アドラー心理学総合 30【嫌われる勇気】
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自己啓発の源流ともいわれるアドラー心理学を語るスレです
■前スレ
アドラー心理学総合 29【嫌われる勇気】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1511608194/
■NGワードについて
以下の単語はスレ違いの話題や連投されるコピペに混入する事が多く、過去に幾度も荒れた経緯を踏まえてNGを推奨しています
必要な方は使ってください
釈尊は引き籠り
集団ストーカー
エックハルト
Eckhart
エゴ
いま、この瞬間
人生の半分 >>65
それみんなが立ちションしてるから俺の立ちションも見逃せ的な論理だよね
アドラー心理学てその程度なんだね
それに一般化の意味もわかってないみたい
一般化はAという考えをBにもCにもDにも当てはめようするする考え
AもBもCもDも対等であるという考えとはぜんぜん違う レスに対する指摘からアドラー心理学がその程度と一般化 アドラー心理学がやりたいのは一般化じゃなくて考え方の提案でしょ
悪く言うと洗脳
こっちの考え方を信じた方が楽に生きられるよってだけであって
世の真理を言い表そうとしてる訳ではない
元々哲学の考え方を拾ってきて組み合わせたものがベースになってるし
ちゃんと当てはめて考えることができるかを
アドラー本人がいろんな患者と接してまとめてきたから
真理を語りたい様にも見えるのかも知れない
現代でちゃんと心理学をやってる人からすると違和感があると思う
アドラー脳科学と言うとキナ臭さが伝わり易いと思うけどそんな感じだと思う
どっちかと言うと自己啓発寄りだし、自己啓発側での利用発展の方が著しいよね これからどうするかという言葉は好き
コモンセンスであってほしい >>69
アドラー自身はそうかもしれないが信者が一般化してくるんだよ
それがうざい >>71
上から目線だよね
無意識かもしれないがいつの間にか縦の関係に陥ってる
そしてそれに気づいてない アドラーを教えて差し上げます的な態度な
宗教と一緒で本人より周囲が鬼の首とったように教義を捻じ曲げて撒き散らすのはままある 『嫌われる勇気』を全部読みました
納得できる考え方と疑問点、それぞれいくつか見つけられました
【大体納得できる考え方】
・人間は何か目的を達成するために感情を作り出す
・人間の全ての悩みは対人関係の悩みである
・「今、ここ」を真剣に生きましょう
・大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである
【疑問・矛盾を感じる記述】
@ライフスタイルを大転換する為には「全ての人と」横の関係を築く必要がある。人間は横の関係と縦の関係を相手ごとに使い分けることはできない。
一方、横の関係を築く手段である「無条件の信頼」は、「この人とは関係を良くしたくない」と思えば断ち切ってしまって構わない。
→横の関係は全ての人と結ぶべきだが、無条件の信頼は寄せる人と寄せない人を使い分けてよいということか?
もしそうならば、信頼を人によって使い分けること自体が「無条件」という言葉に反していないか?
またもし違うなら例えば、長く付き合っている親友と金銭や洗脳を目的に騙してくる勧誘者を同じように無条件に信頼すべきといった非現実的な考えにならないか?
A仕事をしながら小説家を夢見る人の例のように「〇〇だから△△できない」「もし●●だったら△△できる」と可能性に逃げているうちは変われない。
→では変わる為にはやりたいことを先延ばしにせず、今手当たり次第にやるべきということか?
それは計画性のない非効率で繁雑で行き当たりばったりな生き方ではないか?
B人格形成において過去の被虐体験の影響は強くあるが、それによって何かが決定されるわけではない。
人間は過去の経験にどのような意味を与えるかによって生を決定している(第一夜)
過去にどんなことがあったかなど、あなたの「今、ここ」には何の関係もない(第五夜)
→過去が人格形成に影響することを認めるなら、人格によって変わるであろう「今、ここ」も過去に影響されると言えるのではないか?
そもそも過去の経験にどのような意味付けをするかも、過去に影響される人格によって変わるのではないか?
過去によって「今、ここ」が「決定」されないことはともかく、「影響」はあるのではないか?第五夜の記述のように「何の関係もない」とまでは言えないのではないか? >>75
俺の場合、信頼と関係は切り分けて考えるものと理解してます
信頼とは、「どんな人も劣等感と目的の追求の中で思い悩む仲間であり、
共同体感覚に向かえる可能性の中にある」と信じることだと捉えています
関係とは、人生の課題のことだと思います
関係を良くしたくない相手が居るなら別の関係や別の共同体に
意識を向ければ良いということも考えられます
アドラー心理学はお稽古ごとだとも言いますし、上手く立ち回り取り組む中で
自分の中に落とし込んでいけばいいのではないでしょうか >>74
なかなか切り返してきやがるな
革命的ってより自明的な論理って感じる
相対性理論が発見されたみたいな やっぱ全てが人間関係だよね
↓
なんで全てなんだよそれはおかしい
↓
そういう考え方をしてみたら楽だよって話
嫌なら受け入れなくてもいいでしょ
↓
一般化やめろ
これが今の流れ >>75
とりあえず嫌われる勇気以外の本も読んで見ることをおすすめするかな
どっちかっていうとあの本はアドラー心理学を個人の自己実現のために使おうってニュアンスが強い
実際アドラー心理学が使われている分野は教育とか臨床としての意味合いが強いからいろいろ腑に落ちない所が補完されていくと思う >>81
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
荒らしは楽しいの?
共同体感覚は身についた?
さあ、語っていけ 自己責任、自業自得論が進んで行けば、弱い人は自殺し、馬鹿は犯罪をし、強いものは独裁者化し、賢い者はサイコパス化する。これぞまさに、自己責任論者の自己責任、自業自得論者の自業自得。 ブラック企業は、自己責任主義の賜物。ブラック企業は、自己責任の権化。自己責任の落とし子。 人の言うことを聞いているだけなら自分に責任はないが、人の言うことを聞かずに自分で独自に考えて動くのなら自分に責任がある。 頭の中で考えたことは起こらないの法則
アドレリアンの基本だね(^_-)-☆ 人の言うことを聞くと決めて自分の行動をする
その責任は自分にあるとアドラーは言う
誰々がそういうから俺はそうした!俺は悪くない!は人生のウソ
その人を信じると決めたのは自分だから また、聞いているだけ
なにもしない
というのも
「なにもしないという行動を取っている」事になって
そこにも責任発生するから
責任のない行動や時間というのは1秒足りとてない
結果に対する責任を必ずしも断罪されることばかりではないけど自分の起こした行動に責任がないことは一切ないんだよね まあ、これを書いていると生きている事が怖くなるんだけど 責任の所在は自分にも相手にもあるよ?
必要以上に責任を背負いこもうとする自己犠牲状態を防ぎ、必要な分の責任からも逃げようとする事なかれ主義も防ぎ、無理なく周りへの関心を広げられる方法だと思うのだが >>89
あー。まあそうだな。
自分で決めてなくて他に選択肢がないような場合だけかな。言うこと聞かないと殺されるとか暴力的な方法で脅されてるとか。
子供とかは親からその立場にさせられてると言えるよね。更にその延長線上に学校がある。もっとその先には国家があったりする。
しけしそう考えるとそういう脅しに屈しない人というのはあまり居ないのではないか?まあ脅しだけじゃなく利益もあるのが普通だけどね。飴と鞭ね。 責任の所在って倫理的な話じゃなくて、単純な論理的結末を誰が引き受けるか?って話でしょ
子供が宿題をしなかったら子供がその結末を引き受けるし
子供の学歴に対しても同じ
虐待は確かにしんどい
もしアドラー実践者が虐待児に出会えたなら、
このまま暴力を受けるべきか、外の専門施設などに逃げるべきなのか、
未来の話をすると思う アドラーって成績下の人に合わせて教育しきれない限界あるな。
学費ワリカンじゃないけどね。それしか意味ないのに。 学歴の成績より、夜の試験や時差考えて、スコアフルにならないと。 虐待は明確に子供の所属妨害だからこのまま暴力を受けるべきという選択肢は存在しないよ >>76
意識は全てのものと共同体として信頼し合うことを目標にしつつ
行動では上手く立ち回って関係を結ぶ結ばないを決める、みたいな感じですかね
なるほどありがとうございます
>>80
そうですね
嫌われる勇気を読んでアドラー自身の心理学・臨床に関する考えも詳しく知りたくなりました
暇な時図書館に行って探します。ありがとうございました >>100
本来はアドラー心理学は治療的枠組みの中の理論だからね
カウンセラーと患者、親と子、先生と生徒みたいに教える側と教わる側がどちらかをお互いに共通に認識した上で、縦の関係ではなく尊敬と信頼をベースにして、共通の目的のもと、助言し受け入れるような関係を経験する事で共同体感覚が育っていくよって話
共通の目的を作れない関係のうちは相手に介入しないのが原則
こちら側が無条件に信頼しても向こうがそうでないのであれば、相手にはなにもできないしなにもさせないっていう事かと 逆に言うと会社組織とかのゲゼルシャフトの関係性の中だとなかなか使えないよ >>101-103
だからこそ人生の課題と認識して取り組むのが良いよっていうことですね >それは計画性のない非効率で繁雑で行き当たりばったりな生き方ではないか?
⇒言い回しの難しさだと思う
当人が「できない理由」としているものは、本当に物理的に100%不可能な根拠なのか
「もし〇〇だったらできる」というのも、
本当に「〇〇じゃない場合は100%不可能」という物理的な根拠に基づいているのか
そうではないのなら、そのできない理由を学術的に見ると幻ですよねってことになるし
本気で100%に近い確率で実現しようと考えると
その道筋は意外に無数に存在するものだし
本当はどうしたいのか?って話もあるだろうし >過去が人格形成に影響することを認めるなら、人格によって変わるであろう「今、ここ」も過去に影響されると言えるのではないか?
その「人格」のことをアドラー心理学はライフスタイルと言う
「ライフスタイル」は変わりえるものだし、それによって
過去(という記憶)の捉え方もどうとでも変わるものなので
過去によって「いまここ」が捉われているという幻想から抜け出して
「いまここ」を主軸に未来(目的)や過去(原因)の捉え方は自由に変えられる
日頃のお稽古によってこれくらいは誰でもできる様になると思う >>106
過去によって「いまここ」が捉われているという幻想から抜け出して
「いまここ」を主軸に未来(目的)や過去(原因)の捉え方は自由に変えられる
つまりどういうこと?具体例挙げて説明してみてよ?
日頃のお稽古によってこれくらいは誰でもできる様になると思う
君それできるようになった? >>89
>>92
じゃあ太平洋戦争の戦争責任は、学徒勤労動員で工場で兵器つくらされた中高生にもあるのね?
あと、人生の嘘は自分で思っていることを抑圧することをいうのであって、(例え科学的論理的合理的に間違っていても)本当に思っていることを言うことを人生の嘘というんじゃないよ?
勉強不足だよ?ちゃんと勉強して、あともう少し頭使ってちょうだい。誰々がそういうから俺はそういう!俺は正しい!じゃ、それこそ人生のウソだよ?矛盾しないで。 >>96
結末を誰が引き受けるかが責任の所在なら、それこそ自己責任を否定してるよ?(軍が戦争を初め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々は焼き殺されるという形で引き受けさせられた。)
矛盾してるよ?人生のウソやめて。
あと、それに関しては別だというのならば、もはやあなたはアドラーを否定したことになるから、もう議論の余地ないね。
あと、こじつけの屁理屈言って論駁したつもりになるのだけはやめてよね?あまりの頭の固さというか頭の悪さ、馬鹿さ(鹿を指して馬だという)、洗脳された人特有のキモさ、気味悪さに虫唾が走るから。裸の王様だけはやめてね? 訂正
軍が戦争を初め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々は焼き殺されるという形で引き受けさせられた。
↓
軍が戦争を初め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々が焼き殺されるという形で引き受けさせられた。 >>92
王侯貴族が戦争を起こし平民奴隷が死ぬ。小学校レベルの歴史をちょっとでもかじったことのある人間なら、平民奴隷の功は王侯貴族のもの、王侯貴族の罪は平民奴隷の罪とされてきた事実がわかるはずだ。小学生に歴史教えてもらえ。 古代兵器から未来兵器まであるのになぜそれが罪だというんだい。 武器に武器をタイケツさせても韻律がよければ、事故は起きないし、つまらない死者は出ない。 >>75
もっと肩の力抜いたほうがいいよ。マジメなやつほどマジメ系クズになるからね。 >>107
横からだけど、生活に支障があるくらいの神経症を、
それまで原因だと思いこんでいた過去の出来事から切り離すことなどは、
アドラー修行者なら真っ先にやることだと思うんだよね
だから、答えとしては、アドレリアンのほとんどの人が出来た経験を持つ、んじゃないかな、と思う >>109
パヨ臭いの、やめてくれないかなあ
知性が低いのが透けて見える >>117
左翼とかいった単純なレッテル貼りではなく、歴史の客観的事実を述べてていることをありのままに見よう?
これは見方ではなく事実だからね。
俺の知性が仮に低くても、君はその十分の一もないよ。
あと、なんでも左翼呼ばわりするいの、やめてくれないかなあ
知性が低いのが透けて見える >>108
アドラー心理学の責任の所在ってのはカウンセリングのような建設的対話が成立すること前提の技法の話な
信頼関係のあるオープンな話し合いの下、共通の目標が成立して、互いに尊重し合いながら役割分担をしている時に、自分の役割に責任を持って取り組むことで所属感を満たせると
戦争責任がなんちゃらとかアドラー心理学の枠から外れて話が飛躍しないように日本語では課題という言い方しているのはを言い得て妙だなとあなたの書き込みを見て思ったよ 117
多分歳34くらいの冴えない野郎だろ?早く結婚しろ。そうすりゃ頭使わざるおえなくなるからレッテル貼りで安心して思考停止するのやめるようになる。あ、これもレッテル貼りか。 117に反論する必要はなかったな。ほっときゃいいのになんでもレッテル貼りで安心して思考停止する奴らに腹が立ってたから。思考停止こそアドラーが最も嫌っていたものなのになんなんだこいつらは。 >結末を誰が引き受けるかが責任の所在なら、それこそ自己責任を否定してるよ?
アドラー心理学の論理は自己責任論とは違うんですよ。
課題を分離しながらあくまで協力関係、共同体感覚を目指す、やはりお稽古ごとだと思います。
>(軍が戦争を始め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々は焼き殺されるという形で引き受けさせられた。)
⇒これに対しても倫理的な責任の範囲とは違う考え方をします。
言ってしまえば所詮個人心理学として共同体感覚に照らした建設的行為を選ぶお稽古事でしかないので、
真理はどうかなどは関係ないと思います。
戦争責任については、アドラー心理学とは別の倫理基準に乗っ取ったものだと考えます。
アドラーの責任の所在で言えば、戦争責任を問われるかどうかだと考えられます。
ただし、アドラー心理学では、共同体感覚に対して建設的か、破壊的かという判断基準も含まれるので、
原爆投下が共同体に破壊的だと分かっていて選ぶのは間違いです。
軍上層部側の立場なら世界の情勢から平和的解決や被害の最小化を考えるのがアドラー心理学だし、
市民側から考えれば、軍を恨むことが建設的なのか、経験を平和的活動に向けるのか等が
共同体への建設的な判断を選ぶお稽古になると思います。 >>122
ありがと。ときどきこれ間違えるんだよな。を得なくなるだな。
>>125
真理かどうかは関係ないって危険な気がする。嘘言っちゃったら、その嘘を真理だと思った血気盛んな(俺みたいな)奴らがアドラー棒で殴る(いわゆる聖戦を始める)から、真理を追究するのは大事だ。
アドラーが真理を追究しなかったのならば、それはまずい。
あと、軍を恨めとかいう煽情的な話は俺はしてない。ただ、具体例はエグかったな。ただ、権力の力は強大だ。国の前に、一人の人間の力はごまめの歯ぎしりに等しい。
また大戦の話でくどいようだが、最高権力者の昭和天皇ですら、軍部を統制できなかったと聞く。まして、国民一人一人の力など、とてもアドラー理論の。
経験を平和的活動に向ける、か。それこそ、思考停止しないことがいかに大事かということだ。 >>119
悔しいなら呑み込んでおきなさいよ
スレチだからね、さすが恥知らずだわ >>121
おえなくなるで不覚にも笑ったわw
こりゃ稀代の釣り師かほんまもんのバカだね >>127上
いいや、違うよ
あなたの知性がその程度なだけ >>127
>アドラーが真理を追究しなかったのならば、それはまずい。
まずくないよ
アドラー心理学は認知論を前提としてるから
全ての人が「ぼくの考えた最強の真理」をそれぞれ持っているわけだから、簡単に分かり合えるわけがない
でもそういうものだと受け止めて尊重しあえれば協力的に暮らせるんじゃない?って発想だよ >>127 下
アドラー心理学にとって真理とは何か?と考えると、一人一人の中にあるものかも知れません。
基本的には共同体感覚を中心にする思想体系を軸に組み立てられた理論や実践法なので、
突き詰めれば共同体感覚とは何か?と考えることもできます。
これについては、私的論理の対比として共同体感覚が位置付けられています。
IよりもWeを良しとするっていうことですし、
「みんな同じ」よりも「みんな違う」を良しとする考えかたなんだそうです。
ここに真理を見いだすのは難しいかも知れないですが、
理解の深さを披露し合うことで学び合うという姿勢で論を交わすことは建設的かも知れません。 ぃゃぁ、エリート心理学徒の学問は、
みんなの役に立つ意味はあるだろうか…
そして、終末を渇望する人々を、闇は癒せるだろうか…?
それから、言い忘れたけど、地獄騙しになっているから、
そこんとこ注意ね 終末を渇望する人?よりまずは自分を癒せるといいね👍 きっとまだ学習の足りないAIに作らせた何か変な文章なのだろう >>133
用語の使い方は人それぞれ流派それぞれで私的論理は特に相違が生じる
一般化した言い方は注意が必要かもよ
個人的な考えを言うと
私的論理と共同体感覚が両極にある概念だとは認識していない
ライフスタイルという出力装置・認知形態が導き出す考え方の筋道が私的論理で
それが共存的、貢献的である場合に共同体感覚的だと呼んでいる
共同体感覚は建設性を向く方針だから、「みんな同じ」を目指しているとも言える
どういうことか?
例え話
塩ラーメンが好きだという人がいる
その人が味噌ラーメンの好きな友人と昼食にラーメンをとるとき
二人の行きたい店は変わる
この相違した現実を私的論理と呼ぶ
二人とも違う考え方(ライフスタイル)をしているから結論(私的論理)が違う
では共同体感覚的なライフスタイルとは何か?
意見が違うからweは成りたたない
でもどちらかの意見を塗りつぶす気もない
なら
塩ラーメンと味噌ラーメンでどっちにしよう、妥協点はあるかな、二人がより満足いくにはどうすればいいのかな、そう思って話し合うしかない
相手を打ち負かして連れて行くとか、言いたいことを言わずに従うとか、そういう選択をせずに
皆がそうであればいいな、どちらも満足する道はないかと探し続けらればいいな、ダメならそうなるよう、納得してもらえるよう、ゆっくり頑張るけど、と自分の中だけで考えている
それが共同体感覚だと思う
全体主義でも個人主義でもなく合意主義に向けた決意
塗りつぶすのではなく選んでもらえるよう頑張る決意
それが私的内面に論理だっているとき、その人の私的論理を共同体感覚的だと言うのではないかと >>139
仰る通りですね。
自己執着の対極としての共同体感覚と言った方が良かったかと思いました。 課題の分離の件なんだけど、
課題の分離の課題とは、「その結末を最終的に引き受けるのは誰か?」だから、
例えば勉強をしない子供にガミガミ勉強をしろと言うのは子供の課題なので、
わかるんだけど、
こんなケースはどうだろう?
Aさんがトイレに入っていた。Bさんがトイレの外で並んでいる。
Aさんは、マナーが悪くトイレを汚なく使い、汚しまくり、汚れたところもそのままにして
トイレを出ようとし、Bさんは、トイレに入ろうとしている。
さて、汚れたトイレは、誰の課題だろうか?課題の分離の課題とは、
「その最終的な結末を引き受けるのは誰か」である。
つまり、この場合の課題はBさんの課題になってしまう。
AさんはBさんに向かって「お前の課題だろ!」と言って立ち去ってしまう。
自分がBさんなら、これは、受け入れがたい・・・。 >>143
その例はそもそも課題の分離の例にならない
Aさんの私的論理の中での「私の課題」に付き合う必要はない
課題の分離のというのはAさんとBさんの間でトイレの使い方についての取り決めがあった上で初めて機能するものだよ
例えばトイレを共同で綺麗に使おうという共通認識の目標があって、使ったら次の人のためにこういう状態までは綺麗に戻すという具体的なルールのもと役割分担としてのAさんの課題が生まれる >>144
取り決めがないからこその課題の分離ではないのですか?
取り決め(ルール)があれば、それに従えばいいだけのこと。 >>143
会社とか公共のトイレで普通に汚い使い方の人居るもんね
イジメにも通じる問題の様な気もする
そういうのが人生の課題と言えるのかも知れない
結局、Aにとっては周囲の人間への配慮や協力関係の構築という課題があるだろうし
Bにとっても目の前の受け入れ難い難題がそのまま課題にあるし乗り越えなきゃいけない
そのままトイレを掃除する貢献感に繋がられるかも知れないし
トイレに啓蒙ポスターを貼る貢献する感もあるかも知れないし
他のトイレを使えば自分の課題じゃなくなるかも知れない まったく他者は突然到来して
課題も突然到来するんだね…… >>145
http://jalsha.cside8.com/diary/2016/12/08.html
「課題の分離」というのは、「『目標の一致』のないときに相手の人生に介入すると、あるいは相手を自分の人生に巻き込むと、両者ともに不幸になりますよ」ということを言っているのであって、「人からどう思われてもいい」ということを意味しているわけではまったくない。
これはテレビ局の完全な誤解だ。先ほども書いたけれど、《協力》というのがアドラー心理学の思想のキーワードだ。 食事のとき、食べ物を床に落としたとする。
課題の分離の考え方では、この時の課題は落とした人ではない。
床に食べ物が落ちてることで、迷惑に感じる人や実害がある人の課題になる。
店なら店員の課題になってもいいかもしれないが、
学校や家庭では、この考え方は問題だよな。 落とした本人は食えなくなるという物凄い損失になるわけだが >>150
課題の分離だけしか使えない「課題の分離心理学」だけをやるならそこは問題だね >>150
あなたは課題の分離の考え方を正しく学んだ方がいい >>147
慣れてくると、心のざわつきをキャッチしたときに
また新たな自分に変われることにワクワクできる様になるよ >>155
ありがとう。
まだ時々不安や恐怖が過剰になったりもするのだけど、勇気もらった。
他者との倫理的出会いを突破口として自己の内在的世界から無限への脱出を説く
レヴィナスの哲学に思えたんだ。 >>150
共同体にとってマズい結果を作った人の課題でしょうね
破壊的な行動より建設的な行動をすすめるわけですから
原状復帰と再発防止と必要なら謝罪でしたっけ、対応としては >>158
それには共通の課題としての合意を作るところから始めなきゃね
家庭なら食べ物をこぼすと何が困るのか伝える努力から始める形かな 例えば病院などの公共の場所に子供を連れて行く場合、
その場所では静かにおとなしくしなければならないことと、
守れない場合は速やかに連れて帰るという事前の合意を作っておいて
守られなかったときには泣こうが喚こうが家に連れて帰るのがアドラー心理学的だと言うから
食べ物についてもこの様な手順を踏むことになるんじゃないかな 「課題の分離」だけの考え方なら>>150になるよ。
ただ、共同体感覚や道徳が入ってくると話は別。 そんなに難しい話じゃないよな
何のために課題の分離をするのか?
他者と協力的に暮らすため
とてもシンプル
協力的じゃない形での課題の分離の例を挙げられると、それちょっと違うんじゃない?ってこと >>162
課題の分離=共同体感覚でもあるからその通りだよね
ただし実践例でそれはちょっと違うんじゃない?で終わってたら思考停止だし
食べ物をこぼす家族を想定すれば、協力関係を築くのが目指す人生の課題なんじゃないかな?
元々共通認識としてあるなら、汚さない様に食べてもらうと助かるとお願いするのが妥当かな なんかスレ見てるとアドラー心理学はカウンセリングの関係や、たまたま協力関係を築けた場合のみに適用しようっていう流派があるのかな? まとはずれな心理解釈ゲーと市場利益主義みたいなのの混合物 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています