ヘーゲル・スレ Part2
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
出身地:ドイツ シュトゥットガルト
生年月日:1770年8月27日
死亡年月日:1831年11月14日(享年61歳)
ドイツの哲学者。ドイツ観念論を完成させた思想家。
https://colorfl.net/wp-content/uploads/2020/05/nigaoe_hegel.png ヘーゲルならついでに主観と客観の間にも断絶はないとただし書きをしてそうな気もするが。どうなんだろう ヘーゲルならついでに主観と客観の間にも断絶はないとただし書きをしてそうな気もするが。どうなんだろう 「1800年の体系断片」の時点では、まだ絶対的観念論の立場に至っていないから
そういう但し書きは、そこの文脈の主旨においては、混乱をもたらすだろうから
ありえないだろう
山とそれを見る眼というのは、精神現象学の対象意識の段階の
知覚のところで扱っているもの
ヘーゲルにおいて神は精神であり、人間の神への精神的高揚は
同時に神の精神の人間精神への降下であって、そこに神と人間の
精神における出会う場が発生する、というのがヘーゲルの絶対的観念論
そこでは確かに主観性は同時に客観性となる
ただしシェリングのような同一性ではなく
他のもとで自己であるような同一
同一性と非同一性との同一性
それをヘーゲルは真無限、絶対概念と呼んだ 絶対概念は真なる世界には到る所にある
例えば、愛、愛とは他者の中に自己を見ること
自己を放棄することでかえって自己を豊かにすること
例えば、生命、環境という他者の中で自己を保持すること 絶対概念というのはイエナ期に使われ、その後はただ概念と呼ばれた
もちろん絶対概念のことだが
例えば、自我も自己を自己の内で区別しながらそれを統一している構造
論理ー自然ー精神という体系の大枠も自己(論理)の他者(自然)を
介して自己に還帰する(精神)となり
それのキリスト教的表象としての三位一体の教義も同じ
神が自己を否定して人間となり贖罪の死を介して自己に復帰する(聖霊)
絶対者(神)の構造が概念だから、その創造されたものも同じ構造をとる 真無限とは有限を内に含む無限
それに対して悪無限とは、単に有限に対立するだけの無限
カントやフィヒテの無限のこと
何かに対立しているとはその何かに規定されていること
有限と無限が相互に規定されていると無限進行に陥る
その結果、当為が最終的な帰結となってしまう
無限(父としての神)は有限(イエスの受肉、死)を含んでこそ
本当の神、それはすなわち聖霊(精神) 真の無限は無限進行も含んでいるということだろうか…? 無限進行は悪無限の論理の特徴であって、真無限にはない
有限なものというのは、限界(規定)をもつものとして
ゆえに否定すべきものとして定立されているから
(「規定は否定」スピノザ)
その限界を廃棄することを目指すが
否定すべきもの、すなわち有限なものそのものは肯定的に定立されている
だからその否定作用に対してどこまでも立ちはだかる
肯定→否定→肯定→否定…(無限進行)
真無限は、有限なものを否定的なものとして定立するから
否定の否定となり
有限なものを超えても無限進行には陥らない つまり真の無限は肯定と否定による無限進行の停止(調停)と等しくなるわけだから、つまりその状態を実体と主体が等しくなる状態と捉えていいのだろうか? 国家はなぜ存在するのか ヘーゲル「法哲学」入門(NHKブックス No.1286)
大河内 泰樹・著
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発売日:2024/7/25
単行本:256ページ
ISBN:9784140912867
知の巨人ヘーゲルの代表作の一つであり、西洋哲学史上、トップ
クラスに難解とされる『法の哲学』の核心に迫る! 「法」を通じて
「自由」になる、とはどういうことなのか。そのとき、私たち個人
と、大きな権力を持つ国家との関係はどうあるべきか。ヘーゲルが
思い描いた国家体制の姿を、「ポリツァイ」「コルポラツィオン」
といった概念に着目して読み解くことで、批判や誤解のあるヘーゲル
「法哲学」から積極的意義を取り出した画期的入門書!