仮に知性の存在性の根拠を「世界を客観的に表象できる」という風に定義してみよう。
この場合、自然は知性と呼べるであろうか。カント含めて、西洋の思考パラダイムは
自然性と知性は対置したものとして配置されやすい。東洋のパラダイムでは自然も
知の一種として捉えられたりするのとは対照的だ。無為自然の老子など

カントは、直観の認識形式の条件として、「時間」と「空間」を要請している。そして、
強いAIでキーになるのが、この直観というものを扱えるか否かにかかっていると言えよう。
かつ、この直観を人間のようにヒューリスティックに自在に扱えるようになると、認知論的には
強いAIが誕生したことになり、人間の認知的な役割は終焉することになる

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」から「人間の終わり」が強いAIの誕生によって
現実化されるだろう。その具体化がシンギュラリティになる