今日の日中にこれだけ頑張って一人で何役も演じてカント(笑)さんは疲れて眠ってしまったんだろうな。

普通の社会人って眠くても起きる時間を算段したりするもんだけど、そんなのカント(笑)さんにはわからないか。

カント(笑)さんも寝てることだし、せっかくだから理想自我と自我理想と超自我の話をしよう。

あくまでフロイトではなくラカン用語としてだが、理想自我とは主体の主体による理想的な自画像のことである。こうなりたい、こう他者から思われたい、みたいな。これは自己イメージを形成する手続きとして鏡を見るような作業に基づく。イメージが投影する主体も投影される主体も物理的には自我で足りる。

一方、自我理想とは神のような超越的な存在の視界に常に自我が含まれているような状態で、主体が理想を求めるようなことである。

敬虔な宗教者がこれにあたる。彼らは善くも悪くもたびたび度を越した行動を起こすが、自我理想のモデルであればブレーキがかかるようなところを平気で踏み外す。

なぜなら自我理想者の思考や行動等の主体は超越性によって一方的に規定されているからである。人差し指が引き金を引いたとしてもそれは人差し指ではなく脳の責任である。