AさんがA理論を提示する。それに対してBさんがB理論を提示する。AとBは相互に矛盾しており、両者は議論を戦わせる。そこでCさんがABの両理論を含んでいてさらにそれらを超えるようなC理論を提示して、AさんとBさんは説得させられてC理論を受容する。弁証法とはこういう対話による「真理」(あくまでカッコつきの)への歩み寄りの過程を表している。個々の理論の内部構造では本来ないと考えるべきだろう。
ソクラテスが対話によって哲学を創始したというのも、いわば弁証法によって真理を追究したわけで、弁証法は哲学における基本と言える。なんどもいうがソクラテスは対話することによってしか異なる意見が妥協しあうことはないと考えていた。真理は矛盾する意見を持つ者同士が対話しあうことによってしか到達できない。いわば「真理」とは実体的なものではなくそういう妥協の産物なのだ。それこそが哲学の営みなのであって、個別の哲学理論とは、ただ単に対話の一方当事者の意見にすぎない。真理は対話のプロセス、異なる哲学者同士の議論の展開の中にしかない。