無 職 と 東 浩 紀
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やっぱり、専門分野の学者を含む一般の人々と哲学をする人間は考え方の
根底が違うんだよね。哲学をしない人々は簡単に他人の言葉を信じて
しまい、あたかもその言葉によって想定した現実を自分で確かめたか
のように思い込んでしまう。哲学をする人間は、たとえ自分で直接に
確かめることができたとしても、自分が正しい判断の基準を持っている
のかどうか疑う。Twitterで、みんなが「クズ」だと言うだけで、
本当に「クズ」なのか疑問だし、直接に確かめることができたとしても、
「クズ」だと断言できるような判断基準は私にはない。せいぜい、
本当に「クズ」なのだろうと曖昧に思うだけだ。 その曖昧さを日常的な現実として受け入れることができないと哲学はできない。 日常生活において他人の判断が間違っていることはよくある。しかし、
自分も同様に判断を誤ることはよくあり、特に専門的な経験と知識
を必要とする判断については、他人の判断に頼らざるを得ない。
では、他人の判断を正しいものとして、それに依拠することは、
何によって正当化されるのだろうか。
それは、他人の判断に自分が依拠して、その判断に誤りがあった場合、
その他人が誤りの重大さに応じたペナルティを受けることを確信
できるかどうかである。例えば、航空機のパイロットが操縦ミスで
墜落事故を起こせば、パイロット本人も命を失うことになるので、
自分が航空機操縦についての何の判断基準ももっていなくても、
自分の命を運ぶことをパイロットに任せることができる。
したがって、パイロットが治る見込みのない病を抱えていて、
パイロット本人が命を失うことをペナルティと捉えていない可能性
が考えられるなら、たとえ、現状で航空機を操縦することに何の
障害がなくても、自分の命を運ぶことを、そのようなパイロット
には安心して任せられないという事態が生じる。 Twitterで、「これは本当のクズだ」と判断を下している人は、その
判断が誤りであった場合、どのようなペナルティを受けると考えられる
だろうか。実質的にペナルティはないに等しいのではないか。
そのような他人の判断を信頼すべき理由は私には見当たらない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています