出生の構造には、ハイデガーのいう被投性が強制として伴うので、そこに
存在論的な負い目が発生する。この負い目は、当然、個人であれば、
出生を促した側である両親側に属し、また、産めよ増やせよのプロパガンダで
人々を洗脳する国家や社会に属するので、それらが担うべきものである。
唯一、この負い目を免れているのが、出生をもたらさない反出生主義者や
チャイルド・フリーの考え方をする人々である

反出生主義を哲学的に考えれば、この被投性にこそ問題の本質があると
言える。つまり、そこには出生する者自身の意志は一切考慮されず、親の
独断的な意志で、出生が自ずと決定されるからである。そのため出生は必然的に
リベラルの精神に反したものになる。その逆である非出生・反出生こそが、
自明性と慣習に盲目的に追随しないリベラルな精神の発露となる