海外における日本の哲学
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Many philosophers have published books on Continental philosophy and American philosophy after WWII.Among those, Ōmori Shōzō, Wataru Hiromatsu, Yasuo Yuasa and Takaaki Yoshimoto created original works under the influence of Marxism, phenomenology and analytic philosophy.
Ōmori Shōzō created a unique monist epistemology based on his concepts of "representation monism", "double depiction", and "language animism". Wataru Hiromatsu developed his theory of "multi-subjective ontological structure of the world". Yasuo Yuasa advanced a new theory of the body influenced by Merleau-Ponty and the body image found in Chinese medicine.
Takaaki Yoshimoto is famous for his "shared illusion theory" and various philosophical essays on Japanese culture.
Today, such scholars as Kojin Karatani (柄谷行人), Hitoshi Nagai (永井 均), Shigeki Noya (野矢 茂樹), Masahiro Morioka (森岡 正宏), Ryota Matsumoto (松本良多) and Motoyoshi Irifuji (analytic philosophy) are considered to be characteristic philosophers in the Japanese academy.
Japanese Philosophers of 21st century
Kojin Karatani (柄谷行人)
Hitoshi Nagai (永井 均)
Shigeki Noya (野矢 茂樹)
Ryota Matsumoto (松本良多)
Masahiro Morioka (森岡 正宏) 神(かみ/かむ)の「鏡面性」/"Specularity"を映し出す白玉の露としての魄(たましひ) 無意識に意識を一致させるのである
意識に無意識を一致させるのでなく 「を(緒)」のこときれた魂(たましひ)は自ずと/自然に、神(かみ/かむ)の
「鏡面性」/"Specularity"の中に露と消え去る。 自分のことを棚に上げて人を攻撃していい
人にマウンティングをしていい
人をバカにしていい 何をするにも責任が伴うが、何もしないことにも責任が伴うのだ。 ガルシア・マルケス 百年の孤独
ジョン・アーヴィング ガープの世界 ガルシア・マルケスの著作には、本人がそう言っているとおり、
哲学的なところはどこにもない。 少し読んだけど、どこかの国かわからないところで何世代かの話があっておもしろいけど物語性は強い。 この町っていきなりステーキか駅前かモールしかなくてその点不便だな。国道沿いにあれば行くのだが駅前に車停めたり、モールをウロウロするのも嫌だ。 ガープの世界もどこの国の話かわからんような物語だが、百年の孤独は南米ぽいけどガープの世界は変な世界だ。 うちのお袋の父方が北陸から岐阜に来て引きこもったような家で、お袋の母方は比較的太平洋側から岐阜へ来ている。お袋の母方は織田信長の家臣だったと思う。丹羽長秀よりの家臣。
案外丹羽長秀辺りあるかも。柴田勝家はねえな。お袋の父親の方は越後上杉家臣が多くて、江戸時代から東北の山形の藩に移っている。米沢藩は30万石の小さな藩なので鶴岡藩、山形藩、庄内藩に小さな石高で散ってあとで縁で結婚した感じか。 ウチの母方のじいちゃんは完全に川の人だ。だけど暴力的な方向へは行ってない。ただ般若はある。般若金田が一度持ち上げられたのわかるわ。何でか。 北川景子は別に庄内藩があっても彼女の家柄で上じゃない。もっと上があってせいぜい4番目か5番目ってところか。でも知っている感じ。 自分のような心を他の人も持っていると分からぬのならあまりに鈍感 神アッラーから啓示
二人は今日から夫婦だ。離婚または死別まで共同体であり、個人ではない。自己責任ばかりでなく共同責任を負う。 ポストデジタルからバイオデジタルへ流動する社会学
「バイオデジタル論 (ばいおでじたるろん 英:Biodigital Theory) とはスペキュレイティブ・リアリズムとニューロ・キャピタリズムの理論を思想的基盤に様々に細分化された非物質的本性としてのモナドの生成と相互主観性論の内在性を考察するデジタル以降の社会における概念である。」
「ポストデジタルの解釈を起点としクリティカル・ポストヒューマニズム、トランスヒューマン、非平衡科学の自己組織化 (Self-organization) にもとずくアクターネットワーク論 (ANT) の概念をも視野にいれたマルチレイヤーの理論として展開される。バイオデジタルはデジタル以降の様々な内観的 (Introspektion) な現象学の概念、バイオ・コンピュテーション、インタラクティブ・ネットワーク、生命体の形成過程における複雑系、生成の偶発性をデジタルメディアにとりいれた根源的再考に準拠している。 」
「テネシー州立大学教授のサラ・ヘイズ (Sarah Hayes) とプリマス大学トランスアート・インスティチュートのディレクターの松本良多 (Ryota Matsumoto) がアンソロポセン (Anthropocene) の階層的体系におけるデジタル以降のディスクールとしての思想としてディファインした。松本良多 (Ryota Matsumoto) はバイオテクノロジー、トランスヒューマン、分子生物学、生命体のみならず総合的なアクタントの有機合成の過程との類似性を視野に生命と流動性とその潜在的対象からバイオデジタルを生命の受動的自我のメタ科学として解釈している。」
引用元 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E8%AB%96 松本良多 (Ryota Matsumoto)は欧米と日本を代表するポストデジタル理論、加速主義の社会学者でありアーティストである。
ロンドンAAスクール、グラスゴー・スクール・オブ・アート、マイアミ大学にて90年代に建築と哲学を学び、2007年ペンシルベニア大学大学院芸術学部建築学科修了する。ニュー・マテリアリズムの思想家、マヌエル・デランダに師事する。
2015年にテネリフェ市立美術館にて加速主義、ポストヒューマニズムについて講演している。2017年にはレバーヒューム・トラスト国際学会の招聘によりコーネル大学とプラット・インシュテチュートにて「ポストヒューマニズムと未来都市」について講演。
社会学者、評論家としては2018年にカリフォルニア大学アーバイン校でエドワード・カック、ロージ・ブライドッティとともにワークショップをオーガナイズしている。
プリマス大学トランスアート・インスティチュート、国立オスロ美術アカデミーの客員講師をへてニュー・センター・オブ・リサーチ・アンド・プラクティスのシアトル校、パーソンズ美術大学の客員教授を務めている。 心を押さえつけ過ぎて歪みが生じたのか、ならば心を押さえつけるのをやめればいいだけだ。 全頭個体管理の人間動物園内でドラマは成立しない。
だから、管理されたゲームの枠内でのドラマの演出が
その代替となるわけだが、そのドラマの演出が
ゲームの運営の都合に沿って管理されていることが
目についてくると、お約束どおりで退屈になる。 薬を一生飲むのはそもそも医学的常識
他の点ではもうどうでもいい 主治医の診立て通りジェノサイドなんだろ
エアでなら実際あったし終了 「松本良多(まつもと りょうた 英:Ryota Matsumoto)は、テクノロジーと文化について研究する社会学者でありメディアアートの美術家である。米国の加速主義の思想における中心人物であり、ジョージオ・アガンベン、キム・カスコーンとともにポストデジタルの主唱者である。」
「我々は既にデジタル技術が特別なものでない時代にいる。」
“I firmly believe the digital technology is nothing special in the age of techno utopianism.”
引用元 https://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E5%A4%9A 天が為される事全てに、天の意志を汲み取れ。
天が為される事には、必ず何らかの意味・目的がある。それは貴方にとって不都合かも知れないが、天にとって無意味・無目的なことではない。 全ての人の全ての行いには、絶対に何らかの目的があるのです。 些細なことで悩めるのは、些細なことがどうでもよくなるほど人生経験を積んでいないからだ。 言い訳する必要はない。皆わかっている。お前には無理だったことくらい。 クビになるまで働いていい
フラれるまで交際していい 女など腐る程いる。自己認識のズレた阿呆は放っておけ。 貴方が望むことはアッラーが望むこと。
貴方が望まないことはアッラーが望まないこと。 いずれ気付くことになるだろう。全て正しかったのだという事に。 会社クビになったらどうしようか?また学校行って就活するかな。 私はこの会社に入って良かった。自分の能力がいかほどかわかった。クビになっても受け入れられる。ミスマッチかどうかわからないが、仮にミスマッチだとして、入らなければわからないだろう。入って良かった。 松本良多の思想と美術
社会学者の松本良多は、クリティカルなヒューマニリズムと同様に、分子生命学、複雑系、ナノテクノロジーにより形成されたインターラクティブな社会、具体化されたメディアと複合現実との間の触媒による作用を通してデジタル技術の人間化に取り組む芸術作品としてポストデジタルをとらえている。
https://matomame.jp/user/john/a0358a821574e3360ce9 人は、生産拡大の本能がある。それを抑えて他者のことを考えることが徳である。
その時に、人のことは考えるが人以外の生き物のことは考えないのならば、表面的な徳であり本質的ではない。これは、金メッキをしただけで中身は金でないのと同じである。だから、人以下の生き物のことも考えなければならない。
さらに言えば、生き物でない物は邪険に扱うならば、これは惜しい。物も大切にすれば完璧であると言えよう。 思い上がりとは、自分が他者のことを考えていると思うことだ 各自がそれぞれ、自分は他者のことを考えている一方で、他者は自分のことしか
考えていないと思い上がって、互いに衝突する。 自分は、我が身と身内のことばかりを考えているのだから、
他者が、我が身と身内のことばかりを考えるのも自然なことで、
そのことによって互いに何も被害が生じないなら、他者のことに
干渉することは控えようというのが、相互容認的な態度だ。 Twitterの書込みがその代表であるが、ソーシャル・メディアで
発言する人々の大多数には、自分の「かむか(考)へ」がない。
賛成であれ、反対であれ、自分の「意見」を言うことが
自分の「かむか(考)へ」を述べることだと思っているからである。
それらの人々は、自分の「かむか(考)へ」を述べるように求め
られたとしても、「かむか(考)へ」るとはどういうことか
すら知らないだろう。それに対して、哲学の役割は、「かむか(考)へ」
が柔軟に働くようにすることにこそあり、「意見」を言うこと
は哲学の役割ではない。 >>911 「意見」を言うことは哲学の役割ではない。
という意見w >「意見」を言うことは哲学の役割ではない。という意見w
何の矛盾もないが?
それが「意見」と理解される限りにおいて、その「意見」は哲学ではない。 >>914
だからあなたがバカにするツイートもあなたが
「意見」と理解される限りにおいての話だよってこと 人類の歴史を、理性を持った人の歴史ではなく、霊長類の一種であるヒトの歴史と見る。 2054年に、私は還暦を迎える。その時に私は、若者たちの尊崇を集める立派な長老になっていよう。神がお望みならばな。 思いの罪から次の思いの罪までに行いの罪がなければ罪を犯さずに済む 陰でいいことをした分だけ人を信じられる
陰で悪いことをした分だけ人を疑う 阿弥陀仏は、世界にとってマイナスの存在のための神だ。
認知症の老人、障害があって働けない者、救いようのないダメ人間、そういった者たちのための神だ。 納税するために働いてるんだよ俺は。
俺にでもできることがある。それが納税なんだ。
所得税を納め、消費税を納め、国を助け、世界を助ける。それがひいては地球と人類とを救うことになる。
納税こそ俺の働く目的なんだよ。
納税するために働く、働いて得たお金は一生使わず、死後他人に譲る。
それが俺の人生計画だ! まあ、税収を増やしたかったら、金に成る仕事が回ってくるように
してください。金に成らないなら、それはボランティア活動みたいな
ものだけけど、ボランティア活動なら他人に指図されるのは矛盾
でしょう。他人に指図される活動は、労働の奉仕であって、
労役による現物納税です。 人間もなく、生き物もなく、物もない。ないという判断、感覚、想念もない。
完全に意識を失った死人の状態こそ、悟り。 価値観が違うということは、好きな食べ物が違うということと同じだ。 人を評価する時はその発言のみならず行い全体によって評価しなければならない 人生の全ては本人しか知らない。忘れているとしたら本人すら知らない。 そういう意味だと、近隣で箱型の小型プレハブ集合住宅がかなりの
勢いで増えていっている様子を見るのは、その住宅の各世帯が
テレワークの推進で職場となることと、ウイルス感染防止対策と
しての外出規制と組み合わせると、かなり現実のディストピア感がある。
終の棲家とはなり得ないわけだし、多くの人にはもはや帰っていく
ことができるような地元も存在しないのだから。 で、その集合住宅のオーナーは一般の個人だが、安定した家賃収入で
安心かというと、たいての場合は相続した土地財産を減らさないための
対策として集合住宅のオーナーになることにしたのであろう。
管理する業者を間に挟んで、もちろん利益が大きければ、安泰だが、
そうでなければ負うことになるリスクも相当なものだ。このプロセスは、
実質的な社会主義化の進行であるようにも見える。 あらゆる現象は原子のビリヤードによって引き起こされ、偶然は世界にない。
人の意思決定や行動もまたこのようであるから、人の自由意志はない。
何かをどうにかしようとすることは、自由意志はないとする決定論(完全運命論)に反する。
よって、決定論者の私は「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。」というような自由意志の存在を認める言説を否定する。 運命論は、そのようなものではない。出来事のすべてが偶然である
とともに、すべてが運命であるのが運命論だ。 思ひもよらず、すべてが自らの思ひどおりになる。それは偶然である。
最初から思いどおりのことは、意識すらされない。
朝になって目が覚めてみると、そこに眠りにつく前に見たのと
同様の世界がある。それも偶然だが、最初から思いどおりなので、
当たり前すぎて、そのように目の前に世界があることに驚くことはない。
それとは対照的に、思ひもよらず思ひどおりになったなら、
それは「夢のよう」な現実だ。だが、いくらそれが「夢のよう」であっても、
思ひは、それが実現されることによって現実をつきつけられる。
というのも、実現され得るような何らかの思ひがあるということの裏に
ぴったりと貼りついているのが、「思ひもしなかったこと」だからだ。
思ひどおりになる思ひだけを、思ひもしなかったことから切り離す
のは、一枚の紙の表だけを切って、裏は切らないようにするのと
同様に不可能なことである。 悟りとは、人間界を出て自然界に移住することである。ただし、それは物理的な意味においてではなく、精神的な意味においてである。 民主政は、為政者を投票によって変えられるわけだから、革命を最も防ぎやすい体制であるが、それ以上のものではない。 天は分解者に分解を命じた
分解者の分解に抗うものこそ天意に背いている 先生は言われた。「自分にだけは悪人たることを許し、他人にだけは善人たることを強要する。こうなればもうお終いだね。」 自分は上司の一人のイラつきについて、自分で頭を使って会話しなければクビになるとの危惧を抱き、なんとかしなければならないのになんとかするやる気が起きない自分の無責任さに没落の凶兆をみたのだ。
学校の先生からも頭を使って会話することを指導されていたのに。 自然法則を受け入れる者は幸せになり、自然法則を受け入れない者は不幸になる。 人間関係は政治ではない。なぜなら、人間関係は政治だと言うのは、政治性という冷酷さを以って人間に報いるという怨念に基づく復讐だからである。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。