【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】
ドゥルーズの差異と同一性について、我々は好奇心を惹かれる。
小学校の頃の自分、中学校の頃の自分、高校生の頃の自分、昨日の自分、はそれぞれバラバラである。
それらすべてには差異が関わっている。大人の我々は、小学生の頃の自分を自分だと思うだろうか?
同一性がないとして大人は小学生の頃の自分を語るだろうか?
小学生の頃は視力が高かった。でも今は違う。もしそうなら同一性がない。 私は不死と永久を同じ類のものだと思っていた。
不死は永久をも満たしていると考えた。
しかし永久に生きようとしてもその過程で一度死んだらどうだろう。
不死は取り消されている。でも何度死んでも永久に生きることはできるだろう。
死んでも終わらない、という永久のシンボルは、永久に生きるため、死んでも終わらないものなのである。
永久と聞くと、「死なない者はいない」「いつか死ぬのがこの世の摂理」という意見が錯乱する。
いつかは死ぬとしても、永久はあり得る、と聞いていないはずだ。
いつかしら終わりが来るという説をちゃんと知っている者はいないのではないか。
不死なら永久に生きる、そして永久に生きるなら、死ぬかどうかはまだ言ってないけど死んでしまってもずっと生き続けるよ、というのが結論である。
しかしここで契機が訪れる。生き続ける「存在」とは何か。 それは精神ではないか。魂ではないか、という意見もあるが、魂は我にあらず。
精神の摩耗を経験していた精神がやはり我なのだろう。
我=精神はどう形成されていくのだろう
自己は失敗を繰り返しながら正しいものに気付きます。
自己は精神的ストレスに遭い、そしてヒーリングを繰り返します。
そして自己は「俺が」「私が」という自己の存在の論点に興味を持ちます。
「自己は〇〇〇である私だ」という〇〇〇に入る言葉を探します。
例えば、猫である私だ、というものです。
猫なら分かりやすい。でも猫の頭の中に人間と猫がいるとしたら――。
人間は、猫とは言わず、猫の頭の中にいる人間と言うのでしょう。
けれども、猫が頭の中から居なくなって、人間だけが猫というきぐるみの中にいるとしたら、
猫ではない――けれども頭の中にいる人間を想定してみよう。
そういう人間は猫というものに慣れてしまうだろう。
それでも自己はアイデンティティが人間なのだから、猫というわけではない。
猫の頭の中にいても、アイデンティティが人間である以上、猫と断ずることは、
生まれ変わったりしない限り在り得ない。 人間から猫に生まれ変わるというプロセスはあり得なくない。
人間から猫に生まれ変わるなら、生まれる前からその人間は猫である。
来世が猫であるなら来世に行く前からアイデンティティが猫だから人間でも猫でもある。ここに注意したい
来世の次、来来世がウサギだったら、生まれ変わる前からウサギである。
それに対して、前世が鳥だったとしたなら、当然アイデンティティは鳥なので鳥なのである。
こうした前世と来世の時間の差こそあれど、前世のアイデンティティは来世でも維持し続けることになる。
後世に対して気を付けるべきは、後世の決定性にある。
生まれ変わりたい存在に生まれ変わるように頑張ってみる、こうした前向きな考え方で生きてみよう。
誰に生まれ変わるのか、占い師に聞くのではなく、生まれ変わる諸点を作ればよい。 自己同一性を担保するものは記憶
そして記憶はあまりも不確かで曖昧で、なおかつ物理的損傷によっても失われる不安定なもの
自分が自分であると認識するのは、乱暴に言えば思い込みや自己暗示の類と言える
記憶がなければ、傍目には同一人物にしか見えないとしても、もうそこにかつての自分は存在しない
かつて自分だったものの名残・痕跡が確認できるかどうかといったところ 私の飼っている猫に知り合いが生まれ変わっているケースが多々あります。
前世の記憶があって私のそばにいました。
前世の記憶がある猫は一匹死んだら他も前世の記憶があるのです。
私はどうぶつに好かれているらしく、ヘーゲルも私のすぐそばに来ましたが、天に召されたのです。 近代資本主義は、女子語では、ワームサイガムドミリア、と言います。
資本主義は、ファイファイファイファイファイドミリアと言います。 永劫回帰においては、一義的ではないと聞きます。
戻ること、そして繰り返すことがあるからでしょう。
ニーチェは永劫回帰があるなら、快楽をひとつまみにでもすれば、戻って繰り返すことを肯定できると言います。
太陽を見て感動したなら、戻って繰り返すことを肯定できると言います。