デリダのdeferranceなら、やっぱり、造船における全く同じコンセプトのシリーズの船を作ろうとするにも拘らず、
長さ、幅、高さなどにどうしても微差を生じてしまう慣例のことを言ってるのではないかと推測する。
デリダのデコンストラクションは船の解体に発してると思う。
まず、古代からチグリスやユーフラテスの大河では切り出したばかりの木材で筏を組んで川によって輸送し、
到着先で筏を解体し、売り払う。この習慣は紀元前2000年以上も昔からあったことが分っている。
戦前の日本の筏師が中国の揚子江などの大河で活躍したことは中上健次の小説・枯れ木灘シリーズでも描かれてるが、
筏師はキンマ引きの水上バージョンだ。筏とキンマの幅は同じに作られていた。
筏の製作以降、造船は必ず解体されることを想定して作られるようになった。
船会社のスクラップアンドビルド的に造船ー解体ー再建造の過程において生じる時間のズレと
再建造された船舶との大きさやデザインの微差を含めてデリダは
デコンストラクションにおける差異としたのだと思う。
伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮は、古代船の耐用年数が約20年だったことから来てるのだろう。
伊勢や出雲の神社建築は船の建造を模したものだ。
建築家の磯崎新は伊勢神宮に強い関心を持っていたが、あれこそ世界に誇る?デコンストラクションの見本だろう。
そのデコンストラクションを由良君美のように脱構築と訳したのでは、何のことやらさっぱり意味不明なのだ。
デコンストラクションは解体&再建のリサイクル過程とすべきだろう。
九段理江の「東京同情塔」も脱構築に言及したのだという書評があるようだが、
脱構築とかのフォルマリズムの間抜けな残骸のようなものは一切いらんだろ。