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仏教を批判してみるスレ

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0001考える名無しさん
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2019/10/19(土) 05:16:39.460
我々日本人にとっては仏教は文化と根本的に結び付いているので批判しずらい面がありますが、文明開化以来の西洋哲学の輸入も、もはや新しい伝統の領域に入って来ました。
空海の三教指帰ではないですが、善悪真偽を正す必要があるような気もします。
そしてそれは仏教も聖域化してはならない。
0003
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2019/10/19(土) 05:29:07.550
アリストテレスvs釈迦

と言う観点から論じてみたいと思います。
まさに西洋哲学の横綱と東洋哲学の横綱です。

アリストテレスは「本当に知ることは原因を知ることだ」と言います。
ここから《形而上学》の伝統が始まりますが、
釈迦は「毒矢の喩え」で応じます。矢がどこから飛んできたのか、成分は何かを分析するよりも、矢を抜いて毒を出して止血する方が先だと、
我々は釈迦の話を「もっともだ、さすが仏陀は違うな」と聞きますが、果たしてそうでしょうか?
一理はありますが、応急手当てが終わったら、毒の種類を分析して適切な薬を与えたり、矢がどこから飛んできたのか、誰が矢を放ったのか、
何故矢を放ったのかと言う多角的な原因追求が必要になるかと思います。
そして、何か誤解に基づいて命を狙われたなら、誤解を解くと言うような対処をしないと、二の矢三の矢が飛んでくるでしょう。

本当の智者は物事の根源を洞察すると言うアリストテレスの考えももっともだと思うわけです。
0004
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2019/10/19(土) 05:43:05.930
アリストテレスvs釈迦A

アリストテレスは現象を成立させる四つの原因を説きました。
「毒矢の喩え」の毒矢を例に取ると
(1)始動因
毒矢を射た人
(2)目的因
毒矢が放たれた理由
(3)素材因
毒矢の成文
(4)形相因
毒矢の形態

毒矢を抜いて治療するにも(3)と(4)の分析は欠かせません。素人が矢の形態を考えずに闇雲に矢を抜いては矢じりが肉に刺ささったままになって余計に怪我を悪化させるし、
毒の成文分析を行わず、検討違いの薬を飲ませても病人は回復しません。
つまり、毒矢を抜いて手当てをするにしても、反射的に原因分析はしている訳です。
実際、釈迦は、苦痛が存在するに到る十二因縁を論じている訳ですから、
原因分析を全くしていない訳ではなく、大いに原因分析もしてます。
0006
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2019/10/19(土) 06:02:37.470
成文→成分

【アリストテレスvs釈迦】

アリストテレスの『形而上学』によると、 最も重要な原因としてアルケー《始動因》がありますが、
社会的な事柄に関しては一応、人が始動因と設定して考え得る事ができますが、根本の根本の第一原因を探っていくと、《神々》にまでたどり着きます。
勿論、アリストテレスは神を擬人化する人々を「彼らは人を理想化したものを神と崇めている」と嘲笑しているような文章が見受けられるので、
アリストテレスの言う第一原因としての神々は人が空想するようなおとぎ話的な存在とはちょっと違うのでしょう。
この点に関して、釈迦は《無記》(無言)を貫きます。
アリストテレスがアルケー(始源)を知る事こそが哲学の究極目的としたのと大きな違いですが、《おとぎ話の神々》を究極原因としてしまえば、
一切が空虚な観念論になることを恐れて釈迦があえて形而上的な存在に言及しなかったとすれば、アリストテレスの立場と対立するとまでは言えないかも知れませんが、
形而上学を否定はしないまでも、積極的に語らなかったのも事実です。
0007考える名無しさん
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2019/10/19(土) 06:40:51.960
余談)
アリストテレスの言う不動の動者は我々の根源とも言えるかと思います。
東洋思想で言う不滅のアートマンや世界創造者としてのブラフマンの考えにも似ている部分があります。
例えば、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「知性は外部から我々に宿る」と言っています。つまり、知性は個人のものではなく神々が肉体に宿るときに深遠な知恵が生じると考えているのです。
ヘーゲルが言う世界理性、世界精神の思想も同様のものです。
我々の精神の根源にはアルケーとしての神々がおり、我々の行動に影響を及ぼしている。
肉体や記憶が消滅しても、この不滅の精神は普遍であると。
これを悟ることが仏教や東洋神秘思想の目的でありアリストテレスが形而上学の中で述べている事にも通じるとすると、両者は全く矛盾する考えとは言えず、どこかで合い通ずる部分があるとも言えると思います。
0008
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2019/10/19(土) 06:46:32.950
アルケー(始動因)に関しては、東洋神秘思想とアリストテレスの形而上学の見解はさほど矛盾は無いと思います。もし、イオニア自然哲学者の中に釈迦が居たら、アリストテレスは積極的に己の体系の中に組み入れたと思います。
ただ、大きな違いとしてはアリストテレスが《目的因》を重視するのに対して、東洋哲学には目的因を考察する伝統が殆んど見当たらないと言うことです。
0009学術
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2019/10/19(土) 07:47:05.090
魔女文学かなんかのほうが退屈しないと思う。
0010学術
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2019/10/19(土) 07:48:10.660
派手な哲学のほうがいいわけじゃ。
0011考える名無しさん
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2019/10/19(土) 08:37:24.680
釈迦も「お話」を使うからね
毒矢についても、もちろん話には欠点や穴があるだろうが、それは釈迦が言おうとしたことの本質から逸れている。
釈迦はその喩え話で「形而上学の禁止」を教えることを意図していたのだろうから。それが分かれば、批判の点はそこに限られるわけで、そこ以外の批判は余分じゃないかね。
0012学術
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2019/10/19(土) 08:59:14.260
形而上は既に存在して地位を人間界より築いているのにいるのにそれを禁止とはいかがなものか。
0013学術
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2019/10/19(土) 08:59:58.170
禁止していいものとしていけないモノ単語や文法など自由では。
0014学術
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2019/10/19(土) 09:00:39.140
仏教も男が余ってるからなあ。敷居を広げ過ぎてるわけ。
0015学術
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2019/10/19(土) 09:01:27.000
人生論みたいなお経がないかな。哲学はほぼ人生論じゃない。
0016
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2019/10/19(土) 12:20:12.860
〉〉11
おっしゃるように、この見解の相違が仏教と西洋哲学を分ける分水嶺な訳です。
実際は、「矢がどこから来たのか」を問うことは二の矢、三の矢を避けるためにも重要な事だからです。
アリストテレスは《知の喜び》を出発点にしたのに対して、釈迦は《生存の苦しみ》を出発点にした違いがあるかと思います。
悟りのアルケーが違うのでテロスも違って来るわけですねり
0017
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2019/10/19(土) 12:25:00.710
アリストテレスと釈迦(仏教)や東洋哲学は相違点も有りますが似たような所もあります。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中でヘクシス(性状)の倫理学を説きます。
これは東洋哲学のカルマの思想に非常に似ております。
行為が性状(傾向性)を生み出し、性状が行為に影響を与えます。
0018考える名無しさん
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2019/10/20(日) 16:44:33.120
背景を無視して一文を抜き出すようなとんちんかんな比較ばっかしてない?
この批判に意味があるようには思えないんだけど
0019考える名無しさん
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2019/10/20(日) 23:45:30.130
仏教の根拠は根源を道理に求めよとする教義
西洋哲学のそれは抽象から得よとする教義
原理的にはその違いだな
0020考える名無しさん
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2019/10/21(月) 00:33:04.190
× 国家権力仏教
○ 原始哲学仏教
0021考える名無しさん
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2019/10/21(月) 06:20:25.220
>>背景とは?
釈迦は「神は居るのか」「世界の始まりや終わりはあるのか」と言うような哲学を好む人間に「そんなことを考えても苦の滅却とは関係ない」と諭したと言います。
この青年は、まさにアリストテレスのような志向性の持ち主です。
このアリストテレスのような青年は車の修理をしにレストランに行ったようなもので、聞く人を間違えていたようなところもありますが、釈迦もあくまで、苦の滅却に役に立たないと言っただけで、形而上学それ自体を否定したわけではない。
冗談ですが、この青年はもしかすると《インドに居場所は無い》と思い詰めてギリシアに渡った初期哲学者の一人になるのかもしれませんね。
0023考える名無しさん
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2019/10/21(月) 22:33:01.790
>>19
抽象にこだわった結果観念論に神秘主義に引っかかった西洋哲学
仏教は何に引っかかったんだろう
0024考える名無しさん
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2019/10/21(月) 22:44:33.030
プロティノスの新プラトン派哲学と華厳や密教、ヴェーダンタとの共通性を中村元が指摘している。
0025考える名無しさん
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2019/10/21(月) 22:46:26.560
仏教は棄てた。
今はアボリジニのドリームタイムとアメリカ先住民のエコロジカルな世界観にインスパイアされた自然崇拝。
0026考える名無しさん
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2019/10/22(火) 11:45:45.100
俺は仏教に禅に救われてる
哲学とは真反対だけど

問う故に迷う
莫妄想
0027
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2019/10/22(火) 12:10:43.430
私も仏教は禅から密教までかなり追求した面もあるのですが、現代に生きている限り西洋哲学の知識も入ってくる訳です。
根源に遡っていくと、それぞれ東西の古代哲学の大成者であるアリストテレスと釈迦に行き着きます。
アリストテレスは知の探求を動機としさたが、釈迦は苦の滅却を動機とすると言う大きな違いがあります。
苦の滅却と言うテロス(目的)からすると、知の探求は余計な心配や苦痛をもたらす可能性があるので捨て去られます。
なので仏教と西洋哲学はどうしても相容れない部分がある。
しかしアリストテレスからすると釈迦の思想は第二哲学としての自然学の一部、精神科学としての価値が見いだされる可能性はあります。
つまり、アリストテレスが始めたオーソドックスな哲学体系は揺らがない。第一哲学としての神学《存在論》
ただ、自然学としての仏教も、ハイデガーが《存在と時間》で探求したように、現存在の分析から存在論に突き抜けていく可能性はあるわけです。
実際、仏教やインド哲学で言う《悟り》アートマン(実存)の自覚によってブラフマン(存在)と合致しようと言う試みとも捉え直す事も出来そうです。
0029考える名無しさん
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2019/10/22(火) 13:58:03.280
宗教は科学でもなく学問でもない、なんでそれを

そういう風に論じるのか、きもちわるすぎる
0030考える名無しさん
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2019/10/22(火) 14:24:11.700
オーストラリアに留学してアボリジニの民族楽器ディジュリドゥに触れ興味を持ってアボリジニの宗教観であるドリームタイムを調べた。

それからアメリカ先住民の宗教を関連で調べた。

神道まで畏まってないプレ神道的なプリミティブな感性が良かった。

寺で生まれたし得度もしたが仏教よりそっちに心奪われた。
釈迦仏教よりシャンカラの方が哲学としても好きだし。
0031考える名無しさん
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2019/10/22(火) 14:25:53.800
読経で悪霊を調伏するのですよ
0034考える名無しさん
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2019/10/22(火) 20:34:02.660
学問と宗教で別物である以上スタート地点や成果物が違うのは当然
思想史としての比較としては面白いんだけど学問としての哲学と宗教を1対1で比べるのは気に入らん気もするね
ただまあ、それは宗教が学問の役には立たないとわかっている現代ならではの感覚なのかもな
0035
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2019/10/23(水) 08:15:33.600
例えば、ハイデガーの思索は「学問」と言えるのかな。
ハイデガーが書き残したものを見ると、かなりの部分が近代学術批判だったりする。
特に科学知の批判である。
近代哲学は近代科学の基礎付けを主眼にしていたが、フッサール以降は近代科学批判であり、ハイデガー以降は存在論になっている。
学問の定義にもよるが
0036学術
垢版 |
2019/10/23(水) 08:30:52.820
レインボーサーパント(虹蛇)もアボリジニの崇拝信仰する対象だよ。
オーストラリアで夢の中で音楽が聞こえた。
0037考える名無しさん
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2019/10/23(水) 10:18:39.240
>>32
西洋哲学は宗教の歴史
そして東洋哲学は西洋哲学に対抗して作られたもので
やはり西洋哲学の文脈に合わせて宗教をベースに哲学として語っている

それを仏教哲学の批判を宗教板でやれというのなら君こそこの板から出ていき玉枝

哲学のての字も知らないくずが書き込むな!
死ね!!!
0040考える名無しさん
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2019/10/23(水) 11:31:42.910
>>37>>38
仏教スレに引っ越す前に頭を冷やし玉枝w
0041考える名無しさん
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2019/10/23(水) 11:40:40.700
>>35
どんな哲学者の思索も、それを哲学する学習手引きにできなきゃ
哲学書として学問する教科書にはならないけど
哲学者の思索から体系的な知識を養う読書も学問にはなるんじゃない
0043
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2019/10/24(木) 08:01:23.220
そうだよ。
アリストテレスやヘーゲルは宗教的対象(神々や全体的なアルケー、テロス)を学問として理解しようとした。
一方で釈迦は、神々や形而上的問いについては無記とした。
0044学術
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2019/10/24(木) 08:14:06.010
哲学は神と人間の関係の間でうまれたが宗教とは違う。ギリシャは戦争国家。
目指すものは人である。神から下って人間になったということだ。
0045考える名無しさん
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2019/10/24(木) 08:25:19.850
学問として理解し、哲学を知識にしたかったのでしょうね。
その前にお亡くなりになったけど
残された哲学書は文学の知恵になって生き残った。
0046考える名無しさん
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2019/10/24(木) 08:29:29.800
>>43
だから学問的探求と精神的探求で比較しちゃってるじゃんって話
仏教的哲学とその限界って観点でのこの比較ならまあわかるけど
0047学術
垢版 |
2019/10/24(木) 09:13:20.850
精神はクセノフォンが詳しい。精神の仕事もあるそうだぞ。健全な精神というダヴィンチのことばはいかに人間の精神が病気如何でなく苦悩して侵されていたかルネッサンスまでという証左になる。
0048考える名無しさん
垢版 |
2019/10/25(金) 01:31:09.010
京都の浄土真宗本願寺派の僧侶住職の後ぎ継が多く在籍している龍谷大学文学部真宗学科の偏差値は35(駿台基準)。
浄土真宗の坊主はスーパーバカ集団。
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