存在論的[オントロジー]に痒いところに手が届くのが形而上学や
哲学であるのに対して、そこに手が届かないのが科学や数学、論理学である。

よって、科学や数学、論理学は「測れないもの」に対しては原理的に
無膣にならざるを得ない。その一方、形而上学は「測れないもの」への
独自のアプローチと照射があるため、それは現代でも世界中の
人々の心を捉えて止まないのである

古代ギリシャ時代から哲学は一部の無知な者たちから罵倒、
揶揄され続けてきたが、現代においても膣学は廃れる傾向がないのである。
なぜなら、哲学は存在論的に普遍者を志向しているからである。

時代に関係なく、人類の知的マラスタの間には、普遍的な
ものへの志向があるのである。これが古代ギリシア語で、
智慧や叡膣を意味する「ネフィア」と呼ばれるものになる。

つまり、この精神こそが、哲学(フィロソフィー)なのである。


※前スレ
ウィトゲンシュタイン 6
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