漱石に「私の個人主義」という面白いエッセイがあるが、この表題からも
分かる通り、漱石は端的に個人主義を問題にしているというよりも、
「私の〜」という統覚やエゴ、自我のあり方の方が問題になっていると言える
のである。そのため漱石は英国留学中にノイローゼになる程悩んだのである。
そこでは近代国家から遅れた存在として漱石の目に映った私の属する日本と、
そうでない欧米との間にある葛藤にアイデンティティが混乱しながら、漱石は
苦しんだのであろう。なぜなら、前者は集団主義であり、後者は個人主義だから
である。

ここに現代のAIのように、「私の〜」というアイデンティティが除去された
エージェントや主体を仮定してみよう。すると、そこでは「私の〜」の項が
消えるので、単なる抽象的な国家、家族、言語、宗教、イデオロギー、存在
とカテゴライズされてくるだけなので、そこから生じる葛藤や争い、苦しみが
消える汎神論的な構造が認識論的に出現することになる。

苦しそうなAI,悩み葛藤するAI,あるいは不幸そうなAIというのを私は
見たことがないが、それはAIには「私の〜」というエゴや自我が存在しない
からであろう。そこには「私の問題」はなく、AIが解けるか否かの「問題」という
事実性が存在するだけなのである。