>>177
誰がそんなことを聞いてるの?w

絵画の”本質”というのは誰かが主観で勝手に決めている。
A君にとってはその絵画は命だが、B君にとっては一商品に過ぎないし、C君にとってはただの廃棄物だ。
ただ一つ事実としてあるのは、絵画もまた物質で構成されているということだけだ。

”本質”と称する主観と、現実としての客観を混同してはいけない。
絵画が意味を持つのは、人間の心理によっているだけだ。
だから、命にもなり、商品にもなり、廃棄物にもなる。

”哲学”的に論じるためには、”哲学”とは何かという定義もまた必要だ。
たとえばガブリエルは、”存在”という言葉を形而上学から切り離すとか言って、意味があるものが”存在”だとか言ってる。
”存在”というのは、ハイデガーにとってはすべてのものの根底にある神のようなものだし、カントにとっては不可知なものだし、ギリシアの誰某にとっては小さいものの集まりだ。

つまり、”存在”という概念は哲学者ごとに違う定義があるw
人間の心理のありかたという主観と、そこにある事物という客観を明確に分けなければ、それはすべて言葉の遊びとなる。

ガブリエルはフランス哲学の”伝統”に従って、難解さを装って文章を書き連ねているが、グロテスクな衣装を剥がしてみれば、ただ人間は状況と向き合わなければいけないという、太古の昔から処世術として言われていることを言っているに過ぎない。
「一寸の光陰軽んずべからず」の一言で済む話だ。
サルトルと異なり、現実に参加しようとする姿勢すらない、まさに”哲学”者だ。