【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】
こうした曖昧なところがある以上、どこへ逃走すればよいかは解らないはずである。
まあそれでも追跡から回避できる可能性が閉ざされたわけではない。
子どもから逃げ切る通路は何かしら見えてくるはずである。
性行為を共に行いたくないのであれば、近くに隣接しなければよい。
逃走が上手くいくよう祈るばかりである。
ヘーゲルのいう弁証法という形で一件落着するためには、まず学生の逃走を介さずとも、学生の手で子供を蹂躙するのである。
そうすることによって、学生は救われるのである。
攻撃は最大な防御と言われるが当てはまるだろうか。
では攻撃法は何か。それは拳銃でもよかっただろう。
銃で一発、ぶち抜けばよい、そのときニーチェの言った、殺してよい、を噛みしめるはずである。
逃走の否定としてのメカニズムによる反抗者がここで立ち現れる。
それは学生でも良いが、反子ども(者)でも良い。
学生はもう黙ってはいない。子どもを懲らしめることによって自分を救う――
弁証法とはこの様なコペルニクス的転回を介するものである。
こうした弁証法は、処世術としても考えられるものである。
処世術とはファイファイファイファイ弁証法、という意味である。
弁証法とは、ファイうファイファイファイ処世術、という意味である。
リアルで蠢く何者か、それを弁証法的処世術で解決することが求められることは、大いにあるだろう。
弁証法的処世術でどのように暮らしていくか、靴下が破れたら友人の靴下をもらえばよい。
こうした発想の転回が弁証法にほかならない。
パンとチーズが食べたいなら、チーズパンを買えばよい。又、かつとカレーどちらも食べたいなら、かつカレーを食べれば良い。
というふうに、弁証法は解決策を見出してくれる。 理解派に情報が世界に溢れることを嫌う者がいる。
過去に流れる情報を見て嫌な感じになる。
見抜くのも理解するのも媚びついていて微妙である。
ここからどうしたらいいものやら、手がないのだろうか。
自分が世界を作ったと思うなら、情報はいつか知れるものと考えるのが普通なのかもしれない。
情報は不正確なものを含むため、信仰してはならないものもある。 私は不死と永久を同じ類のものだと思っていた。
不死は永久をも満たしていると考えた。
しかし永久に生きようとしてもその過程で一度死んだらどうだろう。
不死は取り消されている。でも何度死んでも永久に生きることはできるだろう。
死んでも終わらない、という永久のシンボルは、永久に生きるため、死んでも終わらないものなのである。
永久と聞くと、「死なない者はいない」「いつか死ぬのがこの世の摂理」という意見が錯乱する。
いつかは死ぬとしても、永久はあり得る、と聞いていないはずだ。
いつかしら終わりが来るという説をちゃんと知っている者はいないのではないか。
不死なら永久に生きる、そして永久に生きるなら、死ぬかどうかはまだ言ってないけど死んでしまってもずっと生き続けるよ、というのが結論である。
しかしここで契機が訪れる。生き続ける「存在」とは何か。 それは精神ではないか。魂ではないか、という意見もあるが、魂は我にあらず。
精神の摩耗を経験していた精神がやはり我なのだろう。
我=精神はどう形成されていくのだろう
自己は失敗を繰り返しながら正しいものに気付きます。
自己は精神的ストレスに遭い、そしてヒーリングを繰り返します。
そして自己は「俺が」「私が」という自己の存在の論点に興味を持ちます。
「自己は〇〇〇である私だ」という〇〇〇に入る言葉を探します。
例えば、猫である私だ、というものです。
猫なら分かりやすい。でも猫の頭の中に人間と猫がいるとしたら――。
人間は、猫とは言わず、猫の頭の中にいる人間と言うのでしょう。
けれども、猫が頭の中から居なくなって、人間だけが猫というきぐるみの中にいるとしたら、
猫ではない――けれども頭の中にいる人間を想定してみよう。
そういう人間は猫というものに慣れてしまうだろう。
それでも自己はアイデンティティが人間なのだから、猫というわけではない。
猫の頭の中にいても、アイデンティティが人間である以上、猫と断ずることは、
生まれ変わったりしない限り在り得ない。 人間から猫に生まれ変わるというプロセスはあり得なくない。
人間から猫に生まれ変わるなら、生まれる前からその人間は猫である。
来世が猫であるなら来世に行く前からアイデンティティが猫だから人間でも猫でもある。ここに注意したい
来世の次、来来世がウサギだったら、生まれ変わる前からウサギである。
それに対して、前世が鳥だったとしたなら、当然アイデンティティは鳥なので鳥なのである。
こうした前世と来世の時間の差こそあれど、前世のアイデンティティは来世でも維持し続けることになる。
後世に対して気を付けるべきは、後世の決定性にある。
生まれ変わりたい存在に生まれ変わるように頑張ってみる、こうした前向きな考え方で生きてみよう。
誰に生まれ変わるのか、占い師に聞くのではなく、生まれ変わる諸点を作ればよい。 自己同一性を担保するものは記憶
そして記憶はあまりも不確かで曖昧で、なおかつ物理的損傷によっても失われる不安定なもの
自分が自分であると認識するのは、乱暴に言えば思い込みや自己暗示の類と言える
記憶がなければ、傍目には同一人物にしか見えないとしても、もうそこにかつての自分は存在しない
かつて自分だったものの名残・痕跡が確認できるかどうかといったところ 私の飼っている猫に知り合いが生まれ変わっているケースが多々あります。
前世の記憶があって私のそばにいました。
前世の記憶がある猫は一匹死んだら他も前世の記憶があるのです。
私はどうぶつに好かれているらしく、ヘーゲルも私のすぐそばに来ましたが、天に召されたのです。 近代資本主義は、女子語では、ワームサイガムドミリア、と言います。
資本主義は、ファイファイファイファイファイドミリアと言います。 永劫回帰においては、一義的ではないと聞きます。
戻ること、そして繰り返すことがあるからでしょう。
ニーチェは永劫回帰があるなら、快楽をひとつまみにでもすれば、戻って繰り返すことを肯定できると言います。
太陽を見て感動したなら、戻って繰り返すことを肯定できると言います。 永劫回帰による現実は、完璧な秩序性を顕にしている。
というのも、もう一度同じ素粒子で、かつ同じ場所で、そして同じ現象が起きるからである。
ああ、これは神様が仕組んだことなのだろうか、昔をもう一度生かされているのは誰かのせいだ!
ニーチェは回帰したという経験はない。回帰してないと思っていた。
我々はニーチェのいた時代に戻るなんて考えていない。
ニーチェは回帰不可能だからこそ、我々に安心を置く。
我々は今の時代を回帰しても正当化できるほど、一生懸命生かされれば良い。 永遠のロード
永遠への道においては、永い修練や試練が待っている。
あなたが放った想いが、何年も経って芽吹く。そんな因果の道。
パソコンが脳に悪いとは断言できない。スマホが悪いとは断言できない。
スマホが悪いとたくさんの人々が想うなら、それは確立してしまう。
スマホが脳を破壊するものなのか、今は言えない。
大丈夫が要と云う。大丈夫であれば、殺されない。
大丈夫すぎるも多分いいものだろう。 ヘーゲル 精神現象学 上
哲学書に「序文」は必要か?
著作といったものには、なんらかの説明が「序文」において習慣にしたがい先だって与えられているものである。
ヘーゲルの精神現象学(下)を書写しました。序文を大事にしていらっしゃいます。 ★続き
それは、著書がその著作でくわだてた目的についてのものであるし、また著作の機縁や、対象をひとしくし、先行するほかの論考や、同時代のそれに対して、じぶん著作が立っているものと念(おも)っている関係にかんしての説明であることもある。
精神現象学(上)p10 続き
そうした説明は、哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか、ことがら本性からして不適切であって、さらには目的に反するものであるかにも見える。
というのも、なにをどのように哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと//たとえば、傾向や立場、一般的な内容や帰結にかんする羅列的な論述であれ、あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても//、そのようなものは、哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として、ふさわしいものではありえないからである。
精神現象学(上) p10より 続き
その理由はまた以下の点にある。哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり、しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる。
そのかぎりで哲学にあっては、他のさまざまな学にもまして、目的や最終的な帰結のうちにこそ、ことがら自身が、しかもその完全な本質において表現されているものだ、という仮象が生まれやすい。この本質にくらべれば、実現の過程はほんらい非本質的なものである、とされるわけである。
精神現象学(上) p10。 続き
これに対して言わなければならないことがある。
たとえば解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである。
そうした解剖学をめぐってはそれが「なんであるか」という一般的な観念を手にしたところで、ことがらそのもの、つまり解剖学という学の内容をそれだけでは我がものとしているわけではなく、それにくわえてさらに特殊なものを手にいれるべく努力しなければならないというはこべを、ひとが疑うこともない。
精神現象学(上) p11 //ちなみに解剖学などは知識の寄せあつめであって、学の名を与えられる権利をもたないけれども、そのようなものについては、〔「序文」にあって〕目的とか、それに類する一般的なことがらにかんしておしゃべりがなされるのが通例である。
しかもそのおしゃべりは、羅列的で概念を欠いたしかたでなされるが、内容そのものである、この神経やこの筋肉などについて語られるのもまた、そのおなじ方式においてなのである。
哲学の場合は、これに対して、そのようなやりかたが用いられれば不整合が生じるのであって、そのけっか、このような様式では真理が把握されないことが、やはり哲学そのものによって指ししめされるはこびとなるはずである。
*1 Element ヘーゲルの場合はおおく、「要素」といった意味ではなく、なんらかのものがそのうちで「ところを得ている」場所といった意味あいで使用される。たとえば、魚にとっては水、鳥に対しては大気がその「エレメント」となる。 つづき
★哲学的体系どうしの関係について
同様にまた、或る哲学的労作が、対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう。その場合でも種類をことにする感心が引きいれられて、真理を認識するさいに重要なことがらが冥がりに閉ざされてしまう。
精神現象学(上) p12 デリダの「差延」で考える、大人と過去の自分との「つながり」
ドゥルーズの「差異と同一性」って知ってる? 簡単に言えば、人は常に変化し続けていて、過去の自分とは完全に違う存在だっていう考え方なんだ。
小学校の頃、中学校の頃、高校生の頃、昨日の自分... 確かにどれも全然違うよね。でも、それら全てが今の自分につながっているってのも事実なんだ。
もし、過去の自分が全く違う存在だとして、大人になった自分は昔の自分を「自分」だと思えるだろうか?
例えば、小学生の頃は視力抜群だったけど、今は眼鏡なしじゃ生活できない。だからといって、過去の自分は「自分じゃない」ってことになるのかな?
デリダは、このような「違い」と「つながり」の関係性を「差延」という言葉で表現したんだ。「差延」とは、時間や空間を超えて、互いに影響し合いながら変化していく関係性を指す。
つまり、過去の自分と今の自分は完全に違う存在だけど、互いに影響し合いながら今の自分を作り上げてきたってことになるんだ。
だから、大人になった自分は過去の自分を否定するのではなく、過去の自分との「違い」を受け入れ、「つながり」を感じることが大切なんだ。
視力が落ちたのは残念かもしれないけど、その経験があったからこそ、今の自分がいるってことも事実だよね。
過去の自分を否定せずに、今の自分と過去の自分との「違い」と「つながり」を理解することで、より自分自身を深く理解できるようになるんだ。 そうそう、昔の自分と今の自分、両方の違いを受け入れてみること、そして理解すること。
よく理解するなら許せるってあるよね。そんなふうに自分を許せたらいいのなね。
自分自身を深く理解してみるなんてステキだね つづき
真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなしがあるがゆえに、そうした思いなしによればまた、なんらかの現にある哲学的体系に対して賛成なのか、それと矛盾しているのか、〔その説明〕だけが期待されるのがつねとなる。
、、、
期待というワードが出てきた。それでは何のための〔期待〕なのだろうか。
思いなしとは珍しく出てきた。考えてみよう。 つづき
……こうして、そのような体系をめぐって説明をくわえようとしても、賛否のどちらかだけを見てとろうとするものなのである。
そのような思いなしがあると、哲学的体系どうしの相違は真理〔※ヴァールハイト〕がしだいに発展してゆくすがたとして把握されずに、むしろそうした相違のなかにひたすら矛盾のみがみとめられることになる。
、、、
「認められることになる」ではなく、ひらがなで「みとめられることになる」と翻訳されている。こうしたひらがなで明記することはこれだけではない。考えてみよう。 つづき
つぼみは花弁がひらくと消えてゆく。そこでひとは、つぼみは花弁によって否定されると語ることもできるだろう。
おなじように、果実をつうじて花弁は、植物のいつわりの現存在であると宣言される。
だから、植物の真のありかたとして、果実が花弁にかわってあらわれるのだ。
植物のこれからの形式は、たんにたがいに区別されるばかりではない。
それらはまた、相互に両立できないものとして、排除しあっている。
しかしこれらの形式には流動的な本性があることで、それらは同時に有機的な統一の契機となって、その統一のなかでくだんの諸形式は、たがいに抗争しあうことがない。
――――――
ヘーゲルはここで『つぼみ』と『花弁』という言葉を用いて説明している。
いつわり、とひらがなで翻訳されている熊野純彦さんの思いやりが『ひらがな』で訳すことだったのでしょうか。 つづき
そればかりか、一方は他方とおなじように必然的なものとなる。
そこで、このようにどの形式もひとしく必然的であることこそが、はじめて全体の生命をかたちづくるのである。
いっぽう或る哲学的体系に対して矛盾していることがみとめられる場合、ひとつには、その矛盾そのものがこうしたしかたではふつう把握されない。
もうひとつには、その矛盾をとらえたとしても、当の意識はつうじょう、矛盾をその一面性から解放し、あるいは自由なものとして保持することを知らない。
さらには、あらそい、反対しあっているかに見えるものが採っている形態のうちに、たがいに対して必然的な契機を認識するすべも知らないのである。
――――――
『精神現象学』(上) p13
――――――
哲学的体系に対して、矛盾がしていることがみとめられる場合、
多くの者たちは矛盾をはあくできないでいる。
そして矛盾をとらえたとしても、我々には、矛盾をそれ自身から解放し、あるいは自由なものとしてその矛盾を支えるすべを知らない。
――――――私=(ネット眠さん)の解説 右に挙げたような説明を要求することは、その要求を満足させることとならんで、本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである。
なんらかの哲学的著作について、その内奥にあるものは、当の著作の目的と帰結を措いて、それ以上にいったいどこで表明されているというのか。
さらには、そうした目的と帰結がはっきりと認識されるのは、なによりも、同時代人たちがそうはいってもおなじ領域で生みだしたものとの相違をつうじてのことではないのか。
〔ひとはそう主張するわけである。〕とはいえ、このようなふるまいが、認識するにさいしてそのはじまり以上のものと見なされ、それがまた現実的な認識と見なされる、などというはこびとになったとしてみよう。
その場合には、じっさいには手管に数えいれられるべきものが生まれているのであって、それによってことがらそのものが回避される。
――――――
『精神現象学』(上) p13‐14
――――――
なんらかの哲学的著作について、その真髄となりそうなものは、当の著作の目的と帰結以外に、どこにあるだろうか。
――――――ネット眠の解説 そのうえ、ことがらをめぐって真剣に努力しているかのような外観と、当の努力を現実には省略すること、この両者がむすびあわされているのである。
──そもそも、ことがらはそれが〔上ルビ〕目的〔、、〕とするところで汲みつくされるのではなく、その生成とともに全体となる。目的とは単独では[フユール・ジッヒ]生命を欠いた普遍的なものにすぎない。それは、傾向がたんなる駆動であって、その現実性をいまだ欠落させているのと同様である。
たほう剝きだしの成果とは、傾向を背後に置きざりにした屍なのだ。
──────
精神現象学(上) p14 つづき
──おなじく、相違(上ルビ、、)とはむしろことがらの限界であって、相違が存在するところでは、ことがらはおわってしまっている。
いいかえれば、相違とはことがらが「それではないもの」である。
そのように、目的や成果に、同様にまた或るもの〔ひとつの哲学的体系〕とべつのものとの相違やそれらの評価にかかずらうとすれば、それは、だから、たぶん見かけよりもたやすい仕事なのだ。
ことがらをとらえようとするかわりに、そうしたふるまいはつねにことがらを飛びこえてしまっているからである。
つまり、ことがらのうちで足をとめて、そこに没頭するのではなく、そのような知識はいつでもなにかべつのもとを追いもとめている。
要するに、ことがらのもとにとどまって、これにみずからを捧げるというよりは、かえってじぶん自身のもとにありつづけようとするものなのである。
――もっとも容易なのは、内実をそなえ、堅固なものを評価することだ。
より困難なのはそれをとらえることであり、もっとも困難であるのは、そのふたつのことがらを統合することである。
つまり、内実があり、堅固なものを叙述してみせることにほかならない。
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精神現象学(上) p14‐15 ★教養のはじまりは、実体的な生からの離脱にある
教養のはじまりとはつまり、実体的な生*1の直接的なありかたを離脱しはじめようとつとめることである。
それがはじまるのはつねに、さまざまな一般的な(上ルビ、、、、)原則と立場にかかわる知識を手にすることによってであるほかはなく、なによりまずことがら一般(上ルビ、、)にかんして思考されたもの(上ルビ、、、、、、、)へと向上しようとつとめることによってである。
さらに、これにおとらず、ことがらを支持するのにも反駁するのにも根拠をもってすること、具体的でゆたかに充実した内容を、その規定されたありかたにしたがい捉えること、くわえて、この内容をめぐって正当な決定と厳粛な判断とを下すすべを知ることをつうじてなのである。
教養のこうしたはじまりは、しかしさしあたりは、充実した生の厳粛さに席をゆずり、その厳粛さによって、ことがらそのものの経験へとみちびかれることになるだろう。
いっぽうまた、なおこの件が付けくわわって、概念の厳粛さがことがらの深みまで達することになった場合でも、これまで語ってきたような知識や評価には、おしゃべりのなかでは、なおもその恰好な場所が残されるしだいとなるだろう。
p15
*1
「教養 Bilding」とはみずからを形成することであるのに対して、「実体的な生 das substantielle Leben」とは、いまだ対立を知らない素朴な生のこと。「反省 Reflexion」がそこに対立をもちこみ、統一された生を分裂させることになる。
p16
──────
精神現象学(上)p15-16 ★真理は学的な体系としてのみ実現される
真理が現実在する、〔それじしん〕真なる形態は、ひとり真理の学的な体系以外にはありえない。
哲学〔愛知〕は学の形式へ、つまりその目標へと、より近づいてゆかなければならない。
その目標とはつまり、「知への愛」というみずからのなまえを脱ぎすてることができ、現実(上ルビ、、)に知(上ルビ、)となることなのだ。
そのための努力に参加することこそが、私のくわだてたことがらなのである。
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真理が現実在としてあり、それの真なる形態は、ただ真理の学的な体系以外にはありえない。
哲学は真理を探究する形式を学び、知を獲得する。こうした努力が、ヘーゲルのくわだてたことがらなのである。
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精神現象学(上)16 つづき
その内的な必然性からして、知(ヴィッセン)は学〔体系的知〕(ヴィッセンシャフト)でなければならず、この件は知の本性のうちに存することがらである。
しかもこの点にかんするじゅうぶんな説明は、ひとり哲学そのものを叙述することによってだけ与えられる。
外的な(上ルビ、、、)必然性であっても、しかしそれが個々人とその個人的な機縁という偶然性をはなれて、普遍的なしかたで把握される場合、そのかぎりでは内的な(上ルビ、、、)必然性とえらぶところがない。
😀
知は学体系的知であるべきであり、これが本性のうちあるべき在り方である。
この件はただ哲学そのものを叙述することによってだけ説明できる。
―――
精神現象学(上)p16 すなわち時代が、この必然性の諸契機が現に存在するありかたを表象してる形態にあってはおなじものである、ということだ。
哲学を学まで高めるべき時代が到来している。
この件をさし示すことによって、またそのことによってのみ、したがって、その目的をいだく〔本書の〕こころみが真に正当化されるだろう。
なぜなら時代が証明しているのは、その目的が必然的なものであることであろうし、そればかりか同時に、時代はこの目的を実現するにいたるだろうからである。
😂難易度85(最高100)
精神現象学(上)p16−17 ★直接知の立場が、このことに反対している
真理がそなえるべき真の形態は、このような学であること《ヴィッセンシャフトリッヒカイト》のうちに定立される。
あるいはおなじことであるけれども、真理にかんして、それはただ概念においてのみ、みずからが現実存在するための境位《エレメント》を有するものと主張される。✤1
──────
✤1 「概念Begriff」とは、ことがらの全体をその本質にあってとらえるものである。真理が知においてとらえられ、知の体系的全体である学のかたちで、叙述されなければならないとすれば、真理を真理とする境位、あるいは場面は、この概念のうちにあることになる。
通常たんに「とらえる、把握する」という意味でも用いられる
begreifen という動詞をヘーゲルは、このような連関で、つよく概念という含意を強調して使用することがあり、そのような場合には「概念的に把握する」と訳しておく。
──────
注釈はp18でしたがわかりやすさを考えました。これがヒントです。
😂難易度93(最高100)
精神現象学(上) p17
p18を一歩早く書きました。 そのばあい私としても、このような主張が或る考えかた(フォアシュテルング)とその帰結とに矛盾しているかに見えるしだいは分かっている。
その考えかたはしかも、当代のひとびとの確信にあって、ひろく行きわたっているとともに、きわめて尊大な僭越を生んでいるものなのだ。
──────
😅💌 難易度98(最高100)
精神現象学(上)p17 それゆえ、このような矛盾についていくらか説明しておくことが、よけいなこととは思われない。
たとえその説明その説明が、ここ〔序文〕では一箇の断言を超えるものではありえず、それは当の説明が立ちむかおうとするものとえらぶところがないとしても、この点にかんしてはうごかない。
😂難易度92
精神現象学(上) p17 〔その考えかたによれば〕つまり、真なるものは、ただ以下のようなもののうにのみ現実に存在し、あるいはむしろ、ひとりそのようなものとしてだけ現実存在する、とされる。
そのものは、あるときは直観、べつの場合には絶対的なものにかんする直接知、宗教、存在──しかも、神的な愛の中心における存在ではなく、かえってその中心そのものの存在──と称されるのだ。
そうであるとすれば、ここからただちに哲学の叙述に対しても、概念による形式とはむしろ正反対のものが要求されるにいたる。
😅💌難易度99(最高値100)
精神現象学(上) p17.18 すなわち、絶対的なものは概念的に把握されるべきではなく、感得され、直観されるべきである、ということである。
絶対的なものの概念ではなく、かえってその感情と直観とが口をひらいて、その感情と直観が語りださなければならないというわけである。
──────
絶対的なものは、常に感得された、あるいは直観されたもので、概念として口をひらくのではなく、直観が語りださなければならない。
(解説 ネット民)
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😄🤩難易度56(最高100)
精神現象学(上) p18 ★精神の現況はどのようなものであり、哲学になにが要求されているのか?
このような要求があらわれてきたことを、その要求を生んだより一般的な脈絡にしたがって把握し、自己を意識した精神が現在たっている段階に目を向けてみよう。
😄😂難易度76
──────
精神現象学(上) p18 そうすると精神は、実体的な生──精神はかつて思考の境位(エレメント)という点でそのような生をいとなんでいたのだ──を超えでてしまっていることがわかる。
つまり精神はみずからの信仰が有していたこのような直接的なありかたを超え、確信したありかたに満足し、安らっているありようを超えてしまっている。
そのような確信を意識は、実在とじぶんが宥和していること✤1について、また実在の普遍的な、内的かつ外的な現在にかんして所有していたのである。
😁😆難易度86
──────
精神現象学(上) p18-19 精神は、このような段階を超えて、実体を欠いてみずから自身のうちへと精神が反省的に立ちもどる(レフレクシオーン)、もう一方の極へと超えでているばかりではない。
このような反省(レフレクシオーン)をも超えてしまっているのだ。
じぶんにとって本質的な生が、精神には失われている。それだけではない。
精神はまた、この喪失を意識し、有限性がじぶんの内容となっていることをも意識している。 〔かつて存在していた実体的なありかたの〕残りかすをやめ、みずからが悪しき状態に置かれているしだいを告白し、それを呪いながら、精神がいまや哲学に要求するにいたったところは、むしろ「精神とはなんであるか」をめぐる知ではない。
難易度86
精神現象学(上)p19 かえって、くだんの実体的なありかたと、存在の堅固さとが、哲学によってふたたび恢復されるにいたるところを望むのである。
このような要求に応じるために哲学がなすべきところは、したがってむしろ、実体の閉ざされたありかたを開示して、それを自己意識〔の次元〕まで高めることではない。
つまり、カオスをはらんだ意識を、思考を経た秩序と、概念という単純なあれりかたへと連れもどすことではない。
──────
😄😆難易度83
精神現象学(上) かえって、思考を分離したものを〔ふたたび〕攪乱し、区別だてをおこなう概念を抑止して、
実在(ヴェーゼン)をめぐる感情を再興すべきである。すなわち、洞察*3ではなく、むしろ信心をこそ与えるべきだ、というのである。
美しいもの〔シラー〕、聖なるもの、永遠なもの〔シェリング〕、宗教と愛〔シュライエルマッハー〕といったところが、必要となる餌であって、それらによって喰らいつく快楽が喚起されるのだ。
概念ではなく忘我(エクスターゼ)が、ことがらが冷然と進行してゆく必然性ではなく、むしろ滾りたつ霊感こそが、実体のゆたかさをささえ、それを不断に拡大してゆくものである、とされるのである。
😍難易度85
──────
✤1と2と3は省かせていただいた。詳しくは「精神現象学 上」 ★哲学に対するそのような要求の背後にあるもの
こういった要求に対応するものが、張りつめた、ほとんど熱狂にも接し、いらだっているかにも見える努力であって、そのような努力によってひとびとを、感性的なもの、卑俗なもの、個別的なものへの惑溺から引きはがして、その視線を星辰へと振りむけさせようとするのである。
それはあたかも、ひとびとが〔いまや〕神的なものをまったく忘れはて、塵と水とを与えられて、虫けらのように微小な一点で満ちたりたままであるかのようなのである。
かつてひとびとには、思想と形象の大いなる富をともなう天界が与えられていた。
存在するすべてのものは光の糸につながれて意義をもち、その光の糸によってあらゆるものが天界へとつなぎとめられていた、ということである。
この光の糸をたどることで、この現在に立ちどまることなく、視線は現在をこえて神的存在(ヴェーゼン)を振りあおぎ、いわば彼岸的な現在を仰ぎみていた。
そのとき精神の眼を地上的なものに向けさせて、そこに縛りつけておくためには、むしろ強制が必要であったのである。
だから、長い歳月をかけて、地上を超えたものだけが有していたあの明るみを、彼岸的なもののそなえる感覚が置かれている、陰鬱と混乱のうちへみちびき入れ、現在的なものそのものへの注意━━この注意が経験と呼ばれる━━が関心を惹くもの、意味をもつものとされる必要があったのだ。
━━いまや正反対のことがらが、必要なものとして現にあらわれているかのようである。
━━━━━━
😲難易度87
精神現象学(上)p20-21 つまり、感覚は地上的なもののうちにあまりに深く根を下ろしているので、そのような感覚をおなじく暴力をもって地上的なものから引きあげなければならない、ということである。
精神が示しているすがたはあまりに貧しく、精神はまるで砂漠をさすらう者のごとくただ一杯の水に焦がれるかのように、神的なもの一般をほんのすこしでも感じとって、みずからの英気を恢復しようと憧れているとでも言いたげなのだ。
精神に満足を与えているこのささやかなものをもって、精神が喪失してしまったものの大きさが測られるべきなのである。
受けとったものでかくて満足してしまうこと、あるいは与えることがかくも貧しいものであることは、しかし学にとって似つかわしいところではない。
みずからが地上に現にあり、思考しているにふくまれている、多様なありかたを霧のうちに包みこんで、このふたしかな神性のさだかではない享受を追いもとめる者は、じぶんがどこでそれを見いだすのかを思ってみるがよい。
そのような者であるならば、なにかに熱狂して、その或るもので得意になるすべを、じぶんでたやすく見いだすことになるだろう。
哲学がみずから戒めなければならないのは、だが、信心ぶかくあろうとすることなのである。
──────
😂難易度99
精神現象学(上) p21-22 このようなもので満足してしまうことは、学を断念するしだいであって、そのような満足がましてこのような感激と混濁とをもって、学を超えたなにより高きものであるする要求におよぶことなど、あってはならないところである。
😒難易度92〜94
精神現象学(上)p22