哲学するってなんのためにするのか?
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ボケ防止となると自分のためでもあり周りのためでもあるという感じがしてくるね。 自分の考えを発信して他人の反応を期待し、それにレスポンスすることで
更に発展させたくなる。これは何なのだろう。 どこまでが他者や第三者のためでありどこまでが自己満足に過ぎないのか 恐らくは他者とつながりたい素朴な欲求からくるものだろう。
その発し方が高級であるが故に誰でもできそうであるにも関わらず
皆ができるとは限らない。 こういうのは学歴どうこう、年収どうこう、財産がどうこう
ということとはあまり関係がない。
シンプルなものの考え方ができるかどうかにかかってくるのだろうな。 何故人は問いを発したくなるのか。
何故自問自答したり、他者からの応答を待ちたくなったりするのか。 数学は訓練に馴染めれば楽しめるけど、
哲学は問答によるよな。
ソクラテスメソッドは上の立場からの人から行われるのと
似たような地位にいる者同士で行われるのとでは
大分影響が違って来ると思う。 >>1
なんのためでもない
だから
こんなことを考えてばかりいる自分がときに
嫌になる 禅問答は上から降って来る問いに答えないといけないから、
プレッシャーがかかるよな。そういうのに耐えて精神を向上させることが目的なのだろうが。 哲学書を著すというのは最強の哲学の発表の仕方だったけど、
オンラインでの会合が増えて、必ずしも最強ではなくなるような気もする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています