この世は数学とプログラミングで構築されている
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21世紀にして、ついに地球人類は真実に気づきつつある 土器を作ってた頃の人類「神もこうやって土を捏ねて世界を作ったに違いない!」 ネットで遊んでる時代のニート「神もこうやって世界をプログラムしたに違いない!」 >>3 「迷信ではない真実!」 >>4 すでに人類は、DNAのコードを書いてオリジナル生物を創り出せるところまで来ている 昔は「どんなに科学が進歩したところで、葉っぱ1枚、人間には創れない」なんて言う人がいたけど、そんなことなくなってきた 科学界では、宇宙の森羅万象を方程式で解き明かす努力が日夜行われている。 「宇宙のすべてを説明できる『神の方程式』」が実現可能かどうかは定かではないが、 この世のほとんどすべてが数式または確率という数字で説明することができるのは紛れもない事実である。 物理法則のすべてや量子論、さらには自然が織りなす美しい造形、放物線、人間の美の感覚である黄金比に至るまで数字であらわすことが可能だ。 しかし、なぜ数字で表すことが可能なのだろうか? 宇宙が数字で表せない原理で動く選択をする可能性の方が高かったのではないかと考えたことはないだろうか? 先進的な学者が現在注目しているのは、なぜ宇宙は数字で表すことができるのかということである。 数式で表せるのは、コンピュータのように「プログラム」で動いているからではないかと考えるのは自然なことだ。 >>5 遺伝子組み換えやゲノム編集程度の技術では「DNAのコードを書いてオリジナル生物を創り出せる」とは言えないんだけど これらを上回る技術が開発されたってこと? 何もかも数値と計算でできている 日常感覚ではなかなか気づかない 皮肉にも、ゲーム世界が発達するにつれて、 「あれっ? なんだかリアル世界も、ゲームと仕組が似ているな?」と、 多くの人々が気づいてしまった 偶然ではなく必然だ よりリアル世界に似たバーチャルリアリティを構築しようと思ったら、対象を無数のドットに分けて、すべてを数値化して大量の計算を処理するしかない リアル世界も同じなのだ 物質的な世界というのは、こんな風にしか構築できないのだろう 結局のところ、この世界は、ゲームと同じ作り方でできている >>18 世界がそういう風にできているのではなくて人間はそういう形式でしか認識できないってだけの話でしかない ゲームや仮想現実だけでなく都市や制度や道具なども含めて人間が意識的に作り出したものなので、これらは脳(意識)の外部化だと言えるんだけど 人間が自分で作ったわけではない自然物や自然現象や自然法則も認識されるにあたっては脳(意識)内に取り込んでいるので認識が洗練されればされるほど 「数値として抽象化される度合い」が高くなってくる傾向がある この傾向ってやつは単に人間の”癖”みたいなものでしかない そのことに無自覚な人ほど「この世界は数学とプログラムで構築されている」なんて勘違いをしてしまいがち 正しくは「(認識の形式が洗練されるほど)私達はこの世界を数学的な方法で把握している」 後衛 馬場みぶ 下川 菊地 池田 中澤 前衛 四ノ宮 滝川 井出 遠藤 増田 実際は擦ったもんだの挙句、団体は県大会ベスト8、個人は前衛でベスト16 ところで「火」と「木」ってわかったか? 「火」は国土 「木」は樵 日本人は「火」で結婚するんだぞ。 大まかに言えば、有吉と夏目三久の結婚。水谷豊夫婦、村上弘明夫婦…… 上杉が「木」で繋がっているが、全体を「火」にすると辻褄が合う。 日本には色々 人たちがいる。俺は一人で探求してみたが、ちゃんと死なないようになってる。 どんな人でも見た感じは普通の人だ。 じゃあ誰が悪い人で誰が加担していて、誰がどうとかは無い。そこに結界があるだけだ。 俺はまったく世の中の普通を誤認していたけど、世界ってこんなものよ。 そのかわり心の分量が多い人と少ない人は存在する。やはり共感の面で不足している人は多く、そういう人は人の傷みはわからない。 どうしたらよいかというと、人を殺さない。それを前提として心を清くして生きてれば命の心配はない。隠し事もやはりよくない。 自分から前に出ている限り誰も何もしてこないよ。あまり物事を動くのを待ちすぎるとよくない。怖くなってきたら前に出る。それだけだよ。 物事には妙がある。待つのも程々に、前に出過ぎてもよく物事が見えなくなる。そういうものだった。それに気づいた。 微妙なバランスで動いてみること。 あとはあまり直観を軽視しないことだね。 一般に、数学は物理法則を記述するために用いられる。宇宙は物理的構造物であり、抽象化のために数学が用いられるのだと考えられている。マックス・テグマークはそうではないと考えている。 数学的宇宙仮説では、物理と数学の関係は一般に考えられているものとは異なり、物理が数学を規定するのではなく、数学が物理を規定するのだと考えられる。 テグマークによれば、物理法則が数学的に記述可能なのは、人類が発展させてきた数学理論や方程式が優れているからなのではなく、物理法則自体が、純粋に数学そのものだからだ。 人類は、数学や物理学と呼ばれる学問において、思考の体系を作り上げてきたのではなく、宇宙の数学的性質の一部を「発見」してきたに過ぎない──テグマークはそう考えている。 宇宙は、数学で動いている 人間は、それを発見してきた なぜ、宇宙はこんなにも数学的なのか? 「この世はコンピュータによるシミュレーションだから」というのは、それに対する最もシンプルな答だ あまりにも高精細なため、滑らかなアナログに見える だが実際には、この世界はデジタルでできている ゲームの画像も、昔のインベーダーゲームやパックマンの画像はドットが粗かった いまのCG画像は、実写より滑らかで美しいくらいだ デジタルは、高精細になるとアナログに見えてくる いまのポリゴン画像は、間接が曲がった部分を見ればわかる形がありえない形に変形している これがポリゴン処理の限界なのに、なぜか見て見ないふりをする馬鹿が すごいすごいわけわかめを言い出す、 3Dの唄姫類の踊るダンスCGが捨てるほどあるが、ほぼ全部がアニメ絵であり、顔が平らで 削れて凸凹の凸が無いので斜めからみると非常に変形してきもちわるいお面に見える、 陥没している顔、おわんの上側の平面の蓋のような、ひらたい顔はいびつすぎる。 ポリゴンの手抜きがそれをさらに誇張している。 手書きのアニメ絵ならその部分は凸に補正されるが、CGのそれは設計データのまま くさっている、きもちわるい、美しい?歪んだ美しさというやつだ。 ジェシカ(元少女時代)、今もこれからも永遠に顔は左側 2020/12/10(木)22:19 (wowkorea) ジェシカは10日午後、自身のインスタグラムに広告カットを数枚を上げた。 写真の中でジェシカは、ジャンパーとホワイトパンツを合わせて純白の女神美を誇っている。 印象的なのはグラビアカットの中でも、自分の左側の顔を死守しているという点だ。 ジェシカは「少女時代」の活動当時、左側の顔がより美しいとファンの間で話題を集めたことがある。 https://www.instagram.com/p/CImmrwgnlms/?utm_source=ig_web_copy_link >>47 ジェシカの顔は曲がっていない 昔も今も美人だ >>47 ぜんぜん曲がっていない。 その程度を曲がる言うなら頭大丈夫? この世のすべては、数学とプログラミングでできている でも本当は、この世の風景は無数の画素からできている すべての物体は、プログラミングされた通りに数学的に正確な運動をしている あまりに高精細だから、そうは見えないだけで 実は完全にデジタルな世界 . l,‐、i三三三' ,. -"二三,、: : : : : . .i l ll三三三 ´;ィ彡'",ニ、`ヾ、、: : : . i l !三三三 .::メ《″(::о::) ,l:ヾ、: : : . ヽ', :l.ヾ三三 : : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ : .: ヽY ヾ三ミ : ::`ー---‐'''"´: :ノ : : |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;i′: : : :/ / - ― ′ ', l l:;:;:l゙リ:;:;:;:;:;l : : : : : : ,,r'" ヽ }, l . l:;:;l l゛'r、:;:l: : : : : : / `ー‐、_ ハ ,' ヾヽニンl;;l : : : : : .;';';';';';';';';';';';';';';';';';.,. l. ,' l:;:;|: : : : : : : : : ', ヾ〒〒〒〒〒ァ:;' / "l:: : : : : : : : : ', ヽ±±±ン ;' ,/ 完全爆発はまだかね? . / `丶、:: : :\ ヽ 丶、_ ノ/ / / `丶、 \ ', / /___ `ヽ \ ヽ、 ノ " ̄  ̄`丶、 \\ `ー---ァ '´ `丶、 \ヽ、_ / ここがデジタルな世界であること 普通は、頭では分かっていても、なかなか実感できない 長年の日常生活による刷り込みはそれほど深いものがある ベケンシュタインの説をさらに推し進めたのが、ノーベル物理学賞受賞者のゲラルド・トフーフトやスタンフォード大学教授のレオナルド・サスキンドです。 彼らの発想は、ブラックホールの原理から、「この現実世界にあるモノ・コトのすべては、どこか遠くにある二次元平面に書き込まれたデータの投影にすぎない」という結論を導き出したのです。 しかも、さらに驚くのは、彼らがこの世をアナログではなくデジタルでできていると見なしていること。 コンピュータが0/1の二進法で情報を記録するように、世界のモノ・コトのすべては0/1のデータで、空間領域の外側にある球面上にコーディングされているというのです。 この理論は、三次元映像を二次元のフィルムに記録する「ホログラム」に似ていることから、「ホログラフィック理論」と呼ばれています。 人の心は二進法でできていない だが、心には実体がない 物質はすべて、その究極の姿は二進法のデータ 要するに数値 二進法=記号に置き換えられるってだけで物質が記号自体なわけない 世界内の住人にはアナログ世界に見えるが、本当はすべてが二進法の数値 心を当事者として具現化する「みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body" があってこそ、自らの身体が第三者から見た「からだ/体」として、つまり、 そこにある物体として存在し得るのであって、その逆ではない。 心を当事者として具現化する「みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body"には、 常に既に具体性(からだ/体を具えている性質)がある。 このことは、「みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body"について 考えるときに身体についての第三者的な生物学の知識を前提としなければ ならないというようなことを、意味しているわけではない。むしろ、 みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body"についての反省が、 第三者的な生物学の知識の理解に暗黙に反映される。 >>76-78 「当事者」および「第三者的」という表現を用いれば難なく理解できる はずのこのような理路も、代わりに「主観」および「客観」と表現すると、 二重に複雑化されて、とたんに分かりにくくなる。 まず第一に、「主観」および「客観」という表現はいずれも、 "subjective"および"objective"に対応していないにもかかわらず、 対応するように用いることが暗黙の規範とされている。 次に、そのように対応ささせて、「主観」="subjective"、 「客観」="objective"とした場合でも、「主観」と「客観」 は、その関係が対称的であるかのような印象をもたらし、 「第三者」に対する「当事者」の関係の場合とは異なり、 「客観」が「主観」を前提とするような関係を自然に伝える ことができない。 日本語で考えるなら、「主(あるじ)」と「客(きゃく)」は互いに 当事者であり、その関係は第三者的ではあり得ない。 >>82 「能取」、「所取」という表現を私は知らなかったので検索してみると、 以下の説明がヒットした。 >能取=分別するもの≒主観と所取=分別されるもの≒客観 漢字の表記から見れば、「能取」≒"capturing"、「所取」≒"captured" を表現しているように見える。「能取」≒「分別するもの」≒"capturing"、 「所取」≒「分別されるもの」≒"captured"と理解するなら、「能取」 と「所取」の関係は、「当事者」と「第三者」の関係とある程度、 重なるものの、私が「当事者」と「第三者」の対比として表現しようと した関係は、より単純であるとともに、より「込み入って」いる。 さらに単純化して表現するなら、「当事者」と「第三者」の対比として 私が意図しているのは、自/他の対比である。この対比についての、 私の現状における暫定的な理解を提示しよう。 自/他の対比における「自」を、私は、「みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body" と捉えており、私には十分なドイツ語の知識がないものの、これをドイツ語で表現 するなら、" Dasein in Hülle und Fülle"と言い換えることができるのではないか と思う。 「自」は、「ひと」として現れるが、そのことは、「自」が日常的に理解される 意味で「単一的」であることを意味するわけではなく、だからといって、 「単一的」ではなく、「多数的」であるというわけでもない。「ひと」は 語源的に「匹」の流用であると考えられることから、それを「双数的」と 言い換えてみても、「他人(ひと)のペア」を表現しようとしているような 誤解が生じる恐れがあるが、無論、「自」は、「他人(ひと)のペア」を 表しているわけではない。そうではなく、私の捉え方では、 「自」は、「みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body"であり、 日本語の古語における「な(己/汝)」に対応するように「動的」である。 ここで、「動的」であるとは、どのようなことだろうか。私は、日本語の 古語の「な(己/汝)」について、これが中国語の「羅」の流用であること を指摘して、以下のように述べた。 >78考える名無しさん2021/03/28(日) 23:08:11.870 >「な/羅」も《entrelacement/entrelacs》も、その「原初」をたどれば、 キアスムの語源であるχ(カイ)によって代表される交叉になるわけで、 そのイメージは、「糸」という漢字が表現するイメージと重なっている。 < 結局のところ、キアスムの語源であるχ(カイ)によって代表される交叉が、 主客の関係を説明するのに有効であるとすれば、それは、その交叉が、 「《obligeant》⇒《obligé》の関係性の反転可能性」、つまり、 「互酬性」/《réciprocité》を代表することによってである。< したがって、「自」が「な(己/汝)」に対応するように「動的」である と言うとき、「動的」とは、「《obligeant》⇒《obligé》の関係性の 反転可能性」、つまり、「互酬性」/《réciprocité》が保たれるように 反転する様態が維持されるということである。「な(己/汝)」を英語の "buddy"と言い換えるなら、「な(汝)」="buddy"は、"one's own" であるように自との間柄(あいだ・がら)を保ち続けようとする 限りで"buddy"/「とも・がら」であり、同様に「己(な)」="buddy" も、「な(汝)」である自にとって"one's own"であるように間柄を保ち 続けようとする限りで"buddy"/「とも・がら」であるということだ。 その反転可能性が失われた時点で、自=「みづから(身づ柄/自ら)」の 「な(己/汝)」としての性質、すなわち、「み(身)・つ・から」が 一心同体である性質も失われ、「わ(我)がみ(身)」から分離した 「から(ドイツ語を用いるなら、"Dasein als Hülle")」が現れることになる。 その分離した「から(ドイツ語を用いるなら、"Dasein als Hülle")」 こそが、「他」である。 「な」/"one's own"という性質を失った"buddy"が、"body"/物体である。 「人間の活動はすぐたゆみがちになる、 すぐ絶対的な安息を求めたがる。 だからわしは、刺激したり引き込んだりする仲間を人間につけておく、 それを悪魔としてはたらかせておくのだ。 だがおまえら、神のまことの子たちはな、 生きたゆたかな美しさを見てたのしむがいい。 永遠に創りはたらく生成の力が おまえたちのまわりに愛のやさしい垣根を結いめぐらすがいい。 そして移ろう現象として揺らいでいるものを、 おまえたちは持続する思惟によってしっかりとつなぎとめるのだ。」 ゲーテ、『ファウスト 悲劇第一部』、手塚富雄訳、p.37 >「な」/"one's own"という性質 ここで、この「『な』/"one's own"という性質」が、哲学/ φιλοσοφία の語源である"φίλος"にも対応していたことを思い起こそう。 https://www.etymonline.com/word/-phile >from philos "loving, friendly, dear; related, own," related to philein "to love," which is of unknown origin. According to Beekes, the original meaning was "own, accompanying" rather than "beloved."< ところで、この場合、「な」を、"one's own"とも解釈され得ることを所与 としているわけだが、いずれの辞書に記載されておらず、他の誰も主張して いないことを、このように前提とすると、「どこにそんな解釈の根拠が あるのか」といきり立つ人々も世の中には決して少なくない。しかし、 そういう場合には、感情的になる前にまず、自らに問ふことによって 検証してみるべきだろうと私は思う。例えば、「な(懐)かし」という 表現は、明白に「な・つ(付/着)か・し」と理解することができる。 すると、「な」≒"one's own"、「つ(付/着)く」≒"to attach"、 「し」≒"causing/letting"となり、「な(懐)かし」は全体として、 "causing 〜 to be attached to one's own"を表現していないだろうか。 さらに、"φίλος"が、一般に、「互酬性」/《réciprocité》を代表する関係と して認識されていることも思い起こそう。 https://en.wikipedia.org/wiki/Philoi >Philoi (Ancient Greek: φίλοι; plural of φίλος philos "friend") is a word that roughly translates to "friend." This type of friendship is based on the characteristically Greek value for reciprocity as opposed to a friendship that exists as an end to itself.< 「自」/「みづから(身づ柄/自ら)」/"one's own body"が、このように、 「互酬性」/《réciprocité》が動的に保たれることによって 成立すると解釈される「『な』/"one's own"/《φίλος》」の性質 によって特徴づけらることを考慮したとき、「自らの身内」である 「親族」が"der Superlativ des Wortes »Freund«"として表現されること にどこか不思議なところはあるだろうか。 >diese selben Griechen haben die Verwandten mit einem Ausdrucke bezeichnet, welcher der Superlativ des Wortes »Freund« ist. Dies bleibt mir unerklärlich.< http://www.zeno.org/nid/20009233482 「いや、その認識というやつにもいろいろある。 真実を知っても、その真実をあからさまに言うことができると思うか。 なるほど、稀には多少の真実を認識して、 愚かにもそれを胸にしまっておくことができずに、 自分の感じたこと、観たことを俗衆に明かした者もあるが、 そういう人間は、いつの時代でも磔にされたり、火あぶりにされたものだ。」 ゲーテ、『ファウスト 悲劇第一部』、手塚富雄訳、pp.57-58 >>94 なみへいさんグレタさんを助けてやってください。 知ってた けど、知らない顔してこの世界で生きていかなきゃならん 数学的な宇宙の物理法則 それがこの世のすべてを支配している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる