幸福を得るための競争であり、奪い合いだと思う
つまり、誰かの不幸の上に幸福が成り立っていると思う アーシュラ・K・ル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」は、究極の最小不幸社会を描いた作品です。王も軍人も僧侶も奴隷もいない、幸福と祝祭の都、オメラス。その理想郷オメラスの地下には、知的障害のある1人の少年が、おぞましく悲惨な状態で閉じ込められています。この少年を穴蔵から解放することはおろか、優しい言葉をひとつかけただけでも、オメラスの幸福は消えてしまうことになっています。オメラスの人々は8~12歳ころにその事実を知らされます。思春期以上の人たちはみな、自分たちの幸せが、1人の少年の不幸の上に成り立っていることを知っているのです。そして、少数ですが、オメラスを立ち去る人々がいます。彼らは男でも女でも、大人でも子供でも、みなたった1人で、何も言わずにオメラスを去り、西あるいは北へと、歩き続けます。それが、タイトルになっている「オメラスから歩み去る人々」です。
自分がオメラスの住人だったらどうするか、しばらく考えてしまいました。
作品を読み返してみて、日光や母親を思い出した少年が「おとなしくするから、出してちょうだい」と訴えるところを読んだときは、「こいつら何やってるんだ。オメラスなんか潰れてしまえ」と思いました。けれど、もし自分がオメラスの住人だったらどんな行動に出るか、それはまったくわかりません。
12ページほどの短い作品ですが、傑作です。短いので、何度でも読み返すことができます。 誰かの幸せは誰かの不幸
誰かの利益は誰かの損
逆に言えば
誰かが不幸に成れば、誰かが得している 「弁才天のほか、47都道府県すべてに出店後、閉店ラッシュが報じられた高級食パンの乃が美など、
創業者はエグジットで数十億円の売却益を手にして社長も退任。
すでに次の事業を始めたり、商売のノウハウを伝授する高額セミナーを開催したりする人もいます。
彼らは和菓子やパンの職人ではなく、老舗感や高級感を演出するのが抜群にうまいマーケターです。
このやり方がいいか悪いかは別として、買収したファンドはもとより、
ブームに便乗して多額の費用を払って結局収益を上げられなかったFCオーナーら、
ブームの背景にはババをつかまされる弱者が必ずいるものです」 基本的に〜だと思う
という文章書くやつは
国語の点数が低いか
義務教育を受けてないアホか
どちらかの可能性が高い 金に余裕があることのいちばんの
効用というのは、金欠のために
不本意なことをするように強い
られることがなくなることなの
だから、金に余裕があるなら、
無理してまで金を稼ごうと競い合う
のは無意味。 人が一般に、相手とともに幸せになる
ために相手を厚遇したい/相手に厚遇
されたいと思っていることを前提と
したとして、自分/相手が常に「無私」
に振る舞ふとしたら、どのようにして
相手を厚遇する/相手に厚遇される
ことが可能であり得るかを考えてみる
といい。「一般的に」考えれば、それは、
原理的に不可能になるはずだろう。 幸福主義って結局ただの競争原理を成立させるためのエンジンでしかないよな 個人に対して最適に分配がなされない以上、功利主義に正義はないわな。 社会契約論の面白いところは、契約が自然状態からある種必然的に導かれる諸法則の延長として機能するという仮定にある。
つまり、本来であるなら契約がなされるには契約の契約も又履行されていると仮定しなければならないにも拘らず、原初の自然状態からの言わば超然的な飛躍によってそれ以上の解釈の余地を逃れている。 「生の(生の目的なる快の)限度を理解している人は、欠乏による苦しみを除き去って全生涯を完全なものとするものが、いかに容易に獲得されうるかを知っている。それゆえに、かれはそ
の獲得のために競争を招くようなものごとをすこしも必要としない。」
エピクロス『主要教説』より >>1
そこで悟るのか否かで道が分かれるんでしょう。ちなみに稀少性という
概念を出してサルトルが論じてます。彼はこの問題を重視して、「稀少性が
解決されないかぎり悪は滅びない」とまで断じている。悪の根源は稀少性に
あると。
しかしそのことと、稀少性にたいして悟ってしまうか否かはまた別問題
なので。 哲学的な思考を発しちゃう人に限り、実はあまり世界の真理を見抜けていないんだ 椅子の奪い合いなんて、畳かマットに寝そべって見物してればいいんですよ。 >>29
「人新世の資本論」のつづきです。
斉藤幸平氏、マルクスの「本源的蓄積」についても面白い解説をしていて、ナルホドです。
「マルクスは『本源的蓄積』を単なる資本主義の『前史』としてとらえているわけでは
けっしてない。マルクスが指摘しているのは、コモンズの解体による人工的希少性の創造
こそが『本源的蓄積』の真髄であるという点である。資本主義の発展を通じて継続し、
拡張する、本質的過程として『本源的蓄積』を見ている」とする。 斉藤氏、「コモンズとは、万人にとっての『使用価値』である。万人にとって有用で、
必要なだからこそ、共同体はコモンズの独占的所有を禁止し、協同的な富として管理してきた。商品化されず、したがって価格をつけることもできなかった。コモンズは人々にとって無償で、
潤沢だった」
「人工的に希少性を作り出すことができれば、市場はなんにでも価格をつけることができる」「希少性の増大が商品としての『価値』を増やすのである」
「気候変動は水、耕作地、住居などの希少性を生み出す。希少性が増えれば、その分だけ、需要が供給を上回り、それが資本にとっては大きな利潤をあげる機会を提供する」
そのため、気候を工学的に操作しようとするジオ・エンジニアリングなどへの資本の投資が向かい、根本的解決に至らず地球のシステムを混乱に陥らせ、さらに矛盾を拡大していくことになると警告する。 人工的希少性として、「負債」によって引き起こされる貨幣の希少性の増大も指摘する。
「無限の欲望をかきたてる資本主義のもとでの消費の過程で、人々は豊かになるどころか、
借金を背負うのである。そして、負債を背負う事ことで、人々は従順な労働者として、
資本主義の駒として仕えることを強制される」。その例として住宅ローンをあげる。
教育関係のローンもそうだろう。
ローンを払うために、長時間労働を強いられ、家族と食事をしたり、子どもと
ゆっくり過ごす時間もない人も多い。 つまり、真の豊かさはコモンズの領域にある。よって、資本主義は希少性を奪い合う貧しい世界線だと言える
芥川龍之介の羅生門や蜘蛛の糸に出てくるエゴイズムの塊の餓鬼が、資本主義のシンボルだと言える >>1のように資本主義的なゼロサムゲームで幸せを考えるのが、拝金主義的な奴隷の姿だと言える。彼らは、存在論的に醜悪なのである サルトルであれば、それを嘔吐として表現したであろう。自由人ゆえにサルトルはノーベル賞受賞も蹴れたのであって、拝金主義のゴミ虫とは段違いなのである となるとサルトルは自己に自由人と言う本質を実存に先立たせていることになるね😂 少し近所に大きな商業ビルが出来たので、そこに入っている家電量販店をちょっと回ってみた
そこで得た結論は、欲しいものが何もない、ということに気づいた。あらゆる家電やIT機器、
ドローンまで売っていたが、何一つ、欲しいものがなかった。すべて贅沢品、余計なもので
あり、そのまま環境破壊につながる商品群だということだけが明らかになる。
今どき、強い物欲がある時点で、それだけで頭の悪さの反映だということが分かる
ホリエモンが欲しいものは何もない、と言ってたが、それと似た感覚である
昭和の高度成長期脳で脳が退化している人間にこそ、物欲とか、お金への執着が
過剰にあるとしか思えない。ウィトゲンシュタインは莫大な遺産を相続できる立場であったが、
一切、相続せずに済ませた。脳が高度に機能していれば、お金や物に頼る必要が
ないからであろう 物やお金をやたら欲しがるとか、それだけで感性が発展途上国っぽい土人に感じるんだよね
現代なら、物を少なくして、フットワークを軽くして、ロハスな生き方をするのが
一番、地球環境に最適な生き方であることが分かる。その点で、グレタなどは一番、
洗練された生き方をしていると言える
また、現代はゴミの区分が非常に細かく面倒なので、物を所有することは、
のちの廃棄の手間を考えれば、なるべく消費しないことが一番、洗練されている
選択であることも分かる 1番になりたがる奴が悪い
1番になりたがる奴が1番になった時、周りにマウントするだろ?
そんでバカにされたくない奴は
自分がバカにされる前に他の奴をバカにしよとする
悪の芽は1番目指す欲深い奴 世の中には、貧富の差があり、裏と表があり、
笑う者も泣く者もいる。なんてことだろうと思ったりね。
見えるものを見ない、見えないものを見る……。
そういう癖がつきました。 一般に、上からの指示に対して、それが何にどのように役立つことになるのかを逐一知ろうとすることなく、自分に与えられた責務として果たすことが潔い態度であると考えられているが、そのような態度は、人として正しいことでも、称賛されるべき美徳でもない。
自分がしていることが、自分を含む人に役立つことでないのなら、その行為は、必然的に「人の疎外」を生じることになる。
そして、その「人の疎外」は、他人のために自己犠牲を受け容れるというような、指示を与える側に都合のよい「美談」で済む話ではなく、人を疎外する自己犠牲を他人にも連鎖的に強いることになるのである。 社会の仕組みに適応しようとすることが、人として正しくあろうとすることに反する。 「欠乏しているものを欲するあまり、現にあるものを台無しにしてはならない。現にあるものも、われわれの願い求めているものであることを、考慮せねばならない。」
「十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分でない。」
エピクロス『エピクロスの勧め』より ひと(人/一)とはどのような生き物だろうか。
ひと(人/一)は、トラをおそ(畏/恐)れるが、ネコをおそ(畏/恐)れることはあまりない。
では、ネズミは、どうだろう。トラは、鹿のような大型の動物だけでなく、小動物も捕獲して食べることが知られている。
すると、ネズミは、ひと(人/一)とは異なり、トラだけでなく、ネコもおそ(畏/恐)れるということができるのだろうか。
しかし、このような見解は、ひと(人/一)の視点でネズミの行動を解釈しようとする偏見だろう。
ネズミは、ひと(人/一)とは異なり、トラをおそ(畏/恐)れることも、ネコをおそ(畏/恐)れることもないと考へるのが、正しいのだろうと私は思ふ。
ネズミは、ネコをおそ(畏/恐)れるのではなく、ひと(人/一)がトラに遭遇したとすればおび(怯)えるように、ネコにおび(怯)えるのである。
ここで、「おそ(畏/恐)れる」ことと、「おび(怯)える」ことの違ひに注意しよう。
ひと(人/一)は、来るかもしれない地震を「おそ(畏/恐)れる」が、他の動物は、地震の大きな揺れが来るような徴候に「おび(怯)える」ことはあっても、地震が来る可能性を「おそ(畏/恐)れ」たりはしない。
つまり、単に、既に現れている徴候や、現象に「おび(怯)える」だけでなく、現前していないものの可能性を「おそ(畏/恐)れる」振舞ひを見せるのが、ひと(人/一)特有のものとされる特徴である。 幸福になりたければ、他人を不幸にしなさい。
さすれば相対的にあなたは幸福です。 降服をスーツにおいて行うごときの自然皆既の赭顔の天狗に例えられた人種に拘わらず当てはまる特徴は皆狗みたいな奴らであり猫より犬好きであり依存的であり体臭性と大衆性と退終生と対修性と大周性(何でみんなで無駄にループしてんの?私は昨日一人でしてたね。カバンの合皮の剥がれと苦しみの体感と疲れの体感参照)と代就性の者達 競争社会なので
負けた奴は負け組として生き続ける義務がある
負け逃げは許されない それは違うな。何かの基準で計って負けるなら、その同じ基準が自身に有利に働くような競争にゲームを変えるように工夫する。例えば、体格の大きさで相手より有利に立てるなら、その間は、その有利さを利用するゲームに全体を巻き込もうとする。しかし、そこに自分よりはるかに大きな体格の競争相手が出現したなら、その体格では抜けられない穴を通ることを要件とするような規則のゲームに全体を巻き込むようにする。 競い合いに用いられる基準は、体格の大きさに限定されず、様々だが、市場を支配管理しようとする連中がやっていることも、基本的にこれだ。 みんなが一歩前進できる事ってないよな
誰かが譲歩してる
誰かが一歩下がってる 不思議だよな
昔よりも生活環境は圧倒的に恵まれているのに
なぜか、昔の辛い生活の人らの方が幸福度はきっと上
やはり、無知で居た方が幸福だったのかも
インターネットやTVやラジオ、雑誌など情報ツールでみんな境遇格差を知ってしまった
みんなスタートラインが違う
負け組は劣っている存在、恵まれていない存在と自信を無くし
勝ち組は神に愛されたと傲慢になる
そして、勝ち組が心理的攻撃をし、負け組は屈辱を感じる
そうなると最後は暴力
ほな、神に愛されてるかどうか試したろかと革命が起こる
境遇の恵まれない者が境遇の恵まれてきた者に命を賭けた戦いを挑む
金持ちも貧乏人も健常者も障害者も赤子も老人も男も女も命は1つ
絶対的な平等な存在を賭けた勝負は暴力しか無いから