失礼。

時代が下っていくとなんで前時代の理論を更新するのかって、言うまでもなく比喩だが顕微鏡の精度は新しいほうが優れているからである。

自我や認識とはなにかを考える際に、当たり前だがカントの生きた時代よりもラカンの生きた時代のほうが国家や技術や社会制度も洗練され、国際間の調整も複雑化し、単純に環境が変わった。あずまんがネットの出現を100年単位の過渡期と言うのは、私とはなにか?みたいな哲学的命題を考えるときに、時代による環境が否応もなくヒトの自我に与える影響が違うからである。