仏教哲学総合スレ5
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こっちにも貼っときますね 376「をなり神」が「世界」である2022/01/03(月) 08:46:59.320 https://ja.wikisource.org/ 伝道の書(口語訳) >伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 このような「をし(教)へ」に対して、 「よかろう、『空虚』/"void"を指し示す『を』の呼応関係/"correspondence" の成立、『を・な(成)り神』/『意の成就』こそが現に世界としてあるのだ」 というのがニーチェ的な読みかえなのです。 ニーチェがそれを乗り越えるべきものとしたロマン主義としてであれ、やはり、 「『を』の呼応関係/"correspondence"」を表現しているのが、エマソンの "prayers/the will of the Supreme Being"であると見ることができる。 > His prayers, in a certain sense, are like the will of the Supreme Being: His word leaps forth to its effect at once, He calls for things that are not, and they come. His prayers are granted; all prayers are granted. Unceasing endeavors always attend true prayers, and, by the law of the Universe, unceasing endeavors do not fail of their end.< ― "Ralph Waldo Emerson: Selected Essays, Lectures and Poems", p.64 205考える名無しさん2018/10/06(土) 15:52:15.430 人は、悪を成すときにおいてさえ、よ(善/良)さを追い求めている。 悪を成すとは、いわば、自覚的な局所最適化への執着である。 「局所最適化への執着」が「あ(悪)しきこと」とされるのは、 それによって大局的な最適化の追求が妨げられることになるからだ。 しかし、ここで注意しなければならないのが、局所最適化への執着と 大局的な最適化の追求の関係である。大局的な最適化は、局所最適化 と対比される、追求されるべき「絶対的な善」として存在するわけではない。 追求されるべき大局的な最適化は、それに固執することが悪とされる局所最適化との関係においてしか存在し得ず、その追求そのものが善であり、 その追求は決して止められてはならないのである。大局的な最適化を、 あらかじめ存在する「絶対的な善」であると思い込んだとたん、それは もはや大局的な最適化の追求ではなく、局所最適化への執着となる、 つまり、悪を成すことになるのだ。 >>700 その一節は、時折、仏教の引き合いに出されるけど、仏教とは関係ない。 恐らく、龍樹『中論』の「空亦復空(くうやくぶくう)」(空もまた空ぜられねばならない) という表現に寄せた訳ではないかと考えられる。 「一切は空」なんて仏典の常套句だから。 続きも見てみると、 “伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。” ― 旧約 「伝道の書 1:2-4」 (口語訳) つまり、仏教のように「空」を賞賛しているのではなく、「虚しさ」を悲観する内容だ。 次のような訳を見ると分かりやすい。 “コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。” ― 旧約 「コヘレトの言葉 1:2」 (新共同訳) この書が書かれた頃に「空」を説く仏教の存在が知られるようになり、そのことへの危惧とも言われる。 「空亦復空(くうやくぶくう)」(空もまた空ぜられねばならない) T1564_.30.0033b11: 衆因縁生法 我説即是無 T1564_.30.0033b12: 亦爲是假名 亦是中道義 T1564_.30.0033b13: 未曾有一法 不從因縁生 T1564_.30.0033b14: 是故一切法 無不是空者 T1564_.30.0033b15: 衆因縁生法。我説即是空。何以故。衆縁具足 T1564_.30.0033b16: 和合而物生。是物屬衆因縁故無自性。無 T1564_.30.0033b17: 自性故空。空亦復空。但爲引導衆生故。 T1564_.30.0033b18: 以假名説。離有無二邊故名爲中道。是法 T1564_.30.0033b19: 無性故不得言有。亦無空故不得言無。 T1564_.30.0033b20: 若法有性相。則不待衆縁而有。若不待 画像 T1564_.30.0033b21: 衆縁則無法。是故無有不空法。 ― 龍樹 「中論」 『大正蔵 第30巻』 p33b17 バディウとアリストテレスの「空の空(ケノウ...ケノン)」 メイヤスーの師アラン・バディウは、アリストテレスが『自然学』第4巻で論じている空論について触れている。 “空はそれ自身の自然な場 ―例えば上方として仮定される場― へとみずからを運ぶわけである。そうすると、空の重複があることに、すなわち、自分の方へ向かう自分自身の可動性を引き起こす、自分自身に対する空の超過が、「空の空」(kenou...kenon、void of a void)とアリストテレスの呼ぶものが、あることになるだろう。” ― アラン・バディウ 『存在と出来事』 藤本一勇 訳、藤原書店 (2019) p107 アリストテレスの該当箇所は以下。 “しかしならが、いかにして空虚の移動とか空虚の場所とかいうものがありうるのだろうか。その場合、空虚がそこへと移動していく先としての、空虚の空虚があることになるからである。”(第4巻 第9章、217a) ― アリストテレス 「自然学」 『アリストテレス全集 第4巻』 内山勝利、神崎繁、中畑正志 編、岩波書店 (2017) p213 "καίτοι πῶς οἷόν τε φορὰν εἶναι κενοῦ ἢ τόπον κενοῦ; κενοῦ γὰρ γίγνεται κενόν, εἰς ὃ φέρεται." (4:9, 217a4-5) ― Aristotle, The physics, Books 1-4, Wicksteed and Cornford, Loeb classical library, Harvard University Press (1957) p364-365 >>703 は「空」の強調、>>705 は「空」の延長表現といったところ。 「空亦復空」>>704 は再帰的な空。 比較しうるのは、イスラムのジュナイドの「ファナー(消滅)のファナー」ぐらいだろうね。 これは、「自意識を消滅させる意識そのものの消滅」という無の体験。 デリダの「脱構築」やハイデガーの「解体」でいえば、「脱構築する行為の脱構築」、「解体する意識の解体」という審級が必要になる。 参考 ・井筒俊彦×ヘルマン・ランドルト 「スーフィズムとミスティシズム 」 (1984) ・井筒俊彦 『超越のことば』 (1991) >>700 タコ坊主は聖書も読まずにニーチェをやっているのか。 教養もなくいつまでもpoemで大喜利しているのは政治目的だろうね。 >>705 メイヤスーの「空(ケノタイプ)」は>>120 >>703-706 このあたりの言説というのは、結局、哲学を宗教や思想に引き戻してしまうんだよ。 哲学的な関心から、井筒を読んでそのような重大な欠陥に気づかないとすれば、 そもそも哲学には向いていない、というより、哲学をする動機がない。 >>703 >“コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。” ― 旧約 「コヘレトの言葉 1:2」 (新共同訳)< >>700 の書込みでは、最初からそのような理解で引用しているわけだが、 どこをどう読み間違えたら、そうではないと主張していると理解されるのか? 自分の思い込みの方が何を前提としているのか、どのようにその思い込みを 相手に押し付けているのかを反省した方がいい。 しかも、仏教は多くの伝統と宗派に分かれた制度宗教であり、 「空」についての統一見解などというものは存在しないだろう。 そのような「空」についての統一した教えが仏教に存在するかの ように論じる方が誤誘導ではないのか。 >>705 、>>120 キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」 “キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。” ― 新約 「フィリピの信徒への手紙」 2:6-7 (新共同訳) "ὃς ἐν μορφῇ θεοῦ ὑπάρχων οὐχ ἁρπαγμὸν ἡγήσατο τὸ εἶναι ἴσα θεῷ, ἀλλ’ ἑαυτὸν ἐκένωσεν μορφὴν δούλου λαβών, ἐν ὁμοιώματι ἀνθρώπων γενόμενος· καὶ σχήματι εὑρεθεὶς ὡς ἄνθρωπος" (Προς Φιλιππησίους 2:6-7) ― Novum Testamentum Graece: Nestle-Aland 28, Stuttgart, Deutsche Bibelgesellschaft ἐκένωσεν(ekenōsen)の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。 >>714 >>717 のケノーシスについては、デリダ『名を救う:否定神学をめぐる複数の声』(2005)や、 レヴィナス『超越と知解可能性』(1996)でも触れられている。 哲学世界の今日的でよく知られた話題だし、 哲学者というのは、今でもこういう話をしているんだよ。 その他参考 『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005) ・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄 ・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス >>719 ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(1984)でも。 つまり、ニーチェがそうであるばかりでなく、ニーチェの影響を受けたドゥルーズやデリダも、 キリスト教や仏教やインド哲学の話をしている。 それが彼らの哲学にとって極めて重要なことだからだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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