仏教哲学総合スレ6
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神が居ないようで居る、神が居るようで居なくてもやっていける
究極の宗教が仏教 いざとなりゃ、自分自身のことも他者のことも助けられない。それが現実じゃ。 他人は自分の人生のために存在しているのではない。
他人は彼自身彼女自身のために動く権利があり、自分のために他人が動いてくれるべきだと思い込むのは他人への甘えに過ぎない。 意外な事があってはならない。考えに考え抜いて全て理解するように。その上で理解できないことは決して理解したつもりになるな。理解したつもりになるのはバカや情弱よりはるかに害悪だ。 自分自身からも呪われてはならず、誰からも呪われてはならない。あらゆる生命・存在から呪われてはならない。これになら呪われてよいというものはない。 軍用馬とか人の優しさに甘えることなく、限界まで力を使い切って
急に立ち止まり、突然、お陀仏になるらしいね。 自分の自己愛性と同じだけの自己愛性を他者にも許すのだ 人は罰しやすい犯人を罰する傾向がある。東京裁判において連合国及び昭和天皇戦争犯罪は不起訴であった。 天が人格を作る
先天的なものも後天的なものも天の意志によって与えられるならば、先天的なものと後天的なものの掛け合わせである人格は、天の意志によって作られると言えよう。 先天は先に天が与えたということ
後天は後で天が与えたということ
先天後天いずれも天が与えたのだ 愛され感謝される人は、愛され感謝されるに値することをしてきたのだ。
憎まれ軽蔑される人は、憎まれ軽蔑されるに値することをしてきたのだ。
好かれる人は好かれるだけのことをしてきたのだ。
嫌われる人は嫌われるだけのことをしてきたのだ。 どんな大問題でも、解決できない問題は問題ではない。
どんな些細な問題でも、解決できる問題は問題である。 本気でやってもできない奴が本気でやらないならなおさらできない。 やるべきことをやることが使命だ。
使命を果たせるかどうかはわからぬ。だが、使命を果たそうと努力することはできる。
使命を果たせないなら仕方がないが、使命を果たそうと努力すらしないのは良くない。 「これだけやってダメならもう諦める」というレベルまで努力せよ。 体が元気でも心が疲れていては、体が動けても心が動けない。
やるべきことをやれないのは、心が疲れているのだ。 内弁慶は、白人にいじめられている名誉白人が日本人に当たり散らすようなものだ。 最も下の人が普通の人であり、それより上の人が普通より上の人なのである。 仏教ってお経読んだり座禅組んだりして実践しなければ意味のないものですか? 匿名だから少し煽るくらい上から目線で書こうかな。
本当はいつももっと謙虚に振る舞うようにしているけど、今回は気にしない。
友人は俺と話す時、どうやったら願望を叶えられるか、とか、
今叶えたい願望をいかにして叶えるか、という話をする。
というのも、俺は願望の叶え方に精通しているのだ。
生まれてきてからずっと願望が叶えられずみじめな人生を送ってきた俺は、
潜在意識に出会ったことをきっかけにアンダーグラウンドな努力を重ねた。
その結果、現在ではどんな願望でも叶えることのできる男に変貌していた。
大学生のうちに1億円プレイヤーになることや有名な芸能人、女優と付き合うことに成功した。
他にも叶えてきたことは腐るほどある。
俺の友人はこぞって俺のことを「シェンロン」という。
だからその変貌の過程を見てきている友人は、俺とこの手の話をしたがる。
俺自身としても自分が最も熱心に打ち込んできたことに関する話だから、本当に楽しくその話に応える。
しかし帰り道になるといつも思う。これは俺が本当に話したいことではない。
願望達成について話すときの俺は薄っぺらいのだ。
なにをどうすれば願望が叶うのか、なぜ願望が叶わないのか、実現速度を速める方法、なにもかもを知っている俺は、どんな願望であろうとコンピューターのようにすぐに答えが頭の中に出てきてしまう。
そしてその願望を叶えるだけだ。
何も面白くない、こんなことをしていてももうなにも俺は得るものがないんだ。
どんな潜在意識や引き寄せに関する記事を読んでも結局知っている話の焼き直しだと思うか、
その潜在意識記事の間違っている部分に気付くかのどちらかだ。
俺はどんな願望でも叶えることができるし、放っておいても願望が達成されてしまう。
そんな潜在意識スキルはとっくに身に付けた。
何十億の金が手に入り、死ぬほどモテまくったから、もう不必要に願いを叶えることもやめた。 じゃあ今の興味は何かというと、「究極の幸せ」だ。今の興味はそこだ。本当の幸せが欲しい。
教えてくれ。究極の幸せを感じたいんだ。
俺はどんどん願望を叶えられるようになり、
時間の経過ともに叶える願望のスペックも上がってきた。
そして、信じられないほど美しい女性とも交際をしたこともあるし、
信じられないほど巨額なお金を手に入れたことも何度もあるし、
もう相手の顔が美人とか、お金があれば幸せとか、
そういう表面的なものはさほど大事じゃないと心が思うようになった!
(以前は頭では理解していても心はそう感じていなかったのに!)
にもかかわらず、この年齢で誰も経験していない様なレベルで経験を積んできた俺は、
どんな願望もゴミにしか思えないのだ。
自分を満たす様な成熟した願望がなくなってきた。
願望を死ぬほど叶えまくって5年近く立つが、
それ以降叶えたいと思う願望と出会うことはもうなくなった。
いったい俺はどうしたらいいんだ?頭がおかしくなりそうだ。
どうすべきかも分かっているのに、条件もはっきりしているのに、
全ての願望を叶えるスキルもあるのに、俺の要求が無意識のうちに高くなり過ぎたせいで、自分を満たしてくれる願望がなくなってしまった。
一人になるといつも発狂する。誰か救い出してくれ。
5chからのコピペでした 思い出すと感情的になるのがトラウマである。想像すると感情的になるのもトラウマに近いので、未来トラウマとでも言おうか。前者は過去トラウマと言おう。
過去トラウマにしろ未来トラウマにしろ、良くも悪くも信念を形成する。それが良くも悪くも世の中を動かす。即ち、過去のトラウマも未来のトラウマも、良くも悪くも歴史を動かす原動力である。 貴方は天命により親にならざるを得ずして親になった場合、どれだけ親として不足するか? もし自分が他人だったら、自分に対しどれだけの関心を持つだろうか?
自分の価値とはその程度のものであろう。 阿弥陀仏が極楽往生させてくれるから正しく生きる努力をしないといういわゆる「本願誇り」は、死後の極楽往生は可能だが、現世でいい人間関係には恵まれないとされている。 私は確かに妻子もなく恋人もいないが、親兄弟親戚友達がいる。それでもこうなのだ。であれば、妻子恋人がいたとしても同じことだろう。 自国が国々の中の一国に過ぎないように、自分も人々の中の一人に過ぎない。
歩兵も王将も棋士から見れば駒に過ぎないように、奴隷も帝王も天から見れば人に過ぎない。 無法地帯でどんなことが起こると思うか?それは貴方の人に言えない願望である。 悟りとはなんぞや
例えば、天皇制維持に固執する人は悟っているようには見えない。バカバカしい。
しかし、天皇制は無駄だからやめろと無駄の排除という意味のあることを言うのもまた、悟りではない。
すると、天皇制に賛成も反対もしないのが悟りか?これもどうもしっくり来ない。悟りという意味のあることをしようとするのが悟りだろうか?全く違う。灯台下暗しである。
天皇制を支持も反対もしないというお高く止まった状態は悟りではない。悟りという新しい価値を作って、しかもそれに生産性もないなら、天皇制と同じだ。ガラクタだろう。そのようなガラクタが悟りなら、天皇制と同じく不要だ。ガラクタだと自覚できないなら、天皇制以上にガラクタだろう。
となると、悟りを捨て去るべきだ。天皇制支持にしろ、天皇制不支持にしろ、自分の正しいと思うことをする。それがあるべき状態だ。それは悟りではないだろうが、形だけの悟りよりずっといい。 悟りとは、「わからない」ということだ。
優生学が合理的な気がする。
しかし、優生学で生物を品種改良してもマンモスみたく滅ぶかもしれない。
そうなれば品種改良の努力も無駄になる。
そもそも、優生学は全体の利益追求であり、個人の利益追求ではない。
第一、女性が子供を産む義務などあるはずがない。
となると、優生学は間違っている気がする。
かと言って、キモメンが極上美女に精液を流し込むのはなんとなく悪いことのような気もする。
となるとやはり優生学で正しいような…
このような一人ディベートが一生続く。それが修行であり、強いて言えば悟りなのではないか。 他者やられれば必要悪なら、自分がやられても必要悪だ。 やる気の無さとは、self neglectの度合いのことだ。
self neglectは甘えか?悪か?怠惰か?
仮にそうだとして、そのような批判によってself neglectは治りはしない。 他者が酷い扱いを受けて、貴方が「それは必要悪だ」と言うのならば、貴方がそれと同じことをやられても必要悪だと認めざるを得ないであろう。 俺は、社会を愛する時はとことん愛し、社会を憎む時は徹底的に憎むというところがあった。このような愛憎の強さは女の性質とされている。
社会に対し少し精神的な距離を取り、社会を配偶者並みに思わず知人並みに思うことで、このような強い愛憎を避けようと思うものである。 夫婦にしろ友達にしろ、運命を共にする相手を選ぶ際、貴方に対して優しい人ではなく、人や生き物に分け隔てなく優しい人を選べ。
また、優しさとは言いなりになることではない。間違いを諌めることのできない人は弱い人だ。 空語で空論を空回りさせていないで、自分のできる人事を尽くせ >>144
それぞれの項目の前に「自分の為に」って着けて見たらどうだろう? ダーウィンにしろメンデルにしろホーキングにしろ他人に認められない笑われると言って自説を撤回していたら終わりだ 善人のすることに悪人が邪魔をするから善行を完遂できなかったとする。
しかし、そもそも善行には邪魔が入らないものではない。
邪魔を押し退けて善行を完遂するのが善行を完遂するということだ。 私より善い人が世の中にどれだけいるか?
私より悪い人が世の中にどれだけいるか? 自分は自分を愛し過ぎたり、逆に他人を愛し過ぎたりする傾向があった。
自分も他人もほどほどに愛せばいいのだ。
たぶん、それが大人というか悟りというか老成ではないか。 世界という恩人に恩返ししたい人もいれば、世界という仇敵に復讐したい人もいる。 誰も貴方のことを見下さない。無視するだけだ。見下されるなら無視されないだけありがたいよ。 天命への帰依とは、能動は一切ないのである。天命に耐えて我慢するという主体的なものは、天命への帰依とはほど遠い。
例えば、道具は人間の意志に完全に従う。人間の意志に従わなければならないなどという意志はゼロである。
同じように、「自分は天の意志に完全に従う。天の意志に従わなければならないなどという意志はゼロである。」という状況を天命への帰依という。「天の意志に従わなければならない」という"意志"を持つことは、天に背いている。 ・「天(>>52,232,253)」と「悟り(>>238,239,250)」というパワーワードの組み合わせ
・上から目線で危機感を煽る力の入った説教
これらは統一教会の特徴。
統一教会 教団内部ビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=DNRPmjPt_7I いかなる罪を糾弾されても恐懼してはならず平然としていなければならない。
恐懼するふりをして平静でいるならばまだしも、平静を装って恐懼しているようではダメだ。 本音を言い合う
心理的安全性とは、本音を言い合える仲のことを言う。
正しいことを言わなければならず神経質になっている状況を、心理的安全性があるとは言えない。 簡単なコミュニケーションの能力とは、嘘を吐く能力のことだ。
高度なコミュケーションの能力とは、本音を言う能力のことだ。 洗脳されない方法は、間違った意見に反論することではない。そんなことは誰だってできる。そうではなく、正しい意見に反論することだ。
正しい意見に反論できない優等生は、頭がいいのに洗脳される。
正しい意見に反論する不良は、頭が悪いのに洗脳されない。 子供は天が育てるものである。
天によってこのように育てられたのを、人間の浅はかな基準で良いとか悪いとかあれこれ論ずるのは天に対して不遜である。 相手が正しく自分が間違っている時は頭を下げる。相手が強く自分が弱い時も頭を下げる。これが聖人である。
相手が正しく自分が間違っている時は頭を下げるが、相手が強く自分が弱い時は頭を下げない。これは青臭いガキである。
相手が強く自分が弱い時は頭を下げるが、相手が正しく自分が間違っている時は頭を下げない。これはサイコパスである。
相手が強く自分が弱い時も、相手が正しく自分が間違っている時も頭を下げない。これは知的障害か精神病のどちらかである。 劣等感は人を謙虚にする。悪いものではない。
優越感は人を傲慢にする。善いものではない。 贖罪をしない人が他人に贖罪を求めるのはおかしい。
恩返しをしない人が他人に恩返しを求めるのはおかしい。 人間の最大の悲劇は、世界の一部に適応するあまり、世界全体への適応が疎かになることだ。
家族に適応し、学校に適応し、教団に適応し、会社に適応し、サークルに適応し、そのせいで地球に適応できなくなる。これこそ最大の悲劇だ。 郷に入っては郷に従う。これぞ悟りである。則天去私である。無私である。天下に水より柔弱なるはなしという言葉で説かれる境地である。即身成仏である。 貴方が善いことをしなかったのには理由があろう。ただ、理由はどうあれ貴方は善いことをしなかったのだ。
貴方が悪いことをしたのには理由があろう。ただ、理由はどうあれ貴方は悪いことをしたのだ。 好き嫌いは、理屈ではなく感情だ。感情に理屈で訴えても意味がない。理屈に感情で訴えても意味がないように。 仏教徒に出家も在家もない。仏教徒はただ仏教徒である。仏の教えに従うか従わないかだけだ。 行いの罪を犯す人のところには行いの罪を犯す人が集まる
思いの罪を犯す人のところには思いの罪を犯す人が集まる 仏教は独学できない。
しかし、これから学ぼうとする者にどうやって師匠を選べというのか。
これは解決することのない問題だ。
運を天に任せて投企するしかない。 >>271
どこからでてきた?
自らを拠り所にせよ、法を拠り所にせよ
この世にブッダがでなくても、法は予め定まってる
みたいな話からして独学可能だろ? 自分に甘いと他人の厳しさに圧倒される。
これはちょうど、真空のドラム缶が大気圧に押し潰されるようなものである。
あるいは、野菜や果物が雑草や病害虫に圧倒されるようなものである。 悪いことをせず善いことをするのがなぜ大事なのか?これは、悪いことをしたあるいは善いことをしなかった後ろめたさが、どうしても人を弱くするからだ。
悪いことをせず善いことをしているという思いのお陰で、ハッタリでなく本心から他人に強くなれるのだ。 形だけ仲良しで嘘寒いよりは、嫌い合う方が正直である。 >>272
法はどこからでてきた ?
経を読んで独学できるとでもおもっているのか ! 法をしるのに仏陀も師匠も仏典も不要だろ?
法は定まっていて仏陀も師匠も仏典も関係がない
定まっている法を伝えるだけ 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。
ひとつ、それらを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。
そして、よくよく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」 法は定まってて、仏陀や仏典から教わる必要はないといっても効率はよほど落ちるだろうが
ニュートンやアインシュタインや量子力学の知識、教科書をみないで
自力で法則を発見するようなものでとても一人の一生では終わらんだろうが
それがでれば原始人一代でもできてただろうしな
そうするとやはり教科書等はいるか 法がすでにある、という事実と、その法の解釈の正誤とは、なんの関係もない。
だいたい、なぜ一切なにも書き残さなかったのか、このことをよく考えてみなされ。 「文字」という文明が無かった時代
とは考えなかったのか。 人が貴方を善人だと言っても、貴方は本当は自分が悪人であることを知っている。
人が貴方を悪人だと言っても、貴方は本当は自分が善人であることを知っている。 全ての人は、善悪強弱の四つのうちどれにも当てはまる。
即ち、全ての人は善人で悪人で強者で弱者だ。 過激とは、賭け事を好むことである。快楽が恐怖にまさる若者の性質だ。
穏健とは、賭け事を嫌うことである。恐怖が快楽にまさる老人の性質だ。 石をパンに変えるとかでなくて、石をどう使うかなのだ。
自分を別人に変えるとかでなくて、自分をどう使うかなのだ。 884 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2022/07/24(日) 03:37:28.23 0
波平は統一教会 オウムの陰に隠れて生き延びた統一教会。オウムより圧倒的に巧妙に政治および社会に喰い込んでいた。手段を選ばない確信犯であるがゆえにより悪質だともいえる。 負の感情が生じるものが、貴方の心の弱点である。
それによって負の感情が生じるものが全て、貴方の心の弱点、精神的弱点である。
負の感情は、人間から理性的判断を奪う。負の感情は人をして自滅させるものである。
負の感情が生じなくなるまで、悟りは開けない。悟りが開けなければ政治的判断はできず、政治である人間関係を自分にとって有利にすることはできない。
負の感情がなくなるまでは、合理的判断即ち損得の判断も、倫理的判断即ち善悪の判断もできない。 悪には四通りある
一、本質的にも悪で、程度も甚だしい悪。
二、本質的には悪だが、程度は甚だしくない悪。
三、本質的には悪でないが、程度が甚だしい悪。
四、本質的にも悪でなく、程度も甚だしくない悪。
本質的な悪には本質的制裁が行われる
本質的に悪でない悪には本質的制裁は行われない
程度が甚だしい悪には程度が甚だしい制裁が行われる
程度が甚だしくない悪には程度が甚だしくない制裁が行われる
一の例としては、悪意に基づく犯罪
二の例としては、悪意に基づくが犯罪でないもの
三の例としては、悪意に基づかないが犯罪であるもの
四の例としては、悪意に基づかないし犯罪でもないもの >>94
仏教では解脱者は転生しないから それはオカスピのデタラメ あの時恥ずかしいことをしたと将来思い出して後悔するようなことをしない 文鮮明はイエス・キリストの生まれ変わりという設定。
波平は、寺には一度も出入りしたことないであろうというほどの仏教音痴。
仏教に対して興味もないのに、このスレなどの仏教言説を潰すために、政治目的で教祖様ごっこをやっている。
そして、その説教の内容は、儒学をベースとしたキリスト教と仏教の出鱈目な混ぜ物。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています