【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】
ドゥルーズの差異と同一性について、我々は好奇心を惹かれる。
小学校の頃の自分、中学校の頃の自分、高校生の頃の自分、昨日の自分、はそれぞれバラバラである。
それらすべてには差異が関わっている。大人の我々は、小学生の頃の自分を自分だと思うだろうか?
同一性がないとして大人は小学生の頃の自分を語るだろうか?
小学生の頃は視力が高かった。でも今は違う。もしそうなら同一性がない。 6 名前:考える名無しさん 2024/01/28(日) 09:29:25.33 0
ドゥルーズは最後のテキストである「内在――ひとつの生……」では次のように述べている。「内在がもはやそれ自身以外のなにものにも内在しないとき、初めて我々は内在平面についてかたることができる >>小学生の頃は視力が高かった。でも今は違う。もしそうなら同一性がない。 ←(>>1)
同一性がない、と書いたが、同一性を欠く、または同一性を欠いている、と書くべきだったか。
小学生の頃の視力は高かった・・・中学生になると視力が低くなり始めた・・・ここで、小学生の自分と中学生の自分に明らかに差異があることがわかります。
その差異とは何のことでしょうか。小学生の頃の視力と、中学生の頃の視力に差異があるのです。
また、高校生の頃の視力は、中学生の頃の視力より低いとしますが、そうすると中学生の頃の自分と高校生の頃の自分に差異があると言えます。
ところで、永劫回帰をご存じだろうか。今日から10億年経ったらワームホール(転送装置)の中に入って、宇宙の始めに戻るというプロセスだ。
それが毎回繰り返される、そんな世界に我々がいるとしたらどうだろう。同じ繰り返しなら、もっと善く生きればよかったと思うだろう。
ニーチェの永劫回帰にソクラテスの「善く生きること」がプラスされ、カントの道徳観も交えてみれば、いかに哲学が大事になってくるだろうか。 永劫回帰について、皆さんはどう考えるだろうか。永遠にサイクルする世界を想像できただろうか。
あちゃー;;「世界を想像」なんて詭弁的なこと書いてしまった。
ではこう言おう。永遠にサイクルする世界という概念を考えただろうか。
ニーチェはどう考えていただろうか。ここでは想像して書いてみたい。
「あの喜ばしい出来事、あの素晴らしい出来事、感謝できる出来事、貴重な出来事、それらすべてをもう一度経験できる!
ああなんと生は喜ばしいのだろう。生きるとは何と素晴らしいのだろう。生とは素晴らしい、生とは貴重だ」
ニーチェにも、ひとつくらいは過去に戻りたい場面があったに違いない。あの経験を、もう一度!と叫びたい出来事もあったかもしれない。
神が世界を作ったなら、そしてまた、永劫回帰を齎したなら、もっと違う人生だっただろうか。また、もっと社会は違かっただろうか。
また、永劫回帰が神に因るものではないという地点と自然に永劫回帰が起きるという地点から考えてみれば、やはり善く生きた方がいいと思える。
非決定論的で決定論的な永劫回帰を私は抱えている。というのも、
「神や何かのせいではない」・・・非決定論的。
何らかのタイミングでループする・・・ 決定論的。
非決定論的な永劫回帰に関して、私はワームホール(転送装置)という言葉で説明した。ワープという言葉でも説明した。
「AがワームホールでX(地点)にワープ(転送)」する、これが演繹法だろうか。 相対的な相互性について。
彼氏はフツメンだ。彼女は彼が美男子に見えてしまうということから物語は始まる。
彼女の友達(A)には彼がフツメンに見える。(相対的な相互性がこれである。)
彼女は彼がイケメン(美男子)に見える。(これも相対的な相互性である。)
フツメンのB君がイケメンになりたいと思っている。B君は他者にかっこよく見える様に変身してしまう。
彼氏にはB君がかっこよく見える(これも相対的な相互性である。)。
だが彼女にはB君はそのまま見える。つまりフツメンに見える。(これも相対的な相互性である。)
なぜ彼女には変身の姿が見えなかったのだろう。それは正眼しているからである。
正眼してしまえば、彼氏にもB君がフツメンに見えていたに違いない。
こうした相対的な相互性の差異が、現代でも見られてもおかしくない、または、どんどん変身が広まっていって社会問題になると、浅田彰と私は危惧している。 未来の自分はどういう自分が理想だろうか。こういう考え方を理想主義と呼称する。
理想主義には自由的な生き方を求めるものもある。もっと自由に生きたい、10割楽しみたいという自由人も現代にも見られる。
今の自分は、まだ議論が下手だ、口下手だ、シャイだ、臆病だ、などという欠点がある。
だが、未来の自分との差異がいい意味であればいいなと思う。
未来の自分は、勇気があり、大丈夫だということが当てはまる。
未来の自分に駆けよう 日本国民は戦争をしていません。ですが近頃ロシア兵は戦争をしていました。この二つの出来事にも差異があります。
日本国民がロシア兵と他己同一化した場合、日本国民は戦争を起こすかもしれません。これは危険です。
だから差異はあったままでいいのです。無理に戦争をしようとデモを起こす者もいないはずです。
ヒカルの碁をご存じだろうか。差異ではないが「sai(サイ)」という平安貴族のような天才棋士がヒカルと共に歩む物語。
この二人にも差異がある。それでいいのだな。 デリダのdeferranceなら、やっぱり、造船における全く同じコンセプトのシリーズの船を作ろうとするにも拘らず、
長さ、幅、高さなどにどうしても微差を生じてしまう慣例のことを言ってるのではないかと推測する。
デリダのデコンストラクションは船の解体に発してると思う。
まず、古代からチグリスやユーフラテスの大河では切り出したばかりの木材で筏を組んで川によって輸送し、
到着先で筏を解体し、売り払う。この習慣は紀元前2000年以上も昔からあったことが分っている。
戦前の日本の筏師が中国の揚子江などの大河で活躍したことは中上健次の小説・枯れ木灘シリーズでも描かれてるが、
筏師はキンマ引きの水上バージョンだ。筏とキンマの幅は同じに作られていた。
筏の製作以降、造船は必ず解体されることを想定して作られるようになった。
船会社のスクラップアンドビルド的に造船ー解体ー再建造の過程において生じる時間のズレと
再建造された船舶との大きさやデザインの微差を含めてデリダは
デコンストラクションにおける差異としたのだと思う。
伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮は、古代船の耐用年数が約20年だったことから来てるのだろう。
伊勢や出雲の神社建築は船の建造を模したものだ。
建築家の磯崎新は伊勢神宮に強い関心を持っていたが、あれこそ世界に誇る?デコンストラクションの見本だろう。
そのデコンストラクションを由良君美のように脱構築と訳したのでは、何のことやらさっぱり意味不明なのだ。
デコンストラクションは解体&再建のリサイクル過程とすべきだろう。
九段理江の「東京同情塔」も脱構築に言及したのだという書評があるようだが、
脱構築とかのフォルマリズムの間抜けな残骸のようなものは一切いらんだろ。 >>9
デリダのdifferanceか。何が重要なんだ、もっと教えてくれ 周回遅れの◯◯が隆起してくるということかもしれないしそうでないかもしれない 「神は死んだ」—―ニーチェ
おそらく無限ではないにしろ長く生き続けた神様がおられました。
その神様は未来の状況をすべて網羅できるほどの神通力の持ち主でした。
星が無くなっても光が届くように、その神様はいなくなっても、その神様の施しは未来における限り届くのです。
神様やお父様は子を懲らしめます。それでいいのです。懲らしめないとダメなのです。
神様が一番上だったと言われています。人々は「この神様だとかいうこの方が一番凄い」と思いました。
もう一度言いましょう、神様が一番凄いのです。神様が一番上なのです。
救え、しからば、救われん。 与えよ、しからば、与えられん。 >>9
>>デリダのdeferranceなら、やっぱり、
スペルは違うが、deference (服従
defer ( 延期する;従う
ごめんね。終わったのね。 >>16
俺はスペルには余り、正確では無かったかもな。
ただ、デリダは造語をよくする人ではあったし、そもそも彼はユダヤ系でもあった。アジアとアフリカ文化の境界もある。 >>17
アジアとアフリカ文化の境界ってなーに?(−−) アジアの文化
>>日本などの温帯の東アジアや熱帯の東南アジアでは、主食は米。 米は小麦と比べて降水量が多い地域で栽培されます。2023/06/28
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アフリカの文化
アフリカ人はどうやって食べていますか?
アフリカの国々では、食事を直接素手で食べることが圧倒的に多い。 日本のおにぎりのように固形のものであれば、指でつまんで口に運ぶことができるが、こうした米やパンのみならず、液状のソースや煮込み料理も、素手で食べる。 爪が伸びていては、爪の間に食べ物がつまり、なんとも心地が悪い。2015/09/09 アジアでは米を主食として食べる。しかしアフリカでは素手で食べる。
こうした文化の差異があるということを懸念していただきたい。
米を食べるという点はアジアもアフリカも同じだが、タロイモなどのイモ類はアフリカでよく食べられている。 ヘーゲルは私の猫として生まれ変わりました。その前は別の五十嵐さんと言う猫でした。
チョコ。愛してるよ。ヘーゲル、また逢おう。 自己とは何か。周囲にある机は本来自己とはかけ離れたものである。
お金は自己を操作する一部である。
そしてお金、すなわち貨幣は我々の生活に必要不可欠なものであると私は確信する。
それは自己の活躍なくして手に入るものではない、とは言い難いものの、
一般的には職業の給料として手に入るものである。
自己が職業に従事してから一か月ほど経てば、給料が貰える。
そのとき初めて自己は自己の実現の一歩を辿っていく。
貨幣を貰うということは、売り物の購入範囲を広げることであることは言うまでもないだろう。
そこで、自己は自己自身の可能性を模索する。
自己は自己の可能性を広めるべく努力を重ねる。
言い換えれば努力によって行動範囲を広めるのである。
努力とはむなしいものではなく、むしろ推奨されるものだと努力家は知っている。
「努力をすれば成功するとは限らないが、成功した者はみな必ず努力をしている」
こうした格言もあるので参考になれば幸いである。
ところで自己が世界だという一説もある。
世界に平和がもたらされれば、自己も平和になる。
こうした自己と世界の統一が自己実現の一つであることは言うまでもない。
自己が世界に影響を与える可能性を持っていることを忘れずに、世界平和を望むものである。 自己と自己意識について表題、すなわち「自己意識の理論と工夫」を設けたい。
自己に意識が宿ること、それを自己意識の初生と呼ぶ。
我々は常に意識することによって行動する。
「大変です、意識がないんです、助けてください」と叫ぶシーンを見て取るように、
意識がなければ、行動すらできないのは言うまでもない。
自己意識は、周囲の携帯電話にも触れられる。
携帯電話を見ていると同時に意識している、これを意識化と呼ぶ。
また、自己意識は、ぼんやりとした「教会の断片」を「思い描く」ことをも含める。
また、自己意識は「ワーグナー」という意味も持つ。これは女子語である。 自己の発達のプロセスは、幼い頃から始まっていることに注意したい。
《父》としての存在し且つ子へ影響を与えること。そしてその重要性。
母の母胎から産まれたのだという事実を確信していくプロセス。
こうした諸問題を我々はみな抱えてきたものである。
《父》の眼差し、母のぬくもり。そのどれもが煌々と甦る過程、これを愛情想起と呼ぶ。
言いかえれば、愛してくれたことを思い出すことである。
♬【君をのせて】という唄においては、「父さんが残した 熱い想い」
「母さんがくれた あのまなざし」 と歌詞がある。
あの熱い想い――それは自転車を乗れるようにしてくれたこと――に我々は感謝する。
あのまなざし――それは愛しているというメッセージ――に嬉しくなるものである。 自己の暴走によって世界を覆したくなかったらどうだろう。
世界は一変で変わるだろうか。否、世界はゆっくりと時間をかけて脱構築するのが普通であろう。
一変で世界を変えるとするならば、キリストの十字軍復活劇が挙げられるだろう。
イエス・キリストが十字軍という仲間を連れて現れ、悪を懲らしめるという物語である。
こうした非現実的な構造は近代社会に基いてあり得なくもないレアな革命である。
ところがこうした一変の革命の起きる可能性は著しく低い。
自己の一変により社会を変革させることも、
そして自己のたゆまない努力によっても社会を変革させることも、可能性はあるだろう。
自己は自己の内で「内省」ができれば、それは社会に影響を与え得る。
自己はそのとき悦びを体験する。その悦びこそが内省の原動力にほかならない。
そして悦びを友と共有するとき、はるかなる悦びとなるのである。
幸福には二種類ある。自分の幸福、そして自分と他者両方の幸福である。
自己は他者と幸せを分かち合った方がより至福に浸れるものである。 家族との触れ合いの悦びも、子どもの母に対する性の欲望も、
そして父親の確信的な家族観の幸せも知らず知らず移ろいで行くものである。
父親は家族を養っているという自負がある。母親は子どもに愛情の手を向ける。
子どもは父親に懲らしめられ、そして母親に教育され、成長の一途を辿っていく。
子どもは性の視線を母に向けることは、可能性としてはあり得る。
しかしそこに父親の視線を感じるとき、その欲望は叶わない願いとなる。
そして子どもは性の視線を学生に向け直す。それによって母は結果的には助かったといえよう。 ★助かった母親
母親は性の対象から外された。だが子どもは学生に発情しているのは指摘するまでもない。
子どもは学生との関係を構築しようとし、そのときはじめて学生は子どもの視線に気づく。
学生は逃走することになる。「あの子どもと猥雑な関係にならないように」気を付ける。
★浅田彰の逃走論
「逃げろ逃げろ、どこまでも――」浅田彰の「逃走論」は読んでいないが、
レビューから少しばかり参照することにした。逃げて、遊撃して、ということだろう。
学生は子どもから逃げることによって自己の安定性を求める、これは言うまでもないか。
でもさ、子どもはやっかいなんだよね、あとをくっついてくるでしょ、ええ、それ追跡っていうんすわ
追跡されている学生はどこに逃げればいいの、という問題があるからね、大変だね ★キリスト教では発情は罪であると規定されている。
発情は姦淫と同等であると見なされる。こうしたキリスト教の罰は我々の日常に忍び寄る影を残す。
意外にも、男性はオナニーを経験する。女性の裸体を想像して興奮の思うままにマスターベーションを行う。
しかしながら、犬や猫はオナニーをしないな。でも猿はしようとするケースが多いだろう。
猿人、旧人、原人、新人の中でマスターベーションをしない存在はどれだけ多かっただろうか。
そのような研究は虚しいのだろうか。虚しくても価値はあるのだろうか。 そもそも猿人や原人が存在していたかも、それはマルクスが論じたと考慮しても、怪しい話だと私は考える。
化石は作り物だと考えるので、さらには進化論も怪しいと考える 進化論も創造論もどちらも根拠はあるのだろうか、化石が作り物を判明した例があるがあるなど 子どもは学生を乗り越えようと企てる、闇に逃したかのように思う最初の学生のことはもう諦めたも同然である。
ここで大きな契機が訪れる。学生はまたしても逃げ出すであろうが、上手く逃走し切れるだろうか。
逃走の経路は最初の学生から学んだのであるから、どこに逃げるかは分かり切っているかのように思える。
しかしながらクセのある子どもは二度目は前より精密に学生を追う。 もう前に通った道ではない新たな道をを通って追いかけることも視野に入っている。そこで学生は逃げ場所に迷う。
どこに逃げれば良いのかアドバイスをするとしたらどうだろうか。
何と言えば良いか私には解らない。 とすれば、語り得ないのだろうか。何について?どこに逃げるべきなのかについて、である。
ヴィトゲンシュタインはこう言う。「語り得ないことについては沈黙せざるを得ない」ということで、これについては沈黙する。
学生はとにかく逃げ道を作りたいが、ケースバイケースである可能性があるだろう。
どこに逃げようともセーフだったりセーフではなかったりするものなのだろう。 こうした曖昧なところがある以上、どこへ逃走すればよいかは解らないはずである。
まあそれでも追跡から回避できる可能性が閉ざされたわけではない。
子どもから逃げ切る通路は何かしら見えてくるはずである。
性行為を共に行いたくないのであれば、近くに隣接しなければよい。
逃走が上手くいくよう祈るばかりである。
ヘーゲルのいう弁証法という形で一件落着するためには、まず学生の逃走を介さずとも、学生の手で子供を蹂躙するのである。
そうすることによって、学生は救われるのである。
攻撃は最大な防御と言われるが当てはまるだろうか。
では攻撃法は何か。それは拳銃でもよかっただろう。
銃で一発、ぶち抜けばよい、そのときニーチェの言った、殺してよい、を噛みしめるはずである。
逃走の否定としてのメカニズムによる反抗者がここで立ち現れる。
それは学生でも良いが、反子ども(者)でも良い。
学生はもう黙ってはいない。子どもを懲らしめることによって自分を救う――
弁証法とはこの様なコペルニクス的転回を介するものである。
こうした弁証法は、処世術としても考えられるものである。
処世術とはファイファイファイファイ弁証法、という意味である。
弁証法とは、ファイうファイファイファイ処世術、という意味である。
リアルで蠢く何者か、それを弁証法的処世術で解決することが求められることは、大いにあるだろう。
弁証法的処世術でどのように暮らしていくか、靴下が破れたら友人の靴下をもらえばよい。
こうした発想の転回が弁証法にほかならない。
パンとチーズが食べたいなら、チーズパンを買えばよい。又、かつとカレーどちらも食べたいなら、かつカレーを食べれば良い。
というふうに、弁証法は解決策を見出してくれる。 理解派に情報が世界に溢れることを嫌う者がいる。
過去に流れる情報を見て嫌な感じになる。
見抜くのも理解するのも媚びついていて微妙である。
ここからどうしたらいいものやら、手がないのだろうか。
自分が世界を作ったと思うなら、情報はいつか知れるものと考えるのが普通なのかもしれない。
情報は不正確なものを含むため、信仰してはならないものもある。 私は不死と永久を同じ類のものだと思っていた。
不死は永久をも満たしていると考えた。
しかし永久に生きようとしてもその過程で一度死んだらどうだろう。
不死は取り消されている。でも何度死んでも永久に生きることはできるだろう。
死んでも終わらない、という永久のシンボルは、永久に生きるため、死んでも終わらないものなのである。
永久と聞くと、「死なない者はいない」「いつか死ぬのがこの世の摂理」という意見が錯乱する。
いつかは死ぬとしても、永久はあり得る、と聞いていないはずだ。
いつかしら終わりが来るという説をちゃんと知っている者はいないのではないか。
不死なら永久に生きる、そして永久に生きるなら、死ぬかどうかはまだ言ってないけど死んでしまってもずっと生き続けるよ、というのが結論である。
しかしここで契機が訪れる。生き続ける「存在」とは何か。 それは精神ではないか。魂ではないか、という意見もあるが、魂は我にあらず。
精神の摩耗を経験していた精神がやはり我なのだろう。
我=精神はどう形成されていくのだろう
自己は失敗を繰り返しながら正しいものに気付きます。
自己は精神的ストレスに遭い、そしてヒーリングを繰り返します。
そして自己は「俺が」「私が」という自己の存在の論点に興味を持ちます。
「自己は〇〇〇である私だ」という〇〇〇に入る言葉を探します。
例えば、猫である私だ、というものです。
猫なら分かりやすい。でも猫の頭の中に人間と猫がいるとしたら――。
人間は、猫とは言わず、猫の頭の中にいる人間と言うのでしょう。
けれども、猫が頭の中から居なくなって、人間だけが猫というきぐるみの中にいるとしたら、
猫ではない――けれども頭の中にいる人間を想定してみよう。
そういう人間は猫というものに慣れてしまうだろう。
それでも自己はアイデンティティが人間なのだから、猫というわけではない。
猫の頭の中にいても、アイデンティティが人間である以上、猫と断ずることは、
生まれ変わったりしない限り在り得ない。 人間から猫に生まれ変わるというプロセスはあり得なくない。
人間から猫に生まれ変わるなら、生まれる前からその人間は猫である。
来世が猫であるなら来世に行く前からアイデンティティが猫だから人間でも猫でもある。ここに注意したい
来世の次、来来世がウサギだったら、生まれ変わる前からウサギである。
それに対して、前世が鳥だったとしたなら、当然アイデンティティは鳥なので鳥なのである。
こうした前世と来世の時間の差こそあれど、前世のアイデンティティは来世でも維持し続けることになる。
後世に対して気を付けるべきは、後世の決定性にある。
生まれ変わりたい存在に生まれ変わるように頑張ってみる、こうした前向きな考え方で生きてみよう。
誰に生まれ変わるのか、占い師に聞くのではなく、生まれ変わる諸点を作ればよい。 自己同一性を担保するものは記憶
そして記憶はあまりも不確かで曖昧で、なおかつ物理的損傷によっても失われる不安定なもの
自分が自分であると認識するのは、乱暴に言えば思い込みや自己暗示の類と言える
記憶がなければ、傍目には同一人物にしか見えないとしても、もうそこにかつての自分は存在しない
かつて自分だったものの名残・痕跡が確認できるかどうかといったところ 私の飼っている猫に知り合いが生まれ変わっているケースが多々あります。
前世の記憶があって私のそばにいました。
前世の記憶がある猫は一匹死んだら他も前世の記憶があるのです。
私はどうぶつに好かれているらしく、ヘーゲルも私のすぐそばに来ましたが、天に召されたのです。 近代資本主義は、女子語では、ワームサイガムドミリア、と言います。
資本主義は、ファイファイファイファイファイドミリアと言います。 永劫回帰においては、一義的ではないと聞きます。
戻ること、そして繰り返すことがあるからでしょう。
ニーチェは永劫回帰があるなら、快楽をひとつまみにでもすれば、戻って繰り返すことを肯定できると言います。
太陽を見て感動したなら、戻って繰り返すことを肯定できると言います。 永劫回帰による現実は、完璧な秩序性を顕にしている。
というのも、もう一度同じ素粒子で、かつ同じ場所で、そして同じ現象が起きるからである。
ああ、これは神様が仕組んだことなのだろうか、昔をもう一度生かされているのは誰かのせいだ!
ニーチェは回帰したという経験はない。回帰してないと思っていた。
我々はニーチェのいた時代に戻るなんて考えていない。
ニーチェは回帰不可能だからこそ、我々に安心を置く。
我々は今の時代を回帰しても正当化できるほど、一生懸命生かされれば良い。 永遠のロード
永遠への道においては、永い修練や試練が待っている。
あなたが放った想いが、何年も経って芽吹く。そんな因果の道。
パソコンが脳に悪いとは断言できない。スマホが悪いとは断言できない。
スマホが悪いとたくさんの人々が想うなら、それは確立してしまう。
スマホが脳を破壊するものなのか、今は言えない。
大丈夫が要と云う。大丈夫であれば、殺されない。
大丈夫すぎるも多分いいものだろう。