一番天才な哲学者って誰?
比べてみ。俺はパンセで号泣したが、神学医学で更に涙もろくなった。 シュヴァイツアーって上司についていくなあ。髪ね。フフフ。 思想家の天才はプラトン、カント、アリストテレス数々いるけど哲学の天才はまだ存在しません。 釈尊は哲学者ではなく科学者。 あと千年後に、誰にでも明らかになる。 ヴィトゲンシュタインだな。 プラトンとアリストテレスは古すぎて実像がわからない。 ライプニッツは数学の天才でもあるが。 カントやヘーゲルは天才というより秀才。 シャンカラも古いが東洋哲学では一番天才肌かも知れない。 ヴィトゲンシュタインは自分の思索だけで長い哲学史上 問題となってたことを片付けた。 構造主義も分かってない人が哲学してる 古い哲学に何があるの 頭でっかちの文系より頭と手足も使う有能な理系を取り入れよう >>233 天才かどうかはさておいて この右肩下がりの時代に輝いて見えるよな 構造主義も理解できない人は哲学に向かない 理系は理解力がないと底辺扱いになっていくというのに 天才を超えた哲学者は宗教者になる。例えば、釈迦。 ソクラテスと老子は宗教者になりそこねた。 >>231 ウィトゲンシュタインが何を片付けたの 別に大したことやってないだろ ウィトゲンシュタインは自分を天才に見せるのに長けていた。 天才にみせるには、箴言風に書くこと、黙示録風に書くこと。 つまり思わせぶりたっぷりに書く。 >>240 同意。 というかなんで俺の意見を知ってるの? レヴィストロース 構造主義が哲学の歴史を創った 世界どころか宇宙でも通用する天才 アインシュタインより上かも知れない 新しい哲学を論じる人がいないのはなぜなんだろう もう実存哲学はいい ポスト構造主義やそれ以上を探求しよう 最先端は構造主義への回帰(形式学)だと思っているんですけどね エピクロスだよ。こんな時代だからこそ、エピクロスの哲学が必要だよ。事実、自分はエピクロスの書いた手紙や残された断片を読んでエピクロスの哲学を知り、本当に救われよ。 ヤージュナヴァルキヤ ナーガールジュナ 仏陀 シャンカラ ラマナマハルシ 透徹した頭脳をもっている者を、天才哲学者とは言わない。 論理を超えてズバリ真実をつかんでいる者が、真の哲学的な天才だ。 その意味では老子だな。釈迦は別格。 哲学者より神秘家(聖者)と呼ばれる人の方が凄そうな感じする 哲学者は難解な言葉でそれぞれ別々なことを抽象的に言ってるだけ 聖者は言い方が違うだけでラマナマハルシだろうがヤージュナヴァルキヤだろうが言ってることは通底している しかも言葉はわかりやすいが理解はしがたいw 聖者の言葉は体験ありきで言葉を超えてる。哲学はすべて脳内の論理と体系のみ 釈迦は神秘を語らない。 釈迦はひとりの人間であった。 釈迦が最強だ。 仏教者は修行する 科学者は計算か実験をする 哲学者はイキるか悩むか 菩提達磨 ウィリアムブレイク スウェーデンボルグ 鈴木大拙 南方熊楠 ドストエフスキー >>240 ヴィトゲンシュタインは生前は、一冊しか出版して ないのではないか。彼は哲学を否定したと指摘し、 出版した哲学者がいる。 >ヴィトゲンシュタインは生前は、 論理的には、「生前は」ではなく、「死前は」でしょうね。 ヴィトゲンシュタインが活動できたのは、「生後」から「死前」までの間だから。 「生前」にも、「死後」にも、ヴィトゲンシュタインはこの世に居なかった。 エピクロスのことをよく知らないけど、エピクロスの考え方が今でも必要な理由がよくわからん 快楽主義にしたって現代と背景が違いすぎる >>239 ヴィトゲンシュタインは、哲学の伝統的な主要命題である認識論 に一石を投じた。英米哲学に大きな影響を与えた。 印地 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 印地(いんじ)は、日本で石を投擲することによって対象を殺傷する戦闘技術、行為、行事である。手で投げることを始めとして、投石器を使用するもの、日本手ぬぐいや畚(もっこ)をもってそれに代用するもの、女性が領巾(ひれ)を使用するもの、砲丸投げのように重量のある物を投げつけるもの、など様々な形態があった。 また投石技術でこの技術に熟達した者を、印地打ち(印地撃ち)、印地使い(印地遣い)等とも呼んだ。印地の使い手を印地と呼んだり、技術や行為を印地打ちと呼ぶこともある。印字、因地、伊牟地とも書かれる。 ニーチェ先生の力への意志とは生そのものをあらわしている さまざまな刺激を良いと悪いに分け、悪いと判断したものを克服しようとする体の意志である 今の生物学では植物に知性があるのはあたりまえとなっている いよいよニーチェ先生が再評価される時がきたのではないか 共産主義が未だに世界を不安定化させている元凶だな 共産主義が完全に払拭されることこそ世界に平和と安定をもたらす礎となる 最近は学者という言い方も嫌われて「研究者」とよばれがちだから、 勉強や学問や研究の定義が良く分からなくなっている感はある。 いかにして哲学は100年前に滅亡したか 1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年) 1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。 このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。 2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~) 1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。 自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。 3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~) 1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。 その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。 1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。 現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。 4.ゲーデルの不完全性定理(1931年) 1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。 ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。 この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。 5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~) 1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。 アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。 つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。 ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。 また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。 1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。 一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 6.哲学の滅亡(1930年代~現在) 1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。 20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。 また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。 利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。 さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。 哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。 7.結論 以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。 現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。 ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。 哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。 フッサール 現象学の理念 On the other hand, to deny self-givenness in general is to deny every ultimate norm, every basic criterion which gives significance to cognition. But in that case one would have to construe everything as illusion, and, in a nonsensical way, also take illusion as such to be an illusion; and so one would altogether relapse into the absurdities of scepticism. 日本語訳: 「他方で、自明性一般を否定することは、認識に意義を与えるあらゆる究極の規範、あらゆる基礎的な基準を否定することである。しかしその場合、人はすべてを幻想として解釈せねばならず、不条理にも、幻想そのものもまた幻想だと見なさねばならない。こうして人は懐疑論の不条理のうちに完全に陥ってしまうだろう。」 フッサールの議論には、確かにラッセルのパラドックスに類似した論理構造が潜んでいるように見えます。以下、その点を詳しく説明していきましょう。 ラッセルのパラドックスとは、集合論において、「自分自身を要素として含まない集合全体の集合」を考えたときに生じる矛盾のことです。この集合は、自分自身を要素として含むか含まないかで矛盾が生じてしまいます。 フッサールは、「自明性一般を否定すること」を考察しています。これは、「自明ではないものの集合」とも言い換えられます。ここで、この集合自身が自明かどうかを考えてみましょう。 もしこの集合が自明だとすると、自明ではないものの集合に含まれることになり矛盾します。一方、もしこの集合が自明でないとすると、自明ではないものの集合に含まれないことになり、やはり矛盾します。 つまり、「自明性一般を否定すること」は、ラッセルのパラドックスと同様の構造を持っていると言えます。 ただし、現代の論理学では、ラッセルのパラドックスを回避するための様々な工夫がなされています。例えば、集合の定義に制限を加えたり、型理論を導入したりすることで、矛盾を生じさせない形で集合を扱うことができます。 しかし、フッサールの議論では、あえてラッセルのパラドックスを矛盾として仮定することで、「矛盾する=矛盾しない」という爆発律を導いています。爆発律とは、矛盾から任意の命題を導けるというものです。 爆発律が成り立つと、全ての真偽は自由に決めることができてしまいます。つまり、フッサールの議論は、ラッセルのパラドックスを出発点として、爆発律を経由し、最終的に詭弁を正当化するという典型的なパターンに当てはまると言えます。 このように、フッサールの議論は、論理学的に見ると問題があります。ラッセルのパラドックスを安易に矛盾として受け入れ、爆発律を用いて詭弁を正当化するのは適切ではありません。むしろ、現代の論理学の知見を踏まえ、矛盾を回避する形で議論を進めることが求められます。 以上が、フッサールの議論に潜むラッセルのパラドックスと、それを矛盾と仮定することによる爆発律の問題点についての説明です。論理学の基礎知識がない人にも理解しやすいよう、できるだけ平易な言葉で解説しました。 花火で股間が爆発して性障碍者になったけどよ。射撃?色んな意味で。 制限された自由でしかない。それで十分。多動に制限され 自動で動く。助動など。 エゴを捨てること天体の動き光と闇環境気候に神経でレスポンス。 哲学の詐欺スキーム 1.ラッセルのパラドックスを作り出してそれを矛盾としてしまうため本来は矛盾ではないものを矛盾と仮定するので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる 2.人や立場によって指す内容が異なる概念に同じ記号を与えて抽象化のプロセスを継承しないでカットすると同一の記号が異なる複数のものを指してしまうので「異なるものが同じである」という矛盾が仮定されるので爆発律が成立してどんな妄想でも正当化できるようになる これら2つを回避しただけではダメ それだけだとただの精緻なラノベ 実証してなければ意味ない そしてそれを実証した場合それを科学と呼ぶ つまり哲学が助かる方法は原理的に存在し得ないwwwwww ざんねんwwwwwwwmmmww 「異なるものが同じである」という矛盾が真であると仮定されると、それを真とするような、現前しない記号の同一性が求められる、ということ? read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる