やっぱり岡田のほうが人生経験深いわw
住吉区は帝塚山もあるけどボロい家とか多いもん

1958年(昭和33年)7月1日、大阪市住吉区で暮らす岡田家に、一男一女の第2子として生まれた。出生した場所は大阪府立病院。「斗(闘い)を司(司る)夫(ますらお)」の意で名付けられた[7]。

1963年(昭和38年)、住吉区遠里小野[gm 1]にある遠里幼稚園に入園した。幼稚園2年目で既に漢字が読めるなど早熟であったため、幼稚園は無意味だから辞めたいと主張し、父母らの同意のうえで1964年(昭和39年)に退園する[4]。

この頃、家計は貧窮し、ご飯のおかずはきな粉という食生活で、長屋に3家族で生活していた[注 1]。幼少時に学校で受けた知能検査で、知能指数が148以上あることを知り、頭が良いのなら宿題などは単なる機会損失に過ぎないと、以後の勉学を放棄した[4]。この頃の夢は科学者になることであった。

大阪市立遠里小野小学校入学[8]。父親はUFOや超能力などオカルト好きで、中でも横山光輝の『バビル2世』の大ファンで[5]、父親が買ってきたUFO関連の書籍を拾い読みし、日本万国博覧会(大阪万博)の御当地という環境もあって科学・物理方面に明るい子供となり、父親と空想上の乗り物の内燃機関について互いに知恵を絞っていた[要出典]。
小学三、四年生の頃、働き詰めに働く母が内職(縫製)の規模を拡大させて有限会社岡田刺繍を設立すると、父が教師を辞めて社長に就任した[9]。

大阪市立三稜中学校へ進学。中学では友人から機材を借りて自主短編映画を撮影し、学校の行事などで上映していた。
この頃の岡田はSF作家になることを夢見る少年であったが、知識とアイデアは大量に出てくるが、それを創作物という形にするのは全く別の才能だということを悟る。
映画・特撮・アニメーション・模型・空想科学の流行に没頭。