棄、怠惰、依怙贔屓、無気力、依存心、
負け犬根性、主体性の無さ、という不道徳なもので社会が溢れかえってしまうよ。

131 :考える名無しさん:2013/10/24(木) 09:57:00.10 0
きれいなもの、正しいものを追い求めるほど、そこから落ちこぼれる
人たちが出るんだよな。それはものすごく残酷なことなんだよ。
でも、それから逃げれば世の中不道徳のたまり場になってしまう。
この世の中は基本的に残酷なんだよ。まず、それを覚悟しないといけない。
人はきれいなもの正しいものを見つめることで、正しくいきることができる。
でもそれは残酷なんだ。それは生まれ持った生来の何かによって誰かを切り捨てることになる。
生きると言うこと自体が残酷であるわけだから、これはどうしようもないことなんだろうけどね。

132 :考える名無しさん:2013/10/24(木) 11:51:50.88 0
ポストモダンはそういう近代主義的考えからの逃げだったんだけど、
結局社会に不道徳を蔓延させただけだった。
世の中を常によくしていこう、進歩させていこうという考えから逃げたときに
世の中は不道徳と退廃にまみれてしまう。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0141考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:41:31.960
137 :考える名無しさん:2013/10/24(木) 13:46:27.50 0
理性によって理想を追うこと自体が残酷ってことでしょ。
それが理性とこの世界の矛盾であり、キリスト教の言う原罪ってことだよ。
そこに許しと愛がいるっていうのがキリスト教で、それはおおむね正しいと思う。
0142考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:44:23.350
173 :考える名無しさん:2013/10/27(日) 23:16:34.90 0
情報化が進んでみんな生き方を大きく間違うことが少なくなった。
だから後天的な要因で逆転することが難しくなったんだよな。
ギフトされた要因の優位性がそのまま逆転されることなく最後まで行ってしまう。
人々の行動が最適化されるほど、先天的な資質による要因が大きくなる。
後天的な努力で逆転できるのは、相手が大きなミスをした時だけ。
こういうことも残酷なことの一つだよ。

174 :考える名無しさん:2013/10/28(月) 03:01:21.75 0
きみ、それらの考察を保守思想と直裁に結び付けて書いてみないか?

175 :考える名無しさん:2013/10/28(月) 06:06:51.93 0
こういう風に言えるんじゃない?
人々の行動が理性的になるほど、人々の行動が最適化されるほど
人間の意思、人間の意向よりも神の意志、神の意向が大きくなる。
人々が理性的になるほど、神の影響力が強くなる。
これはどういうことなんだろうね? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0143考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:45:40.460
176 :考える名無しさん:2013/10/28(月) 06:20:54.25 0
ポストモダンというのは、ヒューマニズムの最後の反撃だったのかもしれないな。
近代主義を否定し、人々を理性から遠ざければ、人々の行動の最適化が解消され
それによって逆説的に、神の意志よりも人々の意思の力の方が大きくなる。
ぶっちゃけ言ってしまえば、ぼんくらが増えれば、人の後天的な意思の力で逆転できる可能性が大きくなる。

でもその試みも(当然)失敗し、いよいよ人々の行動は理性によって最適化され、
人の意思よりも神の意志の影響がどんどん大きくなってる。
0144考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:47:11.970
179 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 06:10:25.33 0
これさ、少なくとも超越性を神聖なものと見なさなければ
資本主義に耐えられないんじゃないの?
特に、今の日本はその部分にまさに突き当たってる感じがする。
超越性を神聖なものと見なさなければ、資本主義を公正なものと見なすことが出来ず、
公正さを希求するならば社会主義もしくは国家社会主義に行くしかなくなる。

180 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 06:15:00.47 0
天賦の才能に優れ、高い人格を持つ人を自分とは無関係な単なる幸運な人間と見なすのであれば、
そこにはもう嫉妬の感情しか生まれない。これに人間は耐えられない。
そして、足の引っ張り合いを始めてしまう。まさに今の日本でしょ。

天賦の才能に優れ、高い人格を持つ人を神から祝福された人と見なすことで初めて、その人の素直に成功を認める
ことができる。資本主義にはこれが不可欠だと思う。
0145考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:48:44.030
181 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 12:55:51.07 0
>>180
どんな汚い手を使った成功者でも素直の祝福しろと?

182 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 13:44:45.02 0
汚い手というのは、人間がコントロールできるんだよ。
みんなが理性的になるほど、あるいはその行動が最適化されていくほど
「汚い手」は通用しなくなってくる。それは、人間の意思でコントロールできることが少なくなってくるってことでもある。

人々の行動が最適化されるほど、人間がコントロールできる「汚い手」で逆転できなくなってくるんだよ。
そして人間の意思でコントロール出来ることが少なくなるに伴って、神の意志がもたらす影響がどんどん大きくなる。
それは要するに、天賦の才能や運による偶然の影響が大きくなるってことだね。

183 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 13:49:35.78 0
天賦の才能で勝つことを「汚い手」とは言わない。
それに対して、人が自分なりの独自の手で勝つことを「汚い手」という。

これは要するに、神の意志に反する行動を「汚い」と言ってるんだよ。
勝つこと自体が「汚い」わけじゃない。神が与えてくれたもの以外に頼って勝つことを「汚い」といってるんだね。
これは考えてみたら、すごいことだよ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0146考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:50:20.660
184 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 14:05:28.66 0
>これは要するに、神の意志に反する行動を「汚い」と言ってるんだよ。

どこの誰が神の御意志を知り得ると言うのだろうか?

185 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 14:20:46.39 0
>>184
天賦の才能を、人間の悪知恵で打ち負かしたら、それが「汚い」ってことになるんだよ。
美人コンテストを整形で優勝するとかね。
天賦の才能のある新人を狡猾な小細工で潰すとか。

186 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 16:05:55.77 0
昔は、天賦の才能よりも運の要素の方が大きかった。
これも人間がコントロールできないものだね。
そして、世界が近代化され始めると、運の要素の影響力が少なくなってきた。

そこで人々は、人間がコントロールできる範囲が拡大することを期待した。
それは、確かにその通りになったが、今度は人々の行動の最適化が十分に進むと
天賦の才能という人間がコントロールできない要素の影響がまた大きくなってきた。
これが今までの流れだと思う。この流れに応じて、ヒューマニズムの影響が大きくなり、また小さくなってきた
んだと思う。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0147考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:52:31.330
191 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 17:15:54.82 O
「天賦の才能」 なんて、運そのものだろうがw

192 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 17:20:36.62 0
>>191
まあ運ではあるけど、その他の運の要素は近代化で影響が小さくなったのに対して
天賦の才能の影響は近代化で極端に大きくなったんだよ。
近代化・資本主義における公正という概念が、天賦の才能をより尊重することだったから、当然ではあるんだけどね。

193 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 17:23:54.53 0
天賦の才能を尊重することがなぜ公正なのかというのも、よく考えると不思議ではあるんだけどね。
でも、これはキリスト教徒だけじゃなくて、日本人にとっても心の奥底から納得できるから
何かより深い普遍的な根拠があるんだとは思う。
それは生物にとって本能に組み込まれた「常識」なのかもしれないね。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0148考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:55:58.800
229 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 19:58:46.49 0
人間にとって反合理って非常に危険なものなんだよ。
それは、下手に使うと人類社会に致命的な打撃を与えることすらある。

といっても、この世界の性質から、反合理から人間は逃げられない。
人間はどうしても反合理と付き合っていかないといけない。
そのつきあい方を厳重に管理しようというのが、宗教なのかもしれないね。
それぞれが好き勝手に反合理を乱用するようになると、文明社会が崩壊してしまう。
これがポストモダンの危険性なんだと思う。

230 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:17:58.53 0
合理と反合理の均衡を伝統に取らせようというのかま保守
近代理性に取らせようというのが革新
保守、革新どちらにせよ、イデアという指針は必要だけどね

231 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:50:17.49 0
均衡とかじゃないよ。
基本的に、合理が圧倒するんだよ。それが文明社会。
それでも、最後に不合理がどうしても残る。
その不合理を前にして、血のにじむ思いで諦念することになる。
それは簡単なことじゃないよ。
合理と不合理の均衡とかそんな軽いものじゃないんだよ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)
0149考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 09:59:01.470
232 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:52:11.34 0
不合理が合理と均衡してもいいなら、
もう北斗の拳のような野蛮社会の到来だよ。
言葉の美しさだけを追うんじゃなくて、その内容もよく考えた方が良い。

233 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 21:01:24.01 0
人間にとって避けられない最も重大な不合理は、死だよ。
死ほど不合理なものはない。人間の理性にとって、死を全く理解の範囲外にある。
そしてこれこそ、超越の本質だ。
人間にとって最も重大な不合理である死を宗教が扱うことになるのは、必然なんだと思う。
0150考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:04:35.210
293 :考える名無しさん:2013/11/06(水) 07:53:17.56 0
美とは物理的な美だけじゃないんだよ。
武士道なんかも美のイデアを志向するものだしね。
美しさというものは、儚さ、そして死と隣り合わせと日本人は捉えてる。
それは、イデアの性質からして、正しいんだよ。

294 :考える名無しさん:2013/11/06(水) 07:57:08.14 0
そして、日本人は整形を嫌うでしょ。これも、外見的な美じゃなくて、
本質的な美、本当の美、つまり美のイデアを求めてるってことだと思う。
偽物では我慢できないんだよ。それは、神がもたらす美を求めてるってことでもある。
だから、儚さ、死と隣り合わせなんだ。桜が美しいのは、そこに儚さにあるから。永遠に桜の花が咲くのであれば
日本人はそこに関心を寄せない。なぜなら、それは作り物だから。美のイデアはこの世に存在しない。
それでもそれを求める以上、儚さと死がつきまとう。逆に、それがないものは偽物ということになる。
0151考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:13:13.580
395 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 08:29:43.32 0
現代の一番の問題は、ヒューマニズムの限界がいよいよ露呈し、
それに対抗するための最後のヒューマニズムの試みであったポストモダンも明確に失敗に終わったということ。
これが一番の問題点。
このために、人々はヒューマニズムの限界としての超越・信仰に向き合うしかなくなりつつある。
これをしなければ、イデアを正しく取り扱えず、一方で万能感にどっぷり浸る人間、他方で無力・無気力に沈む人間に分かれてしまう。

396 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 10:02:51.67 0
世の中の最適化が進んで、合理を選択しても大きな差別化にならず
そのメリットが大きくなくなったときに、逆説的に合理に対する信頼が失われるんだよ。
ヒューマニズムとは、このいずれは解消される「歪み」に立脚していただけ。
合理を選択してもメリットが大きくなくなったときに、ポストモダンは合理の選択の価値を高めるために
多様化の名の下に非合理の再拡大を図ったけれど、それは犯罪的行為だよ。
良く言っても、悪あがきでしかない。

いずれこの「歪み」は解消される。
そうなったときに、人間は合理の追求の先にある超越性の壁に阻まれることになる。
これによって、楽天的なヒューマニズムは消え去り、神の采配の大きさに人間は再び気付くことになる。
これが本能的にわかっているから、真にヒューマニズムを信じている人は、合理の追求に恐怖を覚えるんだよ
0152考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:16:41.800
397 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 10:27:52.47 0
このために、合理を追求するヒューマニズム信奉者がいた場合
その人は解消すべき非合理が存在しないと困ることになる。
そうした非合理が存在しなくなったときに、神の采配が非合理に邪魔されることなく、
人々の生活を大きく左右することになる。それは、公正な社会ではあるけれど、ヒューマニズム信奉者にとっては
絶望の世界ということになるね。

398 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 13:12:58.32 0
小学生のときは、良い走り方を覚えれば、他の子よりも速く走ることができるけれど
大人になるほど、走り方よりも先天的な運動能力の要因の方が大きくなる。
これは、それと似ている。みんなが不効率であるときは、効率的なやり方を覚えることで他に先んじることができる(これが自由)。
ところが、みんなが効率的になるほど、やり方を覚えるだけでは差がつかず、先天的な能力に左右されるようになる(これが不自由だね)。

みんなが非効率であればあるほど、自由は人が管理できる。
それに対して、みんなが効率的になるほど、自由を手にするのは神に選ばれた人だけになる。
0153考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:18:57.870
400 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 17:38:34.31 0
もしヒューマニズム信奉者の心の奥底の願望が、不合理の乱用による自由の獲得
にあったとしたら、それはとんでもなく卑怯な考えだと言わざるを得ない。

考えるに、不合理の乱用こそ、人間が自分の意思で物事を左右できる唯一の手段なんだと思う。
合理に従うのであれば、そこに人間の意思が介在する余地はない。不合理を乱用するからこそ、人間の意思が介在できる。
つまり、合理を追求することは、人間から自由を奪うことになるわけだよ。
このことを考えると、ものすごく大きな欺瞞が裏に隠れてる。

合理の追求が自我をなくすことになるのに対し、不合理の乱用が自我を肥大させる。
この当たり前のことが、大きな欺瞞の裏に隠されて、人間の自由というものが論じられていると思う。
0154考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:23:34.770
409 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 16:17:37.03 0
結局、中庸でいることが一番人間の選択肢を多く持てるってことだろ。
その、馬鹿な奴らがいた方が自分が楽だという動機が道義的にどうかという問題は残るけどねw
西部さんもそんな感じでしょ。自分のわがままが一番通りそうな道を本能的に嗅ぎつけてる。


411 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 17:14:59.13 0
不合理に泣く人もある程度はいた方が良い。
天賦の才能を発揮できずに終わる人もある程度はいた方が良い。
才能があっても人為的な不合理のために貧困に終わる人がある程度はいた方が良い。

この理屈が果たして通るかな。中庸というきれいな言葉で通せるかな、この理屈が。
0155考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:25:56.400
412 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 18:07:04.96 0
人為的な不合理は許されないよ。それを許すと戦乱原始時代に逆戻り。
神から出た不合理だと人々が納得しなければ、その不合理を人々は許さない。
神がもたらした不合理についてのみ、人々は納得する。それ以外の人為的な不合理を人々は決して許さない。
こうして、人間は文明社会を築いてきたわけだから。
これを否定するのは、原始時代に逆戻りするポストモダンだよ。
0156考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:27:49.590
431 :考える名無しさん:2013/11/24(日) 13:16:36.32 0
争いがない世界は美しいというイデアがある一方で
争いがあるからこそ自由が可能になるという現実がある。
富の分配、職業の選択、さらには配偶者の選択に至るまで、すべてのことに争いが付随して
その争いがあるからこそ、職業の選択の自由や、配偶者の選択の自由ですら保証される。
人間は矛盾した生き物なんだよ。
0157学術
垢版 |
2018/12/08(土) 10:36:35.290
生まれる前も生まれた後も少しでも良い存在になろうとあがきなさい。
天賦の才もも恥かきながらならつかみどれるかもしれない
或いは当たり前のことと努力して、天運を待つとか。
僕は酒のみだったから美については酒が大事だと思う。

合理というと、理性に合致したことだというが、理性の働きを自覚するのも
ダフって良くないと思うよ。不合理、不条理などは、人生が伸びるうえで重要な事柄だ。


神というとどんな姿をしているのを思い浮かべますか?神への階段が合ったって
いいと思う。可能性はゼロに等しいとしても。
0158学術
垢版 |
2018/12/08(土) 10:37:46.690
剣や銃を使う戦争は救済主が現れて仕事をしなければいけないという
同じ繰り返しに陥りやすいのでは?
0159学術
垢版 |
2018/12/08(土) 10:38:12.520
核戦争も爆弾テロもそういうところはあるでしょう。
0160考える名無しさん
垢版 |
2018/12/08(土) 10:38:33.360
487 :考える名無しさん:2013/11/29(金) 08:14:18.09 0
神というのは、キリスト教徒だけの問題じゃないんだよ。
この世界に生まれる人間はゼロからスタートするわけじゃなくて、その時点で何かを意味なく与えられてる。
そして死ぬときも、何かを意味なく残していく。その不合理を前にして理性が狂わずにいるためには
理性が信頼できる神聖な存在が必要なんだ。それがないなら、理性はこの世界の不合理に耐えられず
それを壊そうとし始めると思う。
だから、神は理性が信頼できるものでなければならない。信仰は理性が導かないといけない。
それは、プラトンが唱えたイデアとまさに重なるものだ。イデアも神も理性がその存在を見いだすものであり
またこの世界から超越している。キリスト教にプラトンの思想が混入するのは不可避だったと思う。

プラトンのイデアの超越に対して、アリストテレスは内在からのアプローチを取ったわけだけど、
キリスト教は、この超越からの視点と内在からの視点を統合させた。これこそ、
人類の最も偉大な哲学的業績だと思う。この内在と超越の矛盾こそ、人間が宇宙に対して抱えている矛盾そのものであり
それは仏教で言う色即是空、空即是色の矛盾に対応するものだ。
レスを投稿する